ピロン
LANEの着信音で目が覚める。
年末というのに鳴りやまないこの忌々しいアプリ。この頃はURAファイナルズ関連で毎日のように連絡があるのでその信号を無視することも出来ずにその緑のアプリを開いてみた。案の定URAファイナルズの通知だったがそれ以外にも気になるのが……。
グラスワンダー。4件。
ギクリと心臓が跳ねる。
有マ記念が終わってからまだ三日しか経ってない。年始までトレーニングは無しと言い伝えているが、毎日LANEにグラスから連絡が来る。他愛ない会話だがあの日から頻度が上がっていた。顔を合わせていないのも原因かもしれない。
俺は恐る恐るそのグラスワンダーのLANEを開いてみた。
『道端で綺麗なサザンカが咲いておりました。ジョギングがてら遠出してみるのも乙なものですね♪』
『約束の買って頂くソファはもうお決まりですか?良ければ私も一緒に買い物お供させて頂きますよ?』
『おはようございます。トレーナーさん。お食事はちゃんとしてらっしゃいますか?野菜ジュースやウィダーインゼリーばかりでは栄養が偏りますよ?』
『今日は早起きして朝食を作ったのですが、作り過ぎてしまったのでトレーナーさんの分のお弁当を作ってみました。今からトレーナーさんのお家に伺いますね』
俺は跳ねるようにベッドから飛び起きた。寝巻を着替え、顔を洗うとモンダミンで口をゆすぐ。
鏡も見ずに俺はそのまま玄関のドアを開けて外に出た。
「あ、トレーナーさん、おはようございます!」
アパートの二階から声のした方を覗くと、栗毛のウマ娘が階段下でこちらを待ち構えていた。
青のコートに赤いマフラーとピンクの手袋をしたグラスワンダーはその手に手提げ袋を携えてこちらに笑顔をよこした。その頬は赤味を帯びて鼻先は特に充血していた。一目見て結構な時間を外で待っていたのが分かる。
「今そちらに伺いますね~」
そう言って彼女はボロボロに朽ちかけた階段に足をかける。
「あ!おい気をつけろ!」
カンカンと小気味よく上るグラスだったが、中央がへこんだ階段に足をかけるとミシ……。という嫌な音を立ててバランスを崩した。
「キャッ!」
急いで彼女の元へかける。手すりにつかまりながら階段の上から手を伸ばしてバランスを取ろうとしていたその腕を支えた。
「そこの階段は飛ばして登るんだ。外れかかってんだよ」
「ありがとうございます」
グラスは安心したような柔和な笑みを向けると、恐る恐る一段飛ばしで階段を上り二階にたどり着いた。
「階段上るだけでも一苦労ですね」
「役所にバレたら怒られるだろうな。ま、大家に修理するような金は無いだろうが」
彼女は冬用の白いウマ娘用のイヤーマフラーをした耳をピコピコ動かしながら満面の笑顔をこちらに向けた。
「でも良かった。カブラギさんが見つけてくれて。あのまま外で待ちぼうけかと思いました~」
「悪かったな。すぐ気づいてやれなくて……」
かじかんだ鼻先を見ると申し訳ない気がして、俺はしかたないと思いながら言葉を続けた。
「こんなとこまで届けてもらって悪いな。……あー、なんだ?その、寒いだろうし、部屋寄ってくか?」
「あら、ふふ……。それはありがたい申し出です。でも私よりトレーナーさんの方が寒くないのですか?」
そう指摘されて、俺はTシャツ一枚であわてて外に出たことに気付いた。
「……そういや寒いわ」
「ふふふ……。それではお言葉に甘えてちょっと寄らせてもらいましょうか~」
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「おじゃまします~」
電気が点けっぱなしだった部屋に入ると心地よい暖気が私を迎えるのが分かります。初めて入る殿方の、それもトレーナーさんの部屋という事実に私の胸は高鳴りました。
「何も片付けてないから見苦しいかもしれないが……」
トレーナーさんはそう言いますが、私の目に飛び込んできたのは酷く殺風景な部屋でした。
十二畳ぐらいでしょうか。男の一人暮らしに詳しくない私でも一部屋で完結しているのがすぐ分かりました。食器の無いシンク周りには代わりに一つのコップとその中に歯ブラシが一つ。壁際にシングルのパイプベッドと枕元に転がるウマホとそのコード。真ん中には灰色のカーペットと膝ほどの高さの四角いテーブルがありましたが、その上にはノートパソコンだけがぽつねんと置かれていました。
これが今話題のミニマリストというやつでしょうか……。
初めてトレーナー室を訪れた時を思い出させるような無機質なその光景に、この人の本質は無欲なのだろうと再認識させられました。
ただ一つ、この中で異質な雰囲気を漂わせている物がありました。ベッドの隣に天井まで届きそうなほどでかい木製の棚。そこには多くの書物と一緒に数々のトロフィーと盾が飾られているのが目に入りました。
「座布団も無いんだが、まあ座ってくれ」
どこから出したのか、彼は二つのコップを取り出し、やかんに水を汲んでいるところでした。
私は靴を脱いで丁寧に並べると、彼の聖域に一歩踏み込みます。フローリングの床は思いのほか冷たくて、断熱性の低さと一階に誰も住んでいないであろうことを訴えていました。
「コーヒーしかないが構わないか?」
「ありがとうございます。ですがお気遣いなく~」
せっかく気を遣って頂いていたのですが、正直私はそのトロフィーが気になってそれどころではありませんでした。
恐る恐る足を運んでその棚の前まできました。
第○○回東京ダービー優勝記念
川崎記念優勝
天皇賞春優勝
二十はあるでしょうか。全て優勝、あるいは準優勝のトロフィーや盾、メダルが一番目立つところに置かれていました。その一つ一つにカブラギさんとその担当バの名前が彫られ、仰々しくその偉業を誇っています。
私はよく磨かれたそれに目を細めながら、心の中でモヤモヤとした感情が湧き上がるのが分かりました。
朝日フュ―チャリティーステークス優勝 マルゼンスキー カブラギ
そのトロフィーを見つけた瞬間、胸の奥が焼き付くような錯覚を覚えました。
なんか……。なんというかとっても…………。
「そんなところに立ってないで座れ」
見ると、彼は真ん中のテーブルの一角にあぐらをかいて座っていました。テーブルには湯気上らせる二つのコップ。トレーナーさんとは対角に置かれたコップが私にこっちだよとその湯気で誘っていました。
私は黙ってそのテーブルに近付くと、持ってきた手提げ袋をテーブルの上に置いてカーペットの上に腰をおろしました。
「…………おい、なんでそんな近いんだ」
私は置かれたカップを無視して彼のすぐ右横で座りました。カーペットにギリギリ乗るぐらいのところを窮屈に肩をせばめながら正座をします。あぐらをかいた彼の膝が私の腿に当たるぐらい詰めました。一つポツンと残されたカップが寂しそうに訴えかけます。
するとカブラギさんは左に少しずれました。あぐらをかいていた右膝を立ててスペースを作ってくれます。
手にはウマホを握ってLANEをチェックしているだけですが、多くを語らずとも私のために気を遣って頂いたのが分かりました。
「トレーナーさん、遠慮なく座って頂いていいんですよ?」
「……別に。座りやすい姿勢になっただけだ。それより、ちゃんとカーペットの上であったまれよ。そこじゃあ寒いだろ」
それを聞いた時、私は嫉妬の心とは別の思惑が浮かんでさらに彼の方に遠慮なく、また脚と脚がぶつかるほど詰めました。今度は触れている場所も大きいからか、彼の体温がズボン越しに伝わってきます。
「…………………」
もはや何も言わなカブラギさんを横目に、私は尻尾をゆっくり動かしていきます。
彼の腰に巻きつくように尻尾を回しました。彼は気付いていないようでウマホを見ていました。
そんな時、急にカブラギさんが身を乗り出してテーブルの向こう側に手を伸ばしました。何事かと一瞬驚きましたが、彼の伸ばした手には私が置いてきたカップが握られていました。
無言で私の前に置かれるコーヒーの入ったカップ。私はなんだか自分のしていることが無性に恥ずかしい気がして思わず尻尾に力を入れていました。
「ん……?」
彼は何かに気付いた声を上げると腰のあたりに視線を移すのが分かります。それからゆっくり私のほうに……。
「グラス……怒ってる?」
「怒ってません……けど……」
私は彼の顔がまともに見れず、すぐ近くなのに視線を逸らしていました。いまさらながらこの部屋に充満するトレーナーさんの匂いが鼻孔をくすぐるのが分かります。
「……トレーナーさんは、『私の』トレーナーさん、ですよね」
「?……あ、ああ」
その答えを聞くと、逃すまいと一層尻尾に力が入って彼を拘束しました。
「!おい……!」
彼の驚いた声と同時にこちら側に体が少し傾くのが分かります。
尻尾に力を入れた私の方が驚いて思わず彼の方を向いてしまいました。
「あっ……」
そこにあったのは視界一杯に映るトレーナーさんの顔。普段眠そうに半分閉じているはずの瞼が大きく開いてその黒曜石のような瞳を強調していました。口は半ば開いて、そこから漏れる吐息が額の髪をいたずらに撫でます。まだ剃っていないのか、青く生えかかった髭がその端正な顔を男だと主張しました。
はらりと垂れたくせ毛が彼の見開いた右目を隠します。
私はそっと手を差し伸べてそのくせ毛を払うように彼の顔を中指と薬指で撫でました。
揺れる彼の瞳。押し殺したような息遣いとコーヒーの匂いに混じる彼の匂い。二人しかいないこの部屋の中、世界のすべてを彼に支配されたような気がして、私は速まる自分の鼓動の音を聞いていました。
「……ト……トレ」
「ああそうだ!朝ごはん作ってきてくれたんだよな!悪いが食べてもいいか?」
「え、ええ!もちろんです。こちらに……」
私はあわててテーブルに乗っていた手提げ袋を引き寄せ、その中から一つの弁当箱を取り出してトレーナーさんの方に渡しました。
「ありがとう。早速、頂きます」
ちゃんと自分の胸の前で両手を合わせて感謝の意を示すトレーナーさん。蓋を開けるとブロッコリーと卵焼き、それからプチトマトとたこさんウインナーを副菜に、弁当箱の三分の二ほどを占める海苔ごはんが顔を出しました。
「お、海苔弁当か。っと箸が無いな……」
「いえ、一緒に持って参りましたよ」
まともにご飯を食べていないであろうことを見越して、私は手提げ袋に入れていた木製のお箸を取り出して彼に渡しました。
「悪いな。なんだか箸が無い事も見透かされてそうだ」
本当はもっと貴方のことを知りたいのですけど……。
そうは思いましたが、私は静かに口元を抑えてふふ……。っと笑うだけでした。
「それにしても、のり弁は懐かしいな」
育ちの良さを表す箸の扱い方に見とれながら彼の食事を横目で眺めていると、ぽつりとそうこぼすのが聞こえました。
「懐かしいとは?」
「俺がまだ学生のころは金が無くてな」
「ご実家が……」
「焼失してな。金もほとんど無かったから苦学生だったんだが、いつも昼飯はこののり弁で凌いでたんだ。真ん中に梅干しを一つ入れてな。まあ、こんな贅沢な副菜は無かったが」
「それは、辛い思いを思い出させてしまって申し訳ありません」
耳を折りうなだれていると、そっと頭に手を置かれるその温もりを感じます。
「感謝してんだよ。お陰であのころのハングリーさを思い出させてくれた。今より必死だったなって思うよ」
彼は私が作ったお弁当を見つめながら、昔を懐かしむような柔和な笑みをその顔に乗せていました。
その表情を見れただけで、早起きして彼のために朝ごはんを作ったかいがあったと思えて、私も自然と頬がほころぶのを感じました。
「でも悪いな。俺のためだけにわざわざ弁当まで作ってもらって」
「いえ、余り物を……」
そこまで言って、私は彼の発言の違和感に気付いてしまいました。
「トレーナーさん、どうして分かったんですか?」
「……このウインナー、わざわざ切れ目を入れて手間かかってるよな~」
そう言ってたこさんウインナーを口に放り込みます。
私はそこで悟りました。余りもののウインナーに切れ目を入れるなんて手間暇をかける人なんていないことを。
「でもまあ、こんな美味いもの食べられるんだったら、また『余りもの』が出てくれたらありがたいけどな」
「……それって…………」
恥ずかしさのあまり下を向いていたその顔を上げると、彼は横目で優しそうな笑顔を向けてきました。
……ああ、この人には敵わないな……。
「でも負けませんよ」
「ん?」
「なんでもありません」
私はまだカブラギさんの腰に巻き付けていた尻尾にほんの少しだけ力をこめます。
彼と密着したその先からじわりとぬくもりが皮膚を通して伝わるのが分かりました。