「グラスは今日行くんデスか?」
砂浜をランニングしてる時にそう投げかけられました。
まだ朝日が昇りきる前。水平線の向こうから太陽の光が顔を出して砂浜を照らしています。朝焼けの光がうろこ雲を茜色に染め上げ、波立つ海面を太陽まで続く光の道のように反射しているその様は幻想的でさえありました。
「……なんのことでしょうか?」
朝の軽めのランニングに珍しく付き合ってくれたエルコンドルパサーにそう投げかけました。すでにG1レースを二勝している怪鳥は息も切らさずついて来ます。
「今日の夏祭りのことだよ!最寄りのお寺でやるんだって。わたあめにやきそば!たこやきとかトウモロコシもきっとあるよね!あ、お好み焼きも食べなきゃ。チョコバナナとかりんご飴も出てるよね!」
すぐ隣を走るダービーウマ娘、スペシャルウィークが嬉しそうにそう語りかけました。
「にゃはは。流石スペちゃん。みんな食べ物のことだね~」
「ちょっとスカイさん!貴女だけ遅れてるわよ!」
「朝は眠いの。付き合ってあげてるだけでも褒めてくれなきゃ~。セイちゃんもっと遅くなっちゃうかも~」
皆が砂浜を踏みしめる度にザッ!ザッ!という砂利の音が私たち以外誰もいない海辺に響きます。
ウミネコの鳴く声と浜辺に打ち寄せるさざ波の音が私たちの掛け合いをからかいました。
「今日は夏祭りの日だったんですね。……でも浴衣じゃないと参加できないのですよね?私、浴衣を持ってきておりませんのでどうしたものか……」
「あはは!別に全員浴衣じゃなくてもいいんだよ」
「そうデース!エルはプロレスの格好してイキマース!櫓舞台の上で真剣勝負するデース!飛び入り参加も自由!いつでもどこでもだれでもかかってこいデース!」
「それでは、いまここで私としますか?真剣勝負。レースで、ですけど」
私がそう切り出すと、一瞬ピリッとした空気が流れるのが分かりました。皆一様に緊張した面持ちで私の一投足を注意しているようでした。
ザンッ!
一歩、力強く砂浜を蹴り上げる。その瞬間、皆弾かれるようにして姿勢が前傾になるのが分かりました。
「おい!全力ダッシュ禁止だ!」
聞き知った声が木霊します。その声がした方を見ると、誰よりも見た男の人がすぐそこにいました。
「すいませんカブラギさん……。つい……」
「たくっ!負けず嫌いは相変わらずだな。別にそれは悪くねえけど、時と場合を選べよ」
朝の自主練に付き合ってもらっていた私のトレーナーさん。その人から足元が見えにくい朝の暗い砂浜で全力疾走は駄目だと言い渡されていたのでした。
「私たちも乗ろうとしてたんだから同罪よ。申し訳ないわ」
追いついてきたキングさんがそう口にすると皆申し訳なさそうに伏し目がちに謝罪の言葉を口にしました。
「あー、別に怒ってるわけじゃねえからいい。それより、もうすぐ朝の点呼だから帰って支度しとけ」
私たちは口々にカブラギトレーナーに挨拶を交わすとトレーナーさんと共に宿舎の方へと向かって歩き出しました。
「でもさ~、カブラギトレーナーって意外と悪い人じゃないよね~。うちらの自主練に付き合ってくれるし。うちのおじいちゃんトレーナーさんはなんか目の敵にしてるからさ~。もっと意地の悪い人なんじゃないかと思ってたよ~」
「……意外で悪かったな」
「こら!スカイさん!そんな言い方グラスさんとトレーナーさんに失礼でしょ!契約解除しても良かったのにグラスさんを必死にアメリカまで探しに行ってくれたのよ。そんな一途な人が悪い人なわけないでしょ!」
「おやおや~?キングはやけに肩もちますね~。もしかしてカブラギトレーナーに惚れちゃってます~?実はよく見るとイケメンだったりもしますもんね~」
「おバカ!仮にもよそ様のトレーナーさんにそんなことあるわけないでしょ!」
「え~?じゃあキングんとこの柴崎トレーナーさんだったら……それはないか。ってさっきからすごい殺気を感じるんだけど」
私のすぐ前を歩いていたセイウンスカイさんが警戒するようにこちらに顔を寄こします。
「あら、どうぞ続けて頂いてよろしいですよ~。ウフフ……」
「それより今日のお祭り、行きますよね?だったら皆で一緒に行きまショー!あ、もちろんカブラギトレーナーも」
「いや俺は……」
エルが喜色満面の笑顔で私たちを誘いますが、それに割って入るように私が答える前にキングさんが口を挟みました。
「ああ!えっと……グラスさんは他に用事があるのよね?残念だけど、私たちとは行けないと思うわ」
「え?でも私」
突然、キングさんに肩を掴まれると、顔を近づけて小声で話しかけられました。
「あのね、こういうイベントごとこそカブラギトレーナーとデートするチャンスでしょう!?まったく、しっかりやりなさいよ」
「何コソコソしてるデスかー!?」
でえと……?…………デ、デート!?
その言葉の意味を理解すると、計らずも顔に熱を帯びるのが分かります。
「え!?グラスちゃん一緒に夏祭り回れないの……?」
残念そうに私を見つめてくるスペちゃん。スペちゃんにこんな顔をさせてしまったことに狼狽えながら、一方でトレーナーさんとの逢い引きを想像するだけで興奮してしまう自分がいました。
「え……ええと、ですね……」
二の句を継げずに目を泳がせていると、渋い表情で私を睨むキングさんが目に入ります。
私は一つ息をつくと、覚悟を決めてスペちゃんに向かって切り出しました。
「すいません。一緒に回りたいのはやまやまですが、大切な用事がありまして……。申し訳ございません」
「そうなんだ……。それじゃあしょうがないね」
「ケーッ!大切な用事ってなんデスかー?私たちと夏祭りに行くより大事な用事なんて」
「エルコンドルパサーさん。他人のプライバシーに首を突っ込むものじゃないわよ」
「おいもうすぐ点呼だぞ。急げよ!」
トレーナーさんがそういうや、皆あわてて宿舎に向かって走っていきます。私も駆け出そうとしました。
「グラス!」
思わずかかったトレーナーさんの声は私を振り返らせました。白んできた空にオレンジと青が混ざったうろこ雲は海に立つ波の様で、まるで水平線をはさんで上下に海原が二つあるような錯覚をさせました。
「用事もいいが、学生っていう時も二度とはないんだ。青春を楽しめよ」
今までトレーナーさんからこんなことを言われたことがなかったことと、わざわざ誘いを断ったのがまさにおっしゃって頂いたその人本人のせいなのに、という複雑な心境を抱いて私は言葉が出てこず、立ち尽くしていました。
「…………トレーナーさん、練習の後少しお邪魔してもよろしいですか?」
「?ああ、別に大丈夫」
それだけ聞くと、私は踵を返してその場から走っていきました。
まだ吹いている陸風が私の髪を撫でてフワリと棚引かせました。
「そ、そんなこ…………」
あまりのショックで言葉が出てきませんでした。
私たちしかいないトレーナー室の空調が、ブーンと音を立てて嘲笑います。
「俺なんかと一緒に行くよりエルコンドルパサーたちと一緒に行ってやれ」
なんか……と……?
「言っただろう。数少ない青春なんだ。こんなオッサンに気を遣う必要なんてないんだから」
「………………………」
勇気を振り絞ってぶつけたその気持ちが、彼の無情な言葉で容赦なく切り捨てられていくような気がしました。
私はあんまり悔しくて情けなくて、歯を食いしばってぶるぶる震えながらその恥辱に堪えていました。ギュッと握った手のひらに爪が食い込みます。椅子に座っている彼に表情を見られないように、私は深く俯いてじっと床板を睨んでいました。
「それに仕事もたまっててな。悪いが」
「……分かりました。もういいです。失礼します」
私は俯いたまま早口でそれだけ呟くと、踵を返して足早にトレーナー室を後にしました。
ばたん、という木製の扉が空しく二人の間を引き裂いたのが背中越しに聞こえました。
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ばたんと閉じられた木の板を前に俺はしばし呆然とその扉を見つめた。
……なんか、嫌な……。
なんとなくグラスワンダーの様子がおかしくて、前にも同じようなことがあったことを自覚する。
急に不機嫌になって言動が他人行儀になる。何か俺に不手際があったのだろう。今までだったら思春期特有の難しい時期だからと放っておいた。それまで担当した娘で似たようなことが無い事はなかったが、レースの成績に支障がでるとかそういったことがないからあまり気に留めていなかった。
いや、それは嘘だ。俺は面倒くさがって意図してそういう事象を無視してきた。
『思春期だから……』『女子特有の……』そんな言い訳をならべて彼女たちと真剣向き合ってこなかった。
そして今度も同じように繰り返してしまった——
ああそうだ。『大切な』用事、と言っていたよな……。
大切……?俺と祭りに行くのが……。
改めて考えてもみるが、どうしてグラスが俺と祭りに行くことが大切な用事なのか皆目分からない。同期たちと一緒に行くのが大切というなら分かるが……。
俺と親睦を深めたいということだろうか?そういえば最近はつっけんどんな態度になってしまっていたような気がする。きっとこの間の海難救助のせいだ。
あの日からどことなくグラスを——
何気なく唇を人差し指でなぞってみた。
ふと二年前のことを思い出す。彼女の契約解除をしたのもこんな夏の日だった。あの娘がどんな心境だったのか未だに真意は分からない。本当に恋慕だったのかあるいは——
もし『そうだったら』という思いが一瞬過ぎるが、すぐにそんな詮ない事は無意味だと気付いた。
バカだな。もうやること決まってんだろ。
俺は今日中にやるべき書類をデスクに放り出して出かける準備をした。
バサバサとデスクから紙の束がいくつか落ちたが拾う間も惜しくて俺はドアに向かって歩きだしていた。
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「どうしたデスかー?グラスー」
エルの言葉に我に返ると、私は改めて標準を定めます。
パンッ!パンッ!と弾ける音が響くと、棚に置かれた景品が次々と落ちていきました。
バカ……!バカ……!!
憂さを晴らすように模擬銃の引き金を引いていく。景品をあの人の顔に見立てて打っていくと、何故か異様に命中しました。
「すごいデス!グラース!」
「何かあったの?なんか顔が鬼気迫ってたんだけど」
スカイさんが引き気味にそう言うと、私は努めて笑顔で返しました。
「……フフ。皆さんと夏祭りを回れて嬉しいからですよ~」
「でも良かったの?大切な用事があるって言ってたのに……」
「その話はもういいの。今はスペちゃん達と一緒にこうやってお祭りを堪能するのに集中したいんです」
心配そうに聞いてくるスペちゃんに私はわざと明るくそう返します。「おバカ……」と私の背後で呟くキングさんの独り言は聞こえなかったことにしました。
「おう!なんだー?おめーらも夏祭りきてたんか!」
聞きなれた声に振り向くと、そこにはゴールドシップさんが法被姿で仁王立ちしていました。170cmの長身に葦毛長髪の彼女が腕を組んでハチマキに法被を着ているとそれだけで絵になります。
「奇遇ですね!ゴールドシップさん!良ければ私たちと一緒に回りませんか?」
「そう言ってもらえるのはやまやまだけどなスペシ、あたしはこれからやきそば屋台でイカ焼きを売りつつ木星人を捕まえてゴルゴル星へのルートを尋問しなきゃいけねえんだ。というわけで、お前らも手伝え!今ならゴルシちゃん特製の生姜焼き弁当フラペチーノ和えをプレゼントするぞ!」
「ちょっとゴールドシップさん?待ちなさ……。キャッ!」
キングさんの制止も聞かずに私たちを無理やり連れて行こうとするゴールドシップさん。人混みの中を背中を押すように誘導されていく皆を見ながら、「これも一興」と思いその後ろをついて行こうとしました。
「グラス!!」
祭りの喧噪にも負けない大声。よくよく知っているその声が私の鼓膜を震わすと、思考より先に反射的にその人の方に振り向いていました。
クールビズで上着を羽織っていませんでしたが、いつもの仕事用の白いTシャツに紺のスーツパンツを着ていて、とても祭りに参加するような恰好ではありません。人混みにまみれて困っているような焦っているような表情をしているのが遠目の私にもよく分かりました。
……ごめんなさい。トレーナーさん。
正直、今はトレーナーさんの顔を見るのも嫌で、私はカブラギさんを無視してゴールドシップさんの後をついて行こうとしました。
「待ってくれ!グラス!」
踵を返して歩こうとしたその腕を男の人の大きな手で掴まれました。そのゴツゴツとした無骨な手を振り払おうとも思いました。
しかし思いとは裏腹に、私はただ黙って、人混みをかき分けて来たであろう彼の荒い息遣いの先のセリフを待って耳をそばだててました。
「……俺は、お前のことが知りたい」
ハッとして思わず振り返る。ぼんぼりの淡い光に照らされた、真剣な表情の黒い瞳の奥に驚愕したウマ娘の顔が写っていました。
「俺はきっとお前を傷つけたのかもしれない。……今この場で謝るのは簡単だ。……それで……ただ、原因が何かも分かってないのに……そんなことをするのは、グラスに対して失礼、だと思ったんだ。だから……知りたい。お前が何を、考えてるのか。どうして……怒ったのか、知りたいんだ」
自分の考えを言葉に出すのが苦手なのが良く伝わります。とぎれとぎれに、それでも必死に自分の想いを吐露するその眼差しは誠実そのもので。私は思わず掴まれた腕から彼の手をそっと取りました。
「……ありがとう、ございます。トレーナーさんにそんな風に思って頂いて大変嬉しいです」
そこまで言うと、トレーナーさんの強張った表情が少しだけ緩むのが分かりました。
「もちろん教えて差し上げるのはやぶさかではありませんが、ここではちょっと……。なので、」
「あ……!おい……!」
私は手に取った彼の手を引いて人混みから遠ざかりました。
もうすぐ花火が始まるアナウンスが流れているのが辺りに響いていました。
出店の間の細い道を抜けてメイン通りからはずれた歩道に出ます。所々にベンチが置かれ、そのうちの一つに一組のカップルが休んでいるところを通り過ぎました。囃子太鼓が微かに聞こえ、櫓の灯りがぼんやり石畳を照らしています。
「……トレーナーさん?」
喧騒が聞こえなくなるぐらい遠くまで来ると、私は立ち止まって振り向きもせずそう問いかけました。繋いだ手の先から彼の上気した温もりが伝わります。
私は周りに誰もいないことを確認してから、手を繋いだままゆっくりと彼の方に向き直りました。
「私のこと、知りたいですか?」
自分でも分かるぐらい火照った頬に、落ち着かない心臓が私を急き立てます。ヒグラシがカナカナと夏を奏で、小路を通る一筋の風が額に浮かんだ汗を拭いました。
繋いでいた手を名残惜しく解き、私は彼の傍まで寄るとそっと彼の首に両手をかけました。トレーナーさんの首の後ろに両腕を回して、逃げられないようにしっかりと自分の手と手を繋げます。
彼の背がそれほど高くないのが幸いでした。背の低い私でも腕を伸ばせばカブラギさんの首もとまで手が届いたのですから。
「お、おい、グラス?」
焦燥の色が隠せない彼の声はとても可愛らしくて余計胸の鼓動を速めました。癖毛の合間に見える少し怯えたような眼差し。急いで追いかけてきたのであろう、汗ばんだ額。動揺を隠せずにあちこちを彷徨う視線。汗のにおいが混じる彼の濃厚な匂い。密着した布越しに伝わる彼の温もり。それを見せられただけでもう、先ほどのことを許してしまいそうになるぐらい愛おしく感じてしまいます。
「なあ……、まだ何か…………怒ってる、んだよな?」
「ええ。とっても怒ってます……」
思わず腕に力がこもるのが分かります。もう隙間などないと思われた私と彼の間がさらに縮まります。計らず小刻みにたたらを踏んだ彼は私との隙間を完全に埋めて密着した状態になりました。服越しでも分かるぐらい強く、彼の心臓がドキドキと私の喉元を叩きます。
「気に障ったことなら謝る。何が原因か後で聞いてやるから、とりあえずさ、手をほどいてくれないか?」
急に早口になってそうまくしたてますが、私は一層腕に力が入って決して逃がすまいと彼を引き寄せます。少しずつ近くなるトレーナーさんの顔をずっと凝視していました。
「……ダメです。許しませんし、離しません」
あの日とは違う、自分からいくと決めたからにはこんなにも大胆になれる自分に驚きながら、私は彼の顔に自分の顔をさらに近づけました。もう吐息がかかるぐらい、私の視界いっぱいに彼の顔が映ります。彼の吐息に混じって苦味の強いコーヒーの香りが鼻をつきました。
「……どうすれば、許してくれるんだ?」
「知りたいですか……?」
つま先に力を入れて少し背伸びをします。
見上げていた彼の顔が少し下がって、やっと彼の見てる景色に追い付きそうな高さになりました。そこまでくると彼は視線を逸らしながら唇をキュッと結んで硬直してしまいました。そして今さらながら気付きました。彼の頬が赤く染まっていることに──
トレーナーさん……。
……かわいい
もっと近くで彼の顔が見たくてさらに足に力を入れました。
もう本当に、唇と唇が触れそうなぐらいに──
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「私のこと、知りたいですか?」
グラスの声がいつもより少し上ずっているように聞こえたのは気のせいだっただろうか……。
人気の無い子道に出ると、彼女は俯いたままこちらの方に振り向いた。
握っていた手を離したかと思うと、彼女はおもむろに近づいて俺の首に両手を這わせてきた。首の根本に回された両手はしっかりと握りこまれ、身動きがとれないような状態になる。
「お、おい、グラス?」
ゆっくり上げた愛バのその顔は紅潮し、いつものグラスではないことがすぐに分かる。密やかに湛えた笑みは含みをもって俺を誘い、青い瞳の奥に揺るがない決意が滲んでいた。
間近で見たその栗毛のウマ娘は提灯の薄ぼんやりしたオレンジ色に染められて、どことなく艶やかな雰囲気が彼女を覆っている。少し潤んだ瞳に水気を含んだピンクの唇が俺の心臓を速めた。
「なあ……、まだ何か…………怒ってる、んだよな?」
「ええ。とっても怒ってます……」
言葉とは裏腹に、彼女の顔はいたずらっぽく笑みを深める。首にさらに力がかかり、俺は思わず前のめりに倒れそうになるところをなんとか踏みとどまった。しかし、俺とグラスの間はもう髪の毛一本も入らないほど密着していた。彼女から漂うほのかな抹茶と女子特有の甘い匂いが鼻をくすぐる。密着した服越しから伝わる体温がグラスの火照った体を知らせていた。布越しでも彼女の胸が押し付けられるのが分かると、計らずもそれを意識してしまっている自分がいた。
「気に障ったことなら謝る。何が原因か後で聞いてやるから、とりあえずさ、手をほどいてくれないか?」
言い訳するように早口でまくし立てる。俺の頭は困惑と混乱で、思考より先に言葉が出ていた。
グラスがこんなことをしている目的も分からなかったがしかし、同じように抱き着かれたたづなさんの時のそれとはあまりに違い、ここまで心情を揺さぶられることに驚きと困惑が強かった。
これは、マズイ……!
今更ながらそんなことを思い、逃れようとするが、その前に彼女の手に一層力が入って俺はさらにグラスの方に引き付けられた。
「……ダメです。許しませんし、離しません」
ぼーっと呆けたような表情のまま、その顔は目と鼻の先まで迫ってきた。彼女の端正な面持ちが視界一杯に広がり、まるで俺の世界はグラスワンダーに支配されてしまったようにすら感じた。髪の毛から漏れるシャンプーの匂いに気をやってしまいそうになる。
「……どうすれば、許してくれるんだ?」
「知りたいですか……?」
ささやくように、妖艶にそう答えるグラスワンダーは重たそうなその瞼をゆっくりと下ろし始めた。同時に近づいてくる唇。
それを見ると頭がどうにかなってしまいそうで、緊張のあまり体が硬直してしまった。もう彼女を正視することができずに視線を逸らして事のなりゆきに身を流してしまいそうになった。
ドオォーーン!!
爆発音。
びりびりと空気の振動が肌を通して伝わってくる。
何事かと見渡すと、空高くに大輪の花が咲いている音だった。赤に緑に様々な色を呈しながら一瞬で散っていく空の花。
俺たちが呆けてそれを見上げているともう一つ特大の花火が夜空を彩った。
「……フフ……。驚きましたか?トレーナーさん?」
手を解いてゆっくり離れていくウマ娘。少し俯いたその頭のウマ耳は名残惜しく何かを探すようにせわしなく動いていた。
「お前……。そんな風に人をからかうもんじゃない。勘違いする人だっているんだぞ」
未だ鳴りやまない心臓の音が花火の音に混じって鼓膜を震わせた。
「だって、私すごく怒ったんですよ」
プイッとそっぽを向きながら答えるその声はいたずらがバレた子供のようだった。
「それは……すまなかった。けど、結局グラスは何に怒っていたんだ?」
「………………教えません」
それだけ言うと彼女は誰もいない細道を振り向きもせず駆け出していった。
俺が呼び止めようと反射的に出したその手は空しく空を切り、小道に吹くじっとりとした風が俺の伸ばした腕を笑っていった——