「ロックマン! なんでいるの!?」
「追憶の魔法の後、君が倒れたから。様子を見てた」
薄い布を持ち上げてロックマンが顔を出す。ナナリーの心臓が大きく跳ね上がる。
「倒れたと言っても数時間でしょ? 大丈夫よ」
「君は丸一日寝ていたよ」
「えっ」
「お腹は空いてる? 食事はいつでも用意できるけど」
「そ、そうね」
変に緊張してしまって空腹など感じない。感じないが、召使いを呼べばロックマンも出て行くだろう。
寝台の横に置いてある呼び鈴に手を伸ばすとサッとロックマンがそれを取り上げた。寝台に四つん這いになったナナリーは呼び鈴を目で追って顔を上げ、眼鏡の奥の赤い瞳と正面から目が合う。
ナナリーの頬に熱が集まってくる。ロックマンが不思議そうに小首を傾げて、短い金髪がさらりと揺れた。見慣れているはずの綺麗な顔が、いつもと全然違って見える。
「か、貸してよ。それ」
「先に魔法の報告を聞いてもいい? 君、食事をしたらまた記憶を忘れちゃいそうだし」
「失礼な!」
寝台の横に椅子を移動してきてロックマンが座る。その手には紙と筆を持っていた。
「えっと、ええっと、報告ね、報告……」
ナナリーは指を振ってロックマンと反対側の天蓋も上げた。眩しい光に一瞬くらくらと目眩がする。薄い布一枚でも随分と光を遮るようだ。
なるべくロックマンの方を見ないようにして、さっさと話を終わらせるべくナナリーは頭を働かせた。
「えーと、とにかく変な薬だったのよ。ずっと頭の中で声が聞こえる感じで。混入された魔物が精神を惑わす薬なのかもしれない」
「魔物?」
ロックマンの声が低くなった。魔物が直接精神に干渉する薬なんて大問題だろう。
「魔物がずっとわたしに言い聞かせて、思い込ませていたみたいな……。でも、それはわたしが意識しないところで起きてて、端から見れば、私はぼーっとしてるだけなのよ」
「何を言い聞かせていたの?」
「『アルバートは恋人』、『好きな人はアルバート』って。他のことは忘れろって。わたしが忘れたくない物事は無理やり消されそうになったわ」
「本人が強く執着してることを忘れさせて、洗脳するって感じかな?」
「う、うん、たぶん」
顎に手を当ててロックマンは考えこんだ。
「他には?」
「他? 他には……ミロナスさんとは毎日のように一緒にご飯を食べに行ったり、お茶を飲みに行ったりしてた。いつもわたしは彼が用意したホット・チョコを飲んで……それを飲むとしばらく頭がぼんやりするのよ。ぼんやりして、気がつくと大事なことを忘れてるの。仕事に支障はなかったけど」
「日常生活で問題はなかったの?」
「そうね。気分が悪くなるようなこともなかったし」
「大事なことを忘れて平気だったの?」
「え!?」
ナナリーはギクリと固まった。ロックマンの視線を肌に感じる。
「へ、平気ではなかったけど、それは解毒したときに思い出したから大丈夫よ」
「そっか」
「ほら、同意書出しなさいよ。署名するから」
「ああ、あれは必要なくなったよ」
「へ?」
「あまり詳しくは話せないけれど、記憶探知ではない方法を取ることになった」
なんだか拍子抜けだ。とはいえ、魔物に精神干渉される恐ろしい薬と判明したのは重大な成果だろう。
「ところで……」
ロックマンが寝台に手をついてぐいっと顔を寄せてくる。いつになく真剣な眼差しでナナリーの顔を覗き込んだ。
ナナリーは引き攣った笑みを頬に張り付けて、寝台に腰を下ろしたまま後ずさる。あまり近づくと心臓に悪い。
「な、なに?」
「あいつは君に何もしなかったの?」
「え?」
「だから……」
「あ! ああ、ええと、……ああいったことの心配ね? えっと、うん、手を握ったりはあったみたいだけど、とても遠慮がちだったわよ。一度わたしが彼の腕を凍らせようとしちゃって、それで」
「あいつを凍らせたの? 君が?」
「間が悪かったのよ! 偶然、食事の帰りに火事に出くわして、消さなきゃと思って氷を出したら、彼に危ないって腕を引っ張られて、巻き添えにしちゃったの」
「それは奴も驚いただろうね……」
ロックマンは椅子に腰を下ろし、呆れたように呟いた。その声音にはちょっと小馬鹿にした響きがあった。
「すごい火事だったから感謝されたけど?」
「……まあ、君が暴力を受けてなくて良かった」
ロックマンは心から安堵したように、ふぅ、と大きく息を吐いた。本気でナナリーの身を案じてくれていたのだ。……ちょっと嬉しい。
いやいや、勘違いしてはいけない。ナナリーはぶんぶんと頭を左右に振った。同じような状況の女性がいたら、ナナリーだって心の底から心配する。
「どうしたの? さっきから百面相して」
ロックマンがくすっと笑う。気が抜けた感じの、柔らかい笑みにナナリーは動悸がしてきた。だめだ、今は同じ空間に居られない。ロックマンの一挙一動に心が揺さぶられて胸が苦しい。
「お、お腹! お腹空いたの!」
「食事にする? じゃあ行こうか」
ロックマンが呼び鈴を鳴らして立ち上がり、手を差し出してくる。
「一人で行くわよ! アンタは仕事でもしてれば!?」
「仕事ならやってるよ。僕も休憩にするから。さっきの薬の話だけど、食事の後にまた詳しく聞かせてくれる?」
「うへぇ!?」
「何か問題でも?」
「別に! きょ、興味が惹かれるのはわかるわよ。未知の薬なんだし」
だがロックマンとこれ以上一緒にいるのは勘弁してほしい。何とか逃れる方法はないだろうか。この気持ちを抱えたままロックマンと普通に喋るなんて無理だ。
「わたし、帰る」
「え?」
「記憶も戻ったし、いつまでもお世話になっていられないわ。寮に帰る」
咄嗟にナナリーの口をついて出た言葉に、ロックマンの空気がひんやりとする。出たよ、火型の氷男。
「何それ?」
ロックマンがナナリーの腕を掴んで引っ張った。その勢いにナナリーは体勢を崩し、手をついて四つん這いみたいになる。
「どうしたの、突然。君はまだ魔力も体力も戻ってないし、寮で一人暮らしなんて無理だよ」
眉間に皺を刻んだロックマンから強烈な怒気を感じる。
「わ、わたしには切実な理由があるの!」
「理由?」
「そうよ!」
「理由って何?」
ナナリーは一度ギュッと目を瞑り、深く息を吸うと、目を開けてロックマンを真っ直ぐ見上げた。
「あ、あの、ロックマン」
「何?」
「あの、わたし」
「うん」
「好きよ」
ナナリーの渾身の告白に、ロックマンは彫像のように固まってしまった。その隙に手を振り払って寝台の反対側から滑り降り、一番近くの扉を開けて飛び込んだ。以前ロックマンが開けて出て行った扉だ。
後ろ手に鍵を締めて、部屋の中を見回す。ナナリーの寝室よりも豪華な部屋で、扉の配置はおおよそナナリーの部屋と対称的になっている。
広い室内を駆け抜けて、別の部屋に通じているであろう奥の扉に飛びついた。取手を回すと鍵が締まっている。鍵穴はない。指を鳴らして魔法解除を試みるも、何も変化がなかった。
諦めてナナリーは窓に向かった。露台に出る窓の鍵を外そうとしたが、施錠の魔法が掛かっていて開かない。魔法解除も効かない。窓硝子にも防御魔法が掛かっている。
「ヘル」
ナナリーが入ってきたのと同じ扉からロックマンがやって来る。大きな寝台の向こうから、走るではなく、でも逃がすつもりはないと示すように早足で、一歩一歩ナナリーに近づいてくる。
ロックマンと背後の窓と室内の調度品をナナリーは素早く見回した。調度品も、
もしかしなくても、この部屋は。
じりじりとロックマンとの距離が縮まっていく。
「捕まえた」
ロックマンが窓に片手をついた。頭上に影が落ちてくる。ナナリーはパッと顔を背けた。
「捕まらないし!」
「鍵は開かないよ」
「そんなことないわよ!」
後ろ手で何度も魔法解除を試みているがまだ開かない。だからといって諦めはしない。
「もう離さない」
「へ?」
「僕も好きだよ」
「は?」
「君が好きだ」
ナナリーはパチパチと目を瞬いた。言葉の意味を理解して驚愕する。
ロックマンの白い頬には喜色が広がり、形の良い唇が甘く
ナナリーの頬に温かな手が触れ、長い指の背がするりと頬を撫でた。ロックマンが触れるところから発熱するように頬が熱を持ってくる。
「む、無理!」
あんな眼差しで見つめられたら身が持たない。頬に触れている手を払いのけ、ナナリーは少しでもロックマンから離れようとする。だが数歩動いたところで後ろから長い腕に絡めとられた。
「ちょっ……! ロックマン!!」
胸の下で交差した腕から逃れようとナナリーはジタバタともがいた。
「だって、こうしなきゃ君は逃げるでしょ」
「逃げたりなんか……」
ナナリーの頭にロックマンが頬を寄せ、ぎゅっと抱き締められる。
「ひゃっ……」
「可愛い」
「か、かわ!?」
「好きだよ、ヘル」
お日様みたいな暖かい香りがナナリーを包み込む。耳元で囁かれた言葉に、掠める吐息に、きつく目を瞑ったナナリーの心と体が震えた。
第一部をお読みくださりありがとうございました!
申し訳ありませんが、第二部開始までお時間いただきます。