きっと貴方のことが好き   作:圧倒的雑魚臭

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六分の一歩

 

 6月の強い日差し。

 明日から梅雨入りとは思えないほど乾いた空気と雲一つない空が選抜レースを彩る。絶好のレース日よりだ。

 

 俺はターフの上でウォーミングアップするウマ娘達を見やる。

 ストレッチする者。ウッドチップで脚をならす者。コースを歩きながら仕掛け所を探っている者もいた。

 

 その中に一人、ターフの隅で黙々とスタートダッシュを確認するウマ娘がいた。

 力強く地面を蹴り、加速する度に栗色の長髪がふわりと宙を舞う。

 

 ダッシュし、緩め、また戻る。

 何度目かのルーティーン。またスタート位置に戻ろうとする時に丘の上からそれを眺めていた俺と目があった。

 

 彼女はニコリといつもの笑顔を向けてスタート位置へ戻ると、踵を返してスタート体勢を作った。

 

 一応意識はしてもらっているらしい。

 ただこの二ヶ月、彼女と話すことはほとんど無く、たまに学園内で会っても素知らぬ顔ですれ違うだけだった。

 

「おいおい、グラスワンダーも出走するのか?彼女レースする気あったのか」

 

 隣で見ていたトレーナー達の会話が漏れ聞こえてきた。

 

「単なる気まぐれじゃないか?それに、どうせ出たってまた勝ちを譲るだろ。彼女はそもそも勝負事に向いてない性格なんだよ」

 

「未だに誰の担当にもなってないって話だからな。あれだけの実力がありながらもったいないよ。今回の出走もタキオンみたいにレースに出る気がないと見なされて、退学処分されないためのポーズかもしれないな」

 

 ま、そういう評価になるよな。しかし……。

 ……知らないということは恐ろしいことだな……。

 

 内心苦笑いしながらウマ娘達を眺める。

 出走の時間になったのか彼女達は控室へと各々向かっていた。その中の一人、グラスワンダーは一人の芦毛の娘と並んで歩いていく。

 

 ……ああ、そうか……。

 

「おい、見ろよ。あの男……」

 

「あいつまだ……」

 

 ひそひそとささやくような声が俺の耳に入る。

 どうやら周りのトレーナー達が俺のことを見つけたらしい。

 

 めんどくせえ奴らだ……。

 

 俺は何食わぬ顔で人の少ない丘の中腹に降りていった。

 

 しかしこのレースはな……。

 

 先程渡された出走表を改めて見てみる。グラスワンダーという名前のすぐ上、同じレース出走者に『セイウンスカイ』の文字が立ち塞がっていた。

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

「いやあ~快晴だねえ。やっぱりセイちゃん名前の通り晴れ女みたいだあ。奇策珍策頼りのセイちゃんにはなるべく御免こうむりたいですにゃ~。今から雨乞いでもしてみますか」

 

 最後の調整を終え、控室へと足を運んでいると、いつもの調子でセイウンスカイさんが私に話しかけてきました。

 

「ふふ……。私ちょうど傘を持ってきてますから大丈夫ですよ~。ターフの上は無理ですが、寮まで濡れずに帰れますから~」

 

「ええ……。なんでこんな日に傘持ってきてるの?あ、もしかして日傘?だったらあたしも入れてよ。グラスちゃんとセイちゃんの相合傘!トレーナーさん達の目が別の意味で釘付けになっちゃうね~」

 

「セ~イ~ちゃ~ん?」

 

「ハハハ……。やだなあ冗談ですよ。冗談~。もしかして本気にしちゃった~?」

 

 そんなやりとりをしながら控室に入る。

 控室と言ってもただの広めのシャワールーム。皆落ち着かない様子で所在無くそわそわしています。

 

 その中に一人、体を震わせブツブツと壁に向かって独り言を呟いてるウマ娘がいました。

 

「けっぱるべー……。けっぱるべー……」

 

「あの……、転入生さん?」

 

「ふぁ!ひゃい!」

 

 あまりに不憫で思わず声をかけてしまいました。

 彼女は昨日転入してきたばかりのウマ娘。まだ模擬レースですら彼女の走りを見たことがありません。

 

「おやおや?君は転入してきたばっかりの子じゃないか」

 

「あまり根を詰めすぎず、リラックスしてレースに望みましょう?そうしないと全力は引き出せませんよ」

 

「そうそう。どうせ選抜レースなんて次もあるんだしさ。セイちゃんみたいに、トレーナーさん無しでもうちょっと一人でフラフラしたいならテキトーに手ぇ抜いちゃえばいいよ~」

 

「あ、あ、あの、ありがとうございます。でも私、決めたので。日本一のウマ娘になるって」

 

 ああ、そういえば昨日の自己紹介でもそんなことを言ってましたね。

 

「おお、そういえばそんなこと言ってたね~。まあセイちゃんは別に邪魔はしないけどさあ、まずはこのグラスちゃんに勝たないとね」

 

「なんで私なんです?」

 

「そりゃ実力的にこの中で一番強いからね~。それに、日本一になりたいんだったらいずれは倒さなきゃでしょ。同じ目標を持ってる者同士」

 

 そんなやりとりをしている中、転入生は思いきったように話しかけてきました。

 

「あ、あのグラスワンダーさんとセイウンスカイさんですよね!私も今日のレース一番最初に走るんです。どうぞよろしくお願いします!」

 

「……ええ、勝利無くして日本一にはなれません。お互い全力を尽くして勝ちにいきましょう」

 

 最初の自己紹介の時こそ、そう易々と日本一になどなれませんよ。言うは易し。行うは難しです。と内心揶揄するような私でした。しかし今のこの子の真っ直ぐな目を見ると、純粋に日本一になりたいのだと言う気持ちが素直に伝わってきて、私もそれを心から応援したいと思えました。

 

「ま、お互いがんばろ~。えっと……」

 

「はい!スペシャルウィークです!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やって参りました。選抜レース第一陣。1800m芝。バ場は当然良バ場。期待のグラスワンダー、セイウンスカイの直接対決となるいきなりの注目レースです!」

 

 セイウンスカイさん、スペシャルウィークさん……。

 

 心の中で今日の対戦相手の名前を呟く。いつものルーティーン。

 胸の高鳴りの中で彼女らと真剣に向き合うと、不思議と冷静さを身に付けていきます。

 身体は昂っている。でも頭のなかはしごく冴え渡って……。

 

「さあ、各ウマ娘ゲートインしました!」

 

 

 

 一瞬の静寂――

 

 

 

 ガシャン!

 

 目の前の扉が開かれ、ターフが私達を出迎えた。

 

「さあ、各ウマ娘一斉にスタート!最初に飛び出したのはセイウンスカイ!」

 

 予想通り、セイウンスカイさんは逃げのペースですね……。しかし、これは……!

 

「逃げる!逃げる!セイウンスカイ!すでに集団との差は5バ身……いや6バ身か!」

 

 『逃げ』はセイさんしかいない。このままマージンを作って力で捩じ伏せる!?

 あり得る。この七人の出走者の中でも地力は上位。私の普段の脚質は差し。セイさんなら十分考えそうなこと……。

 何が奇策珍策ですか……。真っ向勝負受けますよ!そのための……先行作戦ですから!

 

「おおっとお!残り半分を切り、集団の先頭にいたグラスワンダーが一人飛び出した!」

 

 スタートダッシュを練習しておいて良かった。集団に飲まれずにあなたの背中をずっと見ていられたから。

 

「そのまま第三コーナーへと入っていく!」

 

 3バ身……2バ身……。

 セイウンスカイの背中が徐々に縮まっていく。

 

「ハア……。ハアッ……!」

 

 肺が酸素を求めのたうちまわる。体の出来上がっていない私達に1800mは長距離に等しい。

 

 足に鉛が着いたように重くなり、前へ運ぶことを拒んでくる。それでもフォームは崩さない。

 

 このフォームだけは……!

 

「第4コーナーを周り、セイウンスカイとグラスワンダーの差は残り1バ身!ここでグラスワンダー飛び出すか!?」

 

 もう二の舞は演じません!早めに仕掛ける!

 

 体が沈み、足に力を入れる。一瞬視界が下向き、セイウンスカイの足元だけが目に入った。

 

 今!ここ……!

 

 第4コーナーの終わり。直線に備えて並走する形になる。我ながら完璧なタイミングだった……。

 

「…………ッ!」

 

「ああっとグラスワンダーここで減速してしまいます!もう体力が残ってないか!?」

 

 一瞬、セイウンスカイの足元が揺らいだ。私のいる外側に。

 

 まさか、セイさんはもう体力の限界?あの時の娘のように。いや、まさか……。

 

 加速しようとした体を整え、セイウンスカイの半馬身後ろ外側から彼女を眺める。

 

 息も絶え絶えというように口からヒューッヒューッと呼気が聞こえる。顔は苦悶の表情を浮かべているのが斜め後ろからでも分かった。

 

 おかしい……。セイさんはペースを考えられないほどの娘ではない。いくら大逃げを打ったとしてもだ。それにこの足はまだ……。

 

 残り400m強。私はもう一度加速の体勢を作る。体を沈め、地面を強く蹴る。今度はなるべく顔を上げて。

 

 その瞬間、セイウンスカイの体が私の方に倒れてきた。きっと周りで見ている人には分からないと思えるほどの本当に僅かに。

 セイウンスカイの汗にまみれたその口元は確かに一瞬、ニヤリと歪んだ。

 

 

 

 ――その瞬間、私の中の何かが弾けた。

 

 

 

「私の……!走りを……!侮辱するなあああああああ!!」

 

 

 

「グラスワンダー伸びる!伸びる!素晴らしい末脚です!」

 

 わざとセイウンスカイの真横に並ぶ。その刹那、肩に何か触れる感触と焼き付くような痛みが脳に走った。

 

 もう私は退かない!この道は!!

 

 横に張り付いたセイウンスカイの足も加速するのが肌で感じた。

 

 やはり最後までセイさんとの一騎討ちになった。でも譲らない!この先も!絶対!!

 

 

 

 

 ――瞬間、ぞくりと全身が粟立つ感覚に襲われた。

 

 何か来る……。後ろから……。

 

 二つの足音に混じってもう一つ、地面を蹴りあげる音が背中から迫ってきていた。

 

「ここで来た!強烈な末脚を見せ、先頭の二人に追いすがるスペシャルウィーーーク!」

 

 一瞬だった――

 私のさらに外側を彼女は並んできた。加速している私達の隣をだ!

 

 スペシャルウィーク……。全くのノーマーク。いや、そもそも彼女の走りを誰も見ていなかったのだ。けど……。

 

 関係ない!誰だろうと!!

 

 残り200m。渾身の力を振り絞ってさらにスパートをかける。最後の深呼吸。酸素を求める肺を閉じ、無酸素運動に切り替えた。

 

 心臓が爆発する!肺が壊れる!

 

 酸素を求め開きそうになる口元を引き締め、私は最後までフォームを崩さぬよう神経を尖らせた。

 

 

 

 ――六分の一歩、広く!

 

 

 

「セイウンスカイ!グラスワンダー!スペシャルウィーク!三者いずれも引かない!このままもつれるようにゴールに雪崩れ込む!」

 

 横目にスペシャルウィークとセイウンスカイが見える。目の前には一人しか祝福しない残酷なゴールラインが私達を待ち受ける。

 

 汗が目に入って視界が滲む。瞬きはしない。

 最後の最後、何が起ころうと絶対に怯まない。

 脚は止めない!

 

 

 一着をとる!あの人のために!!

 

 

 

「今、ゴールイン!三人同時にゴールラインを駆け抜けた!これは写真判定になるか!?」

 

 駆け抜けた先、ゆっくりと減速して脚を止める。口を開いて侵入を許した酸素が私の体に染み渡った。

 

「ゼッ……!ハッ……ハッ!……カヒュッ……」

 

 順位は……!?

 

 まだ整わない荒れた呼吸の中で私は掲示板を見上げた。しかしこれは学内の選抜レース。電源が入っていない掲示板は沈黙を保ったままだった。

 

 突如、ドオオオという地鳴りのような音が私の後ろから響いてきた。

 

「素晴らしい!素晴らしい走りだった!グラスワンダー!やはり君は僕と共に頂点を目指すべきウマ娘だ!!」

 

「貴女は……!貴女の脚はダイヤモンドよ!その脚を腐らせないで!是非スカウトに応じてトゥインクル・シリーズを目指すのよ!」

 

 ターフに雪崩れ込んだ大勢のトレーナーに囲まれもみくちゃにされる。近くにいたセイウンスカイとスペシャルウィークを囲む人垣と相まってターフの上は混乱状態になっていた。

 

 煩い……!煩い煩い!!

 そんなことどうでもいい!それより順位!順位は!?

 

「順位が確定しました」

 

 耳をつんざくようなスピーカーの金属音と共に、実況とは違う事務的な声色で運営からの発表が響いた。

 先程まで騒いでいたトレーナーも息を飲み、注意を向ける。

 

「……一位グラスワンダー。二位鼻差、スペシャルウィーク。三位同じく鼻差……」

 

 それ以上は聞こえなかった。結果発表と同時に怒号のような歓声が場内を満たしたからじゃない。

 

 

 やっととった……。

 

 

 始めに感じたのは嬉しさよりも安堵だった。

 二ヶ月前の選抜レース。今回の三強による熾烈な戦い。苦しみ抜いた末での勝利。

 

 私は半ば放心状態でターフの様子を眺めた。人垣が作る壁のなかで先程激闘を繰り広げたスペシャルウィークが目に入る。

 

 スペシャルウィークさんもセイちゃんも挨拶は後になるわね……。

 

 そんなことを思っていた矢先、丘の中腹に見知った顔を見つけた。

 

 ハッとして我に帰る。

 相変わらず彼はトレーナーの輪に加わらず、しかし目だけはじっとこちらだけを見ていることが少し遠目でもよく分かった。

 

「次のレースの妨げになりますので、トレーナーの皆様は速やかにコース外に出てください」

 

 退去を促す運営の声が渡るが、誰も気に止めずに声を荒げ続ける。

 私はうんざりしながら半ば強引に人垣をこじ開けると、控室へ向かって走っていった。

 

 直ぐに手にしたものを携え、いまだ私を勧誘してくる人々を振り切り彼の待つ丘の中腹へ一直線に向かっていった。

 

 手に持っていたものを後ろ手に隠し、近づいていくと、何故か彼は丘を登り、帰ろうとしていたようだった。

 

「トレーナーさん!!」

 

 慌てて私は声をかける。

 汗と汗でベタベタに張り付く髪の毛できっと私の顔はぐちゃぐちゃだろう。それでも私はこの言葉を誰よりも早く彼に届けたかった。

 

「ありがとうございます!」

 

「……何のことだ?」

 

 半身だけ振り向いた彼は少し驚いたような顔を見せたあと、訝しんだ表情でそう質問した。

 

「ハア……。トレーナー……さんが教えてくれた……六分の一歩……ハッ……そのお陰で、勝てました」

 

 彼はそんなことかと言う風に髭を剃った口元を緩め言葉を紡いだ。

 

「……それは違う。お前が誰よりも速かったから勝てた。それだけだ」

 

 私は肩で息をしながらかぶりを振り、それこそ違いますと頭の中で否定した。

 

「……良かった」

 

 うつむいた頭の上から声がかかる。

 顔を上げると青い空と緑の丘に彩られた中に彼の嬉しそうに見下ろした顔が浮き立っていた。

 

 

 

「最高の走りだった。グラスワンダー」

 

 

 

 それが何を意味しているのか私には最初分からなかった。

 

 

 

 ――初めて名前を呼ばれた!

 

 

 

 その事だけが私の脳に突き刺さる。

 グルグルと彼の言葉が頭の中で木霊する。

 

 私は咄嗟に顔を伏せる。

 いつまでも落ち着かない心臓は全力で走った後だからだろうか……。

 

 ……ずるい!ずるいですよトレーナーさん!

 

「トレーナーさんは……トレーナーとして私に何を与えてくれるんですか?」

 

 顔を伏せたままそう投げかけた。

 こんなこと質問するまでもなかったけど、私は少し仕返しのつもりで彼を試した。

 

「そんなの決まってるだろ。出るレース全て勝つ!勝たせる!それ以外に何がある」

 

「プッ……アハッ……!……クックック……!」

 

 思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえる。

 

 本当にこの人……。

 

 私はひとしきり声を殺して笑い、それからおもむろに背中に隠していたそれを彼の前に差し出した。

 

「……それはお前にやったんだ」

 

 私の手に握られた黒色の大きめな男物の傘を見ながら彼はそう応える。

 

「……返すんじゃありません。預かって貰うんです」

 

 そして快晴の青空と同じように澄みきった彼の瞳を見つめ、私は震える唇でその言葉を口にした。

 

 

 

 

 

 

「……私が練習中に雨で濡れそうになったらその傘で守って下さいね。トレーナーさん」

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

「……一位グラスワンダー。二位鼻差、スペシャルウィーク。三位同じく鼻差、セイウンスカイ。四位……」

 

 怒号のような歓声が乾いた空気を震わす。

 丘の中腹からターフを眺めていた俺はほっと胸を撫で下ろした。

 

 ……やっと勝ったか。あの頑固もんが……。

 

 ターフの上でもみくちゃにされているグラスワンダーを眺めていると、人垣の隙間から彼女の視線と俺の視線が交錯した。

 二ヶ月前のそれとは違う、気のせいと思えるような一瞬ではなく、確かに俺達は明確な意図の下、互いに見つめ合った。

 

 ……後はお前の自由だ……。好きにやれ……。

 

 伝わるはずのない想いを心の中で呟く。今なら視線に乗せて伝わるかもしれない。そんな馬鹿げたことを考えながら帰る支度を始めた。

 

 やっぱりお前は他のトレーナーについていけ。俺なんかといるのは未来あるお前には相応しくない。ま、俺をトレーナーとして選びはしないだろうが……。

 

 身支度を整え、少し独りよがりの想いを抱いて俺はターフを後にする。

 土の独特な匂いと芝の青臭い香りが俺の鼻をくすぐった。

 

「トレーナーさん!!」

 

 聞き知った声。

 その瞳と同じように青く清んだ音色が俺の足を引き留めた。

 

「ありがとうございます!」

 

 唐突に飛び出した感謝の言葉。

 俺は見当がつかずに思わず聞き返した。

 

「……何のことだ?」

 

「ハア……。トレーナー……さんが教えてくれた……六分の一歩……ハッ……そのお陰で、勝てました」

 

 ……なんだ、そんなことか。

 

 大粒の汗をかき、端正な顔に張り付いた髪の毛を払おうともしない。息も絶え絶えの彼女の口から出た言葉は全く予想だにしないものだった。

 

「……それは違う。お前が誰よりも速かったから勝てた。それだけだ」

 

 当たり前のことを当たり前のように口にする。

 しかし、彼女はかぶりをふって俯くだけだった。

 

「……良かった」

 

 気付けばその言葉が口から飛び出した。

 彼女は顔を上げ、俺の顔をじっと見やる。

 

 言うな……!これ以上……。

 

 次に出す言葉でもう引き返せないことは分かりきっていた。それでも意志に反して素直な気持ちは音になって彼女の耳に届いていく。

 

 

 

「最高の走りだった。グラスワンダー」

 

 

 

 瞬間、彼女の目が見開き、火照った顔がさらに赤味を帯びる。

 顔を伏せ、耳を折り畳んだかと思うと尻尾がブンブンと激しく暴れだした。

 

 何をそんなに喜んでいるんだ……?

 

 そう思うと同時に俯いたままの彼女から少しトゲのある声が響いた。

 

「トレーナーさんは……トレーナーとして私に何を与えてくれるんですか?」

 

「そんなの決まってるだろ。出るレース全て勝つ!勝たせる!それ以外に何がある」

 

「プッ……アハッ……!……クックック……!」

 

 至極当たり前のことを言ったつもりだったが、何故か彼女は口を押さえて笑いだした。

 

 ひとしきり笑い終わった後、ずっと後ろ手に持っていたものをおずおずと差し出してきた。

 

「……それはお前にやったんだ」

 

 見ると二ヶ月前にくれたはずの傘が、丁寧に埃を拭かれた状態で彼女の両手に収まっていた。

 

「……返すんじゃありません。預かって貰うんです」

 

 ますます意味が分からないと訝しんでいると、グラスワンダーは人差し指を空に突き立てこう言った。

 

 

 

 

 

「……私が練習中に雨で濡れそうになったらその傘で守って下さいね。トレーナーさん」

 

 

 

 

 

 澄み渡った青空の下で次のレース開始を告げる歓声が響いていた。

 

 

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