夜は眠れないかもしれない、と心配したのは杞憂だった。
朝になれば、呼び鈴を鳴らさなくともナナリーが目覚める前に召使いが来ているのは知っている。窓の
ナナリーは身支度を整えて居室で朝食を食べ、日記代わりの手帳に昨日の出来事を書き込んでいた。ユーリに乗って部屋に戻ってきたところまで書いた後、手帳の紙面は黒い変な模様で埋め尽くされた。ぶるぶると筆を持つ手が震えて続きが書けない。
「なんで思い出しちゃったんだろう……」
せっかく昨夜は忘れていたのに! こんな日記書くんじゃなかった。しかも今日はこれからロックマンが来る。頭を抱えて悶絶しているナナリーに、召使いが恐る恐るといった様子で「お嬢様?」と声をかけてくる。
その矢先、扉をコンコンと叩く音がした。ナナリーの体がビクッと大きく跳ねる。召使いが扉に駆け寄っていく。開かれた扉から姿を現したのは、赤い瞳に銀縁の眼鏡をかけて、胸元までの長い金髪を垂らした背の高い男。
「おはよう」
「……おはよう」
ナナリーは口をヘの字に曲げて挨拶をした。しぶしぶ書き物をしていた机から応接用の長椅子に移動する。ロックマンも向かいに座った。召使いは退室し、部屋の中は二人きりになる。
「どうかしたの? 調子悪い?」
「何でもない」
「調子が悪いなら隠さないで言って。気分が優れないのに無理して話なんてしなくていいから」
「ち、ちがっ……」
ロックマンの目には心配の色しか見当たらない。ここで心の中のモヤモヤを正直に打ち明けていいのだろうか? 膝の上の下衣を両手で握りしめ、口をモゴモゴさせながら、ロックマンを真正面から見るのが難しくて視線を
「えーと、あ〜、あのー、そのー……たぶん、わたしだけが気にしてるんだと思うんだけど」
「うん」
「ハーレからここに来た日、解毒で薬湯に浸かったでしょ……浴室で」
「ああ、うん、そうだね」
「それで、思い出したのよ。……浴室で溺れかけて、それを助けてくれたのがロックマンだったって……」
「あ……」
ピクッとロックマンの眉が跳ね上がり、すぐに口元を片手で覆って視線を
「じ、人命救助だし、騎士団の守秘義務もあるだろうから、アンタが誰かに話すとか思ってないし。わたしがもう一度忘れればいいのよ。あんたはもう忘れてたでしょ?」
「…………ごめん」
俯いた顔は長い前髪に隠れてどんな表情をしているのか窺い知れないが、どんよりとした空気が漂っている。貧相な体を見ても何とも思わないとか、男と間違えそうになったとか、もっと鼻で笑われると思っていたけど、意外にもロックマンは後ろめたさを感じているようだ。
ナナリーとて責めているわけではない。ロックマンが二度と思い出さなければそれでいいのだ。自分たちしか知らないことだし、二人とも忘れればなかったことと同じだ。
「もうこの話題は終わり! アンタの用事をさっさと済ませましょ!」
バサバサと顔の前で手を振って、さっさと話に入ってもらう。ナナリーは意味もなく天井や室内の調度品を見回す。調子が狂う。いつもみたいに嫌みの一つでも言ってくれば答えようもあるのだが、妙に気まずい。
ロックマンは重そうに息を吐き出して、持ってきた書類を机に置いた。
「……まずは、エリンが今日で帰る。後で挨拶に来ると思う。君に何か異変が起きれば、また来てもらうこともあるけど」
「わかった。ちゃんとお礼を言うわ」
「それと、ある書類に君の署名が必要なんだ。──アルバート・ミロナスの記憶探知に関する同意書だよ」
「同意書?」
「彼の記憶探知をすれば、必然的に一緒にいた君の姿も団員が見ることになる。被害者である君の私生活が
「うん、わかった。署名する」
筆記用具を取りにいこうとナナリーは立ち上がった。
「待って、ヘル。別に焦らなくていいから」
「でも、同意書に署名は必要でしょ?」
「最終的には必要だけど、忘れた記憶を思い出してから署名してくれればいい。何もわからないのに署名されたら騎士団が困るんだよ」
ナナリーは座り直し、ロックマンは数枚の書類を広げる。
「これはハーレの勤務日程表と、アルバート・ミロナスの仕事の記録、パラスタさんに書いてもらった君の様子の変化だよ」
「ゾゾさんが?」
花の季節が終わって破魔士たちと食事をしに行った頃から始まり、ナナリーから聞いた話、同僚からの目撃情報情報などがゾゾさんの字で書かれていた。目撃情報の記録はハリス姉さんの字だ。他にも寮母さんが付けている記録もある。
「焦る必要はない。ゆっくり思い出せばいいから」
「じゃあ、わたしは思い出したことを紙に書いておくから、アンタは仕事に行っていいわよ」
「……仕事は午後からにしてある。ここで君が無理しないよう見張ってるよ」
「見張りなんて必要ありません」
ナナリーは頬をぷぅと膨らませた。ロックマンは可笑しそうに瞳を揺らして口の端を上げる。
「部下たちは僕が午後から騎士団に来ると思ってるんだ。僕が勝手に予定を変えると他の団員が困るでしょ?」
長椅子の背もたれに寄りかかってゆったりと長い脚を組む。下手に予定を変更すると他の人に迷惑がかかるというなら仕方がない。ナナリーはハーレの勤務日程表とゾゾさんの書き付けを読み込み、記録と記憶を照らし合わせていった。
ゾゾさんがミロナスさんに違和感を覚えたのは花の季節の後半と記されている。空離れの季節に入ってから「アルバートがナナリーに積極的になった印象」があり、「ナナリーがしょっちゅうホットチョコを飲み始めた」のもこの頃らしい。
ハーレで起きた印象的な出来事もかなり細かく書いてあり、仕事に関してはだいたい思い出せた。特に問題も起きなかった日、代わり映えのしない日については思い出せないが、それは仕方がないだろう。
ポツポツと記憶が欠けているのが解毒をする十日くらい前からで、ミロナスさんと「付き合っていた」期間は一週間ほどと判明した。そして、その一週間の中でミロナスさんに関する記憶がぽっかりと抜けている。
「……僕が帰国したとき、君と彼が一緒にいるところに遭遇したけれど、それは覚えてる?」
「
「三人で少し話もしたんだけれど、それは?」
「そう言われると話をした……かも? ロックマンと他に誰か居たような気もするけど……ぼんやりとしか思い出せない」
「解毒の前に僕とこの部屋で話をしたことは?」
「話の内容はわからないけど、黒い鼻血を出したのよね?」
「──そう。それは覚えてるんだ……」
「どんな話をしたの?」
「君が騎士団に保護された経緯と、解毒の説明だよ」
「それだけ?」
「君は黒い血を見て青い顔をしていたよ。よほど強烈だったんだろう。──少し疲れたんじゃない? 休憩にしようか」
ロックマンが召使いにお茶を頼んで、ナナリーも書類をまとめて息を
肩を動かして体をほぐしていると召使いがお茶を運んできてくれた。ナナリーには蜂蜜入りの薬草茶、ロックマンには
ナナリーにはお茶にケッヒェルをすりおろしたものが添えられている。昨日より固形分が増えていて嬉しい。そして、なんとロックマンのお茶請けも果物のケッヒェルを切ったものだった。まるで子供にあげるみたいに、赤みがかった黄色の皮が兎鳥の耳を模した形に切られている。
ロックマンは澄ました顔で優雅に紅茶を飲んでいるが、とんがった長い耳の兎鳥ケッヒェルが目の前に置かれたときに一瞬固まったのをナナリーは見逃さなかった。
まだ室内に召使いがいるため、ひくひくと口角が上がりそうになるのを必死で
「ねぇ、わたしはともかく、アンタのお茶請けはちゃんとしたお菓子が出てくるのが普通じゃないの? ケッヒェルを使った焼菓子とか」
「……君に気を遣っているんだよ。君はまだ食べられないのに、僕だけ立派なお菓子を食べるほど酷い人間じゃないつもりだけど?」
ナナリーが病人だから、ロックマンも、彼の使用人たちもこんなに気を遣ってくれているのか。ナナリーは心の底から納得した。
それにしても、ロックマンは楊枝で兎鳥ケッヒェルを食べる姿も様になる。なんて奴だろう。
このロックマンはちょっとナイーブになってます。
ケッヒェルは林檎みたいな果物です。(※捏造です)
※騎士団はナナリーに記憶探知はしません。アルバートを記憶探知する際にナナリーも一緒に映り込むので同意書を求めています。細かいことは次話で。