「グラスワンダー」
理事長室に響く幼さが残る甲高い声。しかしその声色は抑揚を抑えた威厳に満ちたものでした。
「……はい……」
恐る恐るその呼び掛けに応えますが、計らずもその声は若干震え気味で、自然と尻尾も耳もしなだれてしまったのが自分でも分かりました。
やよい理事長は机越しに後ろ向きのままでした。後ろ手に組んだ右手には扇子が握られ、一定間隔でトン、トンと左手を叩いています。そして一つ間を置くと、その小柄な彼女はゆっくり言葉を繋げました。
「今回の騒動、一体どれ程の者に迷惑かけたか理解しているか?」
「……はい。私自身、大変重く受け止めております。この度は如何様なる処罰も覚悟しております」
「処罰……?」
そう言うと扇子を叩いていたその手が止まり、ゆっくり顔を捻るとその体躯に似つかわしくない鋭い眼光が私の方に向けられました。
「そう、処罰は下るだろう。君がこの学園の生徒であるならばの話だ。……グラスワンダー、学園校則5条13項を知っているかな?」
冷たい手で心臓を掴まれたような錯覚を覚えました。
四肢は冷え、急激に喉の渇きを覚えたかと思うと意に反して呼吸がいつもより荒くなっていきます。体の横に伸ばした手の先がわずかに震えだすのが分かりました。
「…………『特別な理由が無い限り、十四日以上一切の活動報告が無ければトレーナーとその担当ウマ娘間で交わされた担当契約は破棄される』……です」
やっと絞り出したその言葉に、私は自分自身が怖気づいてしまっていることに気付きました。
今まで心の中だけで、口には出してこなかったこの言葉。実際にこうやって声に出してしまうと現実になりそうな気がしてとても耐えられそうにはありませんでした。今だって今すぐにでもこの場から逃げ出したい心持ちなのですから。
「……それで?グラスワンダーがこの学校からいなくなっていたのはどれ程の期間か?」
鼓膜の奥がボーンと耳鳴りを起こし、自分でも分かるぐらい、ハッ……ハッ……と呼吸が乱れ始めます。額にはじっとりと嫌な汗が浮かび、思わず握りしめた掌もぬるりと汗の感触が伝わりました。
「………………二か月……以上、です…………」
震える言葉に力はなく、言い終えた私はただ黙って彼女の横顔を息を飲んでみつめていることしかできませんでした。
「呆然……。私は少なくとも学園のウマ娘達には最良の環境を整えたいと願って尽力してきたつもりだ。過去学園では色々な問題が起きた。その大半は故意ではない過失ということもあり処罰も大目にしてきたことは否めない。前途ある有望なウマ娘諸君の未来を潰すような真似はしたくないというのが私の本心だ」
しばしの沈黙。理事長の言葉を理解しようとそのセリフを反芻していた私の視界は徐々に明るくなっていくのが分かりました。俯き加減だった頭を上げ、理事長の後姿を直視すると、上ずった声が自然に溢れてきました。
「じゃ、じゃあ……!」
「しかし!一方で私は理事長という立場として厳粛に物事を執り行わなければならない時がままある!」
しん……。と静まり返った小さな部屋の中でやよい理事長の深々とした溜め息が一つこの部屋を満たしました。
「二か月……。……実に不本意だ。実に不本意だがこれほどの期間学園を空けたというのは私にさえ看過しかねる大問題、ということだ」
そこまで言うと理事長はゆっくり体ごとこちらの方に向けます。
私はもう視界がぼやけ、強烈な眩暈を覚えながら理事長の一挙手一投足を凝視し続けていました。
「グラスワンダー。君に今回の沙汰を申し下す!」
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キイ……。という扉の軋む音と共に俺の愛バは理事長室から出て来た。
久しぶりに学生服に袖を通した彼女は茫然自失と言ったような様子で顔は目を見開いて無表情だったが、耳が左右にせわしなく動いて落ち着かない心境を表しているのが容易にくみ取れた。
少し落ち着くのを待つか……。
「……話はゆっくり聞いてやる。こんな所じゃなんだし、どっか別の」
「ぬわあああぁぁぁぁぁん!!たづなああああぁぁ!!怖かったよおおぉぉ……!辛いよおおぉぉぉ……!良かったのかなあ?ほんとにこれで良かったのかなあ?私間違ってないかなあ?」
俺のセリフをぶった切って理事長室からやよい理事長の情けない大声が扉越しに聞こえて来た。夏休み中で廊下に人もいないからまだ良かったが、こんな声は一般生徒には聞かせられない。
グラスワンダーも口元を小さく開けて呆れ気味な顔を扉に向けていた。そりゃあさっきまで処分を言い渡すために威厳たっぷりだっただろうやよい理事長がこの豹変ぶりなのだ。困惑もする。
「とにかく行こうか。話はトレーナー室にでもしよう」
理事長っていう役回りも大変だな……。と思いながら歩を進めようとすると不意に袖を掴まれ引き留められるのが分かった。
「……一週間、の謹慎、だそうです。それだけ……」
彼女は言葉の一つ一つを確認するようにゆっくりと話し出す。まるでこれが現実かと疑うように。
まあそんなもんか……。
仰々しく理事長室まで連れていかれた担当バを尻目に、俺は大方これほどの軽い処罰を予想していたのでショックも何も無かった。しかし、一方のグラスワンダー本人は信じられないというように不思議そうな青い瞳をこちらに投げかけて来た。まるでこの程度で済んだ事情を知っているのではないかと問いかけるように。
「あー……。まあ……」
彼女の真意が伝わった上で俺は言い淀んで少し考えた。これを明かすべきかどうかと。
きっと今までの俺だったら「お前には関係ない」とか言って誤魔化しただろう。けれど今一度考えなおす。俺は周りに誰もいないことを確認するとその理由を話し始めた。
もう彼女は担当バというくくりで収まるウマ娘ではなかった。そんな関係に収めたいとも思わなかった。俺の大切な相棒なんだから。
「……極秘なんだが、俺と理事長で取引をした。二年後に開かれるURAファイナルズという大会の最高責任者になるという条件を交換にグラスとの契約解消は無効にしてもらったんだ」
「そ、そんな……。私のせいでそんなこと……」
「お前のせいじゃねえ!」
一喝するとすぐにグラスは口をつぐんで黙った。眉をひそめて不安そうな瞳が俺を射すくめる。
「俺達は相棒だ。誰のせいだ、どっちの責任だなんてもうやめよう。俺達は二人で一つ。遠慮なんかするな」
「美しい関係性だな」
女性にしては渋めの声。
俺は聞き覚えのあるその声の方向に視線を向ける。
「是非ともあたしともそういう相棒になってくれると嬉しいんだが」
そこには鼻に絆創膏をつけた黒鹿毛のウマ娘、ナリタブライアンがいた。ジュニア期の彼女は夏合宿にはいかずに学園で自主トレをしていたのであろう。ジャージ姿のそれは土埃で薄汚れているのがよく分かった。
「えっと……。どちら様でしょうか?」
「来年のクラシック三冠を獲る者だ。グラスワンダー先輩。望むべくは貴女とは同じトレーナーを持つ同輩としてありたいんだが」
「ブライアン」
その名前を呼ぶと金色の双眸がしっかと俺の顔を射抜いた。相も変わらず野生の熊のような雰囲気に気おされそうになりながら俺はゆっくりと口を開いて自分の胸の内を明かした。
「メイクデビューの時期も過ぎてしまったこんな時期まで担当トレーナーがついてない状態にしてしまったことには申し訳ないと思っている。そして俺の相棒にしてやれないことも」
そこまで言うと、彼女は心底驚いた表情で俺の顔を覗き込んだ。
「きっとお前は三冠を獲れる。それほどの逸材だ。だがすまない。俺はグラスワンダーにトレーナー人生全てを賭ける。お前だけじゃない。他のだれが申し込んできてくれても意見は変えない。だから申し訳ない。ブライアンが俺のチームに入る余地は無いんだ」
静かに、毅然と言い放つ俺の言葉をブライアンは黙って聞いていた。
今までのらりくらりと彼女の申し出を躱してきた俺が、今度は正面きって真っ向から否定する俺をどう見ただろうか。
彼女はゆっくり瞼を閉じると、フッ……。という含みを持った笑顔を一つ作り、それから改めて口を開いた。
「……あい分かった。カブラギトレーナー。あたしが目をつけたトレーナーがまた回答を避けるような情けないやつじゃなくて良かった。グラスワンダー先輩。今度はターフの上で相
それだけ言うと彼女は踵を返して廊下を帰っていく。その姿は胸を張り、威風堂々としていた。
俺は彼のウマ娘の背中を見送りながら、俺の未練とも心の中で静かに別れを告げた。
「トレーナーさん……」
『本当によろしかったのですか?』一瞬そう聞こえた気がした。
「ありがとうございます」
俺の予想とは違うその言葉は、俺が誓ったその決意を強く固めさせるには十分だった──
グラスワンダーの袖を掴んだ手に力がこもるのがスーツの生地越しに伝わるのが分かった。