「グラスワンダー!最下位!最下位です!!一番人気が、何バ身差で勝つのかと言われていたウマ娘が波乱の最下位発進です!」
激しい雨が降る中、場内に響くアナウンスが私の耳の奥に木霊する。水の中にいるようなボヤけた音で私に非情な現実を突きつけてきた。
最下位……?誰が……?……グラスワンダーって……誰…………?
頭の奥でキーンと耳鳴りがする。
視界が狭くなって目の焦点は私の番号が載っていない掲示板だけを写していた。
息苦しさに気付いた。ヒュッ……ヒュッ……と口から漏れる呼気は不規則なリズムを打っている。
突如私は強烈な吐き気を催して泥だらけのターフの上にもどしてしまった。
みぞおちを殴り付けられたかのように胃が悲鳴をあげて朝食べた物を押し戻していく。
びちゃびちゃとゲル状の物体をぶちまけ、胃のなかが空っぽになるが、それでも私の口内に酸っぱい液体が体の奥から這い上ってくる。
……もう出ない!許して!
私は地面に這いつくばったまま、なおもえづいて粘ついた液体をだらしなく口から垂れ流していた。
そして胃酸の強烈な臭いと共に、地面を写す私の視界は飲まれるように完全にブラックアウトしていった……。
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ーー中央競バ場。そこには魔物が潜んでいる。
多くの……とは言えないまでも、ここにウマ娘達を送り出してきた1トレーナーにとって、そこは未だ慣れない場所であることは確かだった。
「緊張してるか?」
それは果たして栗毛のウマ娘に投げ掛けた言葉だっただろうか……。
「……いいえ。私、こういう大一番でもあんまり緊張しないんです」
メイクデビューに向けて多くのウマ娘が東京競バ場を目指していた。トレ選学園から専用バスで揺られる道中、ほとんどのウマ娘は初めての公式戦を控え、落ち着かない様子で雨の降る窓の外を眺めたり、しきりに隣に座るトレーナーに話したりしていた。
一方、俺の隣に座る大和撫子は凛とした佇まいで何をするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。その豪胆ともとれる様相は絶対的な自信を秘めているような気さえしてくる。
彼女の栗毛の髪も相まって、俺は自分の初めての中央競バデビューの日を思い出させられた。
「あ、あそこの和菓子屋さん美味しそうですね~。今度休日に行ってみたいです」
呑気に声をかけるグラスワンダー。タイムを計ったあの日から若干彼女との距離感が近くなった気がする。とは言え、狭いバスの隣同士の席。こんなに近い位置で座られるのは初めてである。
窓の先に指を指した拍子に彼女の長い髪が俺の顔にかかる。女の子特有の甘い香りとシャンプーの匂いが俺の鼻を刺激した。
「……ま、レースが終わったら考えてやる」
彼女はキョトンとした顔でこちらに振り向くと、少し照れたような声を出した。
「……えっと、ちょっとよく聞こえなかったもので、もう一度お願いできますか?」
少し頬を赤らめながら、いたずらっぽく笑うグラスワンダー。柄にもないことを言ったと今さらながら思い、俺は思わずそっぽを向いた。
「……ねえ、トレーナーさん」
それにしても、こいつには緊張感が足りないな。
彼女の問いに答えずに目をつむってそんなことを考えていたら、後ろから、もう……。という少し呆れたような声が聞こえてきた。
バスに揺られること30分。それほど遠くないとはいえ、やはり都会の道路は混んでいる。
それでも出走2時間前に会場に着くと、各々のウマ娘とトレーナーは荷物と共に控室に案内されていった。
俺達ももちろん控室におもむく。案内人が案内する前に、勝手知ったるとばかりにずかすがと入っていった。
「あ、あの、いいんですか?まだ案内されてませんけど……」
「いいんだよ。どうせ控室の部屋は見当つくし、今日は何レースもやるんだ。この人数を捌くのに時間がかかり過ぎる。雨の中待たされる方がストレスだろうが」
「それは、そうですが……」
そうして控室が並ぶ区画にたどり着き、『グラスワンダー様』の名札が付いた扉の前で立ち止まる。
「俺はここまでだ。不安かもしれんがレースが終わるまで会えないからな」
「ええ、承知しております」
「出走者のデータは見せたな。悪いが誰もお前の敵じゃない。いつも通り走れば一番にゴールできる」
突如グラスワンダーは口元を押さえて、ふふふ……。と笑いだした。
「……トレーナーさんって意外と心配性なんですね」
「……俺はお前に勝って欲しいだけだ」
「『お前』じゃなくてちゃんと名前で呼んで下さい?」
「……ああ、勝ってこい。グラスワンダー」
人生で一度の晴れ舞台。メイクデビューはどの試合もドラマが繰り広げられている。
数少ない勝者の歓喜と悲壮なる敗者の慟哭。
ただの披露レースというにはあまりにもウマ娘たちは真剣に過ぎた。
皆勝つためにここにいる。
当たり前だ。負けていいと思っている者など一人もいないだろう。
それでもレースは残酷に一人しか祝福しない。
二位でも頑張ったは彼女らには通用しない。二位と一位との差はそれほどまでに差があるのだ。
何レースか消化し、いよいよグラスワンダーが出走する番になった。
トレーナー特別席で眺めながら、この世代では最早敵なしだなと改めて実感する。それほどまでに彼女の走りは圧倒的だ。
パドックの様子でも実に落ち着いた表情で、やきもきしていた俺を嘲笑っているような風にさえ見えた。
人気は文句なくぶっちぎりの一番。俺は勿論、誰も彼女が誰かの背中を追いかけてのゴールを想像していなかった。
「さあ今日一番の注目のレース。本日最多票を獲得して一番人気のグラスワンダー。どんな走りを見せてくれるのか」
雨の降りしきる中、八人のウマ娘がゲートに入場する。重バ場でのレースになったがそれも想定内。わざわざ重めのコースでタイムを計り、調整してきたのだ。
負ける要素が無い。何一つ……。
ゲートが閉鎖され、各ウマ娘がスタートの体勢を整えた。
ゲートの開く音と共に八人のウマ娘が一斉に飛び出した。グラスワンダーも出遅れることもなく、集団やや後方の得意とする位置を確保する。
マークはされているらしいが、いかんせん人数が少ない。内側に押し込めようとしているウマ娘がいたが、グラスワンダーはスピードに緩急をつけ囲まれないよう位置どっていた。
気付けばすでに第三コーナー。最早集団に付き合う気はないと言わんばかりに一人飛び出し、グラスワンダーは先頭を目指す。皆重バ場で苦しんでいる中、彼女だけがまるで雲の上を走るかのように軽々と加速していった。
ーー異変は第四コーナーの始めだった。
グラスワンダーの左足が泥にとられたかのような挙動をとった。が、すぐに体勢を立て直し、走る意欲を見せる。しかしーー。
「グラスワンダー!どうしたことでしょう!みるみる減速していきます!先程抜いたばかりのウマ娘達に、一人、また一人と抜かされていきます!」
ーー何が起こった?
俺は咄嗟に立ち上がり、必死に掲示板を目指す彼女を凝視する。
左足。明らかに力が地面に伝わってない。左足をカバーするような走りでフォームもバラバラである。
彼女が必死に前に行こうと左足を上げた瞬間、その原因がはっきりと分かった。
ーー蹄鉄が付いてない……!
靴の裏。そこにあるはずの鉄の輪が無かったのである。
彼女は滑る左足を必死に前へ出し、もがき続ける。まるでランニングマシンの上で前へ行こうとしているかのような不毛なあがき。
また一人、内側から抜いていったが、恐らく彼女は気付いていない。
左足が滑らないよう、顔を下げ地面を睨みながら走っていた。
ーー信じられない光景だった。
先頭どころか、全てのウマ娘の後塵を拝し、彼女はとてもウマ娘とは思えないスピードで掲示板を通り過ぎた。
下を見ながらなおも走り続けるグラスワンダーは自分がゴールしたことさえ気付いていない。なおも本人は全力で泥まみれのターフの上を蹴りあげていた。
……もういい……。もうやめろ……!
ゴール先で減速していたウマ娘の背中に追い付き、彼女はようやく自分の今の状況を理解したようだ。
グラスワンダーは足を止めるとゆっくりと掲示板の方に顔を向けた。
呆然と掲示板を見つめていたかと思ったら突如、地面に突っ伏した。口から何か吐いたようにも見えた。
気付けば俺はターフの上で駆けていた。
柵を乗り越え、ぐちゃぐちゃになった芝の上を疾駆する。
スーツを濡らす激しい雨も、耳をつんざくであろう悲鳴のような歓声も俺には全く感じとれなかった。
彼女は四つん這いになって背中を震わせながらえづいていた。口から粘土の高い透明な液体を出しながら、コェ……。ケホ……。という生々しい嗚咽が耳に入る。
突如、俺の目の前で彼女は電池の切れた玩具のように地面に倒れこんだ。
「グラスワンダー!!」
俺は叫んで彼女の元に駆け寄る。横向けに倒れた彼女の肩を揺するが反応が無い。
「おい!しっかりしろ!おい!!」
泥だらけになった顔を叩いてみるが彼女は眉一つ動かさない。
いよいよ俺はまずいと思い、仰向けに寝かせると呼吸と心臓の音を確めた。
耳の奥に届く拍動。頬を掠める空気。
一応呼吸も心臓も動いているらしい。
「どいて下さい!」
一安心したのも束の間、俺は何者かに無理矢理引き剥がされ、グラスワンダーは白装束の男達に囲まれた。
「離せ!俺は担当トレーナーだ!」
「事情は後で伺います。とにかく彼女を治療室に運びますのでご協力下さい」
見ると、グラスワンダーは担架に乗せられ出口へと運ばれていた。
俺は気が抜けたように呆然とそれを見やり、男達が処理をしている中ターフの上に突っ立っていた。
激しさを増す雨が俺の頬を殴り付ける。
暗雲はまだ晴れる様子がない……。
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――白い……。
ぼんやりとした光が網膜を刺激する。
滲んだ世界が最初に私を迎え入れた。
次にツンとした嗅ぎ慣れない臭い。理科の実験室を彷彿とさせるその刺激が、はっきりしない思考をさらに混濁させる。
…………どこ?ここ……?
……誰か……呼んでる……?
続いて男性の声が遠くから聞こえてきた。
男の人の知り合い。日本にはそう多くない。
ああそうだ。この声、私の背中を押してくれる人。ちょっと怖いけど……。私、この人と一緒に、確か……。
(…………ンダー……)
……レースを……。
「グラス……ダー……」
……そう左足がダメに…………。
「グラスワンダー!!」
ああ、そうだ――
照明の光を浴びて、男の心配そうな顔が浮かび上がる。薬品の臭いに微かに混じる男の人の匂いが私の意識を正常に導いていった。
「お前、目が覚めたのか……?」
私は答えずに視線だけを男性の方に向けた。着けていたはずの紺色のネクタイは無く、シャツもくしゃくしゃ。髪は雨で濡れたのであろう。いつもよりストレート気味になって、彼の額を隠している。胸に着けているバッジがかろうじて彼をウマ娘のトレーナーであることを証明していた。
「……私、負けたんですね……」
それだけ言うと、彼は気が抜けたように傍にある椅子にもたれかかった。ギシリという椅子の悲鳴が静寂な部屋の中を掻き乱す。
彼はふぅ……。と溜め息を一つつくと、言葉を選ぶようにおもむろに口を開いた。
「…………ああ……。最下位だ……」
言葉を選んだにしては事も無げに無情な一言を浴びせてきて、私は力無く抗議した。
「……慰めて……くれないんですね」
「……『お前はよく頑張った』『次は頑張ろう』。そんな言葉、欲しいのか?」
――ああ、この人は私のことよく見てくれている……。
そう、私はそんな誤魔化しの言葉はいらない。
欲しいのは一着――
誰もいない掲示板をただ通り過ぎる。
――ただそれだけが欲しかった。
人生で一度のデビュー戦。初めての公式戦。
きっと一般的に特別なレースと呼ばれるものだろう。それは裏を返せば特別ではないレースも存在するということ。
けれど私にとってはどれも同じ。等しく『人生で一度』であり『中学一年生の唯一のメイクデビュー』レースなの。
全てが特別。負けていいレースなんかない……。
私はただ諦めたように微笑みでもって彼の質問に答えた。
「勝負に『次』はない」
彼はかつて聞いたことのある台詞を放ち、静寂を打ち破った。
「……グラスワンダー、お前の左足、蹄鉄が途中で外れたんだ。それで踏ん張りが利かなくなった」
――ああ、やっぱり……。
小学生の頃から使っていた蹄鉄。靴のサイズは変わってもこれだけは変えてこなかった。アメリカにいる母から誕生日に貰った蹄鉄。
それでも敗因が大切なそれで良かったと心のどこかで安心している自分が腹立たしかった。
「だが、そんなことは関係ない」
「…………ええ」
「試合中のそういう事故も含めての真剣勝負だ」
「……全て私の責任です」
「いや、俺のせいだ。左足に違和感があったのは分かってた。それを放置してしまったんだ……」
……私自身気付いてなかったのに……。
「……それでも、蹄鉄の整備は所有者個人に任されてます。完全に私の管理不足……」
「うぬぼれるな!」
突如、彼は怒気を含んだ声色で私を叱責した。
驚いて彼の方に視線を向けると、椅子から立ち上がった彼の表情は怒っているような悲しいような複雑な感情を孕んでいた。
「お前はまだデビューしたばかりの新人ウマ娘だ!お前がどんなに強かろうがな。お前自身に責任が及ぶほどお前は出来ちゃいない!だから俺達トレーナーがいるんだ」
そういうと彼は部屋の出口へと歩いていった。
「……運営に目が覚めたと報告してくる。それから…………帰るぞ」
寝てろよ。と一言付け加えると彼はドアを開けて出ていってしまった。
果たして私は叱られたのだろうか。それとも守られたのだろうか……。
何も答えてくれない天井は私の感情を嘲笑うようにあまりにも純白にすぎた。
すっかり日の落ちたビルの森をタクシーで揺られながらトレセン学園まで送ってもらった。
車内で彼は一言も喋らなかった。運転手もお喋りではないのか、目的地に着くまで運転に徹していた。私は一人寂しく、賑やかな夜の都会を車窓から眺めるだけだった。
「後は俺が片付けておく。お前は自分の荷物だけ持って寮に帰ってろ」
タクシーから降りるなり、荷物をトランクから取り出しながら彼はそう切り出しました。
「しかし、トレーナーさんだけにやらせるのは……」
「これもトレーナーの仕事だ。それに、いくら一報入れたとはいえ、門限は過ぎてるんだ。さっさと帰って寮長を安心させてやれ」
そう言われましたが、せめてトランクから荷物を下ろすだけのことは手伝い、校門の所に荷物をまとめました。
「……何から何までありがとうございます。トレーナーさんもお疲れかと思いますのでご自愛下さい。お休みなさい」
「また明日」
飄々と答える彼はこちらを振り向きもせず、荷物を抱えたままトレーナー室に向かって歩いて行きます。
いつものトレーナーさんに戻ったような気がして、私は少し安心して帰路に着きました。トレーナーさんが今回の敗戦を気に病むようだと、きっと私はそのこと自体に気をもんでしまうでしょう。そういう意味で、彼がサバサバした性格で助かりました。
雨上がりの湿気た風が髪を撫でる。誰もいない学内の夜道。私は今日の出来事を改めて思い起こしていました。
なんたる失態か……。
レースで負けるだけならいざ知らず、最下位のショックで観客の面前で醜態を晒して気絶するとは……。
いくら私が負けず嫌いと言ってもあんまりではないか。
何が大和撫子か……!
何が全戦全勝か……!!
彼が私に語ってくれた、『出るレース全て勝つ!勝たせる!』という台詞はたった一戦目で叶わぬものにしてしまった。
彼とターフで練習していた時、彼はすでに左足の異変に気付いていたのだ。トレーナーさん自身は私の責任ではないと言ってくれたが、あそこで彼を信用して左足を調べてもらったら今回の事故は無かったかもしれない。
……なんと愚かな女か!
一度自分で決めた相棒ではないか!彼のジムでの練習もちゃんとタイムという成果を伴って現れたではないか!
それなのに私は彼を心の底から信じてあげられなかった。トレーナーとしてもどこかで一線を引いてしまっていた。
その結果がこの様……。
やはり謝ろう。彼がどう言おうとあの敗北は私の責任だ。
気付けば私は走り出していた。トレーナー室の建物を目指して疾駆する。舗装された道はターフと違って夜でも安心して走ることが出来た。
トレーナー室の建物は彼の部屋だけが明かりを灯している。三階の角部屋。そこを目指して私はすでに止まったエレベーターを無視して階段を駆け上がっていった。
三階に着くと、呼吸を整えながら一番奥の明かりが付いているトレーナー室に向かって歩いていった。
いよいよ扉の前まで来て、ノックをしようと手を上げたところで私はその言葉を聞いた。聞いてしまった……。
「俺が……あいつを勝たせてやれなかった……!」
「まただ……。また俺は……!」
「……大切な試合を……、人生で一度きりのデビュー戦を……汚してしまった……!」
「……約束を……守れなかった……。全勝させてやるって……誓ったのに……」
私は上げた腕を力無く下げた。
踵を返すと足音が響かないように廊下を引き返す。
もう負けない!二度と……!!
夏草に潜む虫の音がやけに五月蝿く感じられた……。