水指(水を入れた容器)の前にドッカと座るトレーナーさん。胡坐でも背筋を伸ばしてピンと張る姿は一見凛々しく見とれてしまいそうになってしまいます。
…………いけない!いくらトレーナーさんでも指導するところは指導しないと!
釜の蓋から立ち上る湯気。その真剣……というよりもいつもの無表情なその顔を薄く隠して雰囲気だけは立派に整えています。
ですが私は騙されません!
あれだけめちゃくちゃな客の作法……というかあれは作法と呼べる代物でもありません!あんな無体が通るならば茶道もへったくれもないではないですか!
見せてもらいましょう。カブラギさん流の茶の点て方を……!
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※【】書きは本来英語です。
【そんでねー、グラスったらこの時……】
アルバムを見せながらなんだか妙に密着してくる妹のワンダーアゲイン。彼女が声を上げながら愉快そうに体を揺する度に、ソファを支える木製の足がギッ、ギッと軽くうめいた。
【あ、ああそうなのか……】
生返事するが、正直ほとんど話が入ってこない。ノースリーブで肌が露わになった腕が、半袖で同じく剥き出しの自分の皮膚に密着する度にいやな悪寒が体を巡るのが分かる。軽い香水を着けているのだろうか、ほんのり甘い香りが漂ってくるが、それも今の脳内では異臭として認知していた。
【って、トレーナーさん聞いてます?英語分かる?】
【ちょっと、体調が……。長旅のせいかな……?】
九月から中学生とはいえ、れっきとした小学生に密着されただけで明らかな拒否反応が意図せず現れてしまう。女性に対するこの反応だけは未だに慣れなかった。
クーラーが効いている以上に、体から異常なほど熱が逃げていく感覚がする。思わず二の腕をさするとザラザラした感触が手のひらを刺激した。
【わ!トレーナーさんすごい鳥肌!本当に調子】
【アゲイン!カブラギさんに何してるの!?】
突如リビングに聞き知った声が上がる。声のした方に目をやると、そこには耳を後ろに絞り切った栗毛の怪物の姿があった。
【あれ~?グラス姉ちゃん『家の敷居は跨がない』って】
「トレーナーさんこっち!」
手を掴まれたかと思うや否や、グラスは俺を引っ張っていく。後ろの方から妹が何か言っていたが、俺はワンダーアゲインと離れられたことに安堵し、そんなことには耳に入っていかなかった。
あれ?そういえば…………。
グラスと繋いだ手の温もりが俺の鳥肌をゆっくり溶かしていっているのを感じていた。
「トレーナーさん!妹とはいえ年頃の女子とあんなに密着するなんてふしだらです!」
軒先の縁側に連れ出された俺は何故か担当バに説教されていた。
「いや、お前……」
『家の敷居は跨がない』などと言っていたのに……。
だが今それを言うのは藪蛇だな。
「アゲインもアゲインです![[rb:他人 > ひと]]のトレーナーさんだと思ってあんなことするなんて!」
大分興奮しているのか、俺が言いかけた言葉を遮ってさらにまくしたてる。さっきから耳も絞り、しっぽも不機嫌な感情を表してせわしなく動いていた。
そ、そこまで怒るか?
こんなに不機嫌なグラスワンダーを見るのは初めてで、俺はどうしたものかと思案していた。
「カブラギさん!こういうことは止めて下さい!家の中だから良かったものの、学園内であのようなことをしていたら問題になってますよ!」
確かにそうだろうしそんなことは流石に分かっているのだが、いかんせんこういう扱われ方をされたことがないので、いざこういう事態になるとどう対処すべきかが分かっていなかった。
……いや、あったか……。ああ、そうだ。あの時からこの悪寒が……。
「カブラギさん、聞いてるんですか!?」
「…………なあグラス。ちょっといいか?」
そう言って俺は今しがた離したはずのグラスの右手をとって再び繋いでみた。今度は指と指を絡めてしっかりと握ってみる。
軒先から差し込む陽の光も相まって、その手は俺の中に残る冷気を追い出していく。じんわりと広がる温もりが指先、手のひらから全身へ流れていくのが分かった。
……やっぱり……。
「ト、トレーナー……さん……?あの…………」
先ほどの怒声とは違う何かはにかんだような声色が俺の耳に入ってくる。
不思議に思い絡めた手の先にあった視線を上げてみると、そこには顔を真っ赤にしている愛バの姿があった。顔ごと少し逸らし、青い瞳はこれ以上ないほど横を向いて俺を直視しないように努めているのが分かった。さっきまで後ろに絞ったその耳は赤く充血し、先端が申し訳なさそうに少し折れ曲がっている。左手の手の甲で隠そうとしていたが、まるでりんごのように全体が赤く染まったその顔は隠しようが無かった。
「あ!悪い!」
そう言ってすかさず手を離そうとする。しかし、一瞬だけグラスの手がギュッ、と力がこもったのが分かった。
その瞬間、離れようとしていた俺の手が再び密着する。だがそれも一瞬で、すぐに力が弱まりその隙に俺はグラスの手から逃れた。
「……トレーナーさんが、こんな不埒な方だとは……思いませんでした……」
そうは言うが、尻尾は先ほどにも増してぶんぶんと風切り音が聞こえるほど激しく暴れ、喜びの感情を如実に表していた。
「いや、ちょっと確認したいことがあってな。別にやましい気持ちがあったわけじゃなくてだな、なんというか、お前と繋がっていると安心できるというか……」
それでも言い訳を試みる。しかし言いながら、この言い分は余計問題ではないのか?と心の中でセルフ突っ込みを入れてしまうぐらい俺もテンパっていたのは確かだった。
「……いいでしょう。普段のトレーナーさんらしくない挙動も全てアゲインのせいということに致します」
あまりに挙動不審だったためか、グラスは赤く染まった顔を逸らしたままそういう解釈で許してくれた。というより、自分を納得させたというようにも見えた。
「しかし、しかしですよ、私の子供時代を一方的に見られたというのは不本意です」
そうは言うが、正直俺はアルバムどころの心境ではなかったのでほとんど記憶に残ってはいない。
「なので……」
「私のお茶に一席付き合って頂きます」などと言われたはいいものの、その後がいけなかった。うっかり俺も経験者などと言ってしまったのが運の尽き。
作法などは知っている。知っているが、知ったうえで俺はやりたいようにやっていた。胡坐をかいて座るし、「菓子はお茶と一緒に食べるのが美味いんだ」と言ってわざわざ一緒に食べたり。いやそこまでは何も言われなかった。気を使って言わないでいたのだろう。だが最後に、お茶を出したグラスに「あとは片付けとくからグラスも茶菓子たべな」なんて言ったらそこでキレられた。
「最後まで片付けてこそ作法なんです!なんなんですかさっきから!?」
担当バはいくつか受け持ってきたが、こんな風にプリプリ怒られるのは新人の時以来だった。怖いというより、むきになっているウマ娘が新鮮で可愛いと思えてしまう。胡坐をかいたのは右足が悪くて正座出来ないからだと言ったら許してくれたが、「それなら最初に言ってください」と言われてしまった。
「分かった。悪かった。それじゃあ今度は俺が点てるから。ご指導の方よろしく」
そんなわけで久方ぶりの茶を点てることになった。なんせ二十年以上ぶりだから覚えているかと不安になったが、いざ水指を運び、なつめ(茶粉を入れる容器)、茶碗、次いで建水(湯や水などを捨てる容器)を運んで座るころにはもう落ち着きを覚え、袱紗を畳んでなつめを拭いているころにはもう薄茶点前の全てを思い出していた。
まあ、あんだけやりゃあ体が覚えているか。
クソみたいな親父に叩き込まれた(と言っても先生は別にいたが)作法が今役にたっているかと思うと少し癪に障る。本来なら感謝すべきなんだろうが、俺もなかなか薄情なやつだと自嘲した。
「グラスは足大丈夫か?お前も折れてたんだろ?」
茶筅で茶を点てながらそう聞いてみる。
グラスが茶を点てる前に確認して大丈夫と言われたが、正客として座るのも合わせたらもう三十分近く正座していることになっているからだ。
「……私は大丈夫ですよ。これが『正しい座り方』なんですから、これを崩すのはまかりなりません」
まだ怒っているのか、言葉の端々に怒気が含まれているのが分かる。
『正しい座り方』ね……。
正座というなんとも尊大な名前を付けられてしまったその座り方を少し哀れに思う。
なら胡坐は間違った座り方かな?……っと。
茶筅を茶碗の中でゆっくりと回して止める。右手で取った茶碗を左手の手のひらに乗せて正面を整え、右横に差し出した。
楽焼か……。
グラスが正座のままにじり寄って出された薄茶を楽焼の茶碗ごと持っていく。アメリカとは思えない、畳を敷いた静穏な和室の中で栗毛のウマ娘が茶を飲む音だけが響いていた。
きっと着物を着ていたら和室に調和して額縁に入れておきたいほどの美しい絵になる状況だっただろう。洋服を着ていることを少し恨みながら、横目で愛バが自分が点てた茶を飲んでいるのを眺めていた。
何口目にか、ズッという音がして茶碗から口を離したグラスは口縁(茶碗の縁)を指で拭きながら口を開いた。
「……ちゃんと出来るじゃないですか。作法を知っていながらそれをしないのはいかがかと思います」
そんなことを言いながら縁外に置いた茶碗を検分するグラス。
いや、お前の家のもんなんだから知ってるだろ。
内心ツッコみを入れてしまうが、また作法云々いわれそうなので口をつぐんでしまった。グラスの所作は美しくはあるが、教科書通り過ぎて面白みに欠けるところがある。
まあ茶道に面白さを求めるのも違うか……。ただ……。
「お前ならこういう、きちっとした作法の茶の点て方が好きだろう?客に不快感を与えないように振る舞うのがもてなしだ」
そう言いながら、茶筅通しで水を入れた柄杓を置き柄杓の形で釜に置いてみる。
ピクリと横にいる客が反応したのが分かったが、その場で何も言われることは無かった。
「一つ、これはトレーナーとしてではなく、人生の先輩として言っておきたいんだが」
袱紗を建水の上ではたきながらそう口にする。パン、パンと叩く度に茶杓を拭いた茶粉が建水に落ちていった。
「型を覚える。型にはめて動くことは重要だ。型があるということはそれが最適解であり、先人の経験と知恵によって築き上げられてきたものだからだ」
袱紗を畳んでズボンのベルトに引っかける。
「だが型を完璧にこなせるようになったら、今度は型をあえて崩してみることも覚えておいてもらいたい。違った視点から新しいことを学べたり、本当に今までやってきた型が最適解か考える機会になるからだ」
水指から柄杓で水を掬い上げて釜の上からそれを流し込んだ。
「レースでも同じだ。セオリーはあるが、それだけだと相手に読まれやすい。対策も立てられやすい。型から外れればそれだけで二手も三手も相手に選択肢を与えて迷わせることが出来る」
トポポという音と共に釜の中に水が注がれていく。ジュウという揮発する合図と同時に釜の上から流し切った柄杓を引き寄せた。
「……言いたいことは分かります。ですが、限度というものがありますでしょう?それに、まずそれを言うなら完璧に作法をこなして下さい」
「あ?どこか間違えていたところがあったか?」
釜の蓋を乗せながらそう聞いてみる。少しずらした蓋の先から熱い蒸気が手にかかるのが分かった。
「茶筅通しの時、柄杓を戻す時には引き柄杓です。さきほどカブラギさんは置き柄杓でなされてましたよ」
「おっとそれは失敬。さすがに作法を熟知しているだけはあるな」
言ってから自分の頬が緩んでしまうのが分かる。こうも思惑通りに運ばれてしまうところはまだまだ中学生だと感じてしまう。
「……もしかして、トレーナーさん……。わざと……?」
さすがに察したのか、グラスワンダーは上ずった声でそう答えた。少し顔をグラスの方に向けると、正座ながら耳をピンと立てて拳を膝の上で強く握っているのが見えた。
「指導を仰いだ先生の顔を立てるのも礼儀かとな。ただそれはバレなければの話だ。それに、さっきの俺の客としての態度も悪かった。相手を不快にさせない心は客にも必要だからな」
柄杓を置いて水指の蓋を乗せた後、俺は愛バの方に向き直った。今度は真剣に。面と向かう形になると、栗毛の怪物は唇を引き締め、先ほどとは違う緊張した面持ちになったのが分かった。
「ウマ娘の頂点に立つことは綺麗ごとだけじゃできない。型通りセオリー通りやって勝てるのは本当に強いやつだけだ。残念ながらこの世代のウマ娘たちは誰かが抜きんでて強さを発揮しているわけじゃない。ダービーはスペシャルウィークが獲り、シンザンも宝塚でサイレンススズカに負けてクラシックに入っても未だ未勝利だ。俺たちが目指す頂点への道は茨になる。相手の裏をかくのはもちろん、時にはダーティーな手段も選ばないと勝てない時もあるだろう。それでもお前は即座にそういう判断を下せるか?」
彼女はその緊張した面持ちを崩すことなく、俺の眼を青く燃える双眸で捉えたままゆっくりと口を開いた。
「……真剣勝負とは、命の取り合いと同じと捉えております。もちろん、私も正攻法で勝てるのならそれに越したことはありません。ですが、それだけで勝てるほど甘い世界だとも思っておりません。先の皐月賞での戦い方も正攻法とは遠いやり方でしょう。それでも決められたルールの中で、いかに相手を出し抜くかを模索することもまた真剣勝負であると考えています。良心を痛めることもあると思います。親しい友人を罠にかけることになることもあるかもしれません。それでも、私は立ちたい。ウマ娘の頂点に」
透き通るようなその瞳の奥に秘められた強い意志。
今一度それを確認したかったのは彼女の優しさを知っているが故か。
「……それでいい。朝日杯のシンザンのやり方と俺のさっきのやり方は似ているようで違う。シンザンは最初から型をしらなかったが、俺はあえて外していた。型を知らずに好き勝手やるのは単なる考えなしだが、型を知り、その上で崩すことはその裏をかくのを見つけるきっかけにもなる。それを続けていく先にあるのはあれだ」
そう言って床の間に飾ってある掛け軸に手を差し伸べる。
そこには陽の光にさらされた『融通無碍』の文字が浮き立って茶席を見守っていた。
「……ふふふ」
「何がおかしいんだ?」
「すいません。ただ、お茶の席でまでレースの話をしているものだからつい……」
からからと玉のように笑うウマ娘は陽光を背にして女神のような微笑みを湛えていた。
「お前だって四六時中考えているんだろ?それが俺の知ってるグラスワンダーだ」
そう言うと、彼女は暖かい眼差しの端に獲物を狙うするどい眼光を宿したような気がした。
「あらまあ、カブラギさんは私のことを良くご存知で……。ですが、いいえ、それだけでは不十分です」
そう言うとグラスは正座のままズイと前へ進み出る。
「今の私はレースだけではありませんよ」
なんだか蠱惑的な視線で俺を捉える栗毛の怪物は、さながら肉食獣のようであった。そのまま目線を真っすぐに捉えたまま少しずつにじり寄るグラス。もう息がかかるのでは思うほどに近づいてもなお距離を詰めようとするところで、普段とは違う何かを彼女から感じ取っていた。
俺は言いようのない不安に駆られると、視線を逸らしながら話題を変えるためにさっき気付いたことを口にしていた。
「そ、そう言えば、さっき楽焼の茶碗を使っていたけどな、普通薄茶はもっと格の低い茶碗を使うべきだぞ。井戸茶碗とか」
それを指摘すると、目前まで迫るグラスは動きを止めて目を見開く。きょとんとした顔を晒したかと思うと、急に顔が赤くなってしどろもどろで言い訳をしだした。
「そ、そんな!だって私、トレーナーさんがお客になるから、最高の物使わなきゃって……」
「確かに楽焼は最高級の茶碗だが、適材適所があってな。ラーメンを食べるのに、螺鈿を施したどんぶりは使わないだろ?極端な例だがそういうことだ」
そこまで言うと我が愛バは両手で顔を覆って固まってしまった。何やらブツブツ言っているが両手で覆った口元から洩れるそれは何を言っているかまでは聞き取れない。いや、ここは聞かないのが礼儀というものだろう。
それはそれとして、襖を少し開けてウマホで録画しているであろう妹のアゲイン。
あれは流石に怒るべきだろうな……。
俺は固まったまま動かない彼女を残して立ち上がると、俺は襖に向かって静かに歩いて行った。