きっと貴方のことが好き   作:圧倒的雑魚臭

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百折不撓

 

 年の瀬。

 皆が年越しの準備をしている時期。師すらも走って急ぐというこの季節にかのレースは存在する。

 俺がこのレースに出走させられたウマ娘はわずか三人。いずれも掲示板外。小手先の奇策など通用しない。本当の強者だけが勝つ試合。マルゼンスキーが出ていればと思わせるほどの大きなレース。日本の頂点と言っても差し支えない。

 それが有マ記念だ。

 

「グラス」

 

 振り向いた瞬間、栗毛の髪がふわりと踊って照明の光に反射した。耳をピョコンと立て、おでこの白い流星が出迎える。こじんまりとしているがよく通った鼻筋にほくそ笑む口元。少し垂れた目尻にサファイアを思わせるキラキラ光る青い瞳。

 

 これが、この娘が俺の愛バ。

 グラスワンダー

 

「どうしました?トレーナーさん?」

 

 彼女はいつもの微笑を湛えながら小首を傾げた。

 幾人ものウマ娘とそのトレーナーがいるであろう選手控え室の前で、俺は目を奪われたように可憐な栗毛のウマ娘しか目に入っていなかった。

 

「……ああ、なんというか、その……」

 

 あの頃と何も変わらない、屈託のない笑顔が俺を迎え、送るべき激励の言葉を奪っていった。

 

「…………一目ぼれだったのかな……」

 

「?なんの話です?」

 

「グラスを最初に見た時のことを思い出していた。お前は誰よりも速くて、力強くて、その内側、はた目には分からない激情を宿していた。そんなお前に俺は……」

 

「トレーナーさんは無精ひげの生えた不潔なおじさんでしたね。胸を事故に見せかけて触る破廉恥な人でした」

 

「おい、なんだそれ。初めて聞いたぞ」

 

「やっぱり気付いてなかったんですね。でももういいです」

 

「時効ってことか?」

 

 彼女はふふっ。と意味ありげな笑顔を向けただけで、それ以上は答えなかった。

 

「トレーナーさん、緊張してらっしゃいますね」

 

「……かもな。がらにもなく」

 

「あら?メイクデビューの時もそうでしたよ?」

 

「いやなことを思い出させるな。それでもあの時は……」

 

 ああ、あの時は『お守り』があったんだよな。

 けど……。

 

「……もう必要ない」

 

「?」

 

「グラス」

 

 俺は一つ息を入れると、その小柄な体の両肩に手を置いた。

 

「正直、俺はまた脚を壊してしまうことが怖い。でもお前はいざとなれば、どんなに止めたって無理するだろう?だったら後のことは何も考えずに走れ。超前傾スパートも、もし出来るなら100mといわず150mでも200mでも使え。悔いのない走りをしてこい。そして、初のG1勝利の景色をその体で体感してこい」

 

 彼女の青い瞳を見つめながらそう口にした。グラスは頬を朱に染めながらそれでも一言一句逃さぬよう耳をピンと立て、俺の視線からそらさずに真剣に聞いていた。

 

「ありがとうございます。あと、もし、もしですよ。もし私がこのレース、優勝することがあればカブラギさんに伝えたいことがあるんです」

 

 グラスのその言葉は、まるで自分自身にそれを言う決心をつけるために放ったように聞こえた。そして、負ければその言葉はもう二度と聞けないであろうこともなんとなく分かってしまった。

 何を言おうとしているのかは分からない。それでも、俺は彼女の決意を無下にすることはできなかった。

 

「……それがどんなことだろうと受け止めてやるよ。俺とお前の仲だろう」

 

「ありがとう、ございます」

 

 彼女は顔を真っ赤にしながら、照れ隠しなのか両手で口元を覆いながらそう口にした。その顔が心底嬉しそうで、試合前だというのに俺の方まで嬉しくなってしまいそうだった。

 

「もう時間だ。健闘してこいなんてぬるいことは言わない。勝ってこい!」

 

「はい!グラスワンダー参ります!」

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「ボクは飢えてる」

 

 唐突に打ち明けたその長身のウマ娘は、さながらオオカミのような鋭い眼光でもって私を見下ろした。

 

 今までの人を食ったような空気はなく、ピリリと張り詰めた雰囲気が伝わってきた。よく見るとその目の下には隈が出来ているようでした。

 

「その、大丈夫ですか?シンザンさん。今までと、なんというか……」

 

 続々とウマ娘たちが側を通っていく。この有マの道へ通じる地下バ道で、私はシンザンさんに呼び止められて対峙していました。

 

「……ボクは今年、最悪の最悪だった」

 

 頭に乗った小さいシルクハットを抑えながら、彼女はとつとつと語り出す。

 

「皐月賞。あれで降着は構わない。その後の処分でダービーに出られなかったのも悔いはない。でもね、宝塚でのスズカさんの走り。あれには参った。ボクのバ生であれだけちぎられたのは初めてだった。あれからだ。ボクの走りは鈍った」

 

 ……鈍った?

 

「聞き捨てなりません。私はアルゼンチン共和国杯で貴方に負けています。あの時も鈍ったままだったというのですか?」

 

「だから言っただろう?『こんなもんじゃないだろう?』って。君は不調のボクに勝てなかった。それだけだよ」

 

 そこまで言うと、彼女はその冷え切っていながらもギラついた眼差しで見下ろした。

 

「そこで君だ。不調のボクに勝てなかった。これが何を意味しているのか分かるかな?」

 

 ぐいっと腰を折り曲げて身長差をなくしながら彼女は私に目線を合わせる。ウェーブのかかった黒鹿毛の合間から覗くその顔は、細身の体と相まってどこか生気が無い幽霊のように感じた。

 

 私を、コケにしているのですか……?

 

「挑発のつもりでしょうか?ですが、残念です。そんな挑発に乗るほど愚かではありませんよ」

 

 シンザンは今度は体を仰け反らせると、首を振りながらフゥという溜め息をついた。まるで分かっていないと言わんばかりに。

 

「鈍ったのというのはタイムが伸びないとかそういうことじゃない。ここ一番での強さ。粘り強さ。最後の一瞬の伸び。それが欠落したんだ。事実、天皇賞秋ではゴールドシップに刺されて二着。まあ、スズカさんが競走中止になってなければそれ以前に勝負になってなかったけどね。でもボクは期待した。アルゼンチン共和国杯で君と競えばまたこの足が、熱が戻ってくるんじゃないかと。けど……」

 

「私の体たらくに余計失望したと……?やはり貴方は人をバ鹿にしています」

 

「いや、すまない。そんなつもりはなかったんだけど、結果的にそうか。そうだよな。勝手に期待して勝手に裏切られた気分になってるんだから。だから……」

 

 彼女は再び私に視線を合わせる。冷たく、氷のようなその(まなこ)に一筋の光が灯ったような気がした。

 

「勝手な願いだけど、もう二度とボクを失望させないでくれよ。あんな腑抜けた走りをしたアルゼンチン杯はノーカウントにするけど、今度また気の抜けた走りを披露したら本当にボクと付き合ってもらうから」

 

 そんな話を聞いたのは初めてですが……。

 

「お付き合いは認められませんが、腑抜けた走りをしようなどとは露ほども思っておりません。アルゼンチン杯がノーカウントだと言うのならば、この有マ記念でこそ本当の勝負といたしましょう」

 

「ああ、ありがとう。君にそう言ってもらえるだけで、勝利に飢えたこの渇きを潤すことが出来そうだ」

 

 そう言って見下ろす黒い巨人。髪の毛の間から覗くその瞳に仄かな光が灯されたような気がしました。

 

 バシイ!という何かを叩く音と同時にシンザンさんが背筋を仰け反らせたのはほとんど同時でした。

 

「おう!ヒョロガリノッポ!またあたしにぶち抜かれに来たのか。その根性だけはゴルシちゃん認めてやってもいいぜ。ま、最後はその髪の毛むしりとってワカメ汁にしてやるけどな」

 

 聞き覚えのある声が地下バ道に響く。シンザンさんの影からひょっこり顔を出したのは葦毛の髪を振りまくゴールドシップさんでした。

 

「……また君か。熱烈アタックは嫌ではないけど、もうちょっとオブラートにしてもらえると助かるんだけど」

 

「さ、グラスちゃん行こ。あ、ちなみに私はスズカさんばりの大逃げするのでよろしく~」

 

 脇から菊花賞を制したスカイさんが覗き込みます。また大げさなけん制をしてくるのもスカイさんらしくて自然と笑みがこぼれました。

 

「フフ……。いくらでも逃げて頂いていいですよ。どんなに逃げていても私が必ず捕まえますから」

 

「おお怖……。ま、有マは逃げが不利って言われてるみたいだからさ、手加減してよね」

 

 そんな器用なこと、私には到底出来そうにないわ。

 

 声に出さずに心の中でそう呟く。

 外の光が地下バ道に射しこみ、閃光のように輝くその舞台へと吸い込まれていく皆を見て、胸の奥から湧き上がる激情を身震いにかえた。ここからでも聞こえる大歓声。怒号のように飛び交う激励の言葉が私の胸をさらに熱くする。

 

 戻って来たんだ。G1の舞台に──

 

 胸の前で右こぶしを握り、はやる思いをこぶしで鎮めながら、私は光溢れるその道先へと歩を進めていった。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「続きまして、朝日杯、皐月賞を獲った栗毛の怪物!グラスワンダーです!」

 

「怪我明けからあまり調子が上がらないですが、今回は有利な内枠ですし、分かりませんよ」

 

 大きな歓声と共にお立ち台に登る愛バ。青を基調としたその勝負服が赤いお立ち台に良く映えた。

 依然、最後の超前傾スパートが出来るかは未知数のまま。それでも彼女は平静を保ち、その内心を優雅な所作で隠していた。

 

「グラスちゃん落ち着いてるわね。いい結果を残してくれそう」

 

 観客席で眺めている中、右隣に座る栗毛のスーパーカーは安心したようにそう口にした。グラスワンダーの晴れ舞台に急遽駆けつけてくれたマルゼンスキー。そのグラスを見つめる眼差しは半年前のあの事件からだろうか、心配が勝るそれだったが、いざグラスワンダーが舞台に立つ姿を目にするとその影が薄れるのが分かった。

 

「だが、直近の毎日王冠もアルゼンチン共和国杯も期待されるような成績は残せてない。心配事は尽きないよ」

 

「そうおっしゃる割には落ち着いてらっしゃいますね」

 

 左隣に座った桐生院が口を挟む。

 

「皐月賞で披露したような怒涛のスパートがその二つのレースには見られませんでした。シンザンは出来ない感じだと言ってましたが、両人の落ち着きよう、もしかして隠していたということですか?」

 

 こちらの真意を探るように覗き込むその視線に気づいたが、おれはほくそ笑んでそれをやんわり否定した。

 

「はは。まさか。俺もグラスワンダーも手を抜けるような器用さは持ち合わせてませんよ」

 

「そうよ~。この人ったら昔から真面目で、人の裏かいたりとか苦手なんだから」

 

 マルゼンにそう指摘されるが、内心、バラされたくない過去を晒されたような気分になる。きっと両親が生きていたらこんな風な思いをしたのだろう。俺はごまかすようにシンザンの話題を出した。

 

「しかし、シンザンもアルゼンチン杯からどこか迫力が無いというか、いつもの食えない感じがないのですが」

 

「あれは明らかに不調ですね」

 

 あっけらかんとそう返す桐生院。自分の担当バが不調なのを分かっていながらそれを放置してレースに出させていたということか。おれは呆れ気味に彼女の方を眺めるが、当の本人はパドックを睨みながらさらに言葉を続けた。

 

「お恥ずかしい話ですが、あの不調は私の手には負えないものだと直感しました。というのも恐らくですが、調子の鍵はグラスワンダーさんにあると思っているからです」

 

「グラスに?」

 

「シンザンがグラスワンダーさんに異様に執着しているのはご存知かと思いますが、それがレースに影響したのかと思います。半年前のグラスワンダーさんの失踪以来、精神的に不安定だったのは確かです。それから徐々に調子を落としてしまって、アルゼンチン共和国杯でグラスワンダーさんと戦えば調子は戻ると思ったのですが……」

 

「グラスの調子に依存してるってことか?調子を落としてるのはまるで俺たちのせいのように聞こえるが」

 

 そう言うと、彼女ははじけるようにこちらを向いて弁明を試みだした。

 

「申し訳ありません。そんなつもりで言ったわけではないのです。ただ、シンザンの調子はグラスワンダーさんの調子に依存しているというのは否定できません。それほど彼女が意識している相手であるということです」

 

「……そりゃどうも」

 

「けぇどー、それってつまりグラスちゃんの調子が良くなれば、シンザンちゃんの調子も戻るってこと?」

 

「少なくとも私はそう信じています」

 

 仮にグラスが調子よくてもシンザンもそれに合わせて良くなるってことか……。本当に面倒くさい奴だな……。

 

 そんなことを思いながらパドックに視線を走らせると、当の本人がお立ち台に登ってくるところだった。

 俺の目から見て、そいつの調子はアルゼンチン共和国杯のそれよりも良くなっているような気がした。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 芝の匂いが鼻をついた。蹄鉄で地面を叩いてちゃんと芝に食い込むかを確認する。

 冬の冷たい風が頬を撫で、ウォーミングアップで流した汗を乾かしていく。

 芝は良好。私の得意な良バ場です。空も晴朗。雲一つ無く、太陽の光が私の眼を刺しました。

 

 まるでしつらえたかのように、コンディションはこれ以上ないほどの完璧な状態でした。

 

 問題は自分自身の方。

 最後の超前傾スパート。これが本番で出来ないのは心理的な要因だろうと言われました。あの皐月賞での悲劇。それが原因でしょう。もう二度と味わいたくないのは確かでした。これに頼らないでも勝てるならそれに越したことはないはずです。ですが、使えれば大きな武器になるのも確か。

 少なくとも、このレースで超前傾スパートをしないで勝てるイメージは湧かない。

 

「あんま気負わずにさ、もっとリラックスしたら?」

 

 声をかけてきたのはセイウンスカイさん。彼女もG1戦線に慣れたのか、皐月賞の時のような緊張はうかがえません。いつものように両手を頭の後ろに組んで飄々とそう話しかけてきました。

 

「お気遣いありがとうございます。ですが、私が緊張しているように見えましたか?」

 

 実際、私自身はそこまで緊張していた自覚はありませんでした。スパートが使えていない現状も吹っ切れているつもりです。

 

「う~ん。表面上はそんなことはないけど、震えてるよ。手」

 

 そこで初めて気付きました。交手していたその手が小刻みに動揺していることに。

 私はその震える右手の手のひらをじっと見つめ、それからゆっくりと握りこんでみました。じっとりと手のひらに浮かぶ汗が指先に触れます。またそろりとこぶしを開いてみます。冬の冷たい風が手のひらの熱を汗と一緒に奪っていきました。それでも手の震えは収まらず、なおも自分の意志に関係なく振動していました。

 

 ああ、私、緊張してるのね。

 

 内心焦ったり動揺したりすることもなく、私は冷静にその事実を受け止めていました。

 震える自分の手のひらから顔を上げると、セイウンスカイがほらね?という顔で私を覗き込んでいました。

 

 私は一つ、大きく息を吸い込むと、肺一杯に空気を取り込んで息を止めました。数秒後、ゆっくり長く、肺に溜まった空気を吐き出します。吐き出した呼気が冷気に触れて白い空気の筋を作っているのが分かりました。全ての空気を吐き出すと。私は再び葦毛の菊花賞バの方を向きました。

 

「無くなった?緊張」

 

「……少しだけ」

 

 心の中にわだかまるピンと張った一枚の膜のような緊張感だけが私の中に留まります。

 

 この幾ばくかの緊張は忘れてはいけない。ここから先、戦地に赴くならば。

 

 それを飼いならすように、私はゆっくり歩を進めてゲートへと向かいました。今更ながらドクンドクンと心臓が強く脈動しているのに気づきます。芝に混じって土の匂いが鼻孔をくすぐりました。

 鉄のゲートがぽっかりと口を開けて私を迎えます。いつだったかこの門も恐怖の対象だったことを思い出しますが、私は少しの勇気を持ってその鉄の扉に収まりました。

 

 もうファンファーレの演奏も観衆の声も聞こえなくなり、一瞬の静寂が私を包みます。

 私は静かにスタートの体制を整えました。

 

 ドク、ドク、という自分の鼓動だけが鼓膜を震わし、自分の吐いた息が綿のように白いもやを作りました。一筋の汗が頬を伝い、顎の先に留まります。その汗がたまらず落ちていった瞬間、その暗がりに光が溢れました。

 

 ガシャン!

 

 ゲートが開き、一斉に飛び出す。ドドドドという芝を蹴る地鳴りが響くと同時に視界が開け、ウマ娘たちがポジションを争いながら疾駆していた。すでに内回りを確保できる内枠からの出走は小柄な私には特に有利に働きます。最初のコーナーに入るころには大勢は落ち着いたように見え、私の外側には集団が出来ていました。視界には6、7人のウマ娘。私は本当に中団のようでした。

 

 先頭はやはりスカイさんですね。

 

 内ラチ越しに見える葦毛の尻尾を見ながら先頭との距離を測る。目測にしておよそ五バ身ほどでしょうか。先頭の利を生かして内ラチ沿いに体を傾けてカーブしている姿が目に映りました。

 

 ?もう一人……?逃げが……。

 

 先頭にいるはずのその葦毛のウマ娘の奥。外側を走るもう一人の大きな影を私は確かに捉えました。それは、想定ではそんなところにいるはずのないウマ娘でした。

 

 …………!!シンザン……!?

 

 甚平を着た黒鹿毛のその巨大なウマ娘は最初のコーナーを終わろうかというところですでにスカイさんを抜いて先頭にいたのです。

 

 彼女は大外ではないもののやや外枠。本来逃げに近い先行型ではありましたが、それは最後の最後、ゴール前で獲物を捕らえる獣のように先頭の標的を抜き去る絶好の位置だから。それが本当に先頭にたってしまえばそんな芸当は出来なくなる。

 

 一体、何を考えて……?

 

 有マ記念は逃げが不利と言われている。そんな中で得意な先行策を捨てて逃げを選択するなんて。いや、それだけじゃない……!

 

 最初の直線を抜け、第一コーナーにさしかかる時点でスカイさんと先頭のシンザンさんの間は九バ身ほどになっていました。スカイさんは集団の先頭にいるという感じで、逃げていると言えるのはまさにシンザンさんそのウマ娘一人になっています。

 

 大逃げ!?この大一番で!?

 

 2500mの長丁場を知らないはずがありません。アルゼンチン共和国杯も同じ距離だったのですから。それでも彼女の暴走は止まりません。第一、第二コーナーを抜けて向こう正面になっても集団との差は縮まらずにそのまま激走していきます。唯一、スカイさんが彼女を追いかけるようにその距離を縮めていました。

 

 いや、でも、この走り……。

 見たことが……ある……!

 

 シンザンのその無謀とも言える大逃げ。その走り方に既視感が過り、私は言い様のない焦燥が内から湧き上がるのが分かりました。

 

 

 

 ──サイレンス、スズカ……!?

 

 

 

 先頭は第三コーナーにかかり旋回を始める。中山競バ場のコーナーは小回り気味だ。遠心力の関係もあってそれほどスピードを出せるものじゃない。いや、それ以上にシンザンのスピードはそのコーナーで乗っていないのは明らかだった。

 

 焦るな。2500mの距離は体に叩き込んでる。ここから上げていけば十分追いつける。

 

 第三コーナーに入ると集団の隙間から徐々に位置を上げていく。皆スパートに向けて位置取りが激しくなる中、私は細身を利用して第四コーナーの頭には集団の二番手の位置に着いていた。前にいるのはステイゴールドさん。そのさらに三バ身先にはスカイさん。シンザンさんとの差は五バ身ほどに詰まっていました。

 

 やはり、貴女はスズカさんじゃない。大逃げで勝てるほど有マは楽な舞台なんかじゃない!

 

 第四コーナーの終わりほど、内ラチ沿いに走るステイゴールドさんの外が一瞬空いたのを確認すると、速度を上げながら外にふくれてステイゴールドさんの隣に並びました。

 

「んおお。やる気満々だねー。あたしもそろそろ気合いれようかなー」

 

 ……並んでくる!?

 

 スピードを上げてスパートに入るが、隣のステイゴールドさんが振り切れない。彼女も隣で一緒にスピードを上げながら並走しているのが分かりました。

 

 くっ……!構いません。このままゴールまで引き連れても勝つのは私です!

 

 気づけば第四コーナーは終わり、最後の直線に入っていました。スカイさんとの距離は二バ身半。シンザンさんもほとんど変わらないほどの距離にまで迫っていました。

 

 ──いける!!残り300m!この足なら持つ!

 

 多くの蹄鉄の蹴る音が近いことを悟り、集団もそこまで差がないことを実感する。それでも私の前にいるのはわずか二人。それももう追いつく。

 私は直線の最後の坂に備えていっそう足に力を入れて地面を蹴ります。

 スタンドから聞こえる大歓声が耳を突き、12月とは思えない熱気が送られているのが肌で感じていました。

 

 スカイさん。シンザンさん。やはり有マで逃げは無謀なんですよ。

 

 残り200m。坂に入るその手前でついに私は二人に追いつきました。

 

 

 

「ありがとう。来ると思っていたよ!」

 

 

 

 思わず横を振り向く。

 長身のシンザンさんが頭上から狂気じみた笑みを浮かべながら私を見下ろしているのが見て取れました。その顔は先ほどのような生気のないそれではありませんでした。標的を食らうような鋭い眼光が射抜くと同時に、彼の蹄鉄は強く地面に食い込んでその巨体を加速させた。

 

 二の足──!?

 

 坂を駆け上がるその巨体に合わせ、もう一つの小さい影がスピードを上げるのが分かりました。

 

「んなこったろうと思ったよ!」

 

 葦毛のウマ娘がシンザンに競り合うように加速させます。

 私は二人の仕掛けに瞬時に思考を巡らせました。

 

 加速!?残り1ハロン。2mの坂。足は?持つ──!ここで離されたら追いつけない。万一にも遅れはとれない!

 

 アレを、使う──!!

 

 脚に力をこめる。上体を倒し、全身の筋肉を緊張させて倒れぬようにした。

 皐月賞の時と同じ。中山競バ場、坂の手前。そこで私は超前傾スパートをしようとした。

 

 ………………っ!!

 脚が、動かない!?

 

 思った通りに動かない体は、バランスを崩して倒れそうになる。危ういところで上体を持ち直して足を前に運ぼうと前を見ると、セイウンスカイとシンザンはもう1バ身先行していた。

 

「じゃあなー」

 

 私の傍をステイゴールドが難なくかわしていく。

 このゴール前の激坂を前に私はなすすべ無く彼女らの先行を許してしまった。

 

 出来ない──。このまま終わる……?終わりたくない!助けてトレーナーさん!!

 

『後のことは何も考えずに走れ』『悔いのない走りをしてこい。そして、初のG1勝利の景色をその体で体感してこい』

 

 そうだ、私はまだG1を勝ってない。勝ちたい……。勝ちたい…………!!

 

 トレーナーさん、私は勝ちます…………!

 ……成せば成る。今ここでスパートが出来なかったら、私は一生自分を許せない!!

 

「はあああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 脚に力を込める。芝を蹴る。地面にこすれるかと思うほど上体を下げる。尻尾を上に上げ、全体のバランスをとった。

 

 ドンッ!!

 

 一際大きな音が地面から響き、私の体は推進力を得て前へと運び出されていた。右足がミシリと嫌な音を立てる。それでも私は足の力を緩めることなく、超前傾の姿勢を作って芝を蹴り上げた。

 彼女らの蹄鉄が顔の横を掠める。ひゅんという風を切る音と同時に足の裏についた土の匂いが届いた。

 一歩間違えれば大けがを負ってしまう危険と隣り合わせのこの姿勢。それでもその姿勢を崩さず、私はさらに力を込めて地面を蹴った。

 

 いける──!出来る────!!

 

 瞬間、ぞくりと背筋に悪寒が走るのが分かった。

 

 私の視界に映るのは芝を敷く坂と彼女らの足元だけのはずだった。

 ──はずなのに……。

 

 どうしてシンザンの上半身が見える………………?

 

 私の視界に映るはずのない、私と同じように頭を坂にぶつけそうなほど低姿勢になった上半身のそれがターフを駆け上っていた。

 

「そうだ!それでこそボクのライバルだ!!」

 

 彼女はそう言いながら私の加速についてきた。この爆発的な加速に──

 

「君が本気になれば、ボクは何度だって蘇る!」

 

 もはや疑う余地はない。シンザンは習得したのだ。この超前傾スパートを。見ただけで。

 

 このままでは一バ身の差は縮まらない。いや、そもそもこの超前傾スパートや最後のダイブで勝ってきただけで、同じ条件、真っ向勝負でシンザンに勝ったことがない。それどころかいつも遅れをとってる。

 

 どうする?ここから秘策は……?何か勝てる案は……?

 

 ない……。無い…………!

 

 

 

 

 

 

「グラスワンダアアアアアァァァァ!!!」

 

 

 

 

 

 ゴール前の大歓声。その喧噪の中、私は確かに聞き知ったその声を丸めそうになったその耳で拾った。

 

 

 

「突っ込めえええええええええええ!!!」

 

 

 

 激しく振る腕の合間からスタンドの方を盗み見た。

 そこにはいつも端然としたカブラギトレーナーが立ち上がってこぶしを突き上げている姿が瞳に映っていた。その顔は今まで見たことがないくらい、誰よりも必死に私の勝利を懇願するそれであった。

 

 ああ、私はバ鹿だ。策だの案だの、そんなものに頼ろうとした。

 私が頼れるのは私のこの脚。そしていつも、いつだって背中を押してくれるトレーナーさん以外に、ない!

 

 百折不撓(ひゃくせつふとう)

 何度負けたって、なんど挫けたって……私は、諦めない!!

 

 脚に再び力を込める。下がり気味だった腿を胸を膝で蹴り上げんとするほどに上げた。

 

 勝つ!勝たなきゃ、勝てなければあの人に伝えられない!!

 

 どれほど進んだだろう。何時間にも思えたこの坂の勝負ももうすぐ終わろうとしているのが、視界に入った平坦のターフが示していた。

 

 差は、縮んでない……。それでも、最後の100m。ここで抜く!

 

 いよいよ激坂が終わり、最後のゴールラインが見えた。同時に空気の壁が顔に迫り、坂とは違うその抵抗が足を一瞬鈍らせた。

 

 こんなところで、つまずいていられない!

 

 私は瞬時に平坦になるターフに合わせて姿勢を微調整した。坂の時よりもやや上体を起こし、脚に力を伝えやすい形に持っていく。

 

 

 

 瞬間、目の前を走っていた巨体が一瞬前につんのめるのが見えた。

 バランスを崩し、倒れこむように頭がターフの方に落ちていく。

 

 そうだ。彼女はこのレース初めてこの超前傾スパートをしたんだ。いくらシンザンが天才でも勾配の変わり目の姿勢の変化は対応し慣れてない。そもそもこの体勢自体、バランスを保つのが至難なのだ。

 

 ……転倒する──!

 

 わずかに右前を走るその影がまるでスローモーションのように崩れ落ちていく姿を見ながら、私は選択を迫られた。

 

 このままスピードを落とさず直進するか。それとも左に寄れて安全策をとるか。

 最大の強敵であるシンザンはきっとこれで競争中止。ステイゴールドさんもスカイさんも安全策をとってここで減速しても恐らく追いつけない。

 

 決まってる。最初から取るべき選択は────

 

 

 

 

 

 当然、直進!!!

 

 きっと(・・・)恐らく(・・・)?そんな希望的観測など当てにするな!

 

 何より、私は誓った。あの選抜レースで!もう譲らないと!!

 

 最後のスパート。それに備えて息を肺に流し込み、口を閉じた。

 無酸素運動に切り替えたのと同時に目の前の崩れ落つ巨体に追いついた。

 

 ザン!!

 

 その巨体はたしかに地面と接触しようとしていた。あとほんの数センチ、頭が下がっていたら転倒していただろう。

 だが、黒鹿毛のウマ娘は大きく脚を前に出すと、すんでのところでその大きな体を支えた。

 

「まだ、終わらない!!!」

 

 信じられないことに、シンザンはほとんど転倒していたその体をたった一歩で立て直した。つんのめった上体を起こし、次の一歩にまた力を入れる。蹄鉄の芝を噛むその音が、まだ諦めていないことを如実に語った。

 

 そう、こんな終わり方、私も望まない!!

 

「最後の、勝負です!!」

 

 もうシンザンがどれほど前なのか、あるいは後ろなのかも分からない。その差が分からないほどに私たちは切迫していた。

 それでも私は最後の力を振り絞って全身全霊で芝を駆け抜けた。

 

 肺が軋む。

 心臓が暴れる。

 右足がわななく。

 

 それでも──!!

 

 勝つ!!あの人のために────!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールラインを割るのと、絶叫のような歓声が上がったのは同時だった──

 

 

 

 

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