ビリッ!!
もう日が沈みかけたトレーナー室。その部屋に響く紙を破く音が響く。ビリビリと親の
「『不退転』?……何が『不退転』か……!」
自分で書いて掲げた書を自分で破く。そんな不合理をいつもの俺なら制止していただろう。だが、彼女の犯した行いを考えると、自分で自分が許せないというその想いは痛いほど分かってしまっていた。
ひとしきり紙を細切れにした後、彼女は荒い息づかいを整えるために一つ深呼吸した。深々と息を吐ききると、俺の愛バはいつもの表情で振り返って交手した姿勢で傍観していた俺と相対した。
「……お見苦しいところお見せしてしまいました。しかし、私はどうしても過去の自分が許せませんでした。『不退転』と誓っておきながらトレーナーさんの前から、現実から逃げてしまったこと。悔やんでも悔やみきれません。……そして、改めて誓わせていただきます。もう私は逃げない、退かないと。貴方と共にウマ娘の頂点まで突き進むことを」
振り向いた彼女の瞳は若干潤んでいたが、間違いなくそこには青い焔の闘志が静かにゆらゆらと揺らめいているのが見て取れた。
「お前だけのせいじゃない」「支えになってやれなかった俺こそ悪かったんだ」。そんな言葉は今の彼女の決意には軽い気がして、俺はそのセリフを喉元で留めた。
「……お前の決意は良く伝わった。ウマ娘の頂点、俺が連れて行ってやる」
「ありがとうございます。トレーナーさんならきっとそう言って頂けると思っておりました」
強張った表情が緩み、いつもの笑顔が見えると、殺伐としたトレーナー室に一輪の花が咲いたようだった。
「だが改めて問うが、ウマ娘の頂点とは具体的になんだ?」
「…………凱旋門賞」
しばらく考えた後、彼女はゆっくりとそう答えた。その眼は冗談でもなんでもなく、真剣に世界を獲りにいこうとしているそれだった。
凱旋門賞。フランスのパリロンシャンで開かれる、押しも押されぬ世界最高峰のレース。世界中のウマ娘が恋焦がれ、そして散っていくそのレースは軽々しく口にするのも憚れるほどのものだった。
「凱旋門賞…………」
改めて口に出してみても、その重みは格段のものがある。正直、俺自身が怖気づいてしまいそうになる。それでも一つ
「一つ言っておく。凱旋門賞を優勝した日本バはいまだかつていない。俺自身、凱旋門賞に出場させた経験すらない。長いトレセン学園の歴史の中でも数えるほどしかそのトレーナーはいない。もちろん全力は尽くすがほとんど暗中模索の中でしかサポート出来ないかもしれない。それでもこの学園、このトレーナーの元でやっていくんだな?」
「……今更それを言わせるのですか?怒りますよ?」
「フッ……。悪い」
いよいよ強情なやつだと半ば呆れていると、今度は弱弱しくぼやく声が聞こえてきた。
「しかし、今年は……」
「ああ、もう合宿も終わって八月も終わりだしな。凱旋門賞は十月。長期離脱でレース感が整ってない上、何も調整してないし、そもそも出走するための人気もまだ足りてないだろうな」
「……そうですよね」
「そう落ち込むな。クラシックとは違って、凱旋門賞は毎年開かれる。来年も再来年もチャンスはある」
そう言って少し俯いたグラスの頭にポンッと手を置いて慰める。彼女は少し無理に笑った笑顔でこちらに顔を向けるのが分かった。
「……それにな、凱旋門賞はトゥインクルシリーズと違って世界基準だ。そのせいで中等部、高等部の区別なく満十八才以下のウマ娘全員と戦うことになる。ウマ娘の構造上そこまで差が出ないと言っても、それでも十三のお前が十八のウマ娘と一緒に走るというのは苦しい」
「実力的にも私にはまだ早いとおっしゃりたいのですか?」
俺の手の下で耳を絞ってプリプリ怒り出すグラスワンダー。
あんまり予想通りの反応だったので俺は思わず笑ってしまった。
「ハハハ……。悪い悪い」
「もう!絶対悪いと思ってないですよね?」
「あの~……」
久しぶりのトレーナー室でそんなやりとりをしていると、突然後ろから声がかけられた。
俺たち二人以外誰もいないと思ってい俺は驚いて振り向くと、そこにはトレーナー室のドアを半分開けて半身だけ部屋に入っている女がいる。
「もう取材の時間を大分過ぎているのですが……」
申し訳なさそうにそう話す乙名氏悦子。
いつもの青いインナーに白のジャケットを着た黒髪ロングの記者が間抜けにも立ち往生していた。
「おっと悪い。もうそんな時間だったか」
合宿から帰って学園に到着するなり、トレーナー室に行きたいと担当バにせがまれた俺は取材の時間もそこそこにグラスの要求を優先させていたのだった。
「取材、ですか?」
普段から取材を断っている俺がそれを受けているのが珍しいのか、不思議そうにグラスワンダーはそう聞いてきた。きっと皐月賞を獲った自分の取材だと思ったのかもしれない。本当は、行方不明になったグラスを探すために乙名氏に協力を仰いだ際に結んだ独占取材の件だった。
「ああ、ちょっと約束でな」
「なんとカブラギトレーナーの密着取材です。恐らく史上初!今から腕がなってしょうがありません!密着取材ということなので、カブラギトレーナーの邪魔にならないよう、かしこまった形式にはいたしませんので大丈夫ですよ。なんなら今日はご自宅に戻られるまでの間だけでも構いません。時間は沢山ありますからね」
「……その取材、私も同伴させて頂いてもよろしいでしょうか?」
まくしたてるように乙名氏記者が言うと、俺の愛バが険しい表情を作ってそう口にした。許可をもらうような言葉選びだが、その口調は有無を言わせないような圧力を醸し出していた。
「ええ!もちろん!私としてはグラスワンダーさんからもご意見頂戴できれば御の字です。是非ご一緒に!」
「おい勝手に決めるな。あくまで俺の取材だからな。グラスは今回関係ないだろ」
「トレーナーさん?私は、一向に、構いませんよ?」
何が彼女をそこまでさせるのか。もはや脅迫じみたその物言いは、俺の気遣いは無駄だと言わしめた。
こうなったらもう絶対に引かないんだよな……。
俺は諦めるように一つため息をつくと、ゆっくりと口を開いた。
「……分かった。ただし、同席するだけだ。質問には一切こたえるなよ」
そう言うと、グラスは嬉しそうに笑顔になり、尻尾がゆらゆらと揺れるのが見て取れた。
何がそんなに嬉しいのかと訝しみながら、俺たちは陽が落ちて暗くなったトレーナー室を後にした。
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「ほう!そのウマ娘さんがきっかけでトレーナー業を目指そうと!」
「家が焼失して色んな物を失いましたが、俺にとっては転機だったと思います。あの事件がなければ実家で縮こまったままだった」
始めて聞くトレーナーさんの過去。
距離は縮んだとはいえ、カブラギさんのことを伺う機会もなかった私は、計らずも取材という形で彼の過去を歩きながら隣で聞いていました。
「それではトレセン学園に入るまでに苦労なされたことなど……」
そういえば、トレーナーさんのお家に向かってるんですよね……?もうトレーナー寮は通り過ぎてしまいましたし、もしかしてカブラギさんのご自宅って学園外なんでしょうか……?
このままついて行けば彼の家にいけるという思いが自然と私の心を高揚させました。
初めて殿方の、それもお慕いしているトレーナーさんの家ということで浮かれていた私は貴重なカブラギさんの取材を聞きそびれていたことを後になって後悔してしまいました。いくら記事として人目に触れるとはいえ、省かれる部分やカブラギさんの心情を計る生の声色は再現できないのですから。
「……それでは、えーと、これはお答えできる範囲で構わないのですが……」
私がそれに聞き耳を立てたのは、今まで淀みなく快活に質問をぶつけていた乙名史さんが急に歯切れが悪くなったのが分かったからです。
「なんだよ、今さら躊躇するような内容なのか?」
トレーナーさんもそれを感じとったのか、訝しげに視線を彼女の方に投げ掛けます。
あまり人に聞かれたくないことなのでしょうか。もう辺りはトレセン学園から外に出て、人気が少ないとはいえ公道の夜道を歩くのみでした。
「……グラスワンダーさんの前の担当バについてですが……」
「……………………」
しばしの沈黙。
歩みこそ止めなかったものの、明らかにトレーナーさんの雰囲気が変わるのが分かります。いまだ蛍光灯を使っている街灯からの光が彼の険しい表情を浮かび上がらせていました。
「あの、お答えしたくなかったら別に構わないのです。札幌で取材した時も何か……」
「いえ、これは前回とは違います。礼の意味も兼ねているのですからお答えしないのは失礼にあたる。いいですよ。答えられる範囲でですけど」
そこまで言うと、彼は一つ息をついて皺がよった額を元に戻してとつとつと語りだしました。
「前の担当バ、リトルココンについて、ですね」
リトルココン...…?どこかで聞いたような……。
必死に記憶を手繰りますが、どこで聞いたかの記憶も出てこず、私はすぐに切り替えて彼の言葉に集中しました。
「語ること、と言ってもあまり無くてですね。いや、優秀な娘だった。才能は飛び抜けていた」
現在の担当バが目の前にいるのに、前回の担当バとはいえ他のウマ娘を持ち上げるというのはあまりいい気分ではありません。ですが、そんな私の心持ちも伝わっていないのか、いいえ、彼はそんなことを気遣う余裕もなかったんでしょう。顎をさすり、考え事をする仕草で言葉を選んでいるようでした。
「クールな娘でしたね。毒舌な部分もあった。言いたいことは言うようなタイプで、そういう意味で俺とは似た者同士だったかな」
お似合いだったということでしょうか?残念ながら、その方はもう担当バではありませんけどね。
彼の一つ一つの言葉に耳がそばだつのが分かります。そして胸の奥から沸き上がるモヤモヤとした感情も。
「ということは、お二人の間で軋轢などは無かった、ということでしょうか?」
「……そう、だったら良かったんですけどね……」
歯切れの悪い言葉の端々に、彼の後ろめたいような感情が漏れ出ているのが分かりました。
「あれは皐月賞が終わったごろくらいか。なんだか怒りやすくなったり、かと思えば急に謝りだしたり、メンタルが不安定な感じになっていたんです。皐月賞を惜しくも準優勝どまりだったこともあって、そのせいかとも思っていたんですが……」
自分で事実を確認するようにゆっくりと語っていましたが、そこまで話すとトレーナーさんは黙り込んでしまいました。誰も通らないアスファルトの上を、ただ三人の靴音だけが響いていました。
「そ、それでもリトルココンさんは皐月賞で二位。続くダービーでも三着の成功を収めていますよね。それが不満だったのでしょうか?」
「……不満だったのか……。情けない話ですが、結局真相は分かりません。ただ、ダービーが終わってからは一層情緒不安定になって……」
ふと、彼は一つのアパートの前で立ち止まりました。二階建てのそれはいかにも年季の入った建物であるのが一目で分かりました。アパートの壁はほとんどのペンキが剥げ、鉄骨がむき出しになっています。二階へ続く階段は茶色く酸化して何段目かは凹んですらいました。
もしかして、ここがトレーナーさんの……?
「言いたいことは遠慮なく言う娘だったので、俺は彼女が隠した真意は無いのだと思い込んでいたんです……」
振り向きもせず、アパートを見上げる彼は思い出をつまみ上げるようにそう吐き出しました。
すぐ近くの弱々しい街灯に夏の蛾が群がって飛散していました。
ペンを片手に取材しているはずの乙名史さんも息を飲んで次の一言を待っているようでした。
「彼女について話せるのはここまでです。こんな辺鄙なところまで付き合わせてしまって申し訳ありません。良ければタクシーをお呼びしますが」
振り向いてそう言うトレーナーさんはもういつも通りの無表情で、何を考えているのか探るのは難しいものがありました。
「いえいえ。滅相もございません。押し掛けたのはこちらの方ですから」
「それじゃあ一つ我が儘を聞いてもらえるか?グラスを学園まで送ってほしい。近いとはいえ、女子一人に夜道は心配でな」
さっきまでのよそ行きの丁寧な言葉遣いではなく、急に砕けた感じで女記者に頼むトレーナーさん。
私がいない間に何があったのか知りませんが、普段だとこんな風に砕けた感じになるほどの間柄になっていることに私は少し警戒心を抱きました。
「なんですか?じゃあ私は一人でも平気ってことですか?」
「……悪いが、あんたが誰かに襲われてるところを想像出来ないんでな」
「乙名史さん、もう遅いですからそろそろ行きましょうか」
私はトレーナーさんと彼女を引き剥がすように乙名史記者の腕を引いて学園へ帰ろうとしました。声が上ずっていたのが自分でも分かってしまいます。
「あっと、すいません!最後に一つだけ。現在担当バのグラスワンダーさんについては今後お伺いしますけど、グラスワンダーさんと目指す最終的な目標は何なのでしょうか?やはり未だ優勝バを出していない有馬記念でしょうか。それとも適性的に未知数ですが春古場三冠?」
「凱旋門賞」
静かに、しかししっかりとした口調で彼の口から言い放たれたその名。彼女は書く手を止めて食い入るようにカブラギさんの顔を覗き込みます。
それでも、彼は一切表情を崩すことはありませんでした。その無愛想な顔からは冗談ではない真剣さが滲んでいました。