『スペシャルウィーク!スペシャルウィークだ!スペシャルウィーク!今、差しきってゴオオォォル!!王者不在と言われたこの日本ダービーで、苦渋を舐め続けたウマ娘が、日本の王者は自分だと言わんばかりの走りを見せつけダービーを制しました!』
一月ほど前に終わった日本ダービー。
もう何度目かになるその映像をパソコンの画面から覗いていた俺は顔を上げ、眼前に広がるこの景色を凝視した。
茫漠と広がる小麦畑。金色に光り大きく実った穂がもう刈り頃だと訴えている。車の窓を気持ちばかり開けているだけでも小麦の匂いが車内に充満するのが分かった。
目だった山も無く、地平線まで広がる小麦の壁を見ながら、誰も通らないアスファルトを前にして、なかなか進まない腕時計の針を睨む。
もうすぐ宝塚記念が始まる時間か……。
ザア、という音ともに小麦の穂を一陣の風が撫でていった。
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※【】書きは本来英語です。
【足の調子はどう?グラスちゃん】
夏には定番の冷たいコーンスープを皿に分けながら、彼女はそう聞いてきた。
【ええ。おかげさまで大分良くなりました。まだ全力では走れないですけど】
そう言いながら軽く右足を撫でてみる。痛みはないが、ジクジクと疼く感覚が走り終えた後も引きづっているのが分かりました。
【もう二か月以上経つけど、やっと走れるようになってくれて嬉しいわ。やっぱりウマ娘は走ってこそだもの!】
ふくよかな体躯を揺らしながらニコニコとほほ笑む彼女の顔は丸みが強いがオリヴィアさんの姪だけあって良く似ていた。
オリヴィアさんも病気が無かったらきっと彼女のような健康的な体つきになっていたのかもしれない。とあの人の痩せた体を思い出しながらそう思う。
【そっか、もうそんなに経つんですね……。もう七月ですものね】
自分に言い聞かせるようにそう呟く。もうNHKマイルも安田記念もダービーも宝塚も終わり、競技界では少しの休息期間に移る。といっても現役バにしてみれば秋のG1レースに向けての準備期間にしか過ぎないのだけれど。
【今帰ったぞー】
置いてきた日本の思い出に浸りそうになった時、玄関の方からドアを開ける音とともに男性の低い声が上がった。
おばさんは料理の準備の手を止めて玄関に歩いていく。彼女が歩く度にドスドスと重厚な足音が廊下に響いた。
【お帰りなさい】
【ただいまグラスちゃん。今日もリハビリの散歩してたのかい?】
この家の主人がひょっこりと顔を出しました。6フィート(180cm)に届かないまでも、農作業で日焼けした肌はその細身の体を精悍に感じさせます。
私は彼の問いに応えようとしましたが、間髪いれずにおしゃべり好きなおばさんが代わりに答えました。
【あなた聞いてよ!グラスちゃんが今日走ってたのよ!栗毛の髪が棚引いて本当に綺麗だったわ!あなたにも見せたかった】
【本当かい!?素晴らしい一日になったね。もうすぐ完治も近いってことか。グラスちゃんも久しぶりに走れて楽しかったろう?】
彼の問いかけに胸の奥がズキンと痛むのを感じる。
もう空っぽの空洞になったと思ったその場所から締め上げるように私の心に何かがまとわりついた。
【……ええ。とても…………】
とっさに嘘をついたのは主人の曇る顔を見たくなかったから?……ううん、違う。本当は自分が走ることが嬉しくてたまらないのだと思いこみたかっただけ。
走れば走るだけ空しくなるなんて、こんな非情な現実受け入れたくなかった――
【ハッピーな話をさらに追加だ!グラスちゃんに最高のお土産を持ってきたよ!】
そう言ってご主人は一枚の紙を私に差し出しました。
【新しい学期は九月から始まるのは知ってるだろう?時期もちょうどいいと思ってさ、町に出るついでに申込書だけでも取ってきたんだ】
その紙切れがなんなのか認識した瞬間、運動後の静まりかけていた私の心臓が再び暴れ出した。同時に走馬灯のように駆け巡るトレセン学園での思い出。そして私と一緒に歩んだあの人――
急激な眩暈と耳鳴りの中で、私は辛うじて座っていた椅子から立ち上がると玄関へと走り出していた。
後ろから二人の声が聞こえた気がしたが、何を言っているのかは分からなかった。もうこの家にいてはいけない気がして私は今しがた走ってきた小麦畑に躍り出た。
扉が閉まるのと『USAウマ娘養成学園中途入学トライアル』の申込書がヒラリと床に落ちるのはほとんど同時だった。
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小麦畑から覗く栗色のそれを見た瞬間、俺の中の時計の針が動き出したような気がした――
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世界はこんなに灰色だったかな……?
キラキラと陽の光を反射してるだろう小川の水面。赤焼けのはずの空。飴色に実っているだろう小麦。川辺に身を寄せて揺れる白いはずススキの穂。
鼓膜を震わせただろうせせらぐ川と風の音。
小麦の葉で切ったはずの腕の痛み。
鼻をついたであろうその匂い。
空気を求めて伸縮する肺も、ドクドクと脈打つこの心臓も、なんだか他人のもののような違和感だけが私を支配した。
こんなに世界は刺激が無かっただろうか――?
この感覚、覚えてる。そう、私が初めてマルゼンスキーさんに会った時。世界は灰色になって私の時計は完全に止まった。
今日のは……、今日?
違うでしょ…………?本当はもっともっと前から……。
私の世界はずっと灰色だった。私の世界はぼやけて滲んだ。
音も匂いも皮膚も味も色さえも。
あの日から。あの時から――
私の時計は動いてない――
「助けてよ…………」
誰もいないはずの空虚な世界に漏れたその言の葉は、風に乗って飛んで行ったのだと思えた。
できれば遠く日本まで。一番会いたくて会いたくないあの人の元へ。
「グラス、ワンダー……?」
何度聞いたか分からない。幻聴だって知ってる。それでも。それでも……。
私に、信じさせて――――!!
祈る思いに身を委ねる。今の私に出来るのはこの声に縋ることだけ。
私の声が彼に届いたその世界に、私はいたかった。
もうこれで振り返るのは最後。最後のチャンスだから、お願いします……。
三女神様――!!
目をつぶりながらゆっくりと、体の向きを変える。
恐る恐る瞼を開けると、西に沈むオレンジ色の太陽が青い瞳を刺したのが分かった――