朝日の中で目が覚める。
二人には狭いベッドの上で小さくなろうと、私とその妹は身を寄せ合い一つに溶けあっていた。
腕の中で感じる彼女の温もり。トクントクンと静かに揺れるこの子の拍動。目の前にいる鹿毛のウマ娘のスー、スーという柔らかな寝息を感じながら私はこの瞬間、世界中の誰よりも幸せ者だと静かに悟る。
でも駄目。それもこれまで。
私は幸せになっちゃいけないの。少なくとも今はまだ。
後ろ髪を引かれる想いで、音を立てぬようゆっくりとベッドから体を起こす。ベッドに腰掛ける形で朝日に目を細めると、昨日サイドテーブルに置いた耳飾りが自然と目に入った。
昨日のことを思い出しながら、震える手でそれを掴もうとした。一瞬、伸ばした手を躊躇する。しかし次の瞬間、テーブルの上から素早く奪い取った耳飾りは私の胸元で強く抱きかかえられていた。
ごめんなさい…………。ごめんなさい……。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいゴメンナサイ
急に現実に引き戻された私は、卑怯にも目の前にいない誰かに向かって必死になって許しを請う。きっと神に縋る者はこんな気持ちなのだろう。
こんな私を許して下さい。
我が儘な私を。意固地な自分を。貴方を裏切ってしまった愚かな、愚かなグラスワンダーを──
「……行こう」
耳飾りをポケットにしまう。最後に私は妹の幸せそうなその顔を瞳に焼き付ける。
まだ静かな寝息をたてる彼女を残し、私は音もたてずに静かにその仮宿を後にした。
※【】書きは本来英語です。
【だから!お姉ちゃんは居ないって!】
タクシーの車内で響く大声量に思わず運転手は眉をひそめる。
仕事とはいえ、こんな朝早くからやかましい客を捕まえてしまったな。と内心後悔しながらなるべく早く目的地に着くように速度を上げた。
【……友達の家に泊まりに行くって嘘ついたのはごめんなさい。でもお姉ちゃんの行先は本当に分からないの。あたしが起きた時にはもう居なくて……。きっと市内のどこかの病院だと思うけど……。…………もしもし?】
ブツ、ブツ、と途切れ途切れの会話をなんとかつなぎ合わせて、ワンダーアゲインは母親と連絡をとっていた。
中心地に近づいたとはいえ、まだまだ電波の感度は弱かった。ほとんどどこでも通話できる日本とは違い、アメリカは少し郊外に出ただけですぐに電波は繋がらなくなってしまう。グラス姉妹が泊まったモーテルも電波が繋がらず、母親、シルバーホークの再三の連絡の折り返しも結局、十時に迫る頃合いになってしまっていた。
【…………うん、うん。とにかく、市内の病院はしらみつぶしに探すしかないよ。……宿にいるっていうのは、多分、ない。あの足をあれ以上放置してたら壊死しちゃう……】
消え入りそうになるその言葉に、彼女のやりきれない感情がこもる。
何故自分を残して去って行ってしまったのか。どうして自分だけでも入院先を教えてくれなかったのか。ちゃんと病院で診察してもらっているのか。危ない人に捕まったりしていないか。
色々な想いが浮かんでは消えていく。
それでもグラスワンダーの勝手さを憎めないワンダーアゲインは、自分の母親に真実を打ち明けることで姉に対するささやかな抵抗を試みていた。
【……悪いけど、もっと電波のいいところでまたかけ直すよ。きっと見つかるから気に病まないで】
彼女は一つため息をついて電話を切った。まだ木々がうねりを連ね去っていく窓の外を睨みながら、カブラギトレーナーの執念を思い知らされていた。
【もっと飛ばして!まだスピード出るでしょ!?】
先ほどまで眩しいくらいに空を照らしていた太陽は雲に隠れがちになり、気圧の低い嫌な空気が辺りを包みこんでいた。
薄暗い部屋の窓を見やる。
しかし景色を楽しむことは叶わず、隣の建物の赤茶けた壁だけが目に入った。
病院の中だというのに部屋の中はかび臭く、唸り声だけはうるさい換気口からも嫌な臭いが入ってくるだけだった。
ここで最低二週間――
治療のためとはいえ、心象を表したかのような陰鬱な世界が私に襲い掛かる。
他の入院患者もまばらにしかおらず、六人部屋の相部屋には半分しかそのベッドは埋まっていなかった。
視線を戻して天井から吊られたそれを眺めた。血液が溜まらないように高く持ち上げられた右足。ギプスで固定された自分の体の一部を見る度に私の心は酷くかき乱される。
どうして貴方は私を見てくれなかったの?
なんで私はこんな愚かな行為をしているの?
もう何度目になるのか、答えの無い問いを心の中でするが、もうその問いかけにも諦めの気持ちが混ざり始めていた。
いくら問いかけても答えは分からない。分かったところで過去は変えられない。
それに気づき始めてから、だんだんと私はそんな問いをする回数が減っていった。代わりに酷い疲労からの睡魔が襲ってくる。昼食に出されたオートミールも食欲が無かったところに酷い臭いをまき散らすものだから食べる気が一切起きなかった。
一つ、もう起こされるまで寝ようと思案し瞼を閉じるも、私はまだ寝させてもらえはしなかった。
【こんなところにウマ娘とは珍しいね】
片目を半分だけ開けて声がした方に視線を投げる。
そこには点滴台を傍らに、50代ぐらいだろうか、初老の女性が淡い空色の病院服を着て側に立っていた。目尻が少したれ、懐かしむように細めた目元に皺が寄っている。髪は白髪の中に金髪が混じり、心もとない蛍光灯の光を反射してキラキラ光っていた。殺伐とした病院内でこの女性は柔らかな雰囲気を纏っているのが細めた視界の中でも良く分かった。
【……どちら様ですか?】
他人を寄せ付けないような空気を出していた
【私はオリヴィアっていうの。もうこの病院に入ってかれこれ一年近くなるわ。同室のよしみで仲良くしましょう?】
こんなところに一年も……。
少し想像しただけで寒気が走る。
一応病院と呼ばれてはいるが、場末の目立たないところを選んだ報いか、院内はどことなく暗く、見かける医者も若く新米で不慣れな者たちやもう還暦はとっくに過ぎているであろう、手元も覚束ない老人しかいなかった。当然、入院している患者もガラが悪く、病的に痩せた女性、壁向きに寝ころんで他者との接触を拒否している男、目が血走って時折奇声を上げる解離症状を起こしているヤク中、まだ若いのに四肢のうち左腕しか残っていない男性など一癖も二癖もありそうな患者ばかりがこの陰鬱さを際立たせる一因だった。
【……グラスワンダー】
思わず入院時の偽名とは違う本名を口にしてしまったのはそのせいか。
この院内でも彼女の周りだけは何故か明るく見える。このアメリカの闇を凝縮したような場所に飲まれそうになる私の元に舞い降りた一筋の光のように見えた。
【よろしく】といって気さくに差し出された右手を掴む。握り返したその手はとても力強く、病気持ちの初老の女性とは思えなかった。
【どうして貴女はこんなところに入院を?】
突発的に出たその言葉に、彼女はフッと諦めたような笑顔を作ると静かに口を開いた。
【私はここの看護師長だったの。今はパセドウ病とそれに付随する糖尿病の治療を受けてる】
【ごめんなさい。悪気があって言ったわけじゃ……】
『こんなところ』という侮辱めいた発言を取り繕ろうとするが彼女は黙って右手でそれを制した。
【いいのよ。昔のよしみで入院はしたけれど、ここは本当に酷いところ。正直なんでこんなところに来ちゃったんだろうって何度も思ったわ。私が働いてた頃はもう少しましだったんだけどね……。でも、】
過去を懐かしむように遠い目をしていたその瞳が、急に私に向けられる。彼女の慈愛の
【今日は素敵な日。だって貴女のような麗しいウマ娘さんと同室になれたのだもの。これからよろしくね。グラスワンダーさん】
ニコリとほほ笑む彼女を細めで見ながら、眠気とともに闇へと吸い込まれる意識の中で私は静かにその言葉に心の中で返事をした。
貴女に会えて良かったです。オリヴィアさん…………。