皐月賞。
最も速いウマ娘が勝つと呼ばれる、バ生で一度きり挑戦が許される最速を競うレース。
ウマ娘に産まれたからには誰もが一度は夢こがれ、たった一人を除いて散っていく残酷なレース。
そしてクラシック戦線を彩るG1最初のレース。
この美しくも忌まわしいレースを中山競バ場の上空は雲一つない快晴の空で出迎えた。
「いよいよ、ですね」
控室に向かう足が震える。
未勝利戦以来か。これ程の緊張感を持ってレースに挑むのは。
胸の前でお守りを掴んだ手に思わず力がこもる。クシャという音と同時に私の掌に包まれたよれよれのマルボロは迷惑そうにさらに小さくなった。
「……珍しいな。緊張してるのか?」
私をここまで車で連れて来て下さったトレーナーさんが私の顔を覗き込みます。いつもとは違う、髭を丁寧にそりオールバックにした彼の顔は、その均整のとれたパーツをより強調して私に迫ります。
レースの緊張とは違うドキリとした胸の鼓動を抑え、私は彼の瞳を凝視してゆっくりと答えました。
「……緊張していないというなら嘘になります。ですが、これは不安からくるものではありません。これは間違いなく──」
そこまで言うと、私の視線は控室前で最後の激励をしているであろう、トレーナーとそのウマ娘達を見やりました。
そこにはスペシャルウィークさん、セイウンスカイさん、キングヘイローさん。学園で見慣れたはずの顔触れがありましたが、その表情は今まで見たことがない程に真剣そのものでした。
皮膚を通して伝わるビリビリとした緊張感。彼女らの周りに纏わりつく、絶対に負けないというオーラ。まだ春も半ばだというに、まるで夏のようにここだけ温度が高く感じた。
「……お前、笑ってるのか?」
私の顔は今、どんな表情だろう──
「……そうかもしれません」
いつもは奥深く押し留めた感情が膨れ上がり、今にも溢れだしそうな感覚が喉元まで押し寄せているのが分かりました。
堪えても口角が上がっていってしまう。
戦いたい。今すぐに──
皆が皆クラシック路線を選んでくれた。宣言通り。
これだけの強豪、揃い踏む年などそうそうない。きっと彼女らならトリプルティアラを制しただろう。あるいは年が違えばクラシック三冠を。
それでも彼女らはここにいる。
そして私はここにいる──
今彼女らと真剣勝負ができるこの瞬間に感謝します。三女神様に、レースの神様に、そして……。
「気合いは十分ってとこだな」
「十二分、です」
私をこの舞台に連れて来てくれたこの方に──
「このレース、勝ったらお前の好きな所に遊びに行こう」
「え?」
耳を疑いました。
失礼ながら、彼からこのような提案をされるなど思ってもみませんでした。トレーナーさんから自発的にこんなお誘いを受けることなど無かったからです。
「……まあ、春休みもずっとトレーニング漬けだったし、朝日杯から色々あったしな……」
驚いてじっと彼の顔を覗き込むと、少し気恥ずかしそうに目を反らして彼は呟くようにそう言いました。
「……お気遣いありがとうございます。約束、ですよ?」
「おらあ!どけどけえ!ゴールドシップ様のお通りだあ!」
後方からゴールドシップさんの姦しい声が聞こえてきました。振り向くと赤い勝負服に身を包んだ芦毛のウマ娘が何かを探すようにせわしなく首を動かしながらこちらに近付いてきます。
「ヒョリガリノッポはどこだあ!卯月賞に出走する前にトゲアリトゲナシトゲトゲのトゲ抜き競争でスコンク決めてやる!」
「卯月賞じゃなくて皐月賞な!それにトゲアリトゲナシトゲトゲを今から捕まえるのは無理だぞ!」
のしのしと歩いてくるゴールドシップさんの後ろから、どこかずれたツッコミをしながら彼女に追いすがるそのトレーナーさんがやってきました。
「お前の勝負服は控え室に届いてるはずだ。体操服のG1優勝者じゃもうないからな」
「あ、はい」
「それと、」
トレーナーさんは私の肩をガシッと掴むと私の瞳を見つめながら問いかけました。
「この皐月賞で勝てる練習はしてきた。必ず勝てる。自分を信じろ!」
彼の褐色の双眸が私を鼓舞させました。
「……はい!グラスワンダー、参ります!」
地下バ道を過ぎ、会場に着くと大地を轟かせるような地響きとともに大歓声が私の鼓膜を刺激します。同時に目を指す太陽の光。一瞬視界が白い閃光に包まれた錯覚を伴い、徐々に世界は形を成して私の前に現れました。
中山競バ場のスタンドを埋め尽くす大勢の人、人、人。波のようにうねる人垣はこの日の勝者を飲み込まんばかりに今か今かと待ち構えているようでした。
『さあ、シンザンに唯一土を着け、レコード記録を出した最強マイラー。マルゼンスキーの再来と称される堂々の二番人気、グラスワンダーの登場です!』
「いけえ!」
「期待してるぞ!」
「シンザンに勝て!」
場内を包んでいた歓声が一際大きくなり怒号のような歓声とともに私の耳に飛び込んできたセリフに自然と体が震えた。
もう一介のウマ娘ではない。皆が私の走りに期待している。私がウマ娘の頂点に近づいている証拠。
血沸く──!
でもまだ足りない。
私は晴天に彩られたパドックに向け、一歩、歩を進める。
私に集まる視線。私にかけられる声援。私にかかる期待。
プレッシャー?それもある。けれどそれ以上に、彼ら、彼女らの期待に応えたい。その思いの方が勝り、一歩踏み出すごとに腹の底が震えるのが分かった。
逸る気持ちを抑え、叉手の形で組んでいた右手を胸の前に持ってくる。まだ走ってもいないのに心臓が躍動し、抑えていないと飛び出しそうな気がした。
「まるで違うね。雰囲気が。これからが本番って感じ?」
パドックの壇上に上がるとセイウンスカイがいつもの飄々とした風にそう問いかけてきた。しかし、彼女が頭上に組んだ腕は小刻みに震え、緊張しているのを隠しているのがすぐに分かった。
「ええ、楽しみです」
「楽しみね。流石グラスちゃん。落ち着いてるね。今度その落ち着かせ方を教えて欲しいなあ」
私は彼女の問いに答えず、自分の定位置に歩を進めました。
落ち着いてる?まさか!早く走りたくて心も体も落ち着かない。こんなこと初めてです。
「グラスちゃん、今回は負けないよ!いい勝負にしようね!」
「こ、こ、このキングの初G1制覇。と、とくとご覧に……」
もう会場の声援もスぺちゃんもキングさんの声も聞こえない。視界さえ、中心以外がぼやけ、最低限の視野しか見えていなかった。私の頭の中には今までトレーナーさんと模索してきたあらゆる状況を想定したレースのイメージが走馬灯のように駆け巡り、私が所定の位置に着くころにはすでに何レースも頭の中で走り終えた後だった。
定位置に着いても頭の中の模擬レースは止むことなく、何度も何度も想像の中で皆を打ち負かした。
「すごい集中力だね」
聞き知った声。気づけば目の前に巨大な何かが私に日陰を作って立っていた。
「驚嘆に値するよ。『これはこう。こうならこう』ってもう君はずっとボクたちと戦ってるのかい?」
ゆっくりと顔を上げ、彼女の不敵な笑みを見やる。
幾度も脳の中でイメージした彼女のその容貌が寸分違わず私の前に現れた。
「独り言を言ってたみたいですね。はしたないところを見られてしまいました」
「何がはしたないものか。君がこれほど真剣にこの勝負に臨んでいるその姿勢こそ、ボクへの褒美以外の何物でもないのだよ。さあやろう。ライバルとして君との決着を着け、どちらが上かはっきりさせよう。その上でボクに負かされた君を迎えよう」
彼女はおもむろに右手を差し出して握手の姿勢をとった。
「……残念ながらその願いは叶いません。なぜなら私が貴女を打ち負かし、勝利するからです」
私は胸を押さえていた右手を差し出し、彼女の手を握りました。不思議と私の体は熱い闘志をその奥に残しながら、頭は平静を取り戻して冷静に会場を見渡す余裕が生まれていました。
中山競バ場を震わす一際大きな歓声が会場を包み込んだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「シンザンとグラスワンダーさんの一騎討ちという雰囲気がありますね」
当然のようにトレーナー特別観客席の俺の横に座る桐生院が話しかけてきた。
「そうでもないですよ。エルコンドルパサーこそ出ていませんが、スペシャルウィーク、セイウンスカイも脅威です。キングヘイローも適正距離的に不安がありますが才能を感じさせますし、ゴールドシップは波が激しいですが、好調の時は誰にも止められない強さがあります。貴女のところのハッピーミークも十分脅威ですよ」
この前の温泉旅館での一件以来桐生院には苦手意識があるが、おくびにも出さずに平静に答える。
「ミークはマイペースなところがありますからねえ。潜在能力は非常に高いんですが、いかんせん競争心が薄くて……。まあ、事実はどうあれ大衆は分かりやすい構図に飛び付きます。この場合はシンザンとグラスワンダーさんとのタイマン勝負。観衆はそれを望んでいます」
「……それは、観客がそれを望んでいるからそういう展開にしろということですか?」
俺は彼女の発言の意図が分からず、思ったことをそのままぶつけてみた。桐生院は黒いボブカットを風に靡かせながらニヤリと不敵に笑うと言葉を続けた。
「ふふ……。まさかまさか。観客の期待を裏切るのも競バの醍醐味です。ただ……」
そこまで言うと彼女は視線をパドックに移し、さらさらと風に髪を撫でられながらその横顔のまま口を開いた。
「大衆の熱気は時としてその者達が望む展開の実現する力になりえるということです」
「……俺はそういうスピリチュアルな考え方は嫌いです。構造的、理論的なものの上に世界は出来てる。人の心理だって同じです。原因があって結果がある。貴女だって会ったこともないアフリカの人にいきなり怒りや恋慕など抱かないでしょう?」
「それは極論ですわ。それに、それなら声援だって同じことでしょう?それでも貴方は朝日杯のグラスワンダーさんへの激励を否定されるつもりですか?」
俺はムッとして口をつむいでしまった。
俺らしくもない様を引き合いに出されて己の意見を否定されるというのも心外だが、同時にあの時の衝動が何だったのか自分の中で納得出来たような気がしてそれをムキになって否定する気にもならなかった。
「そうよ!パッションは大事よ!あなたなかなかいいこと言うじゃない!」
突然、聞き慣れた声が頭上から響き、首を動かして上を見上げると、いつか見た栗毛のスーパーカーが見下ろしていた。
「マルゼン!なんでここに!?」
ざわざわと色めき立つスタンドをよそに、彼女は白いシャツに赤いカーディガンを靡かせながら俺達のところに向かって階段を降りてきた。
「知り合いのトレーナーに会いたいって言ったら一も二もなく通してくれたわ。これが顔パスってやつね。私こんな扱い初めてで興奮しちゃった!」
「あの……伝説のマルゼンスキー、さん?」
隣に座る桐生院は目を白黒させながら驚きの表情でこちらに近付いてくる彼女を目で追っていた。
「隣、いいかしら?」
「ああ、もちろん」
言うがはやいか、マルゼンスキーは俺の座っているところまでくると、桐生院とは反対側の俺の隣の席に自然に座ってしまった。
神出鬼没なところは確かにあったが、まさかトレーナー専用スタンドまで押し掛けてくるとは夢にも思わなかった。
「あ、あの、私、桐生院葵と申します。この度は伝説のスーパーカーことマルゼンスキーさんにお目にかかれて……」
桐生院は立ち上がって深々とお辞儀をする。マルゼンスキーは大袈裟に手を振ってそれを制止しようとした。
「ちょっとちょっと、私そういう堅苦しいの嫌いだわ。それに、伝説ったって今は単なるおばちゃん。日々タイムセールのチラシを見ながら安売り商品を探してるしがない主婦よ?もうちょっと気楽に構えましょ?」
「そんなことより、マルゼンも観戦しにきたのか?それなら普通の観客席でも良かったんじゃ……」
「ご挨拶ね。言ったでしょ?知り合いのトレーナーに会いに来たって。それとグラスちゃんの応援ね。この前会った時はグラスちゃん、すぐ帰っちゃったから。それに……」
そこまで言うと、彼女は翡翠の瞳を僅かに揺らめかせ、憂いを帯びた表情で言葉を詰まらせた。
『さあ、今大会注目の選手、グラスワンダーの入場です!』
会場全体を震わす大歓声を背に、小さな怪物が新しい勝負服に身を包んでその姿を現した。
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青い空を見上げる。
このドレスのように澄み切った青。そこにまばらに彩る白い雲と燦燦と輝く太陽が私たちのレースを見守っていた。
「似合ってるよ!グラスちゃん」
ゲート前。皆目には真剣な色を宿してレースに臨むウマ娘たちをしり目に、彼女は試合前だというのに人懐っこい笑顔を浮かべて私の新調した衣装を褒めてくれた。
「ありがとうございます。スぺちゃんもG1初披露の衣装、素敵ですよ」
「えへへ。ありがと」
そう言ってポリポリと頬をかく彼女の顔は、ここに並み居る強豪を真剣に負かそうというようなそれではなかった。
けれど私はこの緊張感にそぐわない彼女の柔らかな表情に救われたのだ。私がスペシャルウィークに惹かれていた理由がなんとなく分かった気がしました。
「……美しい。実に……」
振り返るといつの間に来ていたのか私の後ろにシンザンさんが感嘆のため息とともに私の衣装を見入っていました。
「楚々とした穢れ無き純白の下地に、内に秘めた触れれば火傷しそうなほど熱く燃える青い炎、そして君が垣間見せる闘志は散りばめられた紅に表現されている。完璧だ……」
恍惚と上から下へ舐め回すように眺める彼女の姿はまるでギリシャの洗練された彫刻を見ているようなそれだった。
「……そんなにまじまじと見られると、照れてしまいます」
「そんな君も実に可愛らしい。まるでターフの片隅に咲いた可憐なる一輪の百合の花のようだ。特にこの耳飾り……」
そう言って彼女は私の右耳に着いた耳飾りに手を伸ばしました。
「…………!」
瞬間、私は身を捩ってその手から逃れました。
「……すいません。これは大切な物なのでちょっと……」
彼女は呆気にとられたように離れた私を目で追っていました。そしてゆらりとその瞳に闘志を宿したかと思うと、ゆっくりと静かに口を開きました。
「……悔しいな。それは誰かの貰い物かい?」
「…………」
「いいだろう。それが誰かは分からないが、この勝負で君に勝って、そんな人のことを忘れさせるぐらいにボクに夢中にさせてあげるさ」
「ふふ……。出来るものならやってみて下さい」
気のせいか、二人の間に見えない火花が散っているような感覚を覚えました。
「悲しいねえ。私達を忘れてすっかり一騎討ちって感じですか」
「この一流を差し置いて優勝争いが出来るなど思わないことね」
「クソデカノッポ、背後には気を付けるんだなあ」
セイウンスカイさん、キングヘイローさん、ゴールドシップさんがゲートに向かいながらそう投げ掛けてきます。
そう、この戦いはシンザンさん一人を抑えればいいというものではない。改めてそれを感じながら彼女らの背中を見て私は想いを昂らせました。
「シンザン……。集中……」
バン!という音とともに背中を叩かれたであろうシンザンさんは驚いた表情で後ろを振り向きました。
長身のシンザンさんの後ろから現れたのは、珍しい白バの可愛らしいウマ娘でした。その娘はそのままスタスタと自分のゲートに入っていってしまいました。
「はは……。ミークには敵わないな」
そうシンザンさんが呟くと場内にアナウンスの声が響き渡りました。
『各バ指定されたゲートに入って下さい』
「シンザンさん、手抜きは無し、ですよ」
「もちろん。それじゃなくちゃ意味がない」
私達は不敵な視線を交わしてどちらともなくゲートへと向かっていった。
聞こえる。皆さんの声が。
ガシャンという音とともに後ろのゲートの扉が閉まる。
隙間から漏れでる光が私の行くべき道を照らしているような気がしました。
瞬間、静寂が訪れる。
視界は前方にある両扉の隙間から差し込む一筋の光だけが見えていた。
極限まで研ぎ澄まされた感覚が刹那を永遠に変える。
ただ一点を見つめ、私はその鉄の扉が開く瞬間を待った。
ゲートがコマ送りのように開くのが分かり、同時に光が溢れだす。
考えるよりも速く、脚が、体が前へ運ばる。
体を切る風の音と同時に突き刺さるような歓声。同時に芝の匂いが鼻をくすぐり、目に刺さる光が視界を白く染め上げた。
徐々に光に慣れいくと、中山競バ場が姿を現す。
どこまでも高い天空。スタンドを埋め尽くす観衆。そして誰もいないターフ──
そう、私の目の前を走るウマ娘は誰もいなかった。
後ろから響くいくつもの蹄鉄の音に今の状況を素早く察知する。完璧と呼べる程のスタートは私を先頭へと運んでいたのだ。
走りながら右後ろを確認すると、内枠から出走したシンザンが内ラチ沿いに疾走している姿を捉えた。
問題ない。このまま作戦通り──
私はゴール板直前の坂路に差し掛かると同時に、シンザンの前につくようにスピードを落とした。坂道でセイウンスカイに抜かされ内ラチに寄られるが、スカイの左後ろに構えてそのままシンザンに追い付かれた。シンザンの前はセイウンスカイで塞がれ、外前は私で塞がれた状態になる。内枠で出走したために外の左側もウマ娘で塞がれる。
いや、これは……。
気付けばシンザンを中心に包囲網が完成していた。
前を私とセイウンスカイが、外をスペシャルウィークとキングヘイロー、後ろをゴールドシップが塞いで完全に逃げ道が無くなっている。他のウマ娘もシンザンのペースに合わせて外を囲んでいた。
やはり皆考えることは同じですか……。
「おらあ!クソデカウマ男!ちんたら走ってんじゃねえぞ!どつくぞおらあ!」
……ゴールドシップさんは違うみたいですが……。どちらにしろ好都合。
「ははっ!いいね!皆して風避けしてくれるのかい?モテルウマ娘はつらいね!」
こんな状況にも関わらず当のシンザンは笑みを浮かべて今の状況を楽しんでいるようでした。
笑っていられるのも今のうちです。私を一瞬でも前に出させたこと、後悔させてあげます。
そのまま坂を抜け、第一コーナーへと入っていく。コーナーで乱れたところを突こうとシンザンが外にふくれてくるが、皆動じずに隙間を閉める。一番抜きたがるであろう私とスカイさんの間を特に気を付け、スカイさんに合わせて体を傾けることに神経を尖らせた。
「…………!やるね……。ならこれはどうかな?」
そのセリフと同時に彼女はすぐ横を並走するスペちゃんとキングさんの隙間に無理矢理体を入れようとした。
「……!!」
「く……!」
このカーブでバランスが保ちにくい上に、ゴールドシップさんを凌ぐパワーで体当たりをされるなど想像したくもない。そもそもスペちゃんとキングさんの外にもウマ娘がいるのだ。下手をすると玉突き事故だってあり得る。いや、それ以上にこんなカーブで体当たりするシンザン自身の方が危険だ。いくらパワーがあるとはいえ、バランスを崩せば自分がウマ娘の下敷きになりかねない。それでもしてくるというのは自分のバランス感覚に絶対の自信を持っている証拠だろう。
「……この一流が崩れるわけないでしょう!」
「開けません!!」
それでもスペシャルウィークもキングヘイローも彼女に外を譲ることはなかった。転倒を恐れて加減したのかもしれない。どちらにしろシンザンの目論見は外れ、そのままコーナーを抜けて向こう正面へと雪崩れ込んでいった。
危ない場面を切り抜け一息入れると前方を見やる。
チラチラと後ろを警戒しつつ前を走るセイウンスカイ。その先一バ身ほど離れてもう一人ウマ娘がいた。さらに私の外、やや前をいくのは白い髪が特徴的なウマ娘。やはりシンザンの脚質自体が逃げに近いためか、レースの中でも前の方を走っているらしかった。
今回は場を乱すのが得意のスカイさんもスピードの緩急はつけない考えみたいですね。
そんなことを思っている矢先、少しずつスカイさんのスピードが落ちるのが分かりました。
何事かと彼女の方を見ると、後ろを警戒しながら私の方に目配せしてきます。
急いでシンザンを確認すると、スカイさんと私とシンザンの間に僅かにスペースが空いていました。
シンザンは獲物を見つけたハンターのごとく、その隙間目指して突っ込んできます。私はすぐにスピードを落として彼女の進路を塞ぎます。同時にキングヘイローが上がってブロックの形を辛うじて保ちました。
それを見ると、すんでのところで彼女は突進を止めて内ラチに沿いながら走り続けます。
あ、危なかった……。わざとスピードを落として前との間隙を作ろうとしたなんて……。
いや、これも想定されうること。気を抜いていた私の落ち度です。ですが結果的に封じ込めは成功。それ自体は良かったのですが…………。
……っ!スピードが…………。
速度が上がらない。シンザンはわざとペースを落としたまま向こう正面を抜けようとしていた。
もうすぐ第三コーナーに入ろうとする中、痺れを切らしたのか、ペースが落ちたことに気付いてないのか、パラパラとシンザンを取り巻く集団からウマ娘達が前方へ散っていくのが確認出来た。
「いいのかい?ライバルはボクだけじゃない。彼女達だって一着を目指してるんだ。このままいったら共倒れだよ!?」
すでに第三コーナーに入ったところで彼女が叫ぶように呼び掛ける。
共倒れと言っているがそんな気はさらさらないはずだ。そうやって問いかけているのが何よりの証拠。彼女の脚ならここからゴールを狙えるということ。だがそんな言葉で動揺を誘うということは彼女も切羽詰まっているということでもある。そしてそれは私自身も同様。何より……。
カーブを曲がりながらキョロキョロと不安気に周りを確認しだすスペシャルウィーク。キングヘイローの顔にも険しい表情が張り付いていた。
シンザンの言っていること自体は間違ってない。だからこそ彼女の揺さぶりは効果てきめんだった。
「ああん?てめえ急にトロくなったと思ったらわざとかよ!ふざけんなよ!だったらお言葉に甘えて一着とってやるよ!」
そう捨て台詞を吐いて後方にいたゴールドシップさんは外から飛び出して行ってしまった。
くっ……!後方が空いてしまった。でも前方を閉めさえすれば…………!!?
前に顔を向けるとセイウンスカイがかなり前を走っているのが分かった。すでにシンザンとの距離は一バ身半ほどである。
そうか……!セイさんは逃げの脚ゆえに爆発的な差し脚が望めない。本来なら誰が相手だろうと先頭を譲るようなことはあってはならない。だからこのマージンの無さは彼女にとっては致命的──
瞬間、内ラチ沿いを走っていたシンザンがさらに内に絞り、私とラチの間を通り抜けようとその豪脚を見せつけた。
させ、ない!
私はギリギリシンザンの前方を塞ぐと後方を確認しつつペースを彼女に合わせた。
スピードを上げたはずのシンザンはすぐに速度を落として機を伺い始める。先頭を走るウマ娘はすでに第四コーナーに入るころだった。
中山の直線は短い……。こんな状況で本当に前を捉えられるの?何より私自身が……。
シンザンを抑えて走るこのやり方は本当に正しいのか……。彼女と並走している私達のやり方に疑念を抱いた一瞬、ずっと私の左斜め前を張り付くように走っていたウマ娘が視線に入った。
この娘は、何故私の前を……?シンザンではなく、私の…………。まるで──
その時、白バの彼女が首をひねり、あからさまにこちらに目線を這わせると、そのままその脚で急激にスピードを上げた。
思い出した……!今大会、いやトゥインクルシリーズを通して初の白バのG1出走者。『白バは走らない』そんな常識を覆して変幻自在の脚質と驚異的な潜在能力で頭角を現した『白い悪魔』。
ハッピーミーク──
閃光のように白い背中が垂れウマを掻き分けターフを切り裂いていく。
それを見た瞬間、私の脚は自然に彼女の後を追いかけていた。
あのままゴールまで行かれたら取り返しがつかない──
脳裏に過る最悪のシナリオが当初の目的を忘れさせた。
ゴウという一陣の風とともに私の背後から巨大な影が迫るのが分かった──
「ははっ!やっと解いてくれたね!ギリギリだ!本当にギリギリ!試合は、レースはこうでなくちゃ!」
一瞬で私の隣に並んできた長身の黒毛のウマ娘、シンザンは額に汗を滲ませながら狂気染みた笑顔を張り付け疾駆していた。
──やられた!
彼女は私が作ったら僅かな綻びから包囲網を掻い潜り、抜け出していた。その巨躯に似合わぬ細身をねじ込んで私とキングヘイローの間を通してきたのだ。
キングヘイローも明らかに反応が鈍い。第四コーナーに入る終盤。シンザンの走りに神経を張りながらの並走ですでにスタミナが切れかけていた。
私とシンザンは並走しながら第四コーナーに入り、スパートへと体勢を整える。
状況は最悪。先頭との差は五バ身。三バ身程先にセイウンスカイ。それを追いかけるゴールドシップ。さらに後ろにハッピーミーク。そして一バ身以上離れて私と野に放たれた怪物、シンザン。
最悪も最悪。けれど──
諦めは、しない!!
第四コーナーも半分を過ぎ、先頭は直線に入る頃、スパートのために脚に力を入れてターフを蹴り上げた。
蹄鉄に食い込む芝と舞い上がる土の臭いが鼻腔を突く。スタンドの歓声が一際大きくなり、ゴールが近いことが否が応でも感じさせられる。
軋む右足を抑えながら疾駆してついにハッピーミークとセイウンスカイに追い付いた。セイウンスカイが内、その外にミークが並んで丁度進路を塞ぐような形になるが、私はハッピーミークの外から無理矢理抜こうとカーブを膨らませた。
内ラチ沿いを走るシンザンはミークとセイさんの壁で前に出られない。少なくとも一歩、いや二歩出遅れる。ここで三人とも置き去りにしてケリを着ける!
カーブの曲線を膨らませながら弱まる遠心力に合わせて速度を上げる。そしていよいよハッピーミークの隣に並ぼうとした時、白毛のウマ娘の半身が私の前を塞いだ。
「……っ!」
そうだ。最初からこのウマ娘は私だけをチェックしていた。一番人気、ジュニア最優秀ウマ娘を警戒するのは当然。しかし、だからといってそのシンザンを下した二番人気の私も警戒されるのは当たり前の帰結なのだ。
そして半身外へ膨らんだミークとセイウンスカイとの間にはその細身を通すには十分な隙間が開く。今の限界に近いセイさんにシンザンを抑えるだけの余力などあるはずない。
────終わる…………。私の皐月賞が…………。
「ミーーーク!!」
突如私の隣を並走していたシンザンが大声で怒鳴った。ハッピーミークはシンザンに視線を向けると何かを感じ取ったのか私のさらに外を走り出し、その塞がれたはずの道を開いた。
何が……?でも今はどうでもいい!
私はすかさずその開けた道を突き進み中山競馬場の最後の直線へと雪崩れ込んだ。
右から「ゼエ……、ケホッ……!」というセイウンスカイの苦し気な息づかいが聞こえ、その芦毛のウマ娘は私達の差し足についていけずに沈んでいくのが分かった。
しかし、未だに右隣には最警戒ウマ娘のシンザン、そして左隣にはハッピーミークがやや後ろを並んでついてくるのが気配で分かる。
第四コーナーが終わり、最後の200m強の残る直線が顔を出す。前方にはゴールドシップともう一人のウマ娘が走っていたがそのウマ娘にもはや坂を上る余力は無く、私達に捕まるのは時間の問題だった。
もうここまでくれば作戦もクソもない。私がここにいてライバルが隣を走っている。遮るものはほぼ無く、力と力の真っ向勝負であることは自明の理だった。
構いません!ここで決着を着ける!最も速いウマ娘の称号をかけて!!
シンザンとほとんど同時にスパートをかけるが、その長身から繰り出される脚力は私を僅かながらに凌駕していた。
観客席からは並走しているようにしか見えなかっただろう。それでも一歩、また一歩と離される、走る者にしか分からない私が感じるその絶望的な音色がターフから響いていた。
まだ坂にも入っていない、200m以上を残して突き付けてくる容赦ない現実。私はそれでも脚を懸命に動かして彼女に追い縋る。
自分の鼓膜を震わす荒い呼吸。
必死に酸素を送り届ける小さな心の臓。
鉛のように重くなった足。
足りない酸素で狭窄する視界。
足が、肺が、心臓が、体が限界が近いとがなりたてる。
それでも私は懸命に脚を出す。その狭い視界を捉える赤いドレス。そしてすぐ隣にある170cmを越えるでかい影。すぐそこにあるようで絶望的に遠いゴール板。
狭い視界の中で先頭を走っていた垂れたウマ娘を追い越したのが分かった。
………………?
……もう一人、いる?
私の視界の左端。シンザンと並んで私の前を走るウマ娘がいるのがボヤけた視界の中で確かに確認出来た。
……どこまで……どこまで私の邪魔をすれば……!
ハッピーミーク!!
白いドレスを靡かせ芝を駆っていくその姿は紛れもなくハッピーミークのそれだった。
すでに残りは200mを切り、高低差2mのキツい坂に入ろうとしていた。
この時点で私はゴールドシップ、シンザン、ハッピーミークに次ぐ四位。優勝どころか三着にも入らない……。
まさかここまで……?
全霊をかけたつもりだった。
作戦は半ば失敗だが、それでも第四コーナーまではシンザンを抑えることには成功した。
でも私のせいでシンザンはフリーになった。
フリーにしていなければシンザン共々共倒れになっていたかもしれない。
それでも頭を過る間違えだったかもしれない一瞬の油断。
私はそのことをこの最後の坂道を前に後悔しかけた……。
否!断じて否!!
間違えとは、後悔とは、負けてこそ顕現するもの!
そんなものは全て結果論だ!
勝つ──!!
勝てば全てが正解になる!
いや、それ以上に、勝ちたい!
ゴールドシップにハッピーミークに、シンザンに!
体が持たない?
追い付く距離が無い?
相手が強すぎる?
全て戯言!!
成せば成る!成せねばならぬ!何事も!
坂に入った瞬間、私はその坂に頭をぶつけるのではと思うほどに上体を倒して地を這うような姿勢を作った。
ピクピクと悲鳴を上げるふくらはぎ。狭い視界に迫る芝の地面。それでも私はこのために鍛え上げた背筋と大腿二頭筋でもって無理矢理この体勢を維持した。
一層大きくなる風の音。ターフを蹴る自分の足音が近いことがすぐに分かった。
視界からは白い影も黒い影も消え去り、青い芝とゴールドシップがターフ蹴り上げる足元だけが目に入った。
追い付く──!追い越す──!!
残り80m。
私は全身から力をふり絞り、脇目も振らずに坂を駆け上がった。
全身が悲鳴を上げ、爆発しそうな心臓の音しか聞こえなくなった。
坂の半ばでゴールドシップの足元に追い付き、その姿は視界から消えていった。
同時に狭窄した目に写る壁のような激坂は沈み、平坦となったそのゴールラインが私を待ち構えていた。
ギシギシと耳に戦慄く右足に力を入れて最後の数十メートルを一気に駆け抜けようと力を入れる。
シンザンも、ハッピーミークも、ゴールドシップもどれ程前にいるのか、あるいは後ろにいるのか分からない。ただ視界には入らない程の僅差であることは確かだった。
勝つ!勝つ!!勝つ────!!!
私が欲しいのは勝利!勝利だけ!!
いよいよ高低差2mの坂が終わりを迎え、残り30mを切ろうとしていた。
この超前傾のまま、行く!そうしなければ、勝てない!!
私は最後の力を使ってあと数歩のために最早感覚の無い脚に力を込めた。
ボキンッ──!!
何か太い枝が折れるような音。
同時に私の視界は右に沈みかける。
体をひねり、すんでのところで転倒を回避した私は左足を地面に着けて蹴った。
宙を舞う体。私の全身は紛れもなく前へ進んでいた。
ゴールが近付き、地鳴りのような大歓声が耳をつんざくのが今さらになって知覚した。
左手を前に出し、右手を後に引いて右足を着地させる体勢を作る。
──何か、おかしい……。
右足の感覚が無い。いや、もう大分前から感覚は薄いが、まるで膝下から足先まで取れてしまったような錯覚に陥った。
関係ない……!あと二歩だ!!
私は右足をターフに接した。
同時に地面が崩れるような感覚と先程と同じように右に傾く視界。
…………は?
急激に落ちるスピード。悲鳴のような観衆の声。
それでも私は再度体をひねり、無理矢理体勢を戻した。
しかし、もうそれは超前傾姿勢とは違うランニングのようなそれだった。
左足を蹴る瞬間に視界を捉える巨大な影。
その影が庇う右足で地面に着く刹那に、私の目の前、四分の一バ身の差を着けてゴールラインを切るのが見えた。
直後、私は引きずる右足を投げ出して無理矢理右の爪先をゴールラインに乗せた──