きっと貴方のことが好き   作:圧倒的雑魚臭

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灰色の空

 

 カチッ……。カチッ……。

 

 誰もいないトレーナー室で無機質な機械音だけが木霊した。

 

 液晶の画面に映る二人のウマ娘がクリック音とともにカクカクと動いていく。

 

 朝日杯のゴール直前。確かにグラスワンダーとシンザンの差は20cmはあった。

 たかが20cm。だが決定的な差だ。

 

 それが一瞬で覆った──

 

 本当にゴール手前10mも無いところで急激に加速した。

 俺の担当バ、グラスワンダーはコマを進める度に徐々に低姿勢になり、次の一歩を出す時には地を這うごとく、上体は地面と水平になった。

 上体を倒した分、シンザンとの差は少なくなったが、それでもまだ先頭には立てていない。

 

 つまり、ここからさらに加速したということ。

 

 俺はさらにコマを進める。

 この上体の倒れはゴール直前の飛び込みに繋がっているのだと思っていた。しかし──

 

 カチッ……。カチッ……。とコマを進めるが彼女の体は水平を保ったままだった。

 

 少なくとも三コマ。24分の3秒は体は倒れこまず、地面と水平だったということ。

  さらに2コマ進め、沈む上体とともに最後の踏み込みが写る。

 

  そこでシンザンとの差は……。まだ辛うじてシンザンの方が前か。それでもこの一歩で……。

 

 さらに1コマ進める。

 まさに刹那。わずか24分の1秒の間に数cmの差が一気に縮まる。2コマ目にはもうシンザンと完全に並んでいた。そして3コマ目。いよいよ地面に倒れこむ上体とともに、シンザンより僅か先にゴールラインを割る怪物二世。

 

 一秒にも満たないこの一瞬、確かにグラスは驚異的な加速を実現した。本人は何も覚えていないというが、これが恒常的に出来るのなら──

 

 俺は腰のポケットをまさぐり、彼女から貰ったそれを探した。しかし、俺の右手は何も無いポケットをいたずらにかき回すだけだった。

 

 そうか、まだグラスに預けたままだったな……。

 

 俺は何も握っていない右手の掌をじっと見つめ、一つ溜め息をついた。

 

 いつになったら卒業出来るんだろうな──

 

 少しの自己嫌悪とともに俺は思い出を振り払ってパソコンの画面を睨んだ。

 

 コンコン。という規則正しいノックの音と共に透き通るいつもの声が俺の思考を中断させた。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「面白そうですね!」

 

 私は目を見開いて両手の指先を合わせながら明るく答えました。

 

 彼の提案は実に魅力的でした。

 正直、私の走りにはもう一つ武器が欲しかったのが本音です。

 スペちゃんやエル、私の同期に勝つためには今まで通りの走りでは足りないと思っていたのは確かだ。そしてなにより、最大の敵、シンザンさんに勝つためには今よりもレベルアップしなければならない。

 

「ただな、この走り方は非常にバランスがとりにくい。実際、お前は最後、前のめりになってゴールラインに飛び込む形になった。だが、僅か3コマだがこの姿勢を保てているのも事実」

 

「不可能ではないと」

 

「俺はそう思っている。だが長時間は無理だ。ここぞという場面で二段階目のギアを入れられればいい。それから当たり前だが、倒れないようになることだな」

 

「そのために必要な筋肉は背筋、ですね?」

 

「そうだな。それ以外にも腹直筋、腹側筋、大腿二頭筋、腓腹筋、大臀筋が必要になってくる。それから重要なのは、尻尾だ」

 

「……尻尾?」

 

 予想外の部位に困惑していると、彼は座っていた椅子から立ち上がってホワイトボードをこちらに向けて説明し始めました。

 

「さっきいった筋肉は重力に引っ張られる上体を押し返す、つまり引っ張り上げるための力だ」

 

 そう言って彼は走っているウマ娘とおぼしき非常に簡略な絵をホワイトボードに描きこみます。カッ!と見開いた目に恐竜のようなギザギザの歯を描かれたその顔は怪物そのものでした。ほとんど棒人間のような簡単な絵でさえ彼の絵心の無さが分かってしまうのは、逆にある種の才能ではないかと彼が絵らしきものを描く度に失礼にも思ってしまいます。

 

「だが、ウマ娘には尻尾がある。あまり意識してないかもしれないが、走っている時は尻尾を使ってバランスをとっているんだ。左右だけじゃなく、後ろの重心も調節しているから、俺達ヒトには出来ない前傾姿勢で走ることが出来るんだ」

 

 そうして前傾で走っているヒトらしき絵の腰に尻尾らしきものを加えて辛うじてウマ娘と判別できる代物を完成させました。尻尾の部分を強調して『バランスをとる!』と書き加えてますが、私はおかしくておかしくて、笑いを堪えるのに必死でした。

 

「それで……なんか変か?」

 

「い、いいえ。なん……でもありません、よ」

 

 絵が下手なことを気にしているのか、トレーナーさんはこういう絵で説明する度に同じような質問を浴びせてきます。まさか絵が面白いとは言えず、私は毎度笑いを我慢するはめになってしまいます。

 

「……それで、この超前傾姿勢になると腰の部分も上向きになるのは分かるな?」

 

「ええ、まあ」

 

 ちょっと苛立った声色で話を続けますが、怖いと思うより、むしろこんなことを気にして一々怒る、子供っぽい一面を見れて可愛く見えてしまいます。

 

「そうすると尻尾も当然上向きになる。だから余計前の方に重心が偏ってバランスがとれなくなっちまうんだ」

 

「つまり、意識して尻尾を下げることで、後ろに重心を残すことが可能なんですね」

 

「そうだ。そこも含めて走りのフォームと筋肉の強化が課題だな。後は練習中に怪我をしないこと」

 

「……そうですね。かなり前のめりな走り方ですから」

 

 そのフォームの危険性は身をもって知っています。朝日杯の時は幸いにも骨折などはありませんでしたが、次も骨折しない保証などありません。第一、こんなゴールラインで飛び込むような真似を毎回していたら体は持ちません。

 

「練習方法も考えないとな。とにかく怪我だけはしないように……」

 

 突然、トレーナー室にけたたましい着信音が鳴り響きました。

 慣れない手付きで慌てて携帯電話を取り出すトレーナーさん。すまない。と一言添えて、彼はそのまま廊下へ出ていってしまいました。

 

 残された私はぼんやりとホワイトボードを眺めます。

 

「ぷっ……」

 

 彼が描いた怪獣のようなウマ娘を見て思わず吹き出してしまいました。彼に失礼だと思いながらも暫く笑い声を抑えていると、

 

「……本当に!?でも…………ああ……ああ」

 

 廊下から聞こえるトレーナーさんの声。

 普段聞くことのない上擦った声が、彼の感情が高ぶっていることを私に教えます。

 

 トレーナーさん……?

 

 私の前ではほとんど見せたことのない、嬉しそうな声色は私の心にさざ波をたたせました。

 

 はしたない……。はしたないですよ!

 

 心の中で静止するが、それに反して体はドアの前まで自然に運ばれ、耳をドアに付けて聞き耳を立てる体勢になりました。

 

「別に構わんが……。いやいや、俺も会えるのは嬉しいよ」

 

 嬉しい!?あのトレーナーさんが!?……ゆ、由々しき事態です……。

 

「…………なるほど。挨拶もかねてってことか……」

 

 お相手は、女性?声は高い気がしますが、流石に電話越しの声はウマ娘の耳をもってしても分からないですね。

 

「ああ……ああ、じゃあグラウンドで待ってる。気を付けてな」

 

 その言葉で締めくくると、パタンとガラケーを畳む音が聞こえました。

 私は慌ててドアから離れるとさっきまで座っていたパイプ椅子に急いで座り直します。

 

「さあ、トレーニングするぞ!」

 

 彼の上機嫌な声色が私の背中から響きました。

 

 

 

 

 

 

 

「さあさあ!私と並走する権利をあげてるんだからもっと気合い入れなさい!」

 

「くっ!」

 

 目の前で加速するキングヘイロー。私は反応するのが一瞬遅れ、差が縮まらないままゴールまでなだれこみました。

 

「ちょっと!折角この私が並走してあげてるのよ!しっかり走りなさいな!」

 

「……すみま……せん……」

 

 呆れ顔で私を一瞥すると、彼女はトレーナーさんの方に歩きだしました。

 

「……貴女がこんなものじゃないのは、私がよく知ってるんだから……」

 

 呟くように語りかける彼女の背中は少し寂しげでした。

 

 ……申し訳ありません……。

 

 キングさんなりの激励なのはすぐに分かりました。

 しかし、それで奮起するよりも全く集中出来ていない自分に不甲斐なさが勝ってしまいました。

 私は肩を落としたまま彼女の後を追ってトレーナーさんの元へ帰ります。

 

 ターフの上には多くのウマ娘が練習に励んでいました。普段人混みの多い時はグラウンドを避けるトレーナーさんですが、今日ばかりは構わず一緒に使わせてもらっています。

 トレーナーさんの所へ戻る途中、エルコンドルパサーが横目で私を見ている姿が分かりました。一瞬、目が合うと彼女はすぐに視線を反らしてエルのトレーナーさんの所へ戻っていきます。

 

 朝日杯を制しても対応は変わらず。まだこの程度ではトレーナーさんの実力を証明したことにはならないのか。

 いや、そもそもトレーナーさんの練習方法が駄目だというのなら、私が怪我をせず安定して成績を残さなくてはいけない。だけどあの朝日杯では三週間の入院生活をしてしまった。

 私の無茶が原因だけど、あの飛び込みをトレーナーさんの指示だと言う人も少数ながら存在します。その内の一人がエルのトレーナーさん、金元さんなのは容易に想像出来ました。

 

 私はとぼとぼとトレーナーさんの元へ戻ると、キングさんとそのトレーナーさんが何やら言い争っていました。

 

「だから、こんなんじゃ物足りないって言ってんの!もっと一流にふさわしい練習強度でやりなさいよ!」

 

「こっちはキングの体のこと心配してるんだ!夏の時だって、自主練のし過ぎで炎症おこしてたじゃないか!」

 

 練習強度が足りないというのは私の走りが物足りないということでしょうか?

 

 一度ネガティブな思考になると余計なことまで心配してしまう自分がいます。確かに不甲斐ない走りをしてしまったのは事実ですが、それを責めるようなキングさんではないことを思い出し、私はトレーナーさんの方に視線を向けました。

 

 今日はそれほど寒くもないのに、滅多に見たことのない黒いオーバーコートを羽織り、普段シワシワのシャツはズボンにきっちり仕舞われ、まがりなりにも皺が目立たないようにしています。視線はキョロキョロと何かを探すように落ち着きがなく、私のことにも気付いていないような感じでした。

 

「……あの、トレーナーさん。並走やってきましたけど」

 

「あ?ああ。終わったのか。それじゃあ少し休憩してくれ」

 

 ……やっぱりおかしいです。いつものトレーナーさんは練習してる私を見ていないことなどあり得ません。ですが、今のトレーナーさんは並走トレーニングが終わったことすら気付いていないようでした。

 

 ……やはりあの電話が……。

 

「トレーナーさん」

 

「うん?」

 

 気もそぞろなトレーナーさんに一言文句でも言ってやろうかと思いました。

 

「……いえ、何でもないです」

 

 しかし、こんな大勢の前ではしたない真似は出来ないと自制心の方が勝りました。それに、エルのトレーナーさんに『やっぱりトレーナーと担当バがうまくいってないじゃないか!』と勘ぐられるのも押し止めた一因です。

 

 ベンチの方に向かう途中、キングとそのトレーナーさんがまだ言い争いをしているのが目に止まりました。

 

 ……そういえば、まだ私のトレーナーさんとあんな風に喧嘩したことありませんでしたね……。

 

 勿論、喧嘩しないにこしたことはありません。ありませんが、本音同士でぶつかり合っている二人を見ると、果たして争い事を避けている私達の関係は正しい関係なのかという思いが頭を掠めました。

 

 関係は良好よ。それは疑いないこと。

 

 私はきっと、『良好な関係』と『真摯に向き合った関係』を一緒にして安心しようとしてたのかもしれません……。

 

「よお!久しぶりだな!」

 

 突如、トレーナーさんの叫び声が私の耳をさしました。

 興奮した彼の声。その視線につられて丘の上を見やると、そこには深紅のダウンを着て、首に赤いスカーフを巻いた栗毛のウマ娘がいました。

 

 ……どこかで、見たことある?

 

 私は必死に記憶を辿りながら彼女の風貌を凝視します。

 翠色の瞳に長髪の栗毛、ほうれい線が少し深めで学生のような若々しさがないものの、威風堂々とした空気を纏っているような感覚を覚えました。

 

「はあい!おひさー!元気してた?トレーナーくん?」

 

 駆け寄るトレーナーさんに向かって彼女は額にピースサインを作って答えました。

 丘をかけ上ったトレーナーさんはそのまま栗毛のウマ娘に抱きつきました。

 

 

 

「ウ……ソ…………」

 

 

 

 ベンチに座りながらその光景を呆然と見ている私の口から自然と言葉が漏れます。

 信じられない……いえ、信じたくない光景と言うべきでしょうか。

 

 私の中でガラガラと何かが音を立てて崩れていくような気がしました──

 

 その後のことはあまり覚えてません。

 ただ、彼女があの伝説のマルゼンスキー先輩だということ。私のことは朝日杯で知って激励に来たということ。それぐらいしか覚えていません。

 その他にも昔話に花を咲かせていたようですが、思い出せません。

 

 ──思い出したくありません……。

 

 

 

 布団の中で暗い天井をぼんやり眺めていると、目尻に熱いものが触れたような気がして、思わず指で触りました。

 

 …………あれ?私、泣いてる?

 

 人差し指についた水滴が月の光を反射してキラリと私を慰めました──

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

「紹介する。こいつが今俺が担当してるグラスワンダーだ」

 

 挨拶代わりの抱擁を終えたあと、俺達はグラスが待つターフに降りていった。その間に他愛ない話を挟んでいたが、マルゼンは相も変わらずといった風だった。

 

「お初~!グラスちゃんって呼んでいい?貴女の活躍、テレビでじっくりポッキリ見させてもらったわ!なかなかいい走りしてるじゃない!今日はサプライズで激励に来ちゃいました~!ビックラポン!だった?」

 

 いつもならすかさず挨拶を返すグラスワンダーだが、何故か黙って俺とマルゼンを眺めていた。その青い瞳は気のせいか、生気を失っているような気がした。

 

「……はじめ、まして」

 

 やっと絞り出すように出てきたその声は、まるで抑揚が無く、感情が死んでいるような錯覚を覚えた。

 

「……どうしたんだ?グラス。怒ってるのか?」

 

 いや、耳を後ろに絞るような風も無いし、尻尾も怒ってる時のそれではない。無表情を張り付けたその顔が、本当に感情を失ったことを表しているような気がして、俺の背筋は思わずゾクリと寒気が走った。

 

「もしかして馴れ馴れしかった?ごめんなさい。私ってばちょっち遠慮ないところがあるのよ。許してチョンマゲ~」

 

 少し茶目っ気を混ぜながらフォローを入れるマルゼンだったが、グラスは全くの無反応だった。まばたきさえもせず、ガラス細工のようの碧い瞳で見つめる先に俺達は写っていないようだった。

 

「そ、そうそう。お前が預けたあのマルボロ、今はグラスがお守り代わりに持ってるんだ。本番前は肌身離さず持ち歩いてるんだぞ」

 

「あらあら、それはチョベリグね~!私がトレーナーくんに託した想いが私の後輩ちゃんに受け継がれてると思うと感慨深いわ~」

 

 グラスが緊張してるのかと思い、取っ付きやすい共通の話題を振ってみるが、彼女は俺達の話を聞いていないかのように、全くの無反応だった。

 

「……おい、いくらなんでも失礼だろ。ちゃんと挨拶ぐらい……」

 

 そう言って伸ばした手を、グラスワンダーは寒空に響く乾いた音とともにその手を弾いた。

 

 一瞬、何が起こったのかと面食らっていると、

 

「……すいません。わたし、体調がわるいみたいなので、これであがらせてもらいます」

 

 淡々と、呟くように放つその言葉に微塵も感情がこもっていなかった。

 透き通るようなその声が機械的な人工音声のようで、一層不気味さを際立たせる。

 

 踵を返して歩き去ろうとする後ろ姿に、俺は思わず右手で彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いいの?グラスちゃん、行っちゃうけど」

 

 俺は小さくなっていく後ろ姿を見ながら、何か心の中に空虚な穴が広がる感覚を覚えた。

 

「あ、ああ。滅多に休む奴じゃないし、様子もおかしかったからな。本当に体調が悪いんだろう。折角来てもらって残念だが休ませてやろう」

 

 俺は伸ばした腕を引っ込めてマルゼンの方に向き直る。

 

 俺は胸に抱いた違和感を埋めるようにマルゼンと昔話に花を咲かせた。

 

 ──弾かれた手のひらが心の中に楔を打ち込むように手に痺れを残して訴えかけていた。

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「お初~!グラスちゃんって呼んでいい?貴女の活躍、じっくりポッキリ見させてもらったわ!なかなかいい走りしてるじゃない!今日はサプライズで激励に来ちゃいました~!ビックラポン!だった?」

 

 目の前には無敗のスーパーカー。マルゼンスキーがいた。

 映像で見た彼女よりも幾分老けてはいるものの、確かにあの頃の特徴は残っている。

 憧れてたわけじゃない。ただ意識はしていた。特に怪物二世と呼ばれるようになってから。

 

 そんな伝説的な存在が目の前にいる。

 

「……はじめ、まして」

 

 口から出た言葉はまるで他人の声のように聞こえた。

 

「……どうし……?グラス。……るのか?」

 

 聞こえているようで聞こえない。

 音として拾っているのに、言葉として認識出来ない。

 

「もしかして馴れ馴れしかった?ごめ……さい。私ってばちょっちえんりょ……のよ。ユル…………」

 

 初めて日本語を聞いた時を思い出した。

 何か意味があるのは分かる。けど、どんな意味か分からない。

 ただ、それ以上に二人の言葉は私の理解の範疇を越えていた。

 

 ……そっか、この人達は私に分からないように喋っているのね。

 

 アメリカの小学校で、スペイン語で話し合っていた南部の子達を想起した。

 

 いよいよ見えない壁が私に迫る。

 此方と彼方は違う世界なのだと脅迫する。

 

 私、なんでここにいるんだろ……。

 

 何か目指していたような気がするし、何かに憧れていたような気がする。

 

 

 

 でも今は何も考えられない──

 

 

 

 屈託の無い自然な笑顔で笑う、どこかで見た男の顔は私の心に虚しく響いた。

 

 突然、壁の向こうから男の人が私に向かって腕を伸ばした。

するりと壁を抜けるその腕は、私の肩を掴もうとする。

 

 パァン!

 

 反射的に振り払ったその腕は、宙を舞って彼の元に戻った。

 

 もはや必要とされない私は彼らから背を向けて自分の部屋に戻ることにした。

 最後、私の口から何か言った気がしたがもう覚えてない。

 

 

 

 ──雲一つない空は灰色に染まっていた。

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

「悪いな。俺だけ飲んじまって」

 

「いいのいいの!私にはタッちゃんが待ってるから。それに、君が煙草吸いながらお酒飲んで、私が隣で愚痴を聞くのは昔っからでしょ?」

 

「はは……。そうだな。トレーナーが教え子に愚痴吐き出すなんて、今思い出しても情けない」

 

 店から出ようと足を出すと、バランスを崩してマルゼンスキーにもたれれかかる形になった。マルゼンスキーはすぐにそれを抱え、そのまま二人で歩きだした。

 

「大丈夫?貴方お酒飲むの久しぶりでしょ?会ってすぐ分かったわ。年中漂ってたアルコールもヤニの臭いも無かったもの」

 

「ああ、悪い。ウマ娘のことを思うとな、いつの間にか酒も煙草も断っちまってた。……にしても、まるで要介護のじじいだな。卒業してるとはいえ、教え子に抱えられて歩いてるなんて……」

 

「昔からそうでしょ?君と担当ウマ娘は二人三脚。持ちつ持たれつ。一緒に試行錯誤しながら三年間を走り抜けたじゃない」

 

「……そうか?……そう、だったな…………」

 

 そう言って男は何かを掴もうと広げた右手に視線を落とした。

 

「……なあ、マルゼンスキー」

 

「ん?なあに?」

 

 数秒の沈黙の後、二人は気付けばトレ選学園の校門の前にいた。

 

 男は何か言いかけた口を閉じた。

 すっかり日が落ちた校門前は、朝とはうってかわって人っこ一人通ることはなく、静寂だけが二人を待ち構えていた。

 

「……ありがとう。あとは一人で帰れる。冷たい風に当たって酔いも冷めたしな」

 

「本当?なんなら寮まで送っていくけど?」

 

「これ以上格好悪いとこを教え子に見せろって?」

 

 男はマルゼンスキーの肩に回していた腕をほどき、彼女に向き直ってニヤリと一つ、笑みを浮かべてみせた。

 

「ふふ……。なるほど。それじゃあ私はタッちゃんでひとっ走りしてから帰ることにするわ。転んで怪我しないでよ。オジサン」

 

「お前こそ、速度上げすぎて事故るなよ。オバサン。今日は楽しかった」

 

 二人はもう一度、外国風の挨拶であるハグをすると、二手に別れて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

「マルゼンスキーさん。お久しぶりです」

 

 愛車の前でピタリと足を止めるマルゼンスキー。

 ドアの取っ手に掛けた手を止め、彼女はゆっくりと声のした方に向き直った。

 

「お久しぶりね。えっと、金元くん、だったわよね」

 

 彼女の視線の先には、鍛え抜かれた堅牢な体と、日に焼けて黒ずんだ皮膚を纏った男が、二月の夜にTシャツ一枚で佇んでいた。

 

「気付いてたなら挨拶してくれればよかったのに。さっきまでカブラギくんと飲んでたのよ?昔みたいに三人でまた飲めたら……」

 

「マルゼンスキーさん。折り入って頼みがある」

 

 彼女の言葉を遮り、金元は真剣な表情でマルゼンスキーに向かって言い放った。

 

「どうか、カブラギ先輩を救ってやって下さい」

 

 きちんと90度折り曲げられた正式なお辞儀を前に、マルゼンスキーは訝しげな顔を浮かべてそれに答えた。

 

「……ふーん。何か昔と違うなって思うところはあったけど、訳ありみたいね」

 

「あいつは、もう昔のカブラギさんじゃありません。真剣に担当ウマ娘と向き合ってない。上っ面だけです」

 

 最敬礼のまま絞り出すように出すその声色は、その巨躯からは想像出来ない程にか細かった。

 

「もう見てられないです。俺が心から敬愛して1から教えてもらった先輩が、その教えとは真逆のことをしてる。見るに耐えない……」

 

 深く握りこんだ拳がギリリと夜空に戦慄いた。

 

「……ごめんなさい。私には何も出来ない……」

 

 予想外の返答に金元は顔を上げて激しく抗議しだした。

 

「そんな……!せめて事情だけでも……」

 

「うん。きっと色んなことがあったのね。私には知る由もないけど、彼の経験を否定する気にはならないわ。積み重ねてきたトレーナーとしての月日がカブラギくんの今のスタイルならそれも一つの答えだと思う」

 

「ですが……!」

 

「けど、」

 

 そこで一つ深呼吸をしたマルゼンスキーは、懐かしむように夜空を見上げて言葉を紡いだ。

 

「カブラギくんと一緒にやってた時がすごく楽しくて、彼も楽しそうで……。それが個人的には一番、トレーナーと担当ウマ娘として理想的な関係だったって今も思う」

 

 金元は何も言い返すことが出来ずに、ただ上を見上げた無敗の女王を見つめていた。

 

「もし、今の彼に何かを与えられるとするなら、それは私でも金元くんでもなくて、担当バのグラスちゃんだと思うわ」

 

 マルゼンスキーは愛車のドアを開けて中に乗り込むと、それだけ言ってドアを閉めた。

 

「グラスワンダーが……」

 

 静寂に響く金元の呟きは、スポーツカーが放つエンジン音でかき消された。

 

「それじゃおやすみ。金元くんも機会があったら今度飲みましょ?勿論、私もお酒アリでね」

 

 都会の寒空を切り裂くように、けたたましい爆音を響かせながら赤いスポーツカーはビルの群れの中に消えていった。

 

 残された男は天を仰ぐように顔を空に向けると、一つ、深々と溜め息を吐いた。

 

 男の口から出ていく白い蒸気が夜を知らぬ都会の街へ消えていった──

 

 

 

 

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