※【】書きは本来英語です。
【いえ、こちらにグラスワンダーは帰っておりませんけど……】
受話器の向こうから容赦ない事実を告げられる。
多少覚悟していたとはいえ、最も可能性のある場所が潰れたことを意味していた。
綺麗に拭き取られた主のいない理事長専用の机が苦虫をつぶしたような自分の顔を見せてくる。その机の上に広げられた生徒名簿。『私を見つけてみて』というように俺の担当バが写真の中で静かに笑っていた。
【……そう、ですか……】
【あの、うちの娘に何かありましたのでしょうか?】
落胆する暇も無く俺はシルバーホークの声で現実に戻される。
俺は一つ呼吸を整えると、慎重に言葉を選んでグラスの母親に事情を説明した。
【実は……】
【……骨折……行方不明……?】
絞り出すように漏れ出たその言葉にこちらも息を飲む。予想されたことだが、今一度事態の重さを痛感するには十分な反応だった。
【申し訳ございません。私が怪我を未然に防げなかったこと、心無い言葉を娘さんに浴びせてしまったこと、心から謝罪致します】
しばしの沈黙。受話器の向こうからは彼女の息遣いが微かに伝わってきた。その微妙な機微からは彼女が何を考えているかは掴めない。俺は受話器の向こうの女性が声も出せないほどショックを受けているものだと思っていた。
【……それだけですか?】
【え?】
一瞬何を聞かれたのか分からず、答えに逡巡した。
【正直、グラスワンダーがそれだけで何も言わずに飛び出したというのは納得できません。確かに、トレーナーとして酷い言葉を浴びせてしまったのは確かかもしれません。ですが、骨折はレース中の事故でしょう?あの娘はそれぐらい起こることを覚悟して走っております。貴方の言葉も一競バファンならば考え得ることです。本人に失礼なのは確かですが、彼女がその程度で自分で一度決めたトレ選学園を投げ出してしまうなど、私の知るグラスワンダーではありません】
【ですが実際に……】
【ええ、ええ。分かっております。彼女は昔から向こう見ずなところがありましたから、そういう突発的な行動があることは十分考えられます。ですが、そのきっかけがどうにも……。カブラギトレーナー、何か他に思い当たることはございませんか?】
思考が定まらず、茫然となる。そんなことは考えたことも無かった。
【…………すいません。ちょっと思い当たりません……】
俺は……あいつのこと何も分かってやれてなかったのか……?
己の不甲斐なさに眩暈すら覚える。
一トレーナーとして、相棒としてグラスワンダーのことを理解してきたつもりだった。だが、グラスをあそこまで追い詰めてしまう『何か』に全く気付けていない自分があまりにも無力に感じた。
それでも──
【ご安心下さい。このカブラギ、必ずグラスワンダーを見つけ出します。必ず──】
成果無し、か…………。
理事長室で借りた電話の受話器を置くと同時に思わずため息が出た。
「……あまり感触はよろしくなさそうですね……」
あからさまに意気消沈する俺を見かねたのか、たづなさんが声をかける。心配そうに覗き込むその顔には流石に疲労の色が見てとれた。
「たづなさんは少し休んだらいかがですか?昨日から徹夜で書類作ってるんでしょ?俺の我が儘のせいで」
一昨日は俺を深夜まで監禁していたから実質二徹だ。俺のせいで無理に働かせてしまっている状況に罪悪感が滲み出る。
「お気持ちはありがとうございます。ですが、今が正念場です。マスコミと違って中央には誤魔化しがききません。なんとかカブラギさんがトレセン学園のトレーナーを続けられるように……」
……『トレセン学園の』トレーナー、ね……。
「尽力感謝致します。俺が蒔いた種ですから自分一人でなんとかしたかったんですが……」
「何を仰るんですか!私もカブラギトレーナーにはここに残ってもらいたいのですから、これは私の問題でもあるんです。そうでなくても貴方はいつも一人で抱えすぎです。ちゃんと他人を頼って下さい」
『私もお力添え致します。私に出来ることなら頼って下さい』
……他人に頼る、か──
いつか言われた台詞が頭をかすめて一本の導線になって俺を導いているようだった。
すかさず俺はガラケーを取り出してあの人への電話番号を探した。あまり期待はしなかったが何もしないよりはましだ。
「……ええ。恩に着ます。それでは今からそちらに伺いますので。…………ええ。今からです。ご迷惑でしたか?………………それには及びません。私が頼んでいるのですから私が出向きますよ。ええ。……ありがとうございます。それでは」
慣れない手つきで終了のボタンを押すとすぐにハンガーラックから上着を掴み外に出る準備をした。
「たづなさん。俺はちょっと出かけてきます。学内と中央へはなんとかしといて下さい」
「それは構いませんけど、外は皐月賞を獲ったグラスさんのトレーナーである貴方を探しています。見つからないようにお気をつけて下さい」
心配そうに声をかけるたづなさんだが、十年以上マスコミと追いかけっこをしていた俺にとっては毎年の風物詩のようなものだった。
「慣れてますから大丈夫ですよ。第一、そのマスコミは学内には入れてないんでしょ?問題ありません」
「ええ、まあ、その目的のマスコミ関係者は入れていませんけど……」
「じゃあ行ってきます」
理事長室のドアの取っ手に手をかけた瞬間、俺の中で引っかかっていた疑問が口から出ていた。
「……たづなさんにとっては……俺が学園にいられるなら担当バは…………」
それ以上の言葉は出てこなかった。
言わなくても伝わっていたはずだから。
なにより俺自身がそれ以上口にしたくなかった。
顔だけ振り向いた先の彼女は俯いたまま押し黙っている。
広い理事長室がその静寂をもって俺に答えを教えていた。
「……いえ、変なことを聞きました。気にしないでください」
俺ははじかれるようにドアを開けると理事長室を後にした。
春先のぬるい空気が頬をなで、廊下の窓から差し込む朝日が寝不足の俺を叱りつけた。
取り戻す。必ず──
外に出ると良く晴れた空が広がる。春風が砂を巻き上げ目に入った。こすった目を開けて容赦なく刺してくる陽の光に目を細めると、グラウンドに人だかりができているのが分かった。
何事かと思いよくよく見ると、これからレースが開かれるらしい。それも出走するであろうウマ娘達には見覚えがない者ばかりだった。
そこではたと気付く。
そうだ、今日は新入生の選抜レースの日だった。
一年前、トレーナーを辞めようとしていた俺がグラスワンダーの走りを初めて見たあの時期。
図らずも俺を救ってくれたあの栗毛の走りを思い出しながらグラウンドを囲む土手の上を渡ろうとした。その瞬間、俺の足はその場に止まってしまった。多くのと言えないまでも、機材を抱えたマスコミの取材陣が土手の上からレースを観察しているのが目に入ってしまったからだ。
しまった……。ここはあまりにも見晴らしが良すぎる。
俺はどこか隠れるところは無いかと探すが遮蔽物が見つからない。
仕方ない……。
俺は何気なく土手を降りていき、レースを見物しているトレーナーの集団に潜り込んでいった。
さて、どうしたもんか……。
トレーナーの集団に紛れたはいいものの、これでは身動きがとれない。なんとか人目につかずに学外に行く方法を思案していると、
「今回はなんというか……」
「ああ、他も悪くはないんだけど、あまりにもあの娘の走りが鮮烈すぎてどうも見劣りが……」
「あのウマ娘今度はマイルで走るみたいだぞ。この時期でマイル走るってことは中、長距離も視野に入れてるってことか?」
「さっき走ったばかりだぞ!?適正もそうだけど、体力もどうなってるんだ!?」
何か俺の知っている選抜レースとは違う、期待とも恐れともつかない異様な雰囲気が渦巻いているのが分かった。
普段のそれとはあまりにも違う空気に思考がまとまらず戸惑っていると、大きな歓声が辺りを包み、レースが始まったことを知らせていた。
周囲の熱気に飲まれるように体操服姿で走るウマ娘たちの方に目が運ばれていく。その中の一人、鼻に絆創膏をつけた特徴的なウマ娘が目に留まった。
黒鹿毛の長髪をなびかせて走るその姿は他のウマ娘たちのそれとは一段も二段も違っている。
第三コーナーの終わりほどでバ群を抜け出してさらに加速していく姿は、ちょうど一年前に見たグラスワンダーの姿に意図せず重なっていた。
まるで獲物を狩る肉食獣のような走りで向かい風をものともせず、あっという間に先頭をとらえてそのままゴールしてしまった。
二位との差は六バ身、いや七バ身か。とても同じ新入生とは思えないほどの速さでそのウマ娘は選抜レースを制した。
…………なんだ……あの走りは…………。
周りのウマ娘が赤子に思えるほど。圧倒的な着差以上の力の差を嫌がおうでも突き付けてくる圧巻の走りだった。
息一つも乱さず、レース後の彼女は腕を組んで仁王立ちでこちらのトレーナーの集団を睨み付けている。
トレーナー達はその圧倒ぶりからか、勧誘するでもなく、じっとそのウマ娘の一挙手一投足に見いっていた。
異様に静まった中で、そのウマ娘と目があった気がした。
いや、気のせいではない。彼女は俺を見つけるとゆっくりと真っ直ぐにこちらに向かってきた。
「おい。あんたが皐月賞を獲ったグラスワンダーのトレーナーだな?」
ざわめく人垣。トレーナー達は進んでくるウマ娘を避けるように人垣を開けると俺たちを囲むように遠巻きにことの成り行きを眺めていた。
「……だったら、なんだ?」
マスコミに感づかれるとかそんなことを考える余裕がない。こいつの纏う空気はまるで野生の熊のようなものだった。
俺は肝が座っている方だと自負していたが、このウマ娘の前では蛇に睨まれた蛙のように体が言うことをきかなかった。
何事かと彼女の次の言葉を待っていると、目の前のウマ娘は俺を上から下までゆっくりと一瞥し、ゆっくりとその端正な顔から衝撃の言葉を投げ掛けた。
「喜べ。あたしがあんたの担当バになってやる。あんたは今日からあたしのトレーナーだ」
「…………はあ?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
黒鹿毛のウマ娘はトレーナーの人混みをかき分け俺の前まで来るとそう言いはなつ。
まるでこれは決定事項だと言わんばかりの有無を言わせぬ口調で迫るウマ娘の瞳は冗談を言っているようにはとても見えなかった。
「だから言っただろう。あんたの腕を見込んで担当ウマ娘になってやる。あんたなら私の走りをさらに飛躍してくれるはずだ」
「……待て……。ちょっと待て……。…………この際色々段階をすっ飛ばしてるのは置いておこう。お前、俺がお前の担当を断るとは思わないのか?」
すると彼女は目を細めてフッと軽く笑った。まるで小馬鹿にしたような感じで顎を上げて俺を見下す(身長はほとんど同じだったが)と彼女は口角を上げて口を開いた。
「あんたは断らないさ。見てただろう?あたしの走りを」
見ていた。いや、魅せられていた、か──
漆黒にたなびくその長髪。
走っていても乱れぬその肺活量。
ゴールだけを見据えた金色の瞳。
そして獲物を捕らえるような強烈な末脚。
思い出すだけで心臓がどくどくと高鳴る。肺が空気を求めて上下し、握りこんだ手に汗がじっとりと滲むのが分かった。
予感……いや、もはやそれは確信だった。
こいつは────
「おい!あの人グラスワンダーのトレーナーじゃないか!?」
答えあぐねる俺の背に唐突に声がかかる。
びくりと震わす体をひねり、後ろを見ると土手上で撮影していたマスコミ連中がカメラを構えながらこちらに雪崩れ込んで来ているのが見てとれた。
「……くそ!」
すぐに走り出そうとした俺が彼女の側を通る瞬間、やっと聞こえるほどの声で、だが名も知らぬその女は確かに俺にこう囁いた。
「……あたしは、三冠を獲るぞ……!」
「……ざっと調べた限りですが、彼女に関する情報はヒットしませんでした」
目にも止まらぬ早さでパソコンを叩いていた桐生院はその手を止めて落胆の声をあげた。
液晶画面に写る白地にNot Foundの表記が俺の心にチクりと刺さる。
「そうか……。すまないな。忙しい時に手を煩わせてしまって」
「いえいえ!わざわざ足を運んで頂いただけでもありがたいです。本来ならデータごと送れれば良かったのですが……」
彼女は言い淀むと伏し目がちに申し訳なさそうな顔でそう答えた。
『いつでも、頼って下さい』──
グラスを探す糸口が見つからず、さりとて何もせずに手をこまねくことも出来ずにいた俺は桐生院を頼って滋賀県の大津市まで来ていた。新幹線に揺られる道中、威風堂々たる富士山の景色も茫洋たる太平洋も目にした記憶は無く、ただただ世界を繋げる青い空を睨んでいた気がする。
関西ウマ娘学院に着くと桐生院はしく俺を
桐生院財閥の独自のデータベースを使ってアメリカ中のホテルの宿泊客、病院の入院患者まで即日のデータを揃えることが出来た。もちろん、外部に漏らすのは御法度ということで、現地に赴いてくれたらという条件で特別に調べてもらったていたところだった。
「……ただ、偽名で登録していた場合や小さなモーテルなどはデータに入っていないのでヒットしませんが……。ですが、もしそうしてるとなると探すのはかなり難しいですね」
……グラス……。どこにいる…………?
顎に手を当てパソコンを睨みながら唸る桐生院を尻目に俺は窓の外を眺める。
目に刺さる傾きかけた日の光に目を細めながら俺の思考はすでに次の手を考え始めていた。
…………最悪、アメリカに行ってしらみつぶしに聞き込むしか……。
「あーきっつ!坂路ヤバいよ!足パンパン」
「シンザン……スタミナ、弱い……」
ノックもせず、賑やかに入ってきた二人の影。
見ると青いジャージ姿のウマ娘が二人、首にタオルをかけてトレーナー室に入って来た。背の高い黒鹿毛と右耳に花輪のような耳飾りをした白髪の可愛らしいウマ娘だ。
そのうちの一人、長身の方がこちらに気付いて視線を向ける。苦虫を噛み潰したかのような表情を作ると低く、抑圧した声色で疑問を投げ掛けた。
「なんであんたがいるんだ……?」
「シンザン!トレーナーさんに向かって失礼でしょ!」
桐生院が
「……頼む……!」
「……は?」
「なんでもいい。グラスワンダーを見つけ出してくれ」
さらに腰を曲げて頭を床と平行にした。磨かれた床に悲痛な男の顔が刺さる。
「やめてください!カブラギさん!トレーナーが学生に頭を下げるなんて!」
桐生院の叫びが木霊する。しかし俺は頭を下げたまま微動だにしなかった。
「……お断りだ……」
「な……!」
予想だにしない回答に思わず頭を上げる。しかしそこには悔しそうな表情を張り付けて顔をそらすウマ娘の姿があった。
「……ボクはあんたが嫌いだ。でもグラスちゃんは好きだ。だからあんたの為じゃなく単純に会いに行きたい。……でもそれは、なんていうかグラスちゃんが望まないっていうか……」
たどたどしく胸の内を語るシンザン。こんな一面をみたことがないのか、桐生院は驚きの表情で固唾を飲み、何か言いかけたであろうその口を閉じた。
「……ああなんか調子狂うな。違うんだよ。こう……ボクじゃないっていうか、きっとグラスちゃんはそんな暇があったら練習してろとか言うかな……。うん、そうなんだけど違う。それは本質じゃなくて……」
言い淀む黒い巨人。目をぎゅっと
十秒ほどだろうか、静寂が部屋を支配するなか、彼女はふっと諦めたように目を開くとこちらに静かに向き直った。
「ボクはバカだ。うん、多分バカだ。バカなフリしてグラスちゃの前でおちゃらけてた。……ただ、バカなボクでもグラスちゃんに避けられてることぐらい分かってた。ライバルとしてじゃなくて個人としてね。……きっと見つけてもボクがのこのこ出てったらまた隠れちゃう。……それに、グラスちゃんはどんな事だろうとボクみたいなやつに頭を下げるトレーナーさんは見たくないと思うんだ。……つまり……その…………」
バンッ!!
何かを叩く音とシンザンが仰け反りながら苦悶の表情を浮かべるのは同時だった。
「休憩、終わり。シンザン、併走」
見るとハッピーミークがシンザンのジャージを引っ張って無理やりトレーナー室から連れ出そうとしていた。あっけにとられる俺たちを尻目に、彼女は自分の1.5倍ほどもあるウマ娘の尻を蹴りながらドアの方まで連行していく。
「痛い!ちょっと!なんで!?分かったから……」
いつもの様にやかましく去っていくシンザン。その後を追うように出ていこうとする白バが思い出したように扉の前で立ち止まったかと思うと、急に俺の方に向き直ってその特徴的な桃色の瞳で射すくめた。
「カブラギ、さん。……ファイト……!」
扉が閉まる音を置き土産に二人のウマ娘は次のトレーニングへと向かっていった。
茫然とする俺が桐生院の方に目を向けると、同じく驚いたような彼女の顔は俺と視線が合うと、その顔を柔和に崩して口を開いた。
「……ということです。シンザンもなんだかんだで不器用なんですよ。……グラスさんはきっとカブラギさんを待ってます」
その藤色の瞳を嬉しそうに細めて彼女は言葉を続ける。
「……私も行きます。あの子たちが待ってますから。……今日は嬉しかったです。頼って頂いて。私はあの子らを置いて日本を離れらないですけど、微力ながらいつでもお力添えしたいと思ってます。また、いつでも頼って下さい」
他人を頼りなれずに震えていた俺の心が幾分軽くなったような気がした。
すっかり日が落ち、トレセン学園に着いたのは7時を回ろうとしていたころだった。
滋賀との往復で疲労を覚えながらグラスワンダーを見つける手立てを考えて園内を歩いていると、背中から呼び止める声が耳に入った。
「あの!……グラスちゃん、のトレーナーさん。ですよね?」
振り向くと、そこには黒鹿毛に白い流星の前髪、白毛をハチマキのように編んで巻いている紫の瞳を持つウマ娘がいた。先ほどまでトレーニングをしていたのであろう、その額には汗の雫が張り付いていた。その少し後ろには訝し気に俺を伺う長髪栗毛のスレンダーなウマ娘。
「……確か君は……」
「スペシャルウィークです。皐月賞で2位の」
俺たちしかいない夜の通りを、グラウンドの照明がスポットライトを当てて舞台を整えていた。
当然、知っている名だった。グラスの世代において主役になりえる実力を持つウマ娘。ジャージ姿のその彼女が目を左右に揺らしながら俺を見上げて言葉を選ぶように口を開いた。
「グラスちゃん、いなくなっちゃったって本当ですか?……今日も授業に出てなくて、エルちゃんに聞いたら内緒だけどって、アメリカに帰っちゃったって……」
消え入りそうなその声色は酷く物悲し気で、俺が作った罪の重さを否応なく突き付けてくる。
「え!?あのグラスワンダーさんが?」
透き通るようなガラスの声で口を開いたのは後ろで佇んでいたスレンダーなウマ娘だった。心配そうに眉をひそめてスペシャルウィークの背中を見やる。緑のメンコを耳に着ける儚げなその顔も俺の記憶に入っていた。
「……サイレンススズカか」
グラスワンダー、スペシャルウィークの一つ上の学年。クラシック級では目立った活躍は無かったが、今年に入り、バレンタインステークス、中山記念を大逃げで圧勝し、頭角を現してきた遅咲きのマイラー。近日中に小倉大賞典にも出走するはずである。
「申し遅れました。スペちゃんと同室のサイレンススズカです。グラスワンダーさんとはあまり面識がありませんが、朝日杯、皐月賞も獲ったのでもちろん存じ上げています。ですが、いなくなったというのは……」
怪しげに俺を見つめる二人の視線。まっすぐ見つめるスペシャルウィークの穢れを知らない瞳が間違えであってくれと脅迫してきた。
「……グラスワンダーは、アメリカに立った……」
俺はスペシャルウィークの目をまともに見られず伏し目がちに呟くようにそう答えた。二人が息を飲む様が足元だけでもはっきり分かってしまう。
「……すまない。俺の責任だ……」
「やっぱり……本当だったんですね……」
信じたくないというように震える声で絞り出す彼女の言葉。
俺はいてもたってもいられずにこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
「……私、グラスちゃんに勝ってないんです……」
唐突に投げかけられるそのセリフの意味を計りかね、俺は思わず彼女の顔を覗き込んでしまった。
怒気とも悔悟ともとれる苦い表情で俺を射抜いたその瞳には紫に揺れる確たる決意が宿っていた。
「選抜レースで2位。皐月賞でも2位。私、いつもあとちょっとでグラスちゃんに届かないんです。届いてないんです!このまま、グラスちゃんがどこかに行っちゃうなんて絶対嫌です!当然友達として戻ってきて欲しい。でもライバルとして、競い合う相手としてまた戦いたい!また真剣勝負がしたい!このまま勝ち逃げなんて私、嫌なんです!このままじゃどんなに勝ったって日本一のウマ娘なんて言えない!グラスちゃんと本当の真剣勝負をしてその上で勝ちたいんです!」
グラスワンダーのトレーナーを前にして、その担当バを下したいと高らかに宣言する黒鹿毛のウマ娘。
その眼には照明に反射して目尻に雫がうっすら溜まっているのが見て取れた。
「……ごめんなさい。一番心配なのはトレーナーさんですよね。でもどうしても私悔しくて……。失礼します……」
「スぺちゃん……!失礼します」
とぼとぼと俯きながら栗東寮に向かうスペシャルウィークとそれを追いかけるサイレンススズカの背中は俺の気持ちをさらに追いやる。
これはもう俺とグラス、二人の問題ではないことを突き付けられながら下弦の月を睨んで俺は自分のトレーナー室に足を向けていた。