「魔物に取り憑かれて精神を乗っ取られるなんて、考えたくもないわ」
ナナリーは滅多に出ない溜め息と共に呟いた。正面に座るロックマンが膝の上で手を組み、腰を据えてじっとナナリーを見ている。
「君も決して他人事じゃない」
「え?」
燃えるような赤い瞳が、眼光鋭く、だが静かに見据えてくる。
「晩餐会に現れた魔物は僕らと意思の疎通ができるものだった。オルキニスの女王を
「シュテーダルがどうとかって……?」
「そう。シュテーダルが何かもまだわからない。魔物にどれほどの知性があるのか研究段階だったけれど、予想以上に魔物は変化……進化していると思う」
魔物にも動物並の知性があることは確認されている。魔物は強いものから弱いものまで多種多様だけど、概ね魔力が多い魔物ほど知性が高くて強い。そして、森や山よりも街中に出る魔物のほうが、魔力の
「そういうのって国民に知らせないでいいの?」
「もっと情報が集まったら破魔士には周知させるつもりだよ。もちろんハーレにもね。それまで他の人には話さないで」
「わかった」
晩餐会では血の盟約をしたくらいだ。「進化した魔物」を公にするにはまだ時期尚早なのだろう。
「……で、話は氷の乙女を狙う魔物に戻すんだけど。ドーランで最も狙われる確率が高いのは君だよ」
「わたし?」
「君はオルキニスで捕まえ損ねたとっておきの獲物だからね」
「特定の魔女や魔法使いが魔物に狙われるなんてあるの?」
「僕もそういう事例は聞いたことがない。でも、氷型は数が少ないし、魔力が高い氷の乙女を探そうと思えばその数は限られる。ドーラン周辺の国々ではおそらく君が一番だ」
ナナリーは目を瞬いた。ロックマンの口から「君が一番」などと言う言葉が出てくるとは。
いや、成人した氷の『乙女』に限ると本当に数は少ないということか。給金につられてオルキニスに行ってしまった魔女も結構いるようだし、ハーレにも氷型の魔女はいるけれど、彼女は既婚者である。
「アルバート・ミロナスが君に使った薬も、その魔物が関係しているかもしれない」
「ええ!?」
「まだ確証はないけどね。──だからこそ、君は厳重に保護されているし、この事件の背景を徹底的に洗い出さなければいけない」
予想外だった。新種の薬だとは聞いていたが、そこに氷の乙女を求める魔物が関係しているなんて考えたことがなかった。
不意にナナリーは広い室内を見回した。お茶を下げたときに召使いは退室し、この部屋には自分たちだけだ。ナナリーはもちろん、ロックマンも防音の魔法を掛けた素振りはなかった。そんな状態で騎士団の機密に関わる話をしているのだから、この部屋には既に防御魔法が何重にもかけられているはずだ。でも、ナナリーはそれが感知できてない。
──魔力が足りない?
わかっていたではないか。魔力が減って髪の色が焦げ茶色に戻った。魔力の回復を補うために体力が奪われて、体力の回復も遅い。
ゾッとするような悪寒がした。背中から寒気が這い上がってきて、言いようのない不安に襲われる。
「……どうすれば魔力が戻るの?」
「ヘル?」
「魔力が戻らなきゃろくに身を守れないじゃない。ハーレの仕事にも支障が出るかもしれない。早く魔力を取り戻したいのよ」
「焦らないで、ヘル。そういう気持ちが魔物に付け入る隙を与えるんだ」
「あ……!」
先ほどナナリーも同じことを思ったではないか。冷静になって考えればわかることだ。優先すべきは体力と魔力を回復させて、欠けた記憶を取り戻すこと。
わかっていても、心が追いつかない。現実を突きつけられるとはこういうことだ。膝の上で組んだ自分の小さな手を見つめる。
記憶に穴があるのは気持ち悪い、くらいに考えていた自分が恨めしい。ロックマンに言われた通りだった。よくもまあ、あんなに呑気でいられたものだ。氷の乙女を狙う魔物の関与を聞いて、やっと事の重大さに気がつくなんて。
魔力が減り、記憶が欠けている自分はなんて頼りないのか。ぐらぐらと足元が揺れて
「……わたしも魔物に精神を乗っ取られていたようなものかな?」
「それは違うよ」
「ロックマン?」
ナナリーは俯いていた顔を上げる。ロックマンは怒っているのかと思うくらい真剣な顔をしていた。
「魔物に誑かされていたとしたら、それはミロナスだ。君じゃない」
「でも、他人事じゃないって言ったでしょ?」
「魔物はどこに潜んでいるかわからない。僕にとっても他人事じゃないよ」
ロックマンが噛んで含めるように言う。
「ドーランで最も護りが固いシュゼルク城にも間者が潜り込んでいた。残念ながら完璧な護りはないんだ。知り合いを疑うのは気分がいいものじゃないけれど、身の周りの人たちの様子をよく見て、小さな変化や違和感に気づいていくしかない。ハーレの人たちが君を気にかけていたようにね」
ナナリーはコクンと頷いた。厳しい顔をしていたロックマンが表情を緩める。銀縁の眼鏡の奥で細められた赤い瞳は優しく、労りに満ちたもので、この屋敷に来てからナナリーがよく目にしたロックマンの顔だった。
魔法学校時代からの好敵手で、口を開けば嫌味を言い、馬鹿にして喧嘩を売ってくる。ナナリー以外の女の子には甘ったるい砂糖みたいな言葉を吐く女好きの女タラシ。ずっと、嫌な奴だと思っていたけど。
弱音を吐いたナナリーを馬鹿にせず、下手に慰めもせず、事実と適切な対処を冷静に淡々と述べる。
治療してもらって感謝しているだけではなくて、図らずも好意的に感じられる面がロックマンに存在するのは否定しない。
「ハーレの人たちだけじゃない」
ゾゾさん、所長、ニケ、ゼノン王子、グロウブ団長、騎士団の人たち、それから──ロックマン。ナナリーを助けるために尽力してくれた人たちを頭に思い浮かべる。
「騎士団にも、ニケにも、ロックマンにも助けってもらった」
ちゃんと感謝を伝えるべきだ。まずは目の前にいるロックマンに。オルキニスのときは泣いてしまって、ペストクライブまで起こして、子ども扱いされた。もう泣きはしない。大人として余裕を持って、笑顔で。
背筋をきちんと伸ばし、真っ直ぐにロックマンの目を見つめて、ナナリーは頬に笑みを浮かべる。
「助けてくれてありがとう、ロックマン」
ロックマンの喉仏が動いて、息を呑む音が響く。そして世界は静寂に包まれた──いや、違う、ロックマンが固まったのだ。
常日頃キラキラと光でも振りまいているかのような男が完全に沈黙すると空気まで色を失くすらしい。もしロックマンが死んでしまったときには、冗談ではなく「世界から光が失われましたわ!」とマリスたちが泣き叫びそうである。
「……ロックマン?」
ロックマンは目をパチリと開いて微動だにしない。それにしても何だ、この反応は。心からのお礼を伝えて絶句されるとは腑に落ちない。
長椅子から立ち上がり、身を乗り出してロックマンの顔の前で手を振ってみる。体を硬直させる魔法にでも掛かったのかと、指を鳴らして魔法解除をする直前、パシッと手首を掴まれた。
「へ?」
掴まれた手首が熱い。──燃やされる?
燃やされたら凍らせよう。ナナリーが身構えていると、ロックマンの表情筋が復活した。緩やかに唇や目元が弧を描いていく。その柔らかな動きにナナリーは目を瞬いた。
「……君」
眼鏡の奥から覗く瞳は炎のような色をして、寄せられた眉には何か懊悩があるように感じられる。やや上目遣いな目付きがなんか色っぽい。
キュッ、と手首に回した指に力が籠められる。長い指は白くてしなやかで、指先まで熱い。形はとても綺麗だけれと、骨張っていて男性らしく、大きな手はナナリーの手首など簡単にへし折ってしまいそうである。
突然ロックマンがピクッと身動ぎをした。パッとナナリーの手を離し、部屋の扉を振り返る。間もなくコンコンと扉が叩かれて、入室の許可を求める声がする。
召使いがエリン先生の来訪を告げ、ロックマンは女性を魅了するいつものキラキラとした胡散臭い笑顔に戻った。
(エフェクトのかかりまくったロックマンを書きたかったんです……。)
ロックマンの台詞は難しい言葉が沢山出てきますね。