きっと貴方のことが好き   作:圧倒的雑魚臭

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番外編にしようかと思ったけど、これが番外編だとこの先ほとんど番外編になっちゃいそうなので普通に本編にします。正直、このシチュエーションを描きたかっただけです。後悔はしてません。離岸流には気を付けましょう。


初めてのキスは潮の味

 

「どうしたんだ?熱中症じゃないだろうな?ボーッとして……」

 

 トレーナーさんの声で我にかえる。

 

「あ、いえ、大丈夫です。今日は遠泳、というお話でしたよね」

 

 さっきまで別の事に集中していたのを誤魔化すようにそう返しました。

 まだ二日目というのに、のぼせ上ってしまいそうになる心を落ち着かせて彼の顔を見てみます。

 まっすぐ通った鼻筋。日本人としては少し高めかもしれません。それが顔の掘りを深めて、彼のちょっと欧米よりの顔立ちを強調しているのでしょう。眠たそうにちょっと閉じかけの瞼の奥にはトレーナーさんの黒曜石のように黒く光る瞳があります。気のせいでしょうか、最近の彼の瞳は前よりも生き生きとした光が時々垣間見えるような気がします。少し薄めの唇。ぷるっとしているほどではないですが、綺麗な薄ピンク色にぷっくりしたそれは少し……いえ、かなりセクシーだと思えます。頬はこけているというほどではないですが、ふっくらしているというよりはどちらかと言うと痩せ気味でしょうか。それから日に焼けた褐色の肌。私の事を日の照り盛る下で探し歩いたという証拠でしょう。元々色白だったのがアメリカで会った時にはこんなに黒くなっていてそれが誇らしくさえ思えます。そしてちょっと長めのくせの強い黒髪は顔にかからないようにヘアバンドで前髪がうしろに纏められていました。

 それがために彼の顔が普段よりはっきりと見えてしまい、私の心はまた跳ねるように拍動を早めてしまうのです。

 

 何度繰り返したでしょうか、クリップボードに挟まれた今日のメニューを見ながら説明するカブラギさんを尻目に、私はまた彼の顔から視線をそらして別のところを見ようとするのですが、それが逆に私の心をかき乱します。

 

 だって水着姿である彼の裸体がどうしても目に入ってしまうのだもの……。

 

 いつもだったら平常心で見ていられるはずの彼の顔も、見るだけで心臓が跳ね上がってしまうのはきっとこのせいです。

 熱中症というのならきっとそうなのでしょう。トレーナーさんという強烈な太陽にこんな近くで何時間もいたら熱中症にかかって当然です。

 今も視線を漂わせているのに、いつのまにか彼の胸板を凝視している自分がいます。肩幅は男性の中では特別広いというほどではありませんが、やはり男の人は女のそれと比べると広くてたくましく感じます。特にカブラギさんは胸板は厚い方でしょうか。何かしらスポーツをやっていたような引き締まり具合を感じます。お腹もそう。薄い皮膚の下にうっすらと六つに割れた腹筋が隠れているのが分かります。トレセン学園のウマ娘のようにガチガチに鍛えているというほどではありませんが、ほどよい肉付きのそれは私の劣情を否も応も無くかきたてました。

 

「……というコースで泳いでもらう」

 

「………………」

 

 トレーナーさんの説明が終わったのはなんとなく分かるのですが、なんだか遠くの出来事の様で、ボーっと呆けたように私は彼の厚い胸板を眺めていました。

 

 突然、影がかかったかと思うと、私の視界一杯に彼の顔が現れました。同時に額にカブラギさんの温かい手のひらが触れるのが分かります。

 

 ……近い!近すぎる…………!!

 

 急なことに心の準備が出来ていなかった私は、顔から火が出るような勢いで頭に熱が昇ります。きっと耳まで真っ赤になったであろう私の顔は、辛うじてカブラギさんに見られることはありませんでした。彼は私の熱を測っているのか、顔は近いものの視線は空を見上げるようにして手のひらに集中しているようでした。

 

「……熱は、若干あるか……?」

 

 ……このままじゃ練習中止になっちゃう!

 

「ああああの、きっと、そう!日差しが強いのでそのせいで、それでおでこが焼かれて熱持ってるんですよ!今日はすこぶる体調がいいんです!」

 

 そう言って誤魔化すようにその場で屈伸して見せます。

 きっと彼は困ったような渋いような複雑な表情を見せているでしょう。でもそんなことにはお構いなく、私は必死で健康アピールをしていました。

 トレーナーさんがどうとるかはともかく、こんな下世話な理由で練習中止になるなんて私の矜持が許しません。そう、これは私の矜持の問題です。決してトレーナーさんの、その……肢体を見ていたいからとかそんなことでは断じてありません。

 一層準備体操に熱が入り、自分の中のモヤモヤを払うようがむしゃらに体を動かします。

 

 見なくとも顎をさすりながらどうしたものかと苦心しているのがよく分かるトレーナーさんの背後から、見知った男の人とウマ娘さんが歩いて来ているのが分かりました。

 

「あら、貴方たちも泳ぎ?良ければこの一流と一緒ってのはどう?」

 

「どうもっす!カブラギ先輩!グラスちゃん!先輩たちもこれからトレーニングですか?うちらもっす」

 

 キングヘイローさんとそのトレーナーさん。早朝ながら燦燦と照り付ける太陽を防ぐようにトレーナーさんが日傘をさして、その陰にキングさんも一緒に入っていました。広義では相合傘ということになるのでしょうが、雨が降ってるわけでもなく底抜けに明るいキングさんのトレーナーさんがいるとセンチメンタルさなど微塵もなく、ただただ仲の良さそうな同級生というような体裁でした。

 

「先輩、日焼けには気を付けて下さいよ。合宿は何日も続くんですから。特にグラスちゃんなんか日焼けしたらギャルっぽくなっちゃうでしょ?おしとやかで清楚なのに勘違いされて逆ナンとかされちゃいますよ。あ、それ以前にパパラッチがすごいか。皐月賞とってるし、巷では二か月行方不明の謎のウマ娘扱いで、なんかUMAみたいな感じになってんですよ。『目撃情報求む!』とか雑誌で大々的にやってたし。まあダービー過ぎたら沈静化したみたいですけど。でもまだ探してる記者はきっといるでしょうから、それで日焼けしてたら二か月遊び歩いてたんじゃ?とかいらない憶測立てられるんですよ。あいつらあることないこと勝手に書いていくじゃないですかぁ。そんで……」

 

「うるせえ。んなこたあ分かってるよ。何年トレーナーやってる思ってんだ。ちゃんと日焼け止めも塗らしてるよ」

 

「マジっすか。俺たちもっす。背中とかキングに塗ってもらったんですよ。キング結構細かくて、『塗ってる最中に動くな』とか、あ、そういえば使ってる日焼け止めってなんですか?俺のおススメは断然……」

 

 トレーナーさんの背中に日焼け止めを塗ってあげる!?なるほど、そういう手もあるんですね……。

 

「それで、貴女は何を考え込んでいるのかしら?これからトレーニングでしょう?何か支障でもあるかしら?」

 

 いつの間にかキングさんが隣に来て私の顔を覗き込んでいました。

 我ながらバカバカしい思考に囚われていると思い、(かぶり)を振って邪念を振り払います。そんな私を訝しむように見つめるキングさんの視線が刺さりました。

 

「……だがまあ、丁度いいタイミングで来てくれた。グラスの様子がなんだか芳しくなくてな。きっと調整明けと慣れない炎天下のせいだと思うが目に見える程の不調じゃないんだよな。本人もやる気あるし、若干心配だったんだがキングヘイローと一緒に泳いでくれれば何かあった時に安心できる」

 

「そういうことならいいですよ!是非一緒にやりましょう!」

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「ようし、そのままブイの所まで行って折り返し!」

 

 ボートに揺られながら彼女達の泳ぎを眺める。メガホンを口から離すと波立つ飛沫が口に入って塩味が広がった。

 グラスの様子が普段と違ったので不安はあったが、泳ぎだせば特に異常もなく、キングヘイローの泳ぎにちゃんとついていってる。というより少しグラスの方が速いぐらいだ。まだ怪我明け間もないからあまり無理してほしくはないが。

 

「いいぞキング!最高のクロールだ!グラスちゃんもヤバい!背中から腰にかけてセクシー!どっちもいいよ!甲乙つけがたい!でも欲を言うならキングもうちょっと頑張れ!担当トレーナーの贔屓目だけどキングには勝ってもらいたい!あ、あとキングがセクシーじゃないってことじゃないよ!キングはどこをとっても完璧!一流の風格が離れたボートにも漂ってきてる!ちゃんと五感で一流感知してるから!もっと一流出して!そうすればきっとグラスちゃんに追い付く!追い越す!そうすれば初のG1制覇も見えてくるよ!」

 

 となりの柴﨑はずっとこんな感じだ。ただただひたすらにうるさい。

 

 それはいいとして、やはり遠泳はトレーナー側としては神経を使う。ウマ娘は負担を軽くすませ、全身運動出来るという点で実に理にかなったトレーニングだ。特にまだ本調子ではないグラスワンダーにとってはうってつけだろう。だが常に水難事故の危険と隣り合わせだ。快調に見えてもすこし目を離したら溺れかけてたなんて話も聞いたことがある。

 今も一定の距離を保ちながら、グラスとキングの泳ぎに並走して常にボートを動かしていた。タービンに巻き込まれないように気をつかいながら彼女らを見失わない、あわよくばすぐに助けられるほどの距離を保ち続ける。

 

 髪を纏めてるとはいえ、キングもグラスも長髪だからな。念のためもう少し距離開けておくか。

 

 そんなことを思いながら一瞬だけボートの操作に気を取られた瞬間、

 

「あ!グラスちゃんどこ行くの!?」

 

 柴崎が大声を上げる。それにつられて視線をウマ娘の方にやると、ブイのところで折り返すはずなのにグラスだけがそのまま直進してクロールで泳ぎ続けていた。

 

「グラス!止まりなさい!こっちよ!」

 

 グラスワンダーの後ろを泳いでいたキングもブイに捕まりながら大声を張り上げるが、聞こえていないようで止まる気配がない。

 

「グラス!!くそっ……!!」

 

 この先は離岸流がある。時間帯にもよるが危険な所だ。落ち着け俺。まずキングを回収してボートに乗せる。それからグラスに追いついてグラスも回収すればいい。焦るなよ。

 

「柴崎!先にキングをボートに乗せる。手伝え!」

 

「……はいっす!キング!一旦ボート乗れ!中止だ!」

 

 キングヘイローがボートに上がる間も俺はグラスを見失わないようにその栗色の髪を睨んでいた。遠泳ということでそれほどスピードは出ていないはずだが、それでもウマ娘の力は人のそれとは比べるべくもなく、どんどんその影が小さくなっていく。さらに波が高めである上何も目印の無い海原。波で時折見切れて見失いそうになるグラスの後姿を目で追っていた。

 

「グラスさんったら負けず嫌いにもほどがあるわ。絶対前を譲らなかったんですもの。でもどこまで行ったのかしら海の上だとすぐ見えなくなる」

 

「俺が分かってる。出発するぞ」

 

 目の端でキングが乗ったことを確認すると、ボートのエンジンを動かしてスピードを上げた。幸いにもグラスはまだ辛うじて視界に映っていた。

 

 少しハプニングがあったが、まあなんとかなったな。……それはそれとして後で説教だな……。

 

「柴崎運転代われ。グラスの進路前に行って止める。どうせ呼びかけても聞こえてないだろうからな」

 

「了解っす!」

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 あれ?キングさんいない?

 

 その異変に気付いたのは二十分ほど泳いでいた時でしょうか。

 

 負けず嫌いな私はキングさんに先は譲らず、私が常に頭をとって泳いでいました。それでもキングさんは私のすぐ後ろを追うように張り付いていたはずです。ですが、今はその気配を感じません。

 

 少しペースを落としたのかな……?

 

 多少心配したもののコースも決まっていましたし、トレーナーさん達も並走していましたから止まることなくそのまま泳ぎ続けました。

 

 それにしても、次のブイはどこでしょうか?

 

 もういくつもの目印となるブイを追い越してきましたが、次のブイが見当たりません。数え間違えでなければ今度のブイで折り返しのはずですが……。

 

 そんなことを考えていると、前方にヒトらしき影をとらえました。何もない海原。透明度の高い海水はその人が男物の水着を着て綺麗な立ち泳ぎをしているのが十分に知らせてくれます。というより、よくよく近付いてみるとあれはカブラギトレーナーでした。

 なぜこんなところにトレーナーさんが泳いでいるのかという疑問が当然浮かんで、私はクロールを止めて彼と相対しました。

 

「……ぷはっ!トレーナーさん?こんな所で何をしてらっしゃるのですか?」

 

「一旦中止だ。コース外れてるぞ。とりあえずボートに乗れ」

 

 彼が指す方を見るとトレーナーさん達が乗っていたボートが波に揉まれて浮かんでいるのが分かりました。そこにはキングのトレーナーさんだけではなく、キングヘイローさんも乗っています。

 

「おーい!グラスちゃんこっちー!」

 

「グラスさん!早く乗りなさい!」

 

 ボートの上では二人がメガホンを使って声がけしているのに今さらながら気付きました。特にキングさんのトレーナーさんはなんというか、全身を必死に使って何とも言えない動作で注意を引こうとしているのが分かります。

 

「……もしかして、何か迷惑おかけしましたか?」

 

「その説明も後でする。とにかくボートに乗ってくれ」

 

「……承知致しました」

 

 トレーナーさんの言葉の端々から、何となく私が失敗してしまったような感じが伝わってきて私は少し気落ちしながらボートに向かいました。

 

「グラスちゃん掴まって!」

 

 キングのトレーナーさんが引っ張りあげて私をボートに引き上げてくれました。私が乗り込むと少し海が荒れていることもあってか、ボートが大きく揺れます。ボートが落ち着くのを待ってから私は振り返って今引き上げられたところに手をさし伸ばしました。

 

「トレーナーさんも乗って下さい」

 

 しかし、伸ばしたはずのその手の先には青い水面があるだけで人の姿はありませんでした。

 

 ?……あれ?トレーナー、さん?

 

 最初は波の合間に隠れたのかとも思いましたが、辺りを見渡してもどこにも見当たりません。ふざけて水面下に隠れてるのかと一瞬思いますが、そんなイタズラをするような人ではないことは私がよく知っていました。

 

 一向に姿が見つからず戸惑っている私にキングさんが声をかけてきました。

 

「あら?カブラギトレーナーはどうしたの?」

 

「いえ、それが……どこにも姿が無くて……。おかしいですね。ついさっきまで私といたのに……」

 

「何々?どしたの?あれ?先輩まだ上がってきてないじゃん」

 

 三人で辺りを探してみますが広がる海原が見えるだけで、どこにもトレーナーさんの姿は見つけられませんでした。

 

「おっかしーなー。あんなちょっとの間で見えなくなるぐらい遠くまでいけるわけないのに」

 

「のんき面してんじゃないわよ!へっぽこ!海のど真ん中で人が消えたなんて命に関わる一大事じゃない!さっさと携帯で応援呼びなさい!」

 

「そ、そか……。えっと緊急海難救助の番号って何だっけ?」

 

「事務所でいいでしょ!早くしなさい!へっぽこ!」

 

 おかしい。おかしい……。ついさっきまで一緒にいたのに……。

 

「え……!離岸流!……はい!……はい!とにかく沖の方探してみます!」

 

 キングさんのトレーナーさんの声が私の耳に届く。その単語が何か脳が理解すると、サーッと全身の血の気が引いていくのが自分でも分かりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナーさん!!トレーナーさん!?」

 

 悲鳴にも似た呼びかけがどこまでも広がる青い水面に吸い込まれていく。

 何分経ったでしょうか。沿岸から大分離れた所まで来ましたが、波が高くなるばかりで一向に彼の姿は見つけられません。

 

「もうすぐ救援の船が来るわ!諦めないで!」

 

「……波が高くて視界が悪い!あ!あそこ!何か黒いのない!?」

 

 反射的にキングさんのトレーナーさんが指さす方向に目を向ける。そこには20~30mほど離れた海上に黒い球体の上半分ぐらいが波間に見え隠れしているのが確認できました。

 

「近づいて確認……!ってグラスさん待ちなさい!」

 

 トレーナーさん!トレーナーさん……!

 

 言うが早いか、私はボートの縁を蹴って飛び込んでいました。

 沿岸沿いとは違う、荒々しい波に飲まれそうになりながら私は必死に水を掻いてその目標に向かって前進しました。

 それに近づくにつれ、水面から出ているのがただの球体ではないことが分かってきます。水に塗れて長く垂れた髪の間から虚ろな目が覗き、口元はもう海面の下に隠れていました。鼻先も波に飲まれて今にも沈んでしまいそうです。

 

「トレーナーさん!!」

 

 私がその人の目の前まで来た時には頭が沈み、ゆっくりとその体が海底へ引き込まれていました。もがくように海面へと伸ばしたその手を辛うじて掴んで引き揚げます。

 

「ぷはぁ!」

 

 水上に出ると、掴んだ腕を肩に回させてその人の頭が海面上に出るように気を付けます。そこで改めてその顔を見ると、やはり私のトレーナーさんその人でした。

 気を失っているのか瞼は閉じ、日に焼けた肌が若干白みがかっている気がします。私の顔のすぐ近くに彼の顔があるのに呼吸音も呼気のにおいも感じられません。

 

 重い……!

 

 人一人抱えながら海に浮かぶだけなのがこんなに大変だとは思いませんでした。一人でやる時の立ち泳ぎとは違い、ほとんど足だけで浮いている上に、もう一人分の浮力が必要なので少しでも気を抜くとあっという間に沈んでいってしまいそうでした。

 

「キングさん!みんな!ここよ!」

 

「こっち来て!浮き輪掴んで!」

 

 いつの間に投げ込まれたのか、すぐ近くに救命用の浮き輪が浮いていました。私はそれを必死に手繰り寄せて掴むと、キングさんとそのトレーナーさんに引っ張られてすぐ近くまで来ていたボートになんとか引っ張り上げてもらうことが出来ました。

 

「ちょっと!息してないわよ!」

 

 キングさんのトレーナーさんに捕まれボートにはい上るや否や、キングさんの悲痛な叫びが私の鼓膜を震わしました。

 

「心臓は!?」

 

「……心臓は動いてる。でも呼吸してないわ!水飲み込んでるのかも!」

 

 ボートの上に横たえられたトレーナーさんはピクリとも動かず、まるで眠り込んでいるように見えました。

 

 そんな……。そんな……!このままじゃ…………。

 

「人工呼吸だ!」

 

 キングさんのトレーナーさんが弾かれるようにそう叫ぶ。その言葉にハッとして私の混乱しかけた頭を冷静にさせました。

 

 ……そうだ。私がしっかりしなきゃ。今トレーナーさんを救えるのは私たちだけなのよ。しっかりしなさいグラスワンダー!

 

「私がやります!」

 

 カブラギさんの頭側に一番近かった私は反射的にそう答えると、すぐに彼の顔の横で正座座りをしました。顎を持ち上げ口を開けさせて気道を確保させる。鼻をつまんで覆いかぶさるように私の顔を彼に近づけました。

 

 …………待って……。これって、もしかして……キ、キスというものではないでしょうか?

 

 唇と唇、吐息がかかりそうな至近距離で私は目を見開いて目をつぶった彼の顔を凝視して固まっていました。

 

 そう、日本語では接吻という代物。基本的には愛しあってる者同士がする行い。唇と唇を接触させて愛情を表現する手段。いえ、これは救命行為。口と口を通じて酸素を送り届けるだけの行為。大したことではありません。フレンチキスみたいなものです。ですがフレンチキスというのは何故か日本では唇と唇が触れるだけの軽いキスのことを指しますが、本来はし……舌を入れてそれを絡まらせるようなディ……ディープ、キスのそれを指していたはずです。そ、そんなキスを!?私が!?人生で最初のキスを!?トレーナーさんと!??……違います違います。これは酸素を送り届けるのです。酸素を送るためにマウストゥマウスをしなければならないだけです。キスとは違うのです。でも舌を絡ませた方が酸素を送りやすいとかないでしょうか?気道が塞がるのは舌根という舌の根本が気道を塞いでしまうからというのを聞いたことがあります。ということは舌を絡ませて引っ張り上げながら酸素を送ればより効率的なのではないでしょうか?いえ、そんなことを習った記憶はありません。この上無く名残惜しいですがやはり何かしらの不都合があり、救命行為としては不適格なのでしょう。そうです。今は救命行為をするんです。(よこしま)な気持ちなど微塵も介入する余地などありません。これは医療行為。仕方なく唇と唇が重なるだけ。この……す、吸い込まれそうな、か、彼の唇と私の、唇が重なって……。

 

「うっ……!ゴホ!ゲホ……!」

 

 突如として私の下からむせぶ声が聞こえたかと思うと、ゴポという音とともに海水が彼の口から漏れ出すのが分かりました。同時にトレーナーさんの瞼がうっすらと開いて見開いた私のその視線と重なります。

 

「…………グラ、ス……?」

 

 その時、大きな波がボートを揺らして船体を傾けました。

 瞬間、唇に柔らかい感触があったかと思うと、バランスを崩した私の体は柔らかい何かに受け止められました。

 何が起こったのかと放心していると、力なく腰に回された人肌の感触とともにすぐ耳元で愛しい彼の弱弱しい声がかかりました。

 

「……ありがとう。グラス…………」

 

 ~~~~~!?!?ト、トレ——!?

 

 今の状況が把握できると同時に、私の顔が熱湯を注がれたように一瞬で熱を帯びるのが分かりました。

 私は丁度、トレーナーさんの体に覆いかぶさるように彼の上に横になっていたのです。腰から伝わる温もりはきっとカブラギさんが手を回して抱き留めてくれたのでしょう。そして、一瞬でしたが、唇に触れたあの感触はおそらく——

 

「やった!息を吹き返した!」

 

「グラスさんの人工呼吸が良かったのね!」

 

 囃し立てるように喜ぶ二人をよそに、どんな顔をしていいのか分からないのと、今の顔を誰にも見られたくなくて両手で顔を覆って彼の上に居すくんでいました。

 カブラギさんから伝わる優しくじんわり広がる体温と私の胸を打つトクトクという心臓の拍動が私の火照った熱を逃がしてくれそうにありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい。グラスさん」

 

 目の前に差し出されたサイダーの瓶を手に取りながら、私は改めて今日のお礼をキングさんに伝えました。サイダーのガラス瓶から冷たい冷気が手のひらに渡っていきます。

 

「今日は助けてもらってありがとうございました。それと、迷惑かけてしまいすいません」

 

 海辺の小屋の日陰で体育座りをしていた私の隣にキングさんも同じように座りました。手にはもう一本サイダーの瓶。キングさんのような銘家のウマ娘でもサイダーのおいしさは通じるみたいです。

 カブラギさんはすぐに回復したのはいいものの、トレーナーさん達二人は調書のために事務所に召集されてしまい、私たちはそれが終わるのを待たされる形になっていました。

 

「でもよかったわ。最悪の事態にならなくて」

 

「全部私のせいです。私がコースを間違えなければ……」

 

「おバカ!」

 

「ひゃ……!」

 

 突然、私の首元にひんやりとした感触が来て、私は思わずキングさんから距離をあけるとまだジンジン残る首元を手で押さえました。

 

「誰のせいでもないわよ。これは事故よ。そうやって自分を責めないの!」

 

 『俺達は相棒だ。誰のせいだ、どっちの責任だなんてもうやめよう』。そう言ってもらったトレーナーさんの言葉と重なり、私は少し自嘲気味に薄く笑みを浮かべました。

 

「でも嬉しいこともあったわよね?」

 

「え……?」

 

 ドキリと心拍が跳ねるのが分かります。あの一連の出来事を思い返しながら、キングさんにこの恋心がバレてしまったのではという疑念が過ぎりました。

 

「だってほら、貴女の足、大分調子良さそうじゃない。一度折れたんでしょう?私とあんまり遜色なさそうだけど」

 

「え、ええ。おかげさまで……。調整もうまくいってなんとか元の状態に戻れそうです」

 

「まあそれは良かったけど、貴女さっきの飛び込みもそうだけど無茶しすぎじゃない?今度折れたらまた同じように治るとは限らないんだからね」

 

「……ええ。肝に銘じておきます」

 

 あの日、中山競バ場でのレースが蘇る。あれだけの無理をして右足まで骨折して、得られたのは負けに等しい仮初めの勝利だけ。

 

 ……ありがとうございます。でも、それでも私は——

 

 もう後悔はしていない。していないけれども、だからこそ、あの勝利できるかできないかの瀬戸際での無茶が正当化されたような気がして私は言葉とは裏腹に心の中でそう(うそぶ)いた。

 

「おーい!キングー!」

 

 声の方を見ると、キングさんのトレーナーさんがこちらに手を振りながら歩いてきているのが見て取れました。

 

「すぐ行くわ!」

 

 そう言ってキングさんは立ち上がると、「これカブラギさんと飲んじゃって」と言ってまだ栓を開けてないサイダーを投げてよこしました。私は投げられた瓶を反射的にあわてて取ると、またキングさんから声がかかりました。

 

「それから、応援してるわよ!貴女の恋路——」

 

 一瞬、何を言われたのか理解が追い付きませんでしたが、すぐにその言葉の意味が分かると、私は顔を真っ赤にして体育座りのまま、その場で俯いて悶絶していたのでした。

 

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