不器用な彼と慣れない私
(グラス……)
誰かが私を呼んだような気がした。
淀んだ澱の底に沈む意識の中から救いとる声。
それでも私は上も下も分からぬようなフワフワした感覚に虜だった。
……やめて。私はまだここにいたい……。
小さい頃、母親に抱かれていた時のような安心感……。
それでもたゆたう意識の中から引きずりだすように、私の耳から聞き慣れた声が侵入した。
「グラス!」
背中を突っつかれたと同時に私の耳元でエルの声が響いた。
(グラス次当たりますデエス)
ヒトの耳には聞こえない声量で私の真後ろにいるエルコンドルパサーが囁いた。ペンでつついたであろう背中にじんわりとした痛みが残る。
見ると私の前の席の人が先生に当てられていました。
(ありがとうございます。エル)
こちらもやっと聞こえるぐらいの小声で返す。
どこのページだったかと教科書をパラパラと捲るが、前の人の台詞を聞きながら、ああそこか。と一人合点した。
「それでは次、グラスワンダーさん続きを読んで下さい」
「はい」
教科書の該当箇所を当てるのを諦め、私は記憶にある文をスラスラと口にしました。
「冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。霜のいと白きも……」
「いやあそれにしても、グラスが居眠りなんて珍しいデース!」
目の前に置かれた人参ハンバーグ定食を頂こうと両手を合掌したらエルがそんなことを言ってきました。
「……お恥ずかしい……。まさかエルに助けてもらう日がくるなんて思いませんでした」
「これで貸し1デスねー、グラスー」
お昼時の食堂はいつも混雑していて騒がしいですが、エルの快活な声はどんな喧騒の中でも聞き取れる元気な声です。
「ところで、エルは何回私に助けられたか覚えていますか?」
「え、えーと……。ハハハ……。エ、エルはそんな細かいことを覚えるような性格してないデース。助け合いの精神ですから、そんなこと一々覚えるみみっちいことはしないのデース」
「そうですね~。助け合いの精神ですから、些末なことですよね~」
「ハハ……ハ……。……デース……」
ガックリと肩を落とし、ホットソースをかけるのも忘れてオムライスを食べるエルを見たら少し意地悪し過ぎたかな?と反省してしまいました。
「そういえば、エルは並走トレーニングの相手を探してましたよね。良ければ今日は私がお相手しますよ」
「ほ、ほんとデスか?グラスー!やっぱり持つべきものは親友デスねー!」
脚に残る痛みを確認しながら、まあ1日ぐらい大丈夫でしょう。と心の中で自分を納得させます。
「でも大丈夫ですか~?グラス最近疲れてるみたいデース。無理して私の自主トレに付き合わせたりしてないデスかー? 」
「気にしなくていいですよ~。ちょっと休めばすぐ治りますから~。それに、最近は実戦に近いトレーニングが出来てないので私としても助かります~」
「そうなんデスか?そういえば、グラスはトレーナーがついてから練習グランドで見ることが減った気がするデース」
「まあ、トレーナーさんの練習メニューにグランドを使うトレーニングが少ないですから~」
そう言って新しく担当になったトレーナーとの練習を反芻する。
ほとんどがジムでの筋肉トレーニングとレース理論の叩き込み。たまにターフに出ることがあっても、軽いランニングや理論の実践、確認など、とても実戦と呼べるようなことは教わっていませんでした。
「ケ?親友とは言え人様のトレーナーさんに色々言うのはアレですけど……大丈夫……デスよねえ?」
「……ふふ。ベテランさんですから、きっとお考えがあるんですよ~」
いつもの笑顔で誤魔化しましたが、正直不安は拭えません。未だにタイムの一つも録ったことがないという事実は私に彼を信用していいのかどうかという疑問を抱かせます。
「デ、デスよね~。最近のグラスの疲れもトレーナーさんとの練習からきてるんでしょうし、きっと私達には分からない部分があるんデスよ~。と、ところで、新しい担当のトレーナーさんはどんな人となりの人なんデスか?」
エルなりに気をつかって頂いたのは分かりましたが、私としては最も聞かれたくない所を突かれました。
「……ええ、まあ、そうですね~。とってももの静かと言いますか……」
歯切れの悪い私の言い方にエルは怪訝そうな顔で私の顔を覗きこみます。
「……もしかして、グラス、トレーナーさんとうまくいってないんじゃ……」
「ああもうこんな時間!早く食べないと次の授業に遅れてしまいます!さあ、食べましょう?」
そう言うなり、私は箸で一切れのハンバーグを頬張りモグモグと噛みしめます。
エルはあまり腑に落ちていないような顔で今さらながらホットソースをかけてオムライスを食べ始めました。
無機質なアルミの扉の前で立ち止まる。
鈍い銀色を放ち立ち塞がる板が滲んだ像で私を写し出した。
……ただ自分の担当トレーナーの部屋に入るだけ。それだけです……。
自分にそう言い聞かせるが、ノックすべき手がなかなか前に出ない。
しばし逡巡していると、
「トレーナー?いる~?」
となりの部屋の扉がノックも無しに開かれる音と同時に、気だるそうに担当トレーナーを呼ぶウマ娘の声が耳に入ってきた。
となりのトレーナー室にウマ娘がすんなり入っていく姿を見ると、どうして私がこんな思いで突っ立っていなければならないのかなんだか惨めな気分になってきました。
たかが板一枚……。
数センチの差がなんだかとてつもなく遠くに感じる。
いよいよ覚悟を決め、私は銀色の扉をノックした。
「……トレーナーさん、よろしいですか?」
トントンという音と同時に声を出す。
ほとんど間をおかず、抑揚のない男の声が中から届いた。
「入れ」
カチャリと音を立てゆっくりと扉を開ける。
カチャカチャと音をたてながら彼は自分のパソコンを眺めていた。
「……失礼致します」
後ろ手に扉を閉め、彼の方を伺う。変わらず背中を私に向けながらパソコンを操作するトレーナー。
私には一瞥も寄越さない。
「何か用か?」
……その質問やめて欲しい……。
「……いえ、ただのご機嫌伺いですよ」
「……そうか」
努めて明るく言ったつもりでしたが、彼から帰ってきた言葉は心底興味なさそうな返答が帰ってくるだけでした。
私は壁に立て掛けてあった安いパイプ椅子を広げ、彼の隣に座ります。なるべく近くに座ったつもりでしたが、彼との距離は容易にもう一人分座れる間がありました。
ぐるりとトレーナー室を見渡す。
入り口のすぐ右隣に窓。その下にトレーナー用の机と椅子。現在トレーナーさんがブラインドがかかった窓に向かうように座りながらパソコンを叩いています。
机の左隣、丁度私が座ってる前に資料用の棚が一つ。中にはファイルが整然と並べられています。私には分からないですが、ちゃんと意味をもって並んでいるらしい。資料棚には触るなという唯一、彼がこの部屋で私に求めたルールがありました。
その資料棚の向かいには説明用のホワイトボード。部屋の一番奥には練習用のグラウンドが見える窓。その窓と資料棚に挟まれて蛇口しかない流し台と小さな冷蔵庫が床に置かれているだけでした。
改めて見ても何一つ余計な物が無い。
いや、余計な物どころか、必要な物すら無いのではないかと思えてくる。
遊び道具は勿論、それほど狭くもない部屋にある椅子はトレーナー用の背もたれ付きの回転椅子と私が座っているパイプ椅子だけ。ソファーの一つもない。二人以上の来客を想定していないのか、それとも暗に大勢で押し掛けるなという拒絶なのか……。
奥の流し台には電気ポットは勿論、急須どころかコップの一つもありませんでした。
彼の机には500mlのペットボトルが一本、パソコンの隣にぽつねんと置かれているだけ。
生活感が無いどころか、人間味を全く感じさせないこの部屋の居心地の悪さは、私がこの部屋に足を遠ざける理由としては十分でした。
それでも一度決めた担当トレーナー。なんとか彼との距離を縮めようとこうやって足を運びはするのですが……。
……用がなきゃ来ちゃいけないの?
毎回問われるあの質問がさらに私の嫌気を増幅させます。
「……今日はいい天気ですね」
「……ああ」
我ながらなんて気のきかない会話でしょうか。しかし、彼はさらに気の抜けた返事で返してきます。
「……今それは何をなさってるんですか?」
「……次のメイクデビュー戦での対戦相手の情報を集めてる」
まだメイクデビューの対戦相手は分からないはずですが……。と内心怪しみますが、彼は黙々と見知らぬウマ娘の情報を整理していきます。
「……喉が乾いたら冷蔵庫にジュースがあるから勝手に飲んでいいぞ」
「……ありがとうございます」
彼から私に話しかけた話題はこれだけ。
もう冷蔵庫の中には野菜ジュースしか入っていないのは知っています。彼なりの気遣いなのかもしれませんが、とても取りにいく気にはなりませんでした。
彼のカチャカチャとパソコンを操る音だけが響き、生気のない部屋がその音を吸いとっていきます。
私はもう居たたまれなくなってパイプ椅子から立ち上がり、グラウンドの見える窓へと歩いて行きました。
窓から外を覗くと、グラウンドでは多くのウマ娘に混じって、エルがトレーナーと一緒に笑顔を浮かべながら練習している様子が見てとれました。
急に私の中でもやもやした感情が増大し、私は堪らず自分のトレーナーに自主トレをする旨を伝えて出ようと振り返りました。
見ると流し台のすぐ下にある小さい冷蔵庫が少し開いているのが目に入り、思わず私はその扉を閉めようと屈みました。
中にあるのは野菜ジュースだけ。そう思っていましたが、半開きになった扉の先に見えたのは、野菜ジュースに混じってプロテイン入りのジュースとウマ娘に人気な人参ジュースが加わっているのが目に入りました。
……流石に野菜ジュースだけじゃ飽きるのかしら?
そんなことを思いながら、ほとんど気にも止めることもなく冷蔵庫の扉を閉めます。
パタンという音と同時に椅子に座っていた彼が私の方に向き直りました。
「ジュース飲まないのか?」
「……え?ええ……。喉渇いてませんもので。お気遣いありがとうございます」
「……そうか」
彼はまた興味を無くしたようにパソコンの方に向き直りました。
「……私、これから自主トレ行きますけどよろしいですよね?」
最早聞く必要も無いと思いましたが、一応担当トレーナーに確認をとりました。
「……何の自主トレだ?」
「友人と並走トレーニングさせて頂きます。それぐらいよろしいですよね?」
なんだか分かりきった返答を聞くために質問することがバ鹿らしくなってきましたが、それでも私の担当トレーナーなのだという思いがなんとかその言葉を口から出させました。
「駄目だ。認められない」
しかし、彼の口から出た言葉は私の期待を裏切るものでした。
「…………何故……ですか?」
意味が分かりません。大した指導もしないくせに一体何の権限でそんなことを言うのか……。
「お前のその脚、まだ疲労が残ってるだろ。今の歩き方で分かった。並走なんてキツいトレーニングは認められない」
……何を……!何を知った風な口を……!自分の体のことは自分が一番よく分かる。こちらを見もしないようなあんたに何が分かる!?
「………………ッ!」
「……不満か?」
「……いえ、承知致しました。失礼致します」
私は早歩きでトレーナー室から出ていく。
背後で荒々しくバタン!という音が廊下に響いた。それと同時にウマホを取り出してエルのラインに今日の並走トレーニングが出来なくなった旨を書き加える。
携帯を握る手にミシリと嫌な音が伝わった。
選抜レースから三週間。
今日も小降りではあるけれど、梅雨特有のしとしとと降る雨は陰鬱な私の心をさらに暗くさせます。
私は今日のトレーニングをお願いするべく、まだ疲労の残る足をトレーナー室に運んでいました。
次に目指すべきレースは勿論、トレセン学園の枠を飛び出して全国デビューを果たすメイクデビュー戦です。
それ自体は私としてもトレーナーさんも一致するところなのは理解しています。しかし、それを目指すためのトレーニングの仕方に疑念を抱かざるを得ない状態なのも確かでした。
今日もどうせトレーニングジムでしょう……。
雨も降る中、彼がターフを使った練習をするとは思えません。
メイクデビューまであと数日。まず負けることはあり得ないと言われているのは知っていますが、私は不安を持って臨むことになることを半ば覚悟していました。
「今日はターフに出てタイムを計る」
「……へ?」
思わず気の抜けた声が口から漏れる。
彼は呆気にとられる私に構わずさらに続けた。
「それから、フォームの確認と時間が余れば坂路もやる予定だ」
すっかり室内での練習を想定していた私は肩透かしをくらう形になり、一瞬硬直してしまいました。
「……分かり……ました。ジャージでグラウンドに行けばいいんですよね?」
我ながら実に間抜けな質問です。
しかし、トレーナーさんは気にせずそれに応えます。
「ああ。少し降ってるからタオルと着替えも用意しとけよ」
そう言って彼はストップウォッチと資料の束を持ってトレーナー室から先に出ていきました。
一人残された私は彼が出ていった扉を空しく見つめているだけでした。
「ストレッチはもういいだろう。久しぶりに走るからまずウッドチップで足を慣らしてからタイムを計ろう」
「……はい。トレーナーさん」
雨が降っているとはいえ、ほとんど気になるほどでもなく、トレーナーさんも傘もささずにジャージ姿でグラウンドに現れました。
流石にバ場状態は良いとは言えず、踏んだ感じでは稍重といったところでしょうか。
私はウッドチップで少し重い足を整えながらグラウンドを眺めました。
天気に恵まれていないこともあってか、授業終わりの一番混む時間でも、私達を含めて二組のウマ娘とトレーナーさんしかいませんでした。
これなら存分に走れますね。
先程の憂鬱な気分はどこへやら。
ターフで走れると思うだけで心が浮わついているのが自分でも分かります。
我ながらお手軽な女だと思いながら柔らかい地面を蹴りました。
「いつまでやってるんだ。タイム計るぞ」
「あ!はい、すいません。今行きます」
気付けばけっこうな時間をウォーミングアップに使っていたみたいです。私はトレーナーさんに促されて彼の元へ急ぎました。
「メイクデビュー戦の1600mを想定してタイムを計る。最初の一本は6割程度、次の二本で8割程度、最後に二本全力で走ってくれ。最後の二本はタイムを計るから、参考にお前の1600mの自己ベストを教えてくれ」
「……はい。1分34秒6です」
「了解。それじゃあ早速一本目走ってくれ」
「はい!」
一本……二本……三本……。ややぬかるんだ芝の上を走る度に足下に跳ねた泥がかかる。
それでも気持ち悪くはない。足に染みる冷たさも、普段ならすぐにやる気を削いでしまうのに今は走れている喜びに変わっている。
走るのってこんなに楽しかったんだ……!
いつからだろうか。走ることはタイムを縮めることと同義になったのは。
いつからだろうか。タイムを縮めることが苦痛に変わっていったのは。
ーー走ることは楽しいことなんだ。
私は至極、至極当たり前のことを気付かされ、夢中でターフを駆け抜けました。
肌に当たる空気。空を切る音。青臭い芝の香り。泥の土臭さ。足にたまる疲労も肺の息苦しささえも今の私には心地よいアクセントでした。
あっという間に三本を走り終え、いよいよ次の全力での走りに備えました。
「トレーナーさん!……ハア……次いきましょう!」
まだ肩で息をしながら気持ちだけは急いて、すぐにでも走りたい気分でした。
「少し休憩だ。息を整えてからやってもらわんと全力のタイムは計れん」
「あ、そ、そうですよね。すいません。走るのが久しぶりでつい……」
私はコース脇にあるベンチに腰掛け、一息つきました。今だにしとしと降る雨が私の火照った体を冷やしていきます。
ボトルに入った薄めたパカリを口に含め、渇いた喉を潤しました。
「顔だけでも拭いとけ。体を冷やすなよ」
そう言ってトレーナーさんが私の頭にふわりとタオルをかけてきました。
驚きと同時にトレーナー室と同じ、彼の匂いが鼻をくすぐります。
「あの、私タオル持ってきてるので大丈夫ですよ?」
「いいよ。タオルぐらいやる」
「…………ありがとうございます」
傘といいタオルといい、彼は少し所有欲が無いのではないのかとおもえます。それがあの無機質なトレーナー室に繋がっているのかと思い当たると一人で納得していました。
「走るのは楽しいか?」
「……え?」
「いや、走りながら笑ってたからな。なんとなく……」
「はしたない姿を見せてしまいました……。ですが、ええ、楽しいです。久しぶりに走って、走ることがこんなに楽しいと思えたのはいつ以来でしょう……」
「……そうか。悪かったな。ずっと屋内でトレーニングさせて」
「いえ、私も何も言いませんでしたから」
そもそも走ることが楽しいことだと思い出せたのは、この三週間があったからです。とは言えませんでした。また室内のトレーニング漬けにされるのも嫌だったから……。
「さあ、そろそろ本番いこうか」
「はい!お願い致します」
止みそうで止まない雨の中、私はターフの芝の中に戻っていきました。
試しに爪先で芝を踏んでみる。
ヌチャリと嫌な感触が伝わり、滑りやすい状態であることを私に警告した。
練習用のターフはよく踏まれており、コースが荒れやすくなっているのはいつも通りです。
皆が通る最内側は避けるべきですね。と自分に言い聞かせて体勢を整えました。
「お願いします!」
ストップウォッチを手にしたトレーナーさんに向かって手を上げる。それを合図にトレーナーさんはストップウォッチに目を落として声を上げた。
「Ready...Go!」
~~~~~~~~~~~~~
「タイム……どうでした?」
息を切らせながらグラスワンダーはこちらに近付いてきた。
手元にあるストップウォッチを一瞥してからそれを彼女の方に向ける。
「1分……34秒2!?」
「0.4秒縮まったな」
予想していたよりもかなり縮まっている。こちらも内心驚いているが、顔には出てないだろう。
「ですが……決して良バ場じゃないんですよ?それに今まで……」
そこまで言うと彼女は口をつぐんだ。
グラスワンダーが何を言おうとしたのか鈍感な俺にも流石に分かったが、別にそれに腹を立てたわけでもなく俺は口を開いた。
「なら良バ場だったらもっと速いわけだな」
「…………」
彼女は嬉しいような腑に落ちないような複雑な表情で俺の言葉を黙って聞いていた。
「さあラストだ。気を抜くなよ」
「……はい!」
そう言うと彼女はスタート位置に戻っていった。
「1分34秒1。またベストだな」
「……凄い……」
まるで他人事のように呟くその姿に思わず口元が緩む。
「トレーナーさん、あの……もう一本走ってもいいですか?」
思わぬ申し出。
走ることが楽しいのか、タイムが縮まるのが嬉しいのか……。
しかし、彼女からの希望を俺は否定した。
「……その意気はありがたい。が、1度フォームを確認させてくれ」
「……分かりました」
先程から感じる違和感を確かめるべく、彼女に指示をだす。
ターフの端から直線を疾駆する姿を、まじまじと観察した。
なんだ……?左足……か……?
なんだか分からない違和感が気持ち悪さを増幅させる。
「……悪い。もう一度、今度は左回りのコーナーを走ってくれ」
指導を請うグラスワンダーをなだめて俺はもう一度彼女に走る指示を出す。
ぬかるんだカーブを泥を宙に舞わせながら走る姿を確認する。
足首……?いや、爪先か……?
「トレーナーさん……。ハッ……、どうですか?」
グラスワンダーが俺に近付きながらそう聞いてきた。
俺はその質問に答えず、じっと彼女の左足を睨んでいた。
……分からん……。直接触診すればあるいは……。
そう思うが早いか、俺はかがんでグラスワンダーの左足を触ろうとした。
「……!いや!!」
彼女は弾かれたように左足を引き、俺の触ろうとした手から逃れていった。その顔は先程の嬉しそうな笑みが消え、怯えたようにこちらを見下ろしていた。
「……ごめん……なさい。つい……」
「……いや、俺も悪かった。気にするな。ちょっと気になっただけだ。……フォームのおさらいをしよう」
……ただの気のせいか……?
本当に僅かな違和感だったせいもあり、俺自身納得させるように努めてそう思うようにした。しかし、彼女の左足の違和感は喉に刺さった小骨のように、俺の心の片隅に残り続けていった……。