助手席で揺れの激しい車体に身を委ねていた。
車窓から漏れる夕日が俺の顔を容赦なく熱線で焼き付ける。殴られた左頬からの血の味と鉄の臭いが未だに俺を苦しめながら、これが現実であるとしかりつけてきた。
だが俺はもう何もかもがどうでもよくなっていた。
結局俺はトレーナー人生の晩節を汚し、いや、もはや人として最低なクソ野郎としてトレセン学園から去ることになるのだ。
それは構わない。
元々、グラスが担当になるまでそのつもりだったのだ。
だが残されたグラスワンダーはどうなる?
アメリカに渡って消息が分からない。まともに歩けないようなあんな状態で。携帯も日本に置いてきてしまった。このまま帰らない気なのか?
アメリカでウマ娘の学校に入る気か?だがアメリカの主戦はダートだ。グラスの目指すウマ娘の頂点は限りなく不可能。あるいはイギリスやフランスに行くのか……。
エルコンドルパサーから渡された未開封の手紙を見つめながら俺はそんな無駄なことを考えていた。
車内の二人に会話はなく、けたたましく鳴り響くエンジン音だけが耳に残っていた。
「さあ着いたわ!」
いつの間にかマルゼンのスーパーカーは停車し、その鳴りを潜めていた。俺がどこに連れてこられたのか見当もつかなかった。興味もなかった。
「君も降りるのよ!いい加減にしないと流石の私も激おこプンプン丸よ!」
助手席のドアが開くと同時に彼女は少し怒ったような口調でそう言い始める。
強い風が車内に流れ込み、潮の匂いが俺の意識を車外に向けさせた。
強い夕日が瞳に刺さり、思わず目を細める。
浜辺に打ち寄せるさざ波とウミネコの鳴き声が俺達しかいない海岸に響き、海からの一際強い風が振り向いた彼女の髪を靡かせた。
柔和な笑顔で佇む栗毛のスーパーカーは、車内で呆けている俺に向かって早く降りてきなさいと訴えかけているのが容易に理解出来た。
シートにくっついたのではないかと思わせたその腰は意外にもすんなりと持ち上がり、俺の足は彼女の赴くまま、その背中を追いかけていた。
ジャリジャリと浜辺を歩く度、無遠慮に革靴の中に砂が入るのが分かった。海から来る風は四月だというのに冷たい空気を容赦なく頬を叩きつけ、クセの強い前髪をかきあげる。バタバタと手に持ったままの封筒が風が吹く度に音をたてた。
「ふふっ……。そうやって前髪上がってると昔の君を見てるみたい」
彼女は昔と変わらぬ笑顔を向けて、今の俺におどけてみせた。
「……どうして、グラスを止めてくれなかったんだ?」
「あの子がそれを望んだから。……それじゃダメ?」
夕日にうつる彼女の顔は、俺が恋い焦がれた昔のそれとほとんど変わっていなかった。
「……納得出来ない」
「……『私の知ってる』貴方ならきっとそうするだろうと思って……」
「…………………………」
一際強い風が彼女の髪をいたずらに靡かせ、顔にかかったそれをかきあげた。
「……ねえ、この浜辺見覚えない?」
唐突な質問を疑問に感じることもなく、俺は感情のない機械のように辺りを見渡す。
ふと、視線の先、浜辺の向こうに崖があり、その波が打ち付ける崖の上には年末に泊まったホテルが建っていた。
俺の中でかつての記憶が蘇る──
朝陽の中に浜辺に座る俺とウマ娘。
あの瞬間、俺はトレーナーではなかった。
強がりを解いて弱味を見せるか弱い一人のヒト。
隣で海を見やる栗毛のウマ娘。
俺の目には自分を救ってくれる女神のように見えた。
過去に囚われ、過去に溺れ、過去にすがる弱い自分を。
嫌いなのにそれでいて居心地のいい過去から甘ったれた俺を引きずり出してくれる、そんなウマ娘が隣にいた気がした。
風に靡くその髪は朝陽に照らされ金色に輝いていた。青い瞳に絹のような肌。水々しい唇が動く度にその口から白い吐息が漏れて幻想的ともいえる彼女の顔を一層際立たせた。
「トレーナーさん。私でよければ支えになります。皆弱いんですから、支え合うんです。恥ずかしいことじゃありません。ヒトもウマ娘もそうやって生きてきたんですから」
あの日言われた言葉。俺は真剣に受け止めていただろうか?
『本当に弱い人は自分の弱さと向き合わない人です。だから、貴方は弱くなんかありません』
もしも、今の俺の弱さをグラスに伝えていたらこんなことには────
瞬間、一際大きな風が吹き、未開封の封筒を俺の手から奪って空に舞い上げた。
蝶のようにヒラヒラ舞う便箋はマルゼンの足元に落ちて砂に被れた。彼女は打ち寄せる波に濡らされぬよう、すぐに拾いあげると砂を払い、俺に近寄ってその封筒を突き出した。
「ここね、トレーナー君とグラスちゃんの特別な場所だって聞いたの。でも貴方の右足で走るには少し無謀過ぎるかな?」
そうだ。マルゼンスキーに俺は何一つ隠し事などしなかった。足のことも。そんなことをする必要がなかった。
俺とマルゼンは本当の意味で相棒で、だからありのままの自分をさらけ出せた。
──いつからだ?
『トレーナー』と『担当ウマ娘』などという立場で壁を作ったのは……。
──いつからだ?
『クラシック三冠ウマ娘を育て上げる。俺にはそれが出来る』などという不遜な自信と犬も食わぬクソみたいなプライドが出来たのは……。
俺は真剣にグラスワンダーと向き合っていたか──?
俺はマルゼンスキーが手にした封筒に目をやり、ゆっくりとそれに手を伸ばした。
「……ちゃんと読んであげなさい。あの娘の気持ちを受け止めて……」
震える手で封を破り、綺麗に折り畳まれた便箋を取り出した。水平線に消えゆく太陽の光に目を細めながら俺はその美しい筆跡を辿っていった。
『トレーナーさんへ──
この手紙を読んでいるということは私、グラスワンダーはもう日本にはいないでしょう。大変身勝手なのは重々承知致しております。ご迷惑をかけたことも。
ただ、私はトレーナーさんを恨んでなどいません。選抜レースで勝たせてくれたのも、メイクデビュー後に支えてくれたのも、朝日杯、皐月賞に勝たせてくれたのも全てトレーナーさんのおかげだと感謝してもし切れません。そしてその想いは今も、そしてこれからも変わらないでしょう。
それでも、私は貴方の期待に応えるウマ娘にはなれそうにありません。一生に一度、ダービーの舞台に立てるはずだったその機会を、私の勝手な判断で失くしてしまったのですから。
トレーナーさんが夢見るクラシック三冠を制覇するウマ娘になれなかったこと、悔やんでも悔やみきれません。
そして私は情けなくも弱いウマ娘でした。私は自分で担当に引き込んだトレーナーさんに、自分の口から契約破棄を言い出す勇気もなく、アメリカに逃げてしまいました。
侮辱して構いません。軽蔑してくれて構いません。
それでも一つだけ約束して下さい。必ずウマ娘界の頂点に立つ競争バを育て上げると。決してトレーナーを引退しないと。
私の願いはそれだけです。
最後に短歌をお送りいたします。お身体に気を付けて。トレーナーさんの前途に幸あることをお祈りしています。
──────グラスワンダーより』
いつの間にか手紙がぶるぶると震えているのが分かった。同時に紙の上に雫が落ちて染みを作っていることも。
違う!違うんだグラスワンダー!!
心の中で必死に叫ぶが、震える唇がそれを声にすることを拒んだ。
ボヤけた視界の中に綺麗な女の手が映る。その手の上にはくしゃくしゃになったタバコの箱が乗っていた。
「グラスちゃんから私達に。トレーナー君と私の大切なものだから返さなきゃって。私が引退する時、カブラギ君にあげた形見。忘れてないわよね?」
いつだって側にあった。
マルゼンが隣にいて欲しい時、必ず俺の懐にあった。
俺を導いてくれるような気がして。
けど────
「……悪い。マルゼン……」
俺は手のひらから乱暴に奪い取ると力任せに海に投げつけた。
手の中でぐしゃぐしゃに丸まったマルボロの箱は風に負けず海の上に落ちると、波にさらわれすぐに見えなくなっていった。
「……おめでとう。カブラギ君……」
寂しくも少し嬉しそうなマルゼンスキーのその翡翠の瞳は夕陽に照らされキラキラと輝いて見えた。
乱暴に開け放たれるドアと男が入ってくるのは同時だった。
幼い少女が驚きの表情とともにその男を確認すると、すぐに口を開いて部屋中に響く大声で怒鳴り出した。
「憤怒!!どこをほっつき歩いてたんだこのバカもん!覚悟は出来てるんだ……」
「理事長、取り引きだ」
暗く、そして冷たい決意を帯びた低い声が男の口から静かに漏れた──