「大ケヤキの手前!グラスワンダー早めに仕掛ける!サイレンススズカに迫っている!」
まだ!このままじゃ追いつけない!彼女は二の足を持っている!
肺に残る空気を吐き捨て、一度大きく深呼吸をする。折れた右足に負荷がかかる左回り。それでも今一度地面を強く蹴り、骨も余力も十全だと確認する。
第四コーナーに入る手前。左前に棚引く長髪の栗毛を追いかけながら私は仕掛けるタイミングを伺った。
私にも持っている。第二の加速を出すタイミングを──
「ダメだ!!」
ターフの上で声を荒げる目の前の男の人は眉間に皺を寄せて私を睨みつけた。普段見せたことのないその必死な形相に臆しそうになる私ですが、それでも努めて冷静に対処しました。
「ですが、エルとスズカさん相手にこの切り札無しで勝てるとお思いですか?有馬記念もそう。三年生の古場も参加するレースは今までよりも一層厳しい戦いになるはずです」
沈みかけた夕日が彼の苦々しい表情を赤く浮きださせた。周りの娘たちが練習から引き揚げていくのが視界の端で映る。ターフを横切る秋風が私たちの間に割って入って抜けていった。
「…………忘れたのか?このスパートのせいでお前の足は……」
「忘れるなど、ありましょうか。……それでも、サイレンススズカの走りは、あの異次元の走りに追いつくには、この超前傾スパートが必要だと私は考えます」
この人の担当になって二年半。初めて私は彼の方針に真っ向から対立した。いいえ、私達はやっとお互いを対等に認め合ったのです。
「グラス、お前にはずっと走っていて欲しい。そのスパートは負担が大きすぎる。仮に一回目で不調が現れなくても、二回、三回と使えば不具合がきっと出てくる。また骨折なんてことになったら……」
最後の言葉は誰も残っていない草原に吸い込まれていくように弱々しいものでした。
「……お気遣いありがとうございます。ですが、私は勝つためにレースに出るのです。勝たなければ意味がありません。たとえ二位でも。そのためなら後のことを考える余裕など私にはありません。勝ちたい相手がいる。それ以上の理由は必要ありません」
私の頑として譲らない性格を彼が知らないはずがありません。それでも彼はなお食い下がりました。
「怪我したら優勝もくそもない!こんなところで一々怪我をしていたら凱旋門賞なんて夢のまた夢だぞ!」
「……まるで怪我をするのが前提、のようにおっしゃいますね」
リスクをとらずに勝ちが拾えるものか!軟弱者……!
しかし、彼は答えに窮したように押し黙ると、眉間に皺をよせたままその黒曜石のような瞳を私に投げかけました。
そうだ、そもそも彼は私の提案を頭ごなしに否定するような男ではなかった。高負荷のトレーニングを施してきたトレーナーが、リスクも無く勝利できるなんて思う方がおかしい。
私は彼が何か明確な根拠を元にこの考えを否定しているような気がしてきました。
「トレーナーさん、何か言いたいことがあるなら言ってください」
「……お前の、グラスのその超前傾スパート。偶々知り合った○○病院の院長に見てもらったことがあるんだ。医者で生体工学もやっている専門家から見てどう映るか。……15秒。物理的な限界は15秒だと言われた。一度にそれ以上使ったら筋肉か骨が持たないと」
「それで、トレーナーさんは……」
「情けない…………」
彼は額に手を当てて苦しそうにそう呟いた。
「今までの俺だったらラスト100mでも使わせていただろう。けど俺は怖くなっちまった。お前が壊れるのを見て、俺の元から離れるのを経験して、グラスがまたレースに出られなくなるようなことがあったらと思うと……。平たく言えば、トラウマになったんだ」
私はカブラギさんのそばまで寄ると、頭を抱えていたその手を取って彼の顔を覗き込みました。
怯えたような、不安そうなその表情は私の心に刺さり、苦し気なその心持ちが直接私の心に染み渡る様でした。
「トレーナーさんは優しいのです。優しすぎるほどに。トラウマの辛さは良く分かります。私もゲート難で苦しみましたから。それでもこうやってトレーナーさんに支えられて走っていられる」
そこまで言うと、私は一つ深呼吸をして夕焼け空を写す彼の瞳を覗き込みました。
「だから、次は私が貴方の支えになります。この武器でもって、毎日王冠、アルゼンチン共和国杯、そして有馬記念を勝ちに行きます──!」
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ラスト100m。俺はグラスと確かにそう約束した。それが切り札を使う条件。
使わないにこしたことはない。だが、この勝負──
「第四コーナーが終わり、最後の直線にかかります!先ほどグラスワンダーに詰め寄られたサイレンススズカですが、再び後続を突き放し、その差は二バ身。そこにグラスワンダーとエルコンドルパサーが割って入ろうと伺っています!」
早めに二の足を使わせたのは作戦通り。これで最後のスパートする余力はもう残っていない。あと問題は……グラスの体力か。
「さあ坂を登る!残り400m!ここでエルコンドルパサーが飛び出した!サイレンススズカに迫るか!?」
まだだ……。まだ耐えろ……。
「坂を過ぎ残り200m!エルコンドルパサー迫る!残り一バ身!グラスワンダーもついていく!」
あと少し……!
「並んだ!並んだ!最後の100m!ここで3頭並びました!」
ここだ!
「ここで加速したー!!」
────な、ぜ……?
「サイレンススズカ!ここでまだ加速する!」
いや、グラス、グラスは!?
「グラスワンダーいっぱい!エルコンドルパサー追いすがるが寄せ付けない!サイレンススズカ!サイレンススズカだ!どこまで行っても逃げてやる!サイレンススズカやりました!」
……信じられん。
あのサイレンススズカ。確かに二の足を使わせたはずなのに──。まさか三の足まで残してるなんて…………。
いや、それだけじゃないグラス……。あいつスパートを……。
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「ハア!ハア!ハア!」
ターフの上で青い空を見上げながらサイレンススズカへの賛辞が耳に入るのが分かった。
追いついた──!確かに私は彼女に追いついた。スパートを使わずとも最後の100mで。
それで…………?油断した?違う。隣にはエルコンドルパサーもいた。油断などできなかった。最後の最後、超前傾スパートをしようとした。そう、しようとしたのに……。
自然と掲示板に視線が向かう。そこには五着に私の背番号が刻まれていた。惜敗ですらない。
「グラスワンダーさん」
いつの間にいたのか、サイレンススズカが私の隣で手をさしだしていた。
「素晴らしい勝負だったわ。貴女の言葉通り、全力で勝ちにいった。限界まで出し切った気持ちのいい試合だったわ」
【限界まで出し切った】……?
スズカさんは宣言通りしたのに……。私……、たきつけたその張本人は…………?
「……ありがとうございます」
言葉少なにそれだけ言って私は軽く彼女の手を握ると、すぐにほどいてそそくさとその場を立ち去ろうとしました。
「グラース!今日は惜しかったデスネー!でもいい勝負デシた!また次の試合も」
「エル」
背中からかかった聞きなれた声を、私は精一杯抑制した声色で返しました。
「今は、話しかけないで下さい」
あまりの怒りで頭がおかしくなってしまいそうだから──!!
誰でもない、自分自身に向けられたその感情を諫めようと必死でした。これ以上話かけられたら感情のままに八つ当たりしそうな大和撫子とはかけ離れた自分がいたのです。
「こんなもんじゃないだろう?」
毎日王冠後にトレーナーさんから投げかけられたそれと一言一句同じ言葉が私の項垂れた頭上から降ってきました。
顔を上げると、そこにはアルゼンチン共和国杯で一緒に走ったシンザンさんの姿がありました。とても優勝したその本人とは思えない、苦虫を潰したようなその顔が私の心を抉ります。
私が、彼女にこんな顔をさせて……。
また、まただ……。また私は……。
有馬記念と同じ2500mという長距離を走ったのに、まだ余力の残った脚の膝に両手を置いて、私は何も言えずにまたターフの芝を睨めつけるようにを
スパートが、出来ない…………。