膝の上でヘルは再び眠りについた。まともに体が動かず、喋ることもできない状態だったとはいえ、さほど抵抗することなくアルウェスの手から水を飲んでくれて助かった。もっと嫌がるだろうと予想していたが、最初は呆然としていたものの、ヘルは介助を素直に受け入れていた。
寝台に体を縛り付けられたかのように、彼女は体を動かすことができなくなっていた。アルウェスに筋力補強の魔法をかけられて、自力で姿勢を保つことに集中していたから、余計なことは考えられなかったのだろう。
水と解毒薬を飲んだら眠くなったらしい。彼女はアルウェスの胸にもたれかかると眠ってしまった。その体は発熱していて、火型で体温が高めのアルウェスよりも体が熱くなっている。手で額や頬に触れると気持ちよさそうに微笑んだ。魔法学校時代に彼女が高熱を出した記憶はないので、今回の発熱はかなりつらいと思う。
ヘルは幼い子どものように、アルウェスに身を任せている。アルウェスの腕の中で眠る彼女の体は華奢で柔らかく、その肌は美しくて、胸元に浮かぶ禍々しい痣があまりにも不釣り合いだった。
アルウェスが少し国を離れていた間に、無垢な彼女は下劣な男によって毒を飲まされていた。精神にまで作用する強烈な毒は彼女の清らかな体を穢し、彼女の心を操った。
あの男だけは許さない。できることならばアルウェスの手で灰になるまで燃やし尽くしてしまいたい。
しかし、彼女の解毒を任せられる者がいないという理由で、アルウェスは彼女を保護する役目を担った。彼女を助けるのは誰にも譲る気はないが、できることならば憎い男の首をこの手で握りつぶし、髪の毛一筋ほども残らないほど粉々にしてやりたかった。捜査のためにあの男が生かされているなんて許しがたい。
彼女の胸に浮かび上がった渦巻き模様の黒い痣は、夜が更けるにつれて範囲が広くなっていった。一時は顎の下から手首にまで及び、彼女は一晩中高熱と嘔吐に苦しめられた。白くて細い首を絞めるように広がる忌々しい痣を炎で焼き切りたい衝動を抑えながら、アルウェスは解毒の処置に集中した。
様子をみながら水分と解毒薬を投与し、吐き気に顔を歪める彼女を介抱する。ひどく汗をかいているので、魔法で体を清めてあげると少しだけ顔に生気が戻る。彼女の体内を蝕む毒をできる限り早く排出させたかった。
白々と空が明けはじめた頃、ようやく痣が薄くなり、呼吸が落ち着いてきた。そこから数時間かけて痣が完全に消えると、ようやく熱も下がっていった。
窓から差し込む日射しが彼女の白い肌をより白く見せる。一月半ぶりに再会したときも痩せて顔色が悪いと思ったが、解毒を終えたばかりの彼女の顔色はさらに青白い。体の負担は相当なものだったろう。
いつもなら血色がよく、弾力があって柔らかい頬も、肉が削げて顔の輪郭がはっきりしている。アルウェスは頬に手を添えて、唇を親指でなぞった。紅をささなくとも赤い唇が、今は色を失い乾いている。
腹の中で彼女の体を蹂躙した毒に憎しみが燃え上がるのを感じながら、彼女が助かったことに安堵した。
呼吸は整っているし、脈も問題ない。痣が広がっている間は腕を挙げるのも難儀していたが、自力で寝返りもできるようになった。
熱は下がってきているけれど、氷型の彼女の平熱と比べたらやや高めである。平熱に戻るまで安静にしなければならないだろう。
「よく耐えたね……。ゆっくり休んで」
魔法で体を洗浄してやり、全身に治癒を施し、寝間着も交換した。寝台の天蓋を下ろしていると、扉をノックする音がした。
入室してきたのは解毒を手伝ってくれたエリンだった。日付が変わったころに休むよう下がらせたが、ちゃんと睡眠と食事を摂ってきたのは顔色をみればわかった。
「アルウェス様、お嬢様の具合はいかかですか?」
「熱はまだ微熱だけど、呼吸も脈も落ち着いている。痣も完全に消えた。解毒は成功したよ」
「それはようございました。これでひと安心ですね」
エリンはホッとしたように息を吐き、胸をなでおろした。
「エリンが協力してくれたおかげだよ。ありがとう」
「アルウェス様が手を尽くしたからでございましょう。若くて綺麗なお嬢様があんなに苦しんでいらっしゃるのは、見ていてるだけで胸が痛くなりましたもの……アルウェス様もお辛かったでしょう」
「僕は治療しただけだよ」
「一晩中看病してらしたんですよ? お疲れのはずです。わたくしが交代しますのでお休みください」
「……わかったよ。もしヘルに何か異変があったときは、僕が寝ていても起こしてほしい」
「昨晩よりも酷い状態になったらお呼びいたします」
さぁさぁお休みください、と急かすように部屋を追い出されて、アルウェスは自室に戻った。
確かに疲れている。帰国して以来、休みなしでアルウェスは働いていた。ヘルの身辺を調査し、ハーレの所長とゾゾ・パラスタに協力を仰いで疑惑のホット・チョコを手に入れた。母に頼んでエリンを呼んでもらい、エリンと二人で薬の解析をして、大量の解毒薬を一日で作ったのだ。さらに同時進行で騎士団を動かしてアルバート・ミロナスを逮捕させた。
睡眠不足の日々が続いた上、昨夜はヘルの看病で一睡もしていない。アルウェスの体も限界だった。
本当は休みなんか取らずに彼女を見守っていたい。今すぐにでも騎士団に駆け込んで、あの男をこの手で消し炭にしてやりたい。
しかしながら、この身は一つしかなく、睡眠を取らなければ思考も体の反応も鈍る。魔力の扱いにも影響する。
食事は断って温かい飲み物だけを用意してもらう。魔法で体を洗浄して寝間着に着替えて寝る準備をする。
長椅子に座って温かなお茶を一口飲んだ。神経を鎮めてくれる薬草を熟成させたお茶には蜂蜜で甘みがつけてあり、疲れた体に沁み渡るように感じられた。
エリンを呼んだ際に母がロックマン公爵家の古参の使用人を貸してくれたおかげで、最低限の使用人しか置いていなかったこの屋敷でも不自由することなく生活ができ、ヘルの治療に専念できる。彼らはアルウェスの好みを熟知しており、食事も部屋の支度も安心して任せられた。
茶器の杯を手に持った受け皿に戻し、アルウェスは背もたれにゆったりともたれかかって深く息を吐き出した。
強張っていた肩の力が抜けていくように感じる。自覚していたよりも自分は気を張っていたようだ。
先ほどまで頭を占めていた様々な思いが霧散していき、自分が今すべきことを静かに考えられる。疲れた頭であれこれと考えても碌なことがない。最悪の危機は脱した。ヘルは助かった。
仮眠をとった後はヘルの治療の続きと騎士団への報告がある。アルウェスはまだ十分に温かいお茶を飲み終えると、使用人が温めておいてくれた布団に入って泥のように眠った。
次回の更新は明後日の予定です。