「辞めるか?有マ記念」
一瞬そう言われたような気がして、俯いていたその顔を思わず上げた。
しかし、そこには沈痛な面持ちでトレーナー室の窓際に寄りかかるトレーナーさんの姿があった。腕を組み、いつもの無表情ながら少し俯いて床に這わせたその視線に何か答えを求めてるような気がした。窓の外の雨は止む気配がなく、ゴウゴウと音を立てて窓に水滴を叩きつけていた。
「……さて、どうする……?」
いつもより少し暗めの声色に感じたのは雨のせいだろうか。彼はそう言ったまま暫く考え事をしていた。
いつものように顎に手をあてさする。心なしかその無愛想な顔の中に難問を前にしているような複雑さがみてとれた。
「……お前は、どうしたい?」
ふと、視線を上げるカブラギさん。彼の抑揚のないその声は、薄暗いトレーナー室に吸い込まれるようにその口から漏れました。
「私は——」
一瞬ためらった後、私は用意していたその回答を口にしました。
「私は、有マ記念に出ます。グランプリの人気投票も14位。圧倒的とは言えないですが、皆さんは私に出場して欲しいと願っています。大衆が望むなら」
「グラス」
窓を叩く雨音の中に、彼の低い声が私の耳を刺しました。
彼のその雰囲気は今まで見たことのないものでした。それは一言で言えば……。
——怒ってる……?
「グラス。俺は『お前はどうしたい?』と言ったんだ。誰も誰かの願いで出なければいけない状況だなんてそんな回答は望んでいない。なによりそんな答えはお前らしくない。もう一度聞くぞ。『お前はどうしたい?』」
「私……私は…………」
喉が一気に乾きだして、生唾をゴクリと飲み込む。外の雨脚は強くなるばかりで窓から光を射してはくれない。
情けない……。こんなのは私じゃない。いつからこんな軟弱に……。スズカさんにトレーナーさんを言い訳に使うなと言っておきながら……。このまま出ても……。これでエルやゴールドシップさん、シンザンさんに勝てるわけ…………。
口を半ば開けたまま何も言えずにいると、トレーナーさんは寄りかかっていた窓辺から離れてこちらに近づいてきました。
「急がなくていい。ゆっくり決めろ」
私の左肩にそっと手を置いてそのまま立ち去るカブラギさん。「悪いが仕事だ」と言いながら背中越しにトレーナー室のドアを開ける音がしました。
「トレーナーさんは——!?」
そう投げかけようと振り向いた時には、もうアルミの扉は私と彼の間に厚い隔たりを作っていました。
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さて、どうする……?
俺の腹は決まっていた。
決まっているが、それを伝えてしまえば今のグラスは自分の意志とは無関係に俺の希望に従ってしまう。
「もう残すところ、一年弱となりましたURAファイナルズ。施設の工程具合も……」
ああ、それにしても嫌な奴だな俺は。俺の希望を押し通せばあいつにとってこんな楽なことはないだろう。悩むこともない。迷うこともない。きっと『今』は楽に過ごせるはずだ。
でも今だけだ。きっと将来、レースだけじゃなく仕事や自分のバ生の中で悩んだとき、つまずいたとき、自分を頼れなくなる。もちろん時には他人に頼ってくれたっていい。だが最後に自分のことを決めるのは自分自身だ。
「商業施設に関しましても、フランチャイズ形式、直営形式と……」
それに、超前傾スパートが出来ないことを知った時、俺は心のどこかで安心してしまった。彼女が壊れなくてすむと……。
………………みっともない。
「URAファイナルズの広報に関しましても……」
有マを出るにしろ出ないにしろ、あいつが決めたことは全力で支持してやるだけだ。超前傾スパートもそう。
あいつを支えてやれずに何がトレーナーだ。グラスがやると言えばやらせてやる。たとえ1%もないようなことでも。前の俺はどうかしてた。ビビったチキン野郎なんざ似合わねえ。そうだろカブラギ。
「カブラギさん!聞いてます?さっきから上の空で」
隣で説明していたたづなさんが着席したと同時に小声でそう話しかけてきた。こんな大勢の前で置物よろしく座らされるなんてURAファイナルズの責任者なんてなるもんじゃないな。
「たぶんてなんですか!たぶんて!最高責任者なんですからもっと……」
トレーナー一筋の方がはるかに楽だな。グラスはきちんと答えを出せたか……?
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「ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!」
ぬかるんだ芝に足をとられそうになる。
叩きつける雨粒が目に入って視界が滲んだ。
バシャバシャと泥が跳ねる度に足元のジャージに染み込んでいく。もう靴の中は水浸しになっていた。
それでも私は走るのを止められなかった──
私は走れる。こんなに速く。でも……。
足りない。
自分のイメージの中、私の前を走る三人の影。天皇賞秋を制したゴールドシップ、菊の冠を頂いたセイウンスカイ、そしてシンザン。調子を上げて油が乗ってる三人。比べて私は怪我明けから一勝もできていない。
彼らだけじゃない。ステイゴールドさんやメジロドーベルさん、古バの先輩方も油断できない。こんな状態で……。
十一月の冷たい雨が容赦なく全身の熱を奪っていく。
誰もいないターフに一人、水たまりを弾く足音だけが木霊していた。
人気投票で14位。もう私は過去のウマ娘なの?朝日杯も皐月賞も獲って、それでも……。
獲った?そんな実感持ってないくせに、都合のいい時だけ引き合いに出すんじゃないグラスワンダー!
私は、私はまだ走れる……!超前傾スパートだって、練習では出来てた!出来てたのに……!
『俺が見てないところで超前傾スパートはするな』『十五秒以上は体が持たない』
知らない……!出来るんだから……!!
ぬかるんだ地面を踏みしめる足に一層力を込めた。体が沈み地面が近くなる。雨が地面を叩く音が大きくなり、滑りやすいターフを警告した。
「グラァス!!」
その声はすんでのところで私のスパートを止めさせた。走るのを諦め、その声のする方に顔を向ける。そこには傘をさしてこちらに駆け寄る良く見知った姿があった。
「こんな天候でもターフで走るなんて、グラスはどマゾデース!」
そこにはジャパンカップを優勝し、高らかに凱旋門賞を目指すことを宣言したエルコンドルパサーがいた。もう帰る頃なのか、制服姿で傘をさしながら私の方に向かっている。バシャバシャと白い靴下が汚れるのも構わず私の元へ駆け寄ったその怪鳥は、私の前で傘を投げ出し両手を広げると、開口一番私にそれを投げ掛けた。
「グラスワンダー!!さあ、リングへ!!」
「エル。どうして……」
折角乾いていた制服はあっという間に染みをつくり、彼女のつやのある黒鹿毛も雨に濡れて水が滴っていた。
「勝負をしたい、ということですか?ですが、この雨で、貴女は制服。靴も普通のものではないですか」
「恐れているのデスか?」
鋭く、容赦なく私の心を抉ってくる。いつもの爛漫とした雰囲気は一切なく、この降りしきる雨のなか、彼女はマスク越しに真剣な面持ちで私の瞳を射貫いていた。
「毎日王冠の、アルゼンチン杯のような無様をさらすことを」
「……っ!!」
「一緒に走ったからこれだけは確実に言えマス。はっきり言ってダメダメデシた。アルゼンチン杯もそう。シンザンさんに手も足も出ずただ項垂れるだけ。見ててイライラしマス」
「貴女に──。貴女に何が分かるというの。エル」
普段に増して無遠慮に神経を逆撫でするルームメイト。彼女の真意を計りかねて私はますます苛立ちを募らせました。
「己の力を十全に発揮することなく敗れてしまう苦しみ、自分の矜持を貫くことすらできぬこの焦燥……。ウマ娘の頂点を目指すと言いながら、それに挑むことさえままならない私を……」
「アタシを見ろ!!!」
怒声のようなその声が、降りしきる雨の中でターフの上をつんざいた。
彼女は両手を腰に当て、胸を張って堂々と私の前に立ちはだかった。まるで私を倒してみろと言わんばかりに。
「アタシは雷光石火の怪鳥!!【世界最強】エルコンドルパサー!則ち、ウマ娘の『頂点』そのもの!道の果て、頂点へと歩むあなたが挑むべき、必ず超えるべき壁!」
「————っ!!」
「聞いてればウジウジ自分のことばっかり!挙げ句にウマ娘の頂点に挑めない?何を言ってるんデス?あなたは。アタシは来年凱旋門賞を走ります。そこで指をくわえて見ているがいい!アタシが優勝する姿を!アタシを負かしたグラスワンダーが、手を触れることさえできない境地に至る姿を!」
マスクの奥の青い双眸が私を射抜く。
これ以上の言葉はいらなかった。
ただ自分の中で尽きかけた心の中の炎が再び燃え上がるのだけは実感していた。
「……リングへ、というのは訂正します。今のあなたと勝負しても、エルの魂まで冷え切ってしまいそうです。では……」
エル……。貴女という人は……。
静かに去っていく親友の背中を目で追っていました。強く、たくましい、自信に溢れたその背中を追いかけそうになった時、私の背後から急に手が伸びてきたのが分かりました。同時に降り注いでいた雨が止んだことも。
「……トレーナーさん」
「本当に、いい友人を持ったな」
にこりと微笑を浮かべるカブラギさん。その黒い大きな傘で私を守るように雨からしのいでくれたのは三度目でしょうか。
そうだ。雨が降れば……。
「俺はお前がどんな答えを出そうが、それに付き従って全力でサポートするだけだ。だから勇気を出せ」
「トレーナーさんは、心の雨もその傘で防いで下さるのですね」
「ふん?その感じだと、もう腹は決まったみたいだな」
「ええ。勇気を頂きましたから。エルに。貴方に」
親友を見送るその視線を切り、私は改めて彼の方に向かい合うと、静かにその言葉を口にした。
「私は走ります。有マ記念で」
バタバタと激しく叩く雨足が、今は祝福の喝采のように私の中に染み込んでいました。