きっと貴方のことが好き   作:圧倒的雑魚臭

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来訪者と熱海温泉

 

「トレーナーさん、お正月はどうされるんですか?」

 

 リハビリメニューを終えてグラスワンダーがクールダウンの柔軟をしている時に唐突にそう聞かれた。といってももう今年は今日も含めてあと二日しかない。

 

「あー、正月か……」

 

 俺は逡巡して答えあぐねる。

 誤魔化すように俺は視線をぐるりと病院内を見渡した。

 

 機能障害回復を目的としたちょっとした運動スペースが病院内にあったのは幸運だった。まだ入院中のグラスワンダーにとって、もちろん激しい運動は出来ないが、ずっとベッドの上というのも筋肉が落ちていってしまう。

 医者に認められる範囲で軽い運動をグラスと俺はここでしていたのだった。

 

「ご実家に帰られたりとかはしないのですか?」

 

 実家、ね……。

 

「……それよりお前はどうするんだ?明日には退院出来るが、実家はアメリカだろう?まあ、本格的なトレーニングはまだ先になるから、今のうちに故郷に帰ってリフレッシュするのもいいんじゃないか?」

 

「お気遣いありがとうございます。ですが、ウマ娘の頂点に辿り着くまで我が家には足を踏み入れないと不退転の決意でこの日本に来ました。ですので、退院しても学生寮で過ごしますよ。トレーニングもすぐ出来ますし」

 

「……そうか」

 

「それで、」

 

 話題をそらそうとしたが失敗に終わり、彼女は屈伸運動をしながら先程の続きを聞いてきた。

 

「トレーナーさんはいかがされますか?」

 

 まあ、別に隠さなきゃならんわけでもないしな……。

 

「……俺に実家は無い」

 

「……えっと、どういう意味でしょうか?」

 

 マットの上で足を開き、腰を折り曲げていた手を止め、彼女は怪訝な顔で問いただした。

 

「そのままだ。中学の頃に火事にあってな、生き残ったのは俺だけ。親戚もいなかったからそのまま孤児になったんだ。だから実家は無い」

 

「……その……大変申し訳ありません。知らなかったとは言え、失礼を働いてしまいました」

 

 彼女は足を正して正座をすると、伏し目がちにこちらを覗き見ながら土下座の体勢をとった。

 

「やめろやめろ!他の人も居るんだ。変な誤解が生まれる」

 

「ですが……」

 

「気にするな。もう二十年以上前の話だ。今さらどうってこともない。それより柔軟終わらせてちゃんと休めよ」

 

 そう言うと彼女は申し訳なさそうな表情で、さっきの続きを始めた。足を扇状に広げ、ピンと立った右足の靴先に両手を持っていく。深く腰を曲げるごとにサラサラと流れる髪が肩からしだれ落ちる様は妙な色気を醸し出していた。

 

「……それでしたら、正月中は私がトレーナーさんの分のお昼ご飯をお弁当にしてお作りしましょうか?流石にこの時期は食堂も閉まってしまいますし、一人分も二人分も大差無いですから」

 

「……ありがたいが、気持ちだけ受け取っておく。お前は元のコンディションに戻すことを考えてくれ」

 

 久方ぶりに『食事』という単語を聞いた俺だったが、別段食欲も湧かず、冷蔵庫に備蓄してあるゼリー飲料と野菜ジュースを思い出してその誘いを断った。

 

「しかし……」

 

「ならボクの分を作ってくれないかな?」

 

 どこから湧いてでたのか、つい先日見た黒鹿毛のウマ娘がマットに跪いていた。目線をグラスの高さに合わせてその青い瞳を覗き込んでいる。

 

「毎朝ボクのために味噌汁を作ってもらいたい」

 

 彼女は真剣な表情でグラスワンダーの両手を握ると歯の浮くようなセリフを恥ずかしげもなく放つ。

 

「……丁重にお断り申し上げます」

 

 しかしグラスワンダーは突然のライバルの出現にも動じず、いつもの笑顔を浮かべながら冷静に拒否の返答をする。

 

「味噌汁は嫌だった?大丈夫。ボクは吸い物も好きだから。それとも朝食は洋食派?ならベーコンエッグなら任せて。ボクの得意料理なんだ」

 

「お前はどっから出てきたんだ。シンザン」

 

「やあトレーナーさん。今取り込み中なんだ。サインなら後にして下さいよ」

 

 シンザンは一瞬だけこちらに振り返ったが、悪びれもせずにすぐにグラスワンダーの方に向き直ってさらに口説き文句を垂れ流し始めた。

 

「そうじゃねえ。お前は何しに来たんだってんだ」

 

 そう言って燕尾服の首根っこを掴むとそのまま持ち上げグラスワンダーから引き剥がした。

 

「やめて下さい!燕尾服破けちゃうでしょう!この日のために新調したんですから、これで破けてたら弁償してもらいますよ!」

 

「私、私のトレーナーさんを大切にしない人は好きになれないです」

 

「トレーナーさん。何かお困り事など無いですか?不肖シンザンお力添え致しますよ。それはそれとして、グラスワンダーさんをボクのお嫁さんに下さい」

 

「お前のことで困ってんだよ」

 

 燕尾服を掴まれたままぶら下がるような姿勢でキメ顔をされても間抜けなだけである。

 するとシンザンはやれやれといった感じでやっと自分の足で立ち上がる。少し猫背気味だが、ちゃんと立つと改めて身長の高さが分かった。

 

「それで、お前は一体何しに来たんだ」

 

「いやですねえ。ボクはただ生涯の伴侶にしてライバルのグラスワンダーさんのお見舞いに来ただけですよ」

 

 「あ、これ『湖の国生チーズケーキ』です」と言って滋賀県名産のお土産を悪びれもせずに差し出してくる。

 俺はそんな奴に呆れながらさらに質問を投げ掛けた。

 

「桐生院トレーナーはどうした?まさか一人で来たわけじゃないだろ」

 

「いえ、一人で来ましたけど」

 

 あっけらかんと答えるウマ娘にもはや何も言う気になれず、俺は黙って朝日杯の時に無理矢理教えられた桐生院トレーナーの電話番号にかけた。

 

「自家用飛行機で今すぐ行きますので、そいつ取り押さえてて下さい!」

 

 自家用飛行機とは流石名門桐生院家だと感心する暇もなく、一方的にそれだけ告げられて切られてしまった。

 シンザンはなおもグラスに付きまとって話しかけまくっている。グラスは笑顔を崩さないが、耳や尻尾を見るにかなり不機嫌なのは明らかだった。

 

「それぐらいにしてくれないか?うちのお嬢様がお困りだ」

 

 シンザンとグラスの間に割って入る。すかさずグラスは俺の背中に回り込んで隠れてしまった。

 力だけならば男の俺よりあるはずのウマ娘が俺の背中に隠れるというのも不思議だが、シンザンに悪意が無いだけにグラスワンダーもどう接していいのか分からないのだろう。

 

「グラスちゃんも照れちゃって可愛いなあ」

 

 こいつのポジティブ思考にはいささか見習いたいところもあるが、今はただ鬱陶しいだけだった。

 

「……シンザンさんに聞いておきたいことがあるのですがよろしいですか?」

 

 背中に隠れたグラスを覗き込もうとするシンザンを諌めていると、突如俺の背中からグラスワンダーが声をあげた。

  目の前のウマ娘はピタリと動きを止め、俺の後ろに視線を動かす。

 

「もちろん!なんでも聞いてよ!初デートの相談かな?」

 

 破顔して俺の頭上から明るく話しかけるシンザン。俺もどういうつもりかと首だけ後ろに向けて視線を移すと、そこには当惑しながらも真剣な面持ちで背中から半分だけ顔を出している担当バがいた。

 

「……朝日杯とホープフル、どうして両方出走されたのですか?朝日杯で二着に入ったならクラシック戦線の出場条件は果たせていたはずです」

 

 確かにそれは俺も気になっていたことだ。

 朝日杯もホープフルもクラシックの前哨戦。朝日杯であの成績を残せた以上、ホープフルステークスに出走する意味は無い。

 

「そんなの、強いウマ娘が出る面白そうなレースがあったから。それだけだよ」

 

 彼女はキョトンと不思議そうな表情を作った後、そう言い放った。まるで、何故そんな当たり前のことを聞くのかと言うように。

 

「ボクも思うんだけど、グラスちゃんはしょうがないにしても、あのマスクの娘とかも出走してればもっと面白いレースになっただろうな、とか感じてるんだよね。適正距離の問題かと思ったけど、朝日杯に出てた娘はホープフルにいなかったからなんでかな?って思ってたよ」

 

 こいつマジか……。

 

 シンザンの性格からして嘘を吐いてるとは思えない。そんな意味もない。本当にこのウマ娘はそう思っているのだ。

 

「……楽しければいいのですか?勝つこと以上に?」

 

「……ボクもついこの間までそう思っていた。楽しければいいと。けど……」

 

 そこまで言うと、彼女は初めて会った時のような獲物を補食する猛獣のような目でグラスワンダーを睨んだ。

 

「君に負けてから変わった。いや、正確には気付いたんだ。楽しむ以上に勝ちたいと。生まれて初めて『敗北』を知ったあの瞬間に。ボクが本当はどれだけ勝利に飢えていたか、君に教えられた」

 

 後ろの栗毛のウマ娘を覗き見ると、彼女は最早隠れもせずにシンザンの獰猛な瞳を睨み付けていた。

 それは真っ向からシンザンとの勝負を受ける覚悟であることは容易に理解できた。

 

「ならば、次のレースこそが本当の勝負です。貴方は強い。恐らく朝日杯の時よりもさらに。それは認めます。それでも、いえ、その上でもう一度、何度でも貴方に勝ってみせます」

 

 グラスワンダーのその気迫は20cm以上の身長差がある最強のライバルに一歩も引かない姿勢をみせる。

 

「……素晴らしい。それでこそボクのライバルであり伴侶にふさわしいウマ娘だ。次のG1、皐月賞で待ってるよ。当然ボクと戦ってくれるよね?」

 

「望むところです」

 

 年の瀬の冷気溢れる空気がこの周囲だけ熱を帯びているような気がした。

 

「それはそれとして……」

 

 

 

 その後、桐生院が来るまでシンザンの求愛は止まらなかった。俺も壁にはなったが、グラスが怒りを爆発させなかったのが奇跡なほどだった。

 

「本当に申し訳ありません!!」

 

 病院の出入り口で地面に額を擦り平謝りする桐生院トレーナー。その後ろで夕日に照らされ黒光りするリムジンと、それに無理矢理押し込められて膨れっ面で後部座席に座るシンザンがいた。

 光景が光景なだけに、まるでうちらがヤクザのお偉方で桐生院が仕事を失敗してケジメをつけられそうな下っぱというような様相に、周りの人々はヒソヒソと声を潜めて囁きあっている。

 

「やめてくれ!なんで皆周りの目を気にしてくれないんだ!」

 

 思わず悲痛な叫びが俺の口から漏れる。さっきのグラスといい、どうして謝られている立場の俺がこんな目に遭わなくてはいけないのか……。今日は厄日かもしれない……。

 

「顔をお上げ下さい。桐生院さん。悪意ではなく、シンザンさんの私を想っての行為であることは十分伝わりましたから。今はもう怒ってませんよ」

 

「うう……。カブラギさんもグラスワンダーさんも実に寛大です。自分の担当バの行動も管理出来ないなどトレーナー失格だと言うのに……」

 

 そう言って半泣きの状態で彼女は体を起こす。

 グラスの『今は』怒ってないという言い方に一瞬引っ掛かった俺は、すぐにそれに気付いていないことにした。

 

「これはほんのお詫びの気持ちです。受け取って下さい」

 

 桐生院は深々とお辞儀をしながら一枚の紙切れを差し出した。

 

「そんな、別に迷惑……ちょっとしか迷惑に思ってませんからそんなの困ります。受け取れませんよ」

 

「……トレーナーさん、そこは嘘でも迷惑じゃなかったというべきでは?」

 

 『今は怒ってない』という言い方をするグラスも似たようなもんだと内心思っていると、

 

「そういう訳にはいきません!これはケジメですので!受け取ってくれませんと私、我が家に帰れません!」

 

 余計そっち系の関係者を彷彿とさせるセリフに、周りの野次ウマはしんと静まりかえり、危険物から遠ざかるように俺達から離れはじめた。

 

「だあああ!!やめろやめろ!分かった!分かったよ!」

 

 もはや半ばヤケになって引ったくるようにしてその紙切れを貰い受けた。

 

「本当にご迷惑をおかけしました。また見えることもあると思いますが、その時はよろしくお願いします」

 

 そう言って彼女は運転手に開けられたドアから後部座席に乗り込んで去っていった。

 まるで嵐のような連中に呆然としながらそれを見送ると、俺の後ろで見ていたグラスワンダーが話しかけてきた。

 

「……なんというか、すごい方達でしたね」

 

「……ああ」

 

「そういえば、先程受け取られた物は一体何なんですか?」

 

 その言葉で受け取って手に残った紙切れにようやく目を向ける。

 そこには桐生院グループが経営するホテルの無料招待状があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここか……」

 

「ここ、みたいですね」

 

 俺達は熱海の海を一望出来る一等地に建てられたビルの前に居る。日は沈み、海のさざ波の音が鼓膜を刺激する。周りを自然で囲まれている中、この巨大な鉄筋の建造物が人工的な光によって不自然に存在を主張していた 。正月の閑散期とあって人はまばらだが、ガラス越しに見える内部の絢爛さはいささかも損なわれていない。

 

「お待ち申しておりました。カブラギトレーナー様。グラスワンダー様」

 

 聞き知った声の方を向くと、着物を着た仲居さんがこの寒空の下、入り口の前で深々とお辞儀をしていた。

 さらさらと海風に靡く黒いショートボブ。薄いピンクの下地に品のいい貝合わせ模様の着物。少し暗めの藤色の帯留めが着物の明るさを引き立てていた。

 ゆっくりと顔を上げ、ニコリと一つ笑顔を作ってみせる。軽い化粧をしているのか、薄いファンデーションと紅みを帯びた唇がつい先日見せた幼さの残る顔に艶やかさを醸し出していた。

 

「さあどうぞ。お寒いでしょうから中にご案内致します。お手荷物お持ち致しますよ」

 

 そう言って桐生院トレーナー……いや、桐生院葵は俺の肩かけバッグとグラスのキャリーバッグを受け取ろうとした。

 

「ああいや、俺のは大丈夫だ。それよりグラスワンダーのを持ってくれ。少し大荷物でな」

 

「いえ、私も結構です」

 

 道中、「少し多すぎましたか……」と珍しく愚痴をこぼしながら退院開けの体を四苦八苦させていた割に、彼女は冷たくその申し出を断った。

 

「ではご案内致します。どうぞこちらへ」

 

 桐生院はあいていた俺の左手を半ば強引に取って、指先だけで手を繋ぐような形でビルの中へと誘導していく。その首筋は白いうなじが露になり、歩く度に香水の香りが鼻をくすぐった。

 カウンターに向かおうとする俺を、「チェックインは済ましておりますのでこのままお部屋までご案内致します」と言って桐生院はエスカレーターの方へと手を引っ張っていく。

 

「桐生院さん、私やはり手荷物が多いみたいで、持って下さいますか?申し訳ありませんがこれとこれ二つ」

 

 エスカレーターに着く前に、グラスワンダーは先程断ったはずの手荷物を桐生院に渡した。何故かキャリーバッグだけでなく、小物入れであろう手提げバッグも渡したため、桐生院は両手が塞がり俺の手を離して持ち運ぶ形になった。

 それでも彼女は嫌な顔一つせず、その二つを受け取ってエスカレーターのボタンを押す。グラスは何故か若干耳を後ろに絞ってその表情には出ない不機嫌さを表していた。

 

「本日は当館をお選び頂きありがとうございます。グラスワンダーさんが完治するまで湯治場として遠慮なくお使い下さい」

 

「それはいいんだけどよ、なんで桐生院さんがいるんだ?俺達は使えるホテルの中で一番近いやつを選んだんだが……。ここは熱海で、お前さん家は京都に近いところだろ」

 

「ええ。ですがこちらにお泊まりになると聞き、差し出がましい真似かとも思いましたが、御詫びの形とするならば私が直接ご案内させて頂くのが礼儀かと愚考致しました次第です」

 

 そう言って伏し目がちに軽くお辞儀をする様は楚々としていて、グラスに劣らずの大和撫子ぶりだった。

 

 流石名門のお嬢様だと感心している間にエスカレーターは到着し、俺達はその中に入っていった。

 

「私が完治するまで使っていいとはどういうことでしょうか?チケットには二泊三日までと書かれていましたが?」

 

「それは一般贈呈用の利用期限です。お二方は特別ですので、もしお気に召したなら、私にご一報下さればいつでも、いくらでも、どのホテルでもお使いになって頂いて結構ですよ」

 

「……そうですか。それは大変ありがたい話ですね」

 

 言葉とは裏腹に声色が怒っている時のそれになっている。グラスは最近、俺の予期しないところで機嫌を損ねるが、今夜もそうらしい。ここに着くまではかなり上機嫌だったのだが……。思春期だからか、女心はよく分からないな。

 

 そうこうしているうちにエスカレーターは最上階へ着き、その鉄の扉を開く。

 俺達を待ち構えていたのは、巨大なガラス越しに見える熱海の海と満天の星空だった。

 

「……綺麗……」

 

 思わず声が漏れるグラスワンダー。怒気を孕んだものではなく、本当に素直な感想であることが容易に分かった。

 

「このホテルの最上階の通路は一面ガラス張りになっております。最高の景色を最高の角度でご覧になれる特別な作りです。水平線から朝日が昇る瞬間はまた格別ですよ」

 

 そう言いながら荷物を持って客室に案内する桐生院。といっても、ほんの10メートル程歩いただけで扉にぶち当たる。どうやらここが客室のようだ。左手にはさらに廊下が続き、その突き当たりも全面ガラス張りになっているのが分かる。扉はここと左手廊下奥の突き当たりにある二つしかなかった。

 

「こちらがカブラギ様のお部屋になります」

 

 そう言って桐生院はカードタイプのキーの使い方を説明し、扉を開けてそのキーを渡してきた。

 

「何か御用が御座いましたら内線でご連絡頂けませばすぐに参りますので。夕餉の用意も七時に各お部屋にて御用意させて頂きます。それではごゆるりと」

 

 そう言って彼女は俺を残して左手に続く通路にグラスを案内していく。

 俺は予想だにしない歓迎に多少困惑しながら部屋の中へ入っていった。

 

 電源元にカードキーを差し込むと、部屋中を照らす電灯が俺の目を細めた。

 

 広い。やたら広い。靴を脱いで上がるがその広さに圧倒される。二十畳以上はあるかと思われる絨毯に敷き詰められた洋間に、障子で仕切られたこれまた同じぐらい広い畳で敷き詰められた和室が俺を出迎えた。キングサイズのベッドに四人がけのソファー、何インチかも分からない巨大な壁掛けテレビとそして、やはり部屋の奥は熱海を一望出来る全面ガラス張りの仕様になっていた。

 

 ……落ち着かん……。

 

 このホテルで最高級の部屋なのは十分過ぎる程に理解出来るのだが、なにせこんな広い部屋で一人だけというのは経験したことがない。

 所在なく広い部屋をうろうろしていると、突然携帯の着信音が響いた。

 

「あの、お休みのところすいません。もしよろしければなんですが、トレーナーさんのお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか?」

 

 遠慮がちに聞こえてきたのは俺の担当バの声。グラスも隣の部屋に通されたのだが、恐らく同じ作りなのだろう。彼女も落ち着かない様子が電話越しからでも伝わってきた。

 

「ああ構わんぞ。俺も一人じゃ落ち着かなくてな。来てくれたらありがたい」

 

「そうですか!それではすぐに参りますね」

 

 担当バとはいえ、同じ部屋に男女が二人きりというのもどうかと思うが……。というか一部屋と言うのが憚られるほどのスペースを使ってしまう設計士がどうかしているのだ。

 

 俺は彼女のノックの音で快くそのドアを開けた。

 

「やっぱり同じ広さですね」

 

 第一声がこれ。やはり俺達にとっては贅沢過ぎる仕様なのは明らかだった。

 

 

 

「正直、落ち着かないですね」

 

 グラスワンダーは和室の座布団に正座をしながら持ってきたウマホで過去のレースを見直している。俺は机の向かいに胡座をかいて座り、グラス用のリハビリメニューを考えていた。

 こんな贅沢な部屋を用意されても、やってることはあの狭いトレーナー室と同じことがなんだか滑稽だった。

 

「まさかこんなに広い部屋とは思わなかったな。親切のつもりだったんだろうが……」

 

「申し訳ございません。こんなことになるとは……」

 

「謝る必要はないだろ。折角熱海にも来れて温泉にも入れるんだ。桐生院様々だ」

 

 桐生院から貰った宿泊券が発端だが、正月に帰るところもなく、さりとて本格的なトレーニングには早いということで今のうちに使ってしまおうと提案したのはグラスの方からである。だからだろうか、いささか想定外の事態に少なからず罪悪感を持ってしまっているみたいである。

 

「それより温泉にでも入ってきたらどうだ?ここの源泉は怪我に良く効くらしいぞ」

 

「え?ええ、そうですね。折角ですから大浴場に行きましょうか。良ければトレーナーさんも一緒に行きますか?」

 

「そうだな。飯も食ったし、腹ごしらえも兼ねて行ってみるか」

 

 正月特別メニューというただでさえ豪華な食事にお節が付くというなんとも殺人的な量の夕御飯が出てきて辟易していたところだった。ただ、折角だから同じ部屋で一緒に食べたグラスが俺の分も残さず食べてくれたのはありがたかった。普段は押さえてるみたいだが、オグリキャップみたいに実は大食いだというのは意外な一面だ。アメリカの血が騒ぐのだろうか。なんにしてもパワーを付けるためには食べられないより食べられる方がいいに決まっているのだから嬉しい発見ではあった。

 

「それでは準備して参りますね」

 

 そう言って自分の部屋に帰っていくグラスワンダー。俺も支度するために腰を上げる。運動不足か、背筋を伸ばすとボキボキと音がなった。

 

 

 

「では参りましょうか~」

 

 廊下で出会った彼女は実に妖艶だった。

 小脇に入浴道具一式を抱えるグラス。だが何よりも普段と違うのはその浴衣姿だった。

 水色の下地に雪の結晶の柄が付いた涼しげなものであり、それでいて季節感は損なわれていない。良く考えられた浴衣だが、その柄以上にグラスの着こなしが実によく、その内面と合わさって一つの完成された芸術品のように見えた。

 

「……勿体ないな」

 

 久しぶりに出た言葉は、あるいは褒め言葉だったかもしれない。

 

「それは、どういう意味でしょうか?」

 

「いや、夏だったらこの綺麗なウマ娘を外で自慢できるんだがな、と思ってな」

 

「……あらあら~。トレーナーさんったらお上手なんですから」

 

 口元を指先で隠して謙遜しながら語るグラスだったが、頬は少し赤く染まり、尻尾はせわしなくゆらゆらと揺れている様を見るにまんざらでもない様子だった。

 

「でもトレーナーさんにそんな風に誉められたのは初めてですね~。これだけでもここに来たかいがありました~」

 

「……忘れてくれ。柄にもないことを言った」

 

「ダメです。ちゃあんと思い出として胸に刻み込みましたから。それとも、私が綺麗だと言ったのを否定するんですか?」

 

 俺は急に恥ずかしくなって踵を返すとエスカレーターの方へと無言で向かって行った。

 グラスは急いで俺に追いつくと、桐生院のように指先を繋いでエスカレーターまでの短い道をエスコートしてくれた。

 

 今の自分の顔を見られたくなかったので、無理に振りほどくこともせず、またグラスもこちらの方に顔を向けなかった。きっと彼女も気を遣ってくれていたのだろう。

 

「……トレーナーさんの浴衣姿も、格好良いですよ……」

 

 エスカレーターが着くまでにあった会話はこれだけ。

 俺達はガラス越しに見える星空を眺めるでもなく、ただ何とはなしにこの二人だけの甘い空気を噛みしめていた。

 

 

 

「ここですよね?」

 

「そうだな」

 

「でも男湯も女湯もないというか……」

 

 目の前には不思議な光景があった。エスカレーターを出た直後、目の前にすりガラス越しに脱衣所らしき部屋があった。エスカレーターと脱衣所を結ぶ短い通路には内線用の電話が置かれているだけ。暖簾も無ければ男湯と女湯の区別もなく、入り口は一ヵ所しかなかった。

 

「大浴場が屋上というのも不思議だったんですが……」

 

「……とりあえず入ってみるか」

 

 そう言ってすりガラスの引戸を開けて入ってみる。中はこじんまりとした脱衣所で、とても大人数をさばけるような大浴場のものではなかった。いや、それ以前に誰一人として入浴していないのは明らかだった。いくら閑散期とはいえ、不自然さを引き立たせた。

 

「……ちょっと変ですね。私電話で受付の方に聞いてきてみます」

 

 グラスワンダーは先程の通路に出て電話をかけてくれたようだ。

 俺は浴場であろう、もう一つの出入口を見つけてその扉を開けてみる。

 コンロとシャワー、それに壁に張り付いている鏡と風呂桶も備え付けられている。一般家庭のものより大分広めの浴槽にお湯がたっぷりとはられ、ジャグジーだろうか湧きあがる泡が表面を波立たせていた。

 

 なるほど、紛うことなき温泉である。しかし大浴場ではない。普通より広いとはいっても浴槽に入れるのはせいぜい三人が限界。だがそれとは別にガラス張りの景色の先、屋外にさらに露天風呂があることが、その近くにある地面から光る照明で分かった。

 

「トレーナーさん、やはり大浴場は一階だそうです。でもこの屋上の浴場はスイートルーム専用で今日は私達しか使わないからご自由にどうぞと……」

 

 俺の背中越しにグラスの声がかかる。それで男湯、女湯の区別がないのかと合点したところで、さてどうするかと悩んだ。

 

「どうする?先に使うか?後にするか?それとも大浴場行くか?」

 

「はい……。えっと、あの……」

 

 もじもじしながら歯切れの悪い反応をするグラスワンダー。そこまで難しいことを聞いてるわけじゃないと思うんだが……。

 

「じゃあ俺がここ先に使わせてもらうのでいいか?」

 

「…………分かり、ました。それでは、お上がりになったらお声がけ下さい」

 

 彼女は悔しいようなホッとしたような微妙な声色でそう返答した。手で顔を覆っていたが、栗色の耳が赤く染まり、頬も真っ赤になっているのが指の隙間からでもよく分かった。しかし、耳は垂れ、尻尾もしゅんとしなだれている様は落ち込んでいる風にも見てとれた。

 

 最近のグラスの表情は見てて飽きないな。

 

 どんな心理状態か把握するのがトレーナーとして正しい姿勢なのだろうが、普段なんとなく本音を隠しているのが分かる彼女が、言葉ではなく仕草で表現している様子は中々に可愛らしいと思いが先行してしまう。

 

 まあ、だから担当バの心情とか分かってないって言われるんだろうな。

 

 などと思いながら入浴する準備をして浴室に入っていった。

 

 

 

 夜の絶景を眺めながら露天風呂でくつろいでいると、背中からカラカラと扉を開ける音が耳に入った。

 

  いくら男女分かれていないとはいえ、流石に一緒に入るのはまずいだろうと思い、注意しようと後ろを振り向くとそこにいたのは予想とは違う人物だった。

 

「お背中流しますよ?カブラギ様」

 

「……俺が入ってるのは脱衣所で分かるはずだがな」

 

 そこには先程客室まで案内してくれた仲居がいた。ポニーテールをといたその黒髪は肩までかかり、月明かりを反射して妖しく光っている。バスタオルで隠しているが、その胸元は慎ましい谷間がのぞいていた。

 

「もう体は洗ったんでね。お気遣いありがたいが結構だ」

 

 俺はすぐにその肢体から視線をそらして、その瞳を彷徨わすように自然に月を写す水面に落としていた。

 

「ではご一緒に入ってもよろしいですか?このままでは凍えてしまいますので」

 

 俺が振り向きもせず何も答えずにいると、桐生院は勝手に俺が占領している浴槽に入ってきた。

 

 広いとはいえない浴槽の中で俺の膝が彼女の冷えた脚に当たる。俺は桐生院の方を見ないようにそっぽを向いて空を見ていたが、何故か彼女の方が体を密着させるように近付いてきたのが肌を通して分かった。俺はすかさず端に寄るが、それに合わせて桐生院はさらに俺の方に詰めてくる。いよいよ逃げ場がなくなり、肩と肩がぶつかり合う程に近く寄られると俺は思わず声を荒げた。

 

「なんの真似だ。邪魔なら出ていくぞ。勝手に使ってくれ。グラスには大浴場使うように言っておく」

 

 早口でそれだけ言うと、俺は浴槽から出ようとした。

 しかし、桐生院の細い手が腕に絡みつき、それを阻止する。

 すると彼女はゆっくりと口を開いた。

 

「お逃げになるんですか?据え膳食わねばなんとやら、と申しますよ?」

 

 なんだこいつ……。

 

 俺が返答に困っていると、

 

「一目見て分かりました。貴方様は何か女性全般に一線を引いてますね。苦手、とは少々違うみたいですが、なにかトラウマ?心に蓋をしている感じに見受けられます。私からの好意からも回避行動をとりましたし、グラスワンダーさんのそれも、意識的にか無意識的にか気付かないフリをしてらっしゃる」

 

「……カウンセリングなんか頼んじゃいないんだがな。言いたいことは言ったみたいだし、俺は行くぞ。湯冷めしてもいやだしな」

 

 そう言って俺は桐生院の手を振りほどいて湯船から出ていった。

 

「最後に、グラスワンダーさんの前の担当バと何があったのですか?」

 

 ピタリと一瞬止まる体。しかし、すぐに思い直して俺は無言で浴場から出ていった。

 

 何も知らぬ夜の海は嘲笑うように俺の耳の奥にさざ波を残していった。

 

 

 

 

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