きっと貴方のことが好き   作:圧倒的雑魚臭

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雨が降りさえすれば

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女はトレーナー室に来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……お願いだから、卑怯者のままでいてよ…………』

 

 

 

 

 卑怯者…………。

 

 卑怯者……?

 

 

 

 

 ……違う……。

 

 違う。違う!

 

 

 

 

 俺は、そんな陳腐な言葉で括れるほど綺麗な存在じゃない。

 

 俺はグラスワンダーにマルゼンスキーを見てた。

 いや、グラスワンダーだけじゃない。今まで担当してきたウマ娘はみんな……。

 

 カタカタと鳴るキーボードの手を止め、液晶の中のウマ娘を覗く。

 

 

 

 怖かった……。

 

 

 

 マルゼンスキーに依存している自分が。担当ウマ娘に叶えられなかった彼女の栄光の道を背負わせてしまうことが。

 

 そんなことしてはいけない。マルゼンスキーと彼女らは違う。そんなこと分かってる。

 

 それでも、それでも……。

 

 液晶画面の中で躍動する栗毛のウマ娘。それはあまりに若々しく、俺の目には眩し過ぎた。

 

 だからもう引退するつもりだった。俺が犯した罪の禊を終え、最後に新入生の選抜レースを見て終わらせるつもりだった。あいつの走りを見るまでは……。

 

 こんなことになるなら最初から……。

 

 グラスワンダーの走りを初めて見た時、雨に濡れたあいつがトレーナーの誘いを断っていたことを知った時、次の選抜レースで一着をとった時、そして俺にトレーナーの申し込みをしてきた時。

 グラスとの出会いが走馬灯のように流れて俺の頭の中を支配した。

 

 何ですぐに立ち去らなかった?

 なんであいつの挑発に乗っちまった?

 なんであいつの声で立ち止まった?

 

 なんであいつは、俺を…………。

 

 

 

 俺はパソコン画面に映る動画を止め、椅子の背もたれに体を預ける。ぎしりと入園時からの相棒は一つ文句を垂れた。

 

 ふと、喉が乾いたことに気付いて俺は奥の洗面台にある茶道具に目をやった。食器を乾かす篭に入れられた、逆さのままの茶色い急須に湯呑み。

 

 さらに少し首を捻って後ろにある額を睨んだ。

 俺をふてぶてしくも見下げてくる『不退転』の文字。あまりにも均整のとれたその文字は俺の精根を叩き直そうとしているようにも感じられた。

 

 確かに俺はグラスをマルゼンスキーに重ねてたかもしれない。だが──

 

 時間が止まった画面の中には今にも動きだそうとするグラスワンダーの真剣な眼差しが光っている。

 

 俺は椅子から立ち上がって水が入ったままのケトルのスイッチを静かに押した。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

 

 

 

  私はトレーナー室に行けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 怖かった……。

 

 あんな酷いことをして、あんな侮辱をして私は何を言われるかと……。

 

 空を覆う暗雲は雨雲へと変わり、ポツポツと私の額を叩き出した。きっと教室に来ない私を皆心配していただろう。それでも私はここに居ることを選んだ。

 

 罵詈雑言を浴びせられるだけならいい。

 契約解除の話をされることが一番怖かった。

 

 思ってもないことを濡れ衣を着せるかの如く言われて怒りを感じない者はいないだろう。

 

 『グラスワンダーがこんなウマ娘だと思わなかった』『そんなに不満があるなら勝手に他のトレーナーのところに行け』

 

 色々言い様があるけど、要は愛想をつかしたということ。

 そんなことを言われたら私は……。

 

 悲しくなる?

 ……もしかしたらほっとするかもしれない。

 

 それが怖い──

 悲しみにうちひしがれるよりずっと……。

 

 私の中で安堵する可能性があることが何よりも恐ろしい。それは私の中を貫いている柱がへし折られたことを意味している。それを確認してしまうことが堪らなく恐ろしい……。

 

 

 

 

 けどきっと彼はそんなことは言わない──

 

 誰もいないターフの上に雫が落ちる度に土の匂いが私の鼻腔を刺激する。雨足が少しずつ強くなることを感じながら今日の練習は皆ターフを避けるだろうという思いがぼんやり浮かんだ。

 

 『俺が無神経だった』『お前を悲しませることをしてしまった自分に責任がある』

 

 そんなことを言われたら私は……。

 

 惨めだ……。とてつもなく……。

 

 一人で勘違いして一人で怒って一人で勝手に落ち込んでるひたすら面倒臭い女。ただのメンヘラ。

 

 それを自覚してしまったら、自分自身に吐き気すら覚える……。

 

 

 

 

 いまだ小雨のように降る雨の中で風だけは唸りを上げて私を責め立てる。冬の冷たい風が大雨になることをうるさく告げていた。

 

 どうしていいのか分からない。

 

 右に行っても左に行っても間違いならば立ち止まるしかないではないか──

 

 もっと他にいい抜け道があるのかもしれない。けれど今の私にはとてもそれを見つけるだけの余裕は持っていなかった。

 

  貴方があの女に抱きつくような真似をしたから悪いんだ!と怒ってやりたかった。

 

 でも出来ない──

 

 この怒りがどこから来るの?

 

 学びの舎でそのようなはしたないことをするな?筋は通っているけど、一生徒の私が怒る理由にはならない。

 指導に力が入ってなかったから?私をないがしろにしたから?

 

 それらしい原因を探すが、どれもあそこまで怒る理由にはならない。

 

 ううん。けれどそう、私はある可能性を見逃していた。それもわざと。

 

 

 

 

 

 強風とともに本降りになった雨は、体育座りで縮こまっている私を嘲笑うように音を立てて強まっていった。

 ジャージ越しに染み込んでくる冷たい水は容赦なく私の体温を下げる。べたべたと服が張り付く感覚がとにかく不快だった。

 

 ターフを眺めていた顔を膝に埋め、私は一層丸まってこの世界から私の存在を小さくした。

 

 

 

 ──もう何も考えたくない。

 

 私が悪いのか、あの人が悪いのか、それともマルゼンスキーさんが悪いのか、誰かを悪者にしなきゃ収まりのつかないこの想いこそが悪なのか。

 

 私には皆目分からない。

 

 越えてはいけない一線。その境界がちらちら私の目の前で誘ってくる。

 目線を逸らすが、あの線を飛び越えられればきっと楽になると半ば確信めいた思いを抱く。だがその勇気もなく、私は駄々をこねる子供のようにその場から離れようとはしなかった。

 

 強くなる風雨に体は冷め、自然と全身が震えだす。

 今なら、誰にも見つからずこのまま朽ちて芝の一部になるのもいいとさえ思った。

 

 雨で濡れ、重くなった耳に足音が聞こえた。

 ズチャ、ズチャリと一歩一歩踏みしめるように轟くその音は少しずつ大きくなっていくのが分かった。

 

 私は何故か逃げる気にもならず、かといってその人を罵倒しようという気にもならなかった。

 全てがどうでもよくなったという訳でもなく、ただ、『ああ、そこにいるんだな』という漠然とした諦念の思いで暗闇の中、その人を迎えた。

 

 足音が止まると同時に私に容赦なく降り注いだ雨は終わり告げる。

 私は膝に顔を埋めたまま静かに口を開いた。

 

「……ここはトレーナー室じゃないですよ」

 

 くぐもっていたが、その声は驚くぐらいいつものグラスワンダーの声だった。

 

「俺は『トレーナー室で待ってる』と言ったんだ。俺から迎えにいく分にはどこだって構わないだろ?」

 

「……もし私がアメリカに帰ってトレーニングしていても迎えに来てくれるんですか?」

 

「……雨が降ってればな。世界中どこだって行ってやるさ」

 

 何故雨の日なのか、私はその台詞の真意が分からず埋めていた膝の中からゆっくりと顔を上げた。

 目に焼き付く光とともに映る彼の顔は私が一番見てきた仏頂面だった。雲が空を覆っているはずの世界が、彼の周りだけは何故だか明るく光っているように見えた。

 

「約束したからな。雨で濡れそうになったらこの傘で守ってやるって」

 

 私は視線を少しずらし、彼が手にしているそれを見上げた。

 

 黒くてでかい、男物の傘。

 あの日私がもらい、そして丁寧に汚れを拭き取って返したあの傘。再び私を守るように頭上を黒く覆っていた。

 

 ──瞬間、私の脳内に巡る契約する前の記憶。

 

 知ってましたよ。貴方は隠れてたつもりかもしれませんけど、トレーナーをつけずに自主トレしていた二ヶ月間、1日も欠かさず私の走りを見にきてたこと。

 

 貴方はきっと真摯なんですね。責任を感じる人なんですね。

 

 貴方は分からないことが多すぎる。けど──

 

 きっと『それ』は本物。

 

「……少なくとも、私はトレーナーとしてのカブラギさんは信用してます。個人としては……」

 

 私はどうしたいのだろう……。もっと知りたい?今のままでもいい?

 

「……構わんよ。お前は俺をトレーナーとして、成長する要素として利用してくれればいい。それ以上は望まない」

 

  ……まあ、その時になってみないと分からない。なるようになれ。

 

「それともう1つ」

 

 彼はそう言って傘を持ったまま濡れた芝生に腰を下ろすと、私の右耳に何かを着けた。

 

 驚いて右耳に着いたそれをとって確認すると、白いワッペンに青と赤で彩られたリボンがついた耳飾りだった。ワッペンの中央にはGの文字。私が彼と一緒に思案していた勝負服に合わせた色合いだった。

 

「……これは?」

 

「誕生日プレゼント」

 

 ぶっきらぼうに出てきた言葉に息を飲む。

 

 今日は2月18日。いつかトレーナーさんに教えた私の誕生日だった。

 

 私は黙って手のひらに乗った小さなワッペンを覗き込んだ。

 まだ彼の温もりが残る耳飾りは、私に新しい予感を諭しているような気がした。

 

 傘を叩く雨の音を聞きながら、私はこの瞬間が永遠に続けばいいのにと滲んだ世界でそう感じた──

 

 

 

 

 

 

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