『──307号室に来てください。お手数おかけします。』
ウマホの画面に表示された文章をまじまじと見つめ、当の病院の前に来た。
まだ朝早いためか人気は少なく、年配のウマ娘がちらほらと待合所の長椅子に座っているだけだった。朝の日差しが閑散な病院を照らし出し、その掃除の行き届いた白い床を寂しげに浮き立たせていた。
「307号室、グラスワンダー様との面会ですね?」
「……ハイ……」
快活な受付の声とは裏腹に、口から出るのはいつもとは違う、少し低めの真剣な声色だった。
「特に制限などはありませんのでご自由に面会下さい。ただ六人部屋ですので他のウマ娘のご迷惑にならないようお願いいたします」
考えてみれば当たり前のことだ。グラスは足を骨折しただけで、集中治療室に入れられているわけでもなんでもない。それでもウマ娘にとっての足、それもトゥインクルシリーズを現役で走っている者のそれはあまりにも痛手が過ぎる現実だった。それを認めたくないからだろうか、わざわざ受付で確認をとったのは。
本当に入院してる……。
307号室に続く階段を踏みしめる度に湧き上がる暗鬱な気持ちに押しつぶされそうになりながら、重い足を重力に逆らい天に向かって押し出すのは彼女にとって酷く残酷に思えた。
一緒に戦いたかった……。
皐月賞を獲った彼女なら十分すぎるほど資格があるはずだった。日本ダービー、あるいはNHKマイル、安田記念、宝塚。
一度痛い目を見ても、それでもあの栗毛の怪物と共に走りぬきたい。どんな結果になったとしても。そんな思いが巡り、気が付くとすでにグラスワンダーがいるはずの病室の前に立っていた。
病室に扉は無く、開放的に大きく仕切られた入口の先には左右に整然と並べられたベッドとそれを隠すカーテンのみ。中を一瞥するが、栗毛のウマ娘の姿は確認できず、一番奥の右手のベッドに一人、コップを片手に腰掛けながら窓を眺めるウマ娘がいるのみだった。
「ありがとう。よく来てくれたわ」
意を決し、一歩その中に踏み出そうとした瞬間、一番手前のカーテンに仕切られたベッドから聞きなじんだ彼女の声が響いてきた。
「足音で分かったわ。流石に、一緒に住んでいるとそんなところも覚えているものね」
何も言えず、入口でたたずんでいると、さらにカーテンの奥から声がかかり、ゆっくりとその帳が色白い細い手で取り除かれた。
「折り入って頼みがあるの。聞いてくれるわよね?エル」
朝日に照らされた彼女の姿はあまりに美しく、それでいて有無を言わせぬ雰囲気があった。そしてあのレース前に見せる青い決意が静かに、ゆらりと瞳の奥で揺らいだのがエルコンドルパサーの目は確かにとらえていた。
世界最強を自称する怪鳥はゴクリと一つ生唾を飲み込み、床に張り付いたその足をゆっくりと剥がして怪物のテリトリーに入っていった。
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「グラスちゃんがいないってなんでさ!?」
病院中に響き渡る大声でわななく大男……いや、ウマ娘が一人、受付で騒いでいるのが遠目からでも見てとれた。
朝一番で乗り込んだつもりだったが、病院内にはすでに多くの年配の方々が座って雑談していた。当然受付にも多くの人が並び、いつ自分の番がくるのか検討もつかない状態だった。
俺は気が進まないながらも彼女の目的を察し、受付に並んでいる人達を横目にその騒音の元に近づいていった。
「なんでお前がここにいるんだ?」
その大柄なウマ娘は驚いたように振り向くと、少しムッとしたような顔で俺の方に逆に問いただしてきた。
「……トレーナーさんこそ、どの面下げて来たんですか?グラスちゃんにどう言い訳するつもりですか?」
じっと見下ろすシンザンの瞳には明らかに敵意がこもっていた。例のおっさんから聞いたのであろう、中山競バ場の一件でのことは知られているようだった。
俺は何か言い返そうと口を開きかけたが、返す言葉もなくそのまま口を閉じてしまった。
「……何も言い返せませんか。ここに現れたからにはそれなりの覚悟で来たのだと思ったのですが……。残念です」
「あのー、それでですね……」
おずおずとシンザンの後ろから女性の声がかかる。見ると、カウンターの向こうから眼鏡をかけた受付嬢がこちらを伺うように覗いていた。
「ああそうそう!グラスちゃんだよ!『グラスワンダー』って名前のウマ娘!ここに運ばれてるはずなんだよ!本当にいないの?」
こちらにはお構い無しに、今度はカウンターの方に向き直ってシンザンは畳み掛けるように受付の人に問いただした。係の人は困惑気味にパソコンの画面をちらと覗き見るが、すぐに意外な言葉を投げ掛けてきた。
「『グラスワンダー』という名前の方はヒトもウマ娘も含めて入院しておりません。入院先をお間違えではないでしょうか?」
耳を疑った。
すぐにガラケーを開いて位置情報を確認するが、確かに自分は教えてもらったはずの◯◯病院にいた。受付のカウンターにも『◯◯総合病院受付』とデカデカと書かれているのを確認する。
どういうことだ?あのおっさんがいい加減なことを教えたのか?いや、中山競馬場から一番近いでかい病院は確かにここだ。それにシンザンも同じ目的でここに来てるのだから、グラスの搬送先に◯◯病院が絡んでいることは確かなはずだ。
「そんなはずはない。昨日の昼頃、栗毛で長髪のウマ娘が右足骨折で搬送されたはずだ」
たまらず横やりを入れる形で問い詰めるが、受付嬢は困ったような表情で応答してきた。
「そう言われましても……。そのような特徴のウマ娘が入院していないのは確かです。考えられるとしたら、ウマ娘専門の病院に搬送され直されたかですかね。ウマ娘の足は繊細なのでその可能性は高いかと……」
「だったらさっさと調べろ!こっちは急いでんだよ!」
受付の女性はヒッ……!と軽く悲鳴を上げるとカタカタとキーボードをうち始めた。
「ちょ、ちょっと落ち着いて下さいよ。周りの人達も見てるんですよ?」
思わずシンザンがたしなめるが、今まで散々騒いでたこいつに言われたくないと、心の中で一人愚痴た。
周囲の患者達もザワザワと騒ぎたてるが知ったことではない。
受付の女は半分涙目になりながらパソコンを操作していたが、その手をはたと止めると、こちらの顔色を伺うようにおどおどした口調で質問してきた。
「あ、あの、どちらか片方でいいのですが、身分を証明するものを何かお持ちではないでしょうか?」
ということは該当する情報があったということか。
「グラスワンダーは俺の教え子だ。それでいいだろう?」
「あ、あの、口頭でおっしゃられても対応出来かねます。何かそれを証明するものは……?」
くそ!面倒くせえ……!
思い立つまま飛び出てしまったので、身分証どころかトレーナーバッジすら着けてこなかったことを後悔した。
「ほら!これでいいだろう!?」
バシッ!と叩きつけるようにカウンターに置いたのは車の免許証だった。しかし、眼鏡の女は訝しむようにそれを眺めると、またも同じような
「大変申し訳ありませんが、免許証を提示されましても当患者の関係者と確認とれませんので、他に何か……」
「いいから教えろ!俺はあいつのト…………」
…………………………
…………………
…………
「と……?」
「カブラギさん、あんまり荒立てないで下さいよ!追い出されちゃいますよ!……カブラギさん……?」
耳の奧がキーンと鳴る。一瞬平衡感覚を失い、よろめいた。
目の前が白くなる感覚と同時に吐き気を催すが辛うじて堪えた。
オレは……俺は…………。
「いいからさっさと搬送先を教えろ!!!」
俺は掴みかからんばかりに眼鏡の女に顔を近づけると、手を伸ばしてパソコンの画面を無理やり見えるように引き寄せようとした。
「やめて下さい!他の患者に迷惑ですぅ!!」
「カブラギさん!落ち着いて下さい!本当に捕まりますよ!!」
騒然となる院内。羽交い絞めにして俺を止めるシンザン。泣き叫ぶ受付。
騒ぎを聞きつけて警備の人がこちらに駆け寄ってきていた。
「はい……。はい……。今後このようなことがないようしっかり指導して下さい。天下のトレセン学園の名に傷がつきますよ。それでは失礼いたします」
手に持っていたウマホの画面を押し、男は一つため息を吐いた。そしてその男は窮屈そうなスーツに身を包んだその筋肉質な体を揺すりながらこちらに近づいてきた。
広々とした空間に院長の名札が立てられた大きめの机と椅子。その奥の全面ガラス張りの窓から差し込む日の光が電気をつけていない広い部屋を明るくしていた。
俺とシンザンはソファーに座らされ、院長室で処遇の裁定を待っていた。俺の隣では俺より背の高いはずのウマ娘が縮こまって、「なんでボクまで……」「また葵ちゃんに怒られる……」などと、出されたお茶に口もつけず不平をぶつぶつと呟いていた。
男は目の前のソファーの席に座ると呆れたような顔で俺とシンザンを交互に見やり口を開いた。
「まさか本当にトレセン学園のトレーナーだったとは……。うちの職員が失礼をしましたね」
口調は穏やかだったが表情はいまだに信じられないといったようなそれだった。
「……こちらこそ、院長様直々にお出ましになるほど騒ぎを大きくしてしまって申し訳ありません」
俺は湯飲みに残っていた高級茶葉を使用したであろう煎茶を飲み干すと、グラスの淹れた茶の方が美味いななどと思いながら、散々待たされた間に考えておいたセリフを放った。
「なに、たまたま今日は出勤していただけですよ。それにグラスワンダーさんのトレーナーなら一度お会いしたいと思いましてね。まあ正確にはグラスワンダーさん本人に、ですが。私も競バの熱狂的なファンなんですよ」
そこまで言うと、男は俺の隣に座るウマ娘の方に視線を泳がせた。
シンザンは聞いているのかいないのか、心ここにあらずといった風にガラス張りの外の景色を眺めていた。
「……あのグラスワンダーと死闘を繰り広げたウマ娘、シンザンさん、でよろしいですね?」
「え?あ、はい。えと、ボクに何か用でしょうか?」
シンザンは今気付いたかのように向き直ると、やや緊張したような面持ちで受け答えた。
「一つは礼を。あの中学ジュニア最優秀ウマ娘に間近でお会い出来たのだから。サインの一つも欲しいところだが、生憎色紙が無くてね。せめて握手ぐらいは叶うかな?」
そう言うと、ゴツゴツとした大きな手をシンザンの前に差し出す。彼女は恐る恐るといった感じで軽く院長の手を握りしめた。
「それともう一つ。これはお節介かもしれないが、生体工学を学んできた者として言わせてもらえば、君はまだまだ速く走れる。これからの君の走りに期待しているよ」
「あ、ありがとうございます……」
「それより、申し訳ないんだがこっちは急いでるんですよ。グラスワンダーの搬送先を教えてくれますかね?」
「ああそうそう。理事長から言伝てがありましてね。『今すぐ学園に帰って来い!これは理事長命令だ!』とのことなんですが……」
男は握っていたその手をほどくと、にやりと一つ笑みを浮かべてその言葉を言い渡した。
流石の俺も今回は他所様に迷惑をかけてるだけあってそう強気には出れず、若干の反省を交えながら苦々しく黙るしかなかった。
「まあ、私はカブラギさんを信頼して学園に送り出したということで構いません」
「チッ……!流石に頭上がらんな。申し訳ないが甘えさせてもらう」
こちらの意図を汲み取ったのか、院長は机のところまで行き、パソコンを弄ると画面を見ながら口を開いた。
「グラスワンダーの担当トレーナーとして、『一応』搬送先を教えておきます。グラスワンダーさんはウマ娘専門の✕✕病院に搬送されています。また『後日』にでも来院してはいかがですか?」
「考えておきます。情報ありがとうございました。またご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。これにて失礼させて頂きます。それでは」
俺は茶番を終えると、ソファーから立ち上がってさっさと院長室から出ていった。「ちょっと待って下さいよ!」と声が聞こえ、後ろから足音があわてて追いかけてきた。
「本当にこのまま帰るんですか?せっかくグラスちゃんの入院先分かったのに……」
どうやら足の速さは郡を抜く才能はあっても頭の回転は速くないらしい。何も分かっていないウマ娘はウマホを取り出してカタカタと操作しながら俺に着いてきた。どうやら✕✕病院を検索しているらしい。
ウマホ……?…………バ鹿か俺は!
俺はとっさにポケットからガラケーを取り出して電話帳からグラスワンダーの連絡先を探そうとした。
「な…………!?」
何十件もの着信履歴。それも当のグラスワンダーからのものだった。
俺がこの病院に着いてから幾度となくかけられたスーパーサイレントモードの電話は全て不在着信の表記を示していた。
あわてて折り返しの電話をいれようとした瞬間、手に持ったガラケーが音もなく着信ありの画面に切り替わった。
液晶には受話器の表記、そしてグラスワンダーの文字が画面の端から端に大きく表示されていた。
俺は素早くボタンを押すとすぐに耳に当て謝罪の言葉を口にしようとした。
「……トレーナー……。カブラギ、サン……?グラス……、グラスが…………」
しかし、それよりも早く電話の向こうから聞こえてきた声は担当バのものとは違うものだった──
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「本当にいいのね?」
彼女は高層ビルを縫うように敷かれた車道を睨んだままそう聞いてきた。
朝の通勤ラッシュだろうか。車道に車が敷き詰められ、せっかくの赤いスポーツカーは窮屈そうに軽自動車の後ろを追いかけるだけだった。
私は一つため息をつき、一向に鎮まらない鼓動を抑えながら彼女の質問に答えた。
「決めた……ことですから……」
震える声で絞り出したその回答に自分自身が未だに驚いていた。
理論、理屈ではない。どんな形でも彼と元通りに、トレーナーとその担当という関係に戻れる自信が無かった。かといって一度決めた、それも無理を通してまで半ば学園に引き留めるような形で迎えたトレーナーさんを契約破棄するようなことなど、私の矜持が許さなかった。
震える手を押さえながら流れていく自動車を眺める。彼の車が通らないか自然と目で探している自分が嫌だった。
ギプスを着けたままの右足は思ったほど痛みはなかった。狭いスポーツカーを占領しないよう、ドアとシートの間に挟むように立て掛けた松葉杖がカタカタとその窮屈さに文句をたてていた。
「もっと選択肢はあったんじゃないかしら?」
何度目かになる信号待ちの時、運転席に座るマルゼンスキーはこちらを見ずに言い聞かすように口を開いた。
「あったかもしれない。無かったかもしれない。……でももう決めてしまったんです。一度決めたら後には引けない。それが私の生き方なんです」
信号が青になり、私を乗せたスポーツカーは爆音とともに急加速した。周りの車はいつの間にか少なくなり、同時にビルに溢れた建物も一軒家が目立つようになっているのが分かった。
「……不器用ね。彼のそれとは毛色が違うけど、同じくらいとっても不器用……」
今日会ってから初めて顔を緩めると、彼女は諦めたような懐かしいような、なんとも言えない柔らかな口調でそう答えた。
不器用──
確かにその通りだ。
あの非道を笑い飛ばして無かったことにする器量も無ければ、面と向かって喧嘩する勇気もない。
私の取った選択は酷く面倒で不恰好。ややもすれば逃げているようにも見える。
それでも私はこの選択を選んだ。
それがトレーナーさんのためにもなると信じて──
ズボンのポケットからほんのり煙草の匂いが私の鼻をくすぐった。
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駐車場に車を雑に停め、俺は空港のフロントへと駆けていった。
フロントで入場券を買い、検査場に直行する。平日だからかほとんど列はなく、すぐに入れたのは幸いだった。
検査のために外したズボンのベルトを付け直すのもまどろっこしく、中途半端に腰にまいたままで駆け出した。
出発便の掲示板を見ながら、殆ど勘でグラスが乗るであろう飛行便の搭乗口に向かっていった。
息を切らし、四月だというのに汗を大量にかきながら死に物狂いで走る。着ていたスーツが邪魔で道端に脱ぎ去り、右足に走る激痛に耐えながら人の少ない通路を疾駆した。
動け!動けよ俺の足!今動かなかったらいつ動かすんだ!!
思い通りにならぬ足をそれでも懸命に動かした。上がりきらない腿を叱咤し、右足を引きずるような恰好には辛うじてならなかった。激しい痛みと引き換えに。
ケンタッキー国際空港直通便。その搭乗口の前に白い服を着た栗毛のウマ娘を確認し、俺は人目もはばからず思わず声を上げていた。
「グラスワンダー!!」
声をかけられたウマ娘はゆっくりとこちらの方に振り向いた。
足をゆるめ近づいていくと、彼女のディテールがはっきりとしてきた。整った顔に少し深めのほうれい線が刻まれ、その表情は物悲しそうな顔で何かを訴えかけてきていた。長い栗毛の髪は緩くウェーブがかかり、振り向くと同時にファサりとその肩にかかる。そして彼女のその瞳には、涙をこらえて酷く辛そうに何かに耐え、エメラルドのように碧に反射してキラキラと瞬いていた。
「……マル……ゼン…………」
俺が力なく呼びかけると、マルゼンスキーは目に溜まった涙をぬぐい、大きなガラス窓でしきられた滑走路の先を見つめた。
「……一歩、遅かったわ……」
遅かった?……オソカッタ……?何が…………?
言わんとしていることは頭では分かった。なのに心が追い付かず、必死にその言葉を否定しようとしている自分がいた。
「……見て」
目の前のウマ娘は滑走路を見つめたままその先をおもむろに指さした。
その先には今まさに飛び立った一つの飛行機があった。雲一つない快晴の空を目指して上昇していくその人工鳥はまるで重力という足かせを解かれて祝福を受けているように見えた。
「…………おい……まさか……」
ガクガクとうるさい右足の震えが体中に広がる感覚と共に、全身から力が急激に抜けていくのが分かった。
とても立っていることが出来ずに俺は情けなく良く磨かれたフローリングの上にへたれこんでしまった。
そんな俺を無敗のスーパーカーは俺のそばにしゃがみ込むと、労わるような眼差しを向けて口を開こうとした。
「……お前が、連れてきたのか?」
無機質で冷たい床に視線を泳がせながら俺は短くそう問いた。
その声色はまるで感情がなく、抑揚のないものだった。事実、その時の俺は怒りも悲しみも一切の感情も湧かず、中身はがらんどうのガラクタだった。
「………………そうよ」
静かに、そして突き放すようにかつての相棒は言いはなった。まるで他人事のように。
「…………なんで……っ」
それ以上言葉は出なかった。
空っぽになった俺の中に洪水のように想いが溢れてきてぐちゃぐちゃになっていた。
なんでグラスは帰った?なんで連絡をしてくれなかった?なんでマルゼンは彼女を止めてくれなかった?グラスは俺を許してくれなかったのか?理事長に捕まらなければ。病院で騒ぎを起こさなければ。もっと早く連絡出来ていれば。俺がもう少し早く空港に着いていれば。
溢れる想いは纏まらず、濁流のように容赦なく自分に牙を向いた。反対に感情は沸いてこず、ただただ呆然と脱力していた。
「……あんたが!あんたグラスちゃんのトレーナーだろ!それを…………!」
誰かが乱暴に俺の胸ぐらを掴んで無理矢理立たせた。
焦点が合わず、ぼんやりとどこかで見た顔のシルエットが浮かび上がるだけだった。
足は文字通り地に着かず、爪先だけがなめるように床を這うが、掴んだ当人は怪力で俺の体重を持ち上げていた。そいつが激しく揺さぶる度に白いシャツがビリビリと悲鳴をあげて破れていくのだけは何故だかはっきり分かった。
急にガクンと力が抜ける感覚と同時に俺は床に投げ出された。
目の前には床に這いつくばりながら拳で床を叩く黒鹿毛のウマ娘の頭が見えた。
「グラスは?グラスはどうなったデスか!?」
睨んでいた酷く重い足元から視線を上げると、俺の停めた車の側にマスクをしたウマ娘が心配そうに佇んでいるのが分かった。その隣にはそのウマ娘の担当トレーナー、金元が無表情で睨んでいる。
「…………………」
「……行ってしまったわ。彼女の故郷へ」
何も言わぬ俺の代わりにマルゼンスキーが口を開いてただそれだけを語った。何故この女だけが平然としていられるのか俺には全く理解出来なかった。
「……正直、ぶん殴ってやりたい気分ですよ。こんなのがグラスワンダーのトレーナーだなんて認めたくない」
横にいたシンザンが吐き捨てるように毒づいた。俺はそんな彼女を見ることも出来ずに情けなく俯いていた。
「……俺はもうグラスのトレーナーではいられない。トレーナーと担当ウマ娘が二週間以上活動していないと自動的に契約は破棄される。それ以上にグラスが俺を拒むだろう。……もし日本に帰ってきたら金元、お前が……」
そこまで言って顔を上げる。当の金元はこちらに真っ直ぐに歩いてきたかと思うと、その巨体から腕を振り上げ俺の顔を殴りつけた。
「お前はグラスワンダーの担当トレーナーだ!!」
鈍い音と同時に頬に痛みが走り、駐車場一体に響く張り裂けんばかりの大声が一帯を支配した。
「誰がなんと言おうと、たとえお前自身が否定しようとグラスワンダーの担当トレーナーはお前だ!カブラギィ!!」
俺は破れたシャツの襟元を捕まれ、倒れることさえ許されない状況で金元の怒声をもろに浴びていた。
鼓膜をつんざく大声と煮えたぎったような憤怒の表情をした金元の顔が眼前に迫り、俺の世界はやつに全て支配されたような気がした。
「グラスワンダーを導けるのはお前だけだ!他の誰でもない!グラスワンダーが唯一受け入れたお前だけだ!お前が導いてやらなければ彼女のバ生はどうなる!?またリトルココンのような目に合わせたいのか!?」
……ココン……?
ぼんやりと尾花鹿毛のウマ娘の笑顔が脳裏を過った。
「……このクソが!俺が出来ることはここまでだ。マルゼンさん、こいつを頼みます。必ずグラスワンダーを連れ帰らせて下さい」
そう言うと、肩をいからせながら俺の車の隣に停めたバンに乗り込みエンジンをかけた。
「エル、帰るぞ。シンザン、東京に帰りたかったら一緒に乗ってけ」
シンザンは俺の方を一睨みすると何も言わずに金元のバンの後部座席に入っていった。
「あ、あの、これ……。グラス、からのデス。トレーナーさんにって……」
エルコンドルパサーから差し出されたのは封筒に入った手紙のようだった。
「………………」
「……預かっておくわ。ありがとうエルちゃん」
受けとる気力もなく、呆然と封筒を見ていると横から手が伸びてそれを取っていった。
金元の催促でバンにあわてて入っていくエルを見ながらぼんやりと頭に浮かんだのはグラスワンダーが涙を流しながら病室で手紙を書く姿だった。