手荷物を預け、チェックインを済ませる。空港ラウンジ内で最寄りの搭乗口を見つけ、適当な椅子に腰掛けた。
「……あれで足りたか?」
「……え?なんです?」
「さっきの昼飯」
そう言われて空港ターミナルで食べた北海道産刺身定食の味を思いだそうとするが、全くと言っていいほど思い出せない。どころか、刺身がどんな魚だったかも記憶に残ってなかった。
もちろんどれだけ食べたかも分からず、食べたはずなのに食事をした気分ではなかった。
「……ええ、十分お腹一杯ですよ」
「そうか。ウマ娘だからもっと食べると思ったけどな」
咄嗟に作り笑いを顔に張り付け、口から出任せを言う。
――私の悪い癖だ。
仕事とはいえ、彼との初めての食事だったのに、何を喋ったのかも思い出せない。ただ、トレーナーさんが食べ物を口に運んでる姿を見て、『彼もちゃんとした人間なんですね』などと失礼極まりないことをぼんやり思っていたことだけは辛うじて覚えていた。
しかし、慮っての行為だとしても、トレーナーさんに対して不誠実な対応をしてしまう自分に嫌悪を覚える。
巨大なガラス窓越しに、一台の飛行機が飛び立っていく様が見えた。
青空へ向かって何の苦もなく飛び立つ一羽の人工鳥。
――あんな風に飛べたら……。
雲一つない、晴れ渡った空へ向かって自由を謳歌するかの如く突き進んでいく飛行機を見ながら私はそう思った。
今朝も残り少ない時間の中の自主練でゲート出走の練習をしていた。しかし、三回やって三回とも失敗。結局メイクデビュー以来、出走出来たのは賭けをしたあの時だけ。
トレーナーさんがいれば走れる……。
安心させるように自分に言い聞かせるが、私の羽が折れたままなのは自分自身が一番よく分かっていた。
飛べない鳥が野に放たれればたちまち他の動物の餌食になってしまうーー。
トレセン学園という揺りかごから放たれた私はきちんと飛び立てるだろうか……。
一度こびりついてしまった不安は拭いようもなく、私の心を侵食してくる。
「何も考えるな」
「……え?」
声がした方を見ると、席を一つ空けて隣に座るトレーナーさんがいつもの仏頂面で私を横目に見つめていた。
「さっきから上の空でよ、こっちまで辛気くさくなる」
「………………」
やっぱり、トレーナーさんにも分かるぐらい私は心の動揺を押さえられていないらしい。
元々私が無理を言って出走させてもらってるのに、こんな状態でまた恥でもかかせたら……。トレーナーさんの汚名を返上するために走るつもりだったのに、逆に顔に泥を塗ってしまう……。最悪、契約解除さえ……。
「だから余計なこと考えんな」
「……でも……」
「お前は走れば勝てる」
確信に満ちた声色で彼はそう切り出した。
「ゲートもそうだが、今まで未勝利戦に向けて何一つ調整してこなかったけどな、この程度の試合ならお前は走れば勝てるんだよ。そんでお前は考え過ぎ。勝てなかったらどうしようとか、無理言って出させてもらったのに俺に迷惑かけたらどうしようとかつまらんこと考えてるんだろう」
「……私は……」
図星をつかれて言葉に詰まる。
いつもの私なら『つまらないとはなんですか!私は真剣に悩んでるんですよ!』とか言い返していたのだろうが、最早そこまで頭も回らないし気力も湧かない。
「言ったろうが。お前に責任が及ぶほどお前は出来ちゃいねえ。んでもって、お前のようなお子様に心配されるほど俺はやわじゃねえ」
「っ……!ど、どこがお子様なんですか!」
「そうやって一々突っかかってくるとことか」
「~~~~!!」
私が歯噛みしていると、彼はふっと頬を緩めてほくそ笑んだ。
「ちょっとは調子戻ってきたんじゃないか?お嬢様?」
私はからかわれていることに気付いてプイッとそっぽを向いてしまった。彼が指摘した通り、我ながら子供っぽい仕草だ。
でも、口元は何度も引き締めようとしても何故かどうしても緩んでしまうのだった。
搭乗開始を告げるアナウンスがロビーに流れていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「あのマルボロ、持ってるよな?」
俺達はメイクデビュー戦とは逆に時間ギリギリに会場に着いた。少しでも緊張しないようにするための苦肉の策だ。
「ええ、ここに」
控室の扉の前で、グラスワンダーはポケットからくしゃくしゃになった包装紙を取り出す。昨日泊まったホテルから彼女に持たせっぱなしにしていたものだ。
深夜に部屋のドアを叩かれ何事かと思ったら、安心して寝られないからあのお守りを貸してくれと頼み込まれたのには驚いた。
「それは本当に大切なものなんだ。必ず返してくれ」
「ええ。承知しております」
彼女は笑ってみせるが、耳をそわそわさせていることが無理矢理作ったものであることを知らせる。
「あとそうだな、何か必要なものとかしてほしいこととかないか?」
せめて少しでも緊張を和らげようとするが、気の効いた言葉は出てこない。
空港ではそれなりに上手くいったが、元来俺はこういうメンタル面に関してのサポートは苦手なんだ。
「……いえ、特に今は……」
「そうか……。それじゃあもうすぐ時間だ。まあなるようになる。練習だと思って……」
「ああそうです。一つして欲しいことが……」
俺の言葉を遮って彼女はわざとらしく今思い付いたように切り出した。
「なんだ?なんでも言ってみろ」
「……それでは、私がもし一着で勝ったら名前を呼んで下さい」
……名前?
何を言われたのか分からなかった。名前なら普段から呼んでいるはずだ。
「いえ、『グラスワンダー』ではなくてですね……」
俺の怪訝な顔を察して彼女は慌ててフォローを入れた。
「『グラス』って呼んで下さい。親しい方たちにはそう、呼ばれています」
「……あ、ああ。分かった」
なんだそんなことか。と言いそうになったのをなんとか堪える。
やっと言えたというように、グラスワンダーは恥ずかしそうに耳を折り、視線を反らして頬を紅潮させた。
そんなことが彼女にとってはとても大切なことなのだ。
「約束だ。一着をとって帰ったらいの一番に言ってやる」
「……はい!ありがとうございます!」
グラスワンダーは今までの不安を吹き飛ばすように明るい笑顔でそう答えた。
「言っておく。どうなろうと先のことは考えるな。走りたいように走れ」
「……行ってこい。グラスワンダー」
パドックへ通じる花道を通る。八人のウマ娘がいるはずだが、俺の目には一人しか写っていなかった。
終始せわしなく尻尾を振り、耳は周囲を警戒するように右に左に向きを変える。
お守りのマルボロも流石にここまでは持ち込めない。グラスワンダーは端から見てもとても落ち着いているとは言いがたかった。
パドックへ着いても同じ。顔は一見穏やかだが耳も尻尾も所在なく落ち着きがない。視線も何かを探すようにキョロキョロしている。
と、そこで俺と視線があった。
彼女は頬に手をあてがってにこりとこちらに微笑む。心なしか耳や尻尾も落ち着きを取り戻したようだ。
俺は高く右手を掲げサムズアップの形で応える。その右手をそのまま自分の胸に持っていき自らの存在を強調する。
俺はここにいるぞ!
声に出すことなく、常に見守っていることを示唆する。
すると彼女は急に真剣な表情をし、僅かだが青い闘志を宿したあの目を垣間見せた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『俺のために走れ!』
そう、彼はそう主張した。
あのパドックで右手を掲げ、吸い込まれるように彼の胸にあてがわれたその親指は彼自身を指し示していた。
――忘れていた。
これは私のための戦いじゃない。
トレーナーさんの、彼のための戦い。
私はその礎。
こんなところで負けられない――!
各自ゲートに入っていくウマ娘。その背中を見やる。
私もゆっくりと歩を進めゲートの前で立ち止まった。
一つ大きく息を吸い、満杯になった肺を閉じる。
膨らんだ肺に圧されてせわしない心臓の音がより一層大きくなった。
ゆっくりと肺から気体を流し出す。
ヒューッという音と共に、私の不安が押し出されていくようだった。
俯いた顔を上げ、改めてゲートの方に顔を戻す。
ぽっかりと開いた黒い口が私を飲み込まんと待ち構えていた。
飲まれるものか――!もう……。
私は意を決してゲートに入り込む。
ぞわぞわと私の足下から幾百の虫が這い上ってくるような感覚に襲われた。
背筋に悪寒が走り、八月だというのに鳥肌が立つ。
何度経験しても慣れない……。
慣れはしない。けれど……。
この程度……!
私の頭に思い描いていたのは彼の笑顔じゃなかった。
あの日トレーナー室で独り、悔し涙を流していたであろう彼の声。見ることはなかったはずのその顔。
そして――
――もう負けない!二度と……!!
瞬間、急に目の前が明るくなり、眩しい太陽と生い茂る芝が目に入る。
続いてまばらな歓声とターフの上を走るウマ娘の背中――
出遅れた……!
思うが早いか、私は弾かれたように飛び出す。
出走出来たことを喜ぶ暇もなく、私は最後方から集団を見やった。
四人が固まって集団を形成し、その後ろ一バ身ほど離れて一人のウマ娘が追いかける。
私はその娘のさらに三バ身ほど後ろだった。
あと二人はさらに前……!
どれだけ私は出遅れたのか……。計りかねた思いはすぐに邪念としてうち消す。
まずは集団。とりつく!
一人外からかわし、第一コーナー手前で集団の後方外側にとりつく。しかし――
遅い……。
外側から集団を覗く。彼女らは決して体力を温存しようとセーブしているようには見えない。もちろん、機を伺っているのは確かだが、それにしても遅すぎる。
チラリと集団のさらに先を見る。集団から二バ身ほど離れたところに一人、さらに三バ身先に先頭がいた。
……遅い!
ペースを作っているであろう先頭自体が遅かった。息を入れているのか、わざと遅くしてペースを乱しているのか判別出来ない。
どうする……?
私は俊巡した。
このまま集団に合わせて足を溜めるか、それとも飛び出して自分のペースで走るか。
もうすぐ第二コーナーが終わる。
その時、私はトレーナーさんの言葉を思い出していた。
『走りたいように走れ』
……分かりました。トレーナーさん。
グラスワンダー、参ります!!
向正面に入るや私は集団を突き放した。
あっという間に差を広げ、すぐに逃げていた二番手の後ろを捉える。
ただ勝つだけじゃない。圧倒して私の強さを証明する!そして彼の不名誉を払拭する!
前を塞ごうとするウマ娘だったが、札幌競バ場唯一の急な坂でフェイントを入れつつ抜き去ると、力尽きるように彼女も集団に沈んでいった。
残るは先頭のみ。
しかし、それも第三コーナーに入る前に後ろを捕まえる。
風よけとして彼女の後ろにピタリと張り付き息を整える。
前のウマ娘は荒々しく呼吸を乱し、まるでライオンから逃げるウサギのようにさらに加速しだした。
……ありがとうございます。
この程度の加速は牽制にもならない。逆に私がトップスピードへ持っていくための助走になる。
第三コーナーに入りカーブを曲がりだすと、私の前を走っていたウマ娘は徐々に失速しだした。
後ろからでも分かるぐらい彼女は息を切らしている。必死に前へ足を運ぼうとするが、股は上がらず、先程までの威勢は見る影もなかった。
私はすかさず外から彼女を抜かし、スピードを落とすことなくさらに加速する。
もう誰もいない。あとはこのままゴールラインを越えるだけーー。
それでも私は手を抜くことなく、足に力を込めるとラストスパートへと向かってさらに速度を上げた。
一瞬チラリと内後方を伺うと、いまだ第三コーナーの終わりほどに集団が走っているのが分かった。
10バ身、差をつける!
第四コーナーを抜け、最後の直線へと入る。
誰もいないターフの上を新品の蹄鉄が削って私の加速を助けた。
瞬間、漠然とした空しさが胸の内を掠める。
トレセン学園で走り続けた私には余りにも物足りないレース。まるで亀同士の競争に一頭チーターが紛れ込んでしまったかのような卑怯感。
私はこんなレースで勝って評価されるのでしょうか……?トレーナーさんは満足してくれるの……?
レース前に捨てたはずの邪念が胸の奥から沸き上がり、私の足を鈍らせる。
自分自身を叱咤し、足を前に運ぶが思うようにスピードが乗っていかない。
先頭を走り、余力も残っているのに苦渋の顔を下に向けてただゴールラインを通り過ぎるのを待とうとした。
『前を見ろ』
……トレーナーさん?
『あのグラスがこんなところで終わるわけないデース!』
『頑張ってグラスちゃん!あとちょっとだよ!』
『全力も出さずに勝とうとするなんて、貴女この私よりよっぽど傲慢ね』
『本気の私を負かしたグラスちゃんがこの程度なんてセイちゃん大分ショック受けちゃうな~』
……みんな……!
顔を上げる。
そこにいないはずの四人の背中が確かに私を待っていた。
早くこっちにこいと言わんばかりに、顔をこちらに向けながら私の前を走る四人。
足に力が入る。
肺に乾いた空気がなだれ込む。
心臓が動けと脈動する。
手を振り、崩れかけたフォームを元に戻す。
頭は冴え、体は上気する。
全力で走れと命令する!
私は四人の影を追いかけた。
汗も涙も涎も流しながら無我夢中で走り続けた。
――追い付きたい……。いいえ、追い付く!
待っててみんな!
四人の背中に並ばんとした時、ターフの先に見慣れた仏頂面の男の人が一人、私を待ち構えていた……。
大きな歓声と共に、札幌競バ場の電光掲示板が電灯した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「四番人気、三番三枠グラスワンダー。」
場内にアナウンスが響き、人もまばらな競バ場に空気の振動が伝わる。
未勝利戦では注目度が低ければもちろん観客も少ない。
そんなレースでもグラスワンダーの人気は四番。
メイクデビューの最下位、あるいはゲート難の情報が流れたか。いや、それ以前にパドックでの様子はお世辞にも調子がいいとは言えない有り様だった。ある意味生モノの競バを表しているとも言えるが、彼女の実力に反してこの評価は余りにも低すぎた。
だが関係ない。
一度ターフに出てしまえばそんな仮初めの人気などなんの役にも立たないことを知っている。
頼れるのはウマ娘の実力だけ。
問題は彼女がまともにターフに出られるかだ……。
そんな思いを知ってか知らずか、グラスワンダーはゲートの前で立ち止まり、一つ大きく深呼吸をする。
息を吐き出し切るとゆっくりと顔を上げ、その歩をさらに進めた。
最後のウマ娘、グラスワンダーがゲートに入り、後ろの扉が閉められる。
普段ならまるで気にならない場面のはずが、自然と握った拳に力が入った。
ちゃんとゲートから出走してくれるか……。
このレースはそこに全てがかかっていると言っても過言ではなかった。
ゲートに入っているほんの数秒が何分、何時間にも感じる。
早く!早くしろ!と気持ちが急くも、自分の力でゲートを開くことは出来ない。
どうすることも出来ない苦痛な時間はゲートの開かれる音とともに終わりを迎えた。
ガシャン!という音とともに飛び出すウマ娘達。俺はその中で栗毛のウマ娘を探していた。
いない……!
威勢よく飛び出した先頭二人はもちろん、集団の中にもその姿は確認できなかった。
「おおっと!グラスワンダー大出遅れだ!マイルレースでこれは致命的か!?」
見ると集団の遥か後方に一人ポツンと取り残されているのが見てとれた。集団からおよそ4バ身、いや5バ身は離れているか。
勝った――!
勝ちを確信した。
こんな絶望的な状況でもグラスワンダーは勝つ。何バ身離れていようが出走出来た時点でこのレースは勝ちなのだ。
俺の予想通り、最初の出遅れをあっという間に無くし、第一コーナーに入る前に集団にとりついてしまった。
そのまま集団後方で待機し、最後の直線で抜け出してゴールーー。
俺はそんな展開を描いていた。圧倒せずとも余裕で一着をもぎ取る。彼女の実力を示すには十分過ぎる流れだ。しかしーー。
「グラスワンダー、集団を捨て、前の二人に襲いかかる!仕掛けるのが早すぎないか!?」
グラスワンダーは俺の予想を裏切り、向正面に入るや集団から飛び出して先頭を目指していた。
……暴走!?
俺の頭をよぎったのはその二文字だった。
掛かりなどとはとても呼べないほど彼女の脚質とは大きく離れたポジション。
彼女は集団に戻ることはなく、そのまま二番手のウマ娘を抜いていく。そして第三コーナーの手前で先頭のウマ娘の後ろに張り付いて息を入れているようだった。
この光景を見た瞬間、俺はグラスワンダーが冷静な判断の下、前に躍り出たのだと確信した。
あいつはぶっちぎりで勝つつもりか?いや……、
あのペースがグラスワンダーの普通なんだ……。
ゲート練習ばかりしていて忘れていた。彼女の潜在能力。凡庸なウマ娘を遥か凌駕するその凄まじいほどのポテンシャルを――
第四コーナーに入る前に先頭と別れを告げ、一人独走状態に入るグラスワンダー。だが、彼女の足はさらに加速し、差しの脚質を見せつける。
見た……!俺はこの光景を見たことがある!!
『なあ、なんでお前はいつも【逃げ】てるんだ?正直、お前の脚質は逃げというより差しに近いとおもうんだが……』
そう問うと彼女は不思議そうな顔を寄越して当たり前のように衝撃的な言葉を放った。
『別に逃げてるわけじゃないわよ。ただ普通に走ってるんだけど、他の娘達が追い付けないだけなの』
事も無げにそう言う彼女は、新人の俺にはとても手の余る不敵な笑みを残していった――
「いけええええええええ!グラスワンダアアアァァァ!!」
見ているか?マルゼンスキー……。お前を越える逸材が今、ここにいるぞ!!
彼女はターフを駆け抜ける。
その美しい栗毛を棚引かせ。
力強く蹴るその芝がはね上がり宙を舞う。
彼女が流した汗は露となり青く繁る地面へ落ちる。
闘志を宿した碧い焔。
その瞳に写るはゴールライン。ただそれだけ。
掲示板手前でさらに加速し、トップスピードとなる。
ゴールラインを割るその一瞬、俺は彼女の背中に翼を見た――
歓声とともにグラスワンダーは掲示板を通過する。数秒遅れて次々とゴールラインを割るウマ娘達。
俺はゆっくりと減速して立ち止まったグラスワンダーを呆然と見つめていた。
彼女は振り向いて掲示板を見やる。
するとグラスワンダーは両手で鼻元から口を覆い、涙を溜めてその結果を見つめていた。
掲示板には一着にグラスワンダーの三番が電灯し、その横には二着との差、9と1/2バ身差を表す数字が電灯していた。
「9と1/2バ身……」
これはマイルレースである。そして、集団から4バ身以上遅れる出遅れをしたレースでもある。
実質的にマイルレースで10バ身以上の大差をつけて勝った。いくら未勝利戦とはいえ、こんなレースはあり得ない。
だが……。
これも見たことがある。
そう、俺が担当した、かのマルゼンスキーはマイルレースで大差をつけ勝っている。
他を圧倒する絶対的な実力――
俺は掲示板からゆっくりと彼女に視線を戻す。
グラスワンダーはいまだに何が起こったのかと掲示板を見てその目を赤らめていた。
「グラスワンダー!!」
俺は歓声に負けない大声で彼女に向かって呼び掛ける。
するとグラスワンダーはこちらに気付き、涙を流しながら満面の笑みをこちらに向けた――
来た時と同じように花道を通り帰っていくウマ娘達。だが入場する時とは違い、ほとんどのウマ娘は虚ろな目でゆらゆらと生気なく歩いている。
当たり前だ。いくら負けるにしてもあんな大差をつけられたのではプライドはズタズタだろう。
だがそれも仕方のないことだ。
後の運営の発表で、札幌競バ場1800m走のレコードタイ記録だったことが発表された。
この記録に大差をつけられて負けたとしても誰が責められるだろうか。
ただただ相手が悪かった。それに尽きる。
花道を通るウマ娘の一人がこちらに気付く。彼女は照れたような仕草で観客用の通路に小走りで寄って来た。
次の瞬間、俺はそのウマ娘に抱きつかれた――
遠慮がちに胸元にあてがわれた両手は僅かに震え、その表情は俺の頭のすぐ下にあるのに見えるのは少し汗ばんだ栗色の髪の毛だけだった。
「……トレーナーさん。……私、飛べました……」
こんな言葉をかけられて理解出来る者はいるのだろうか?いや、多分俺以外にいないだろう。
「ああ……。見てたよ。『グラス』……」
俺は心の動揺を押さえ、努めて冷静に受け答えた。
少し震えたその声は彼女に分かっただろうか……。
彼女は胸に押し付けた顔で、服に埋もれたその上から一度大きく息を吸い込んだ……。