事前調査の報告書を提出し、ハーレの食事処の隅っこの席でゾゾさんと遅めの休憩をとっていると、「隊長さん、こっちよ!」とゾゾさんがナナリーの後方へ手を振った。ギョッとして振り返ってみれば、何ということだろう、あのロックマンがお盆にカップを載せて、優雅な足取りで歩いてくるではないか。
給仕など使用人が全部やってくれる公爵子息のくせに、器用に片手でカップを載せたお盆を運んでいる。
認めるのは悔しいが、はっきり言ってナナリーより上手い。魔法学校時代、ニケたちの飲み物も一緒にお盆に載せてナナリーが片手で運ぼうとしたところ、見事ひっくり返した。あれは勿体なかった。それ以来、安全を期してお盆は両手で持つようにしている。
するすると机の間を縫って歩いてきたロックマンはゾゾさんにカップを渡し、なんとナナリーの前にもカップを置いた。目を丸くするナナリーに、ロックマンはナナリーを
「君にもどうぞ。──お金はいらないよ」
「私に? ……どうして?」
「同じ席にいるのに、パラスタさんにだけあげるのはさすがに忍びないからね」
向かいに座るゾゾさんはすでに飲み始めていて、片目をパチンとウインクしてきた。ゾゾさんのウインクが可愛い。ゾゾさんに
「……ありがとう。アンタは騎士団と一緒に行かないの?」
「僕はハーレで待機だよ。一時帰国中だから、助っ人みたいなものかな。ほら、冷めないうちに早く飲みなよ」
奢ってくれた人が飲めと言うなら、素直に飲もうではないか。
ホットチョコは熱い。一口ずつ、ゆっくり飲み始める。ロックマンがくれたホットチョコは、とても濃くて、まったりとしているけれど、甘ったるくはなく、しつこさもなかった。なんとも上品な甘さのホットチョコである。こんな上等なものがハーレの食堂で飲めたのか、と首を傾げる。
ちびちびとホットチョコを飲んでいると、体がぽかぽか温かくなってきた。舌を火傷をしないように冷まして飲んだはずなのだが、喉を通った後、お腹がやけに温かい。むしろ熱い?
不思議なホットチョコである。製法が特別なのか、魔法をかけてあるのだろうか。まさかロックマンが? ナナリーに奢る飲み物にそんな手間をかけることは
ナナリーにも生活魔法の液体を冷めないようにする魔法ならできる。寒いとどうしても効力が落ちてしまうけれど、これからもっと磨きをかけてみようと決めた。
ゾゾさんとロックマンは楽しそうにお喋りしている。ゾゾさんまでコイツに
ホットチョコを飲み終えたら急に眠気が襲ってきた。体が熱い。頭が朦朧としてくる。魔法をかけられたのかと指パッチンをしたけれど、何も変化はなかった。混沌の魔法ではなくて、ただ眠いのだ。
テーブルに肘をついて上体を支える。ぼやけた視界に、ゾゾさんとロックマンの姿が見える。こっちを見ている。
猛烈に眠い。かくん、かくんと頭が落ちてしまう。必死に瞼に力を入れた。
遠くでナナリーを呼ぶゾゾさんの声が聞こえる。立ち上がったゾゾさんをロックマンが腕で制して、静かに近づいてくる。
何かを……盛られた…………?
「ロッ……ク……マン……?」
何とか視線を上に向けると、無表情だったロックマンの顔が一瞬だけ苦いものを噛んだように歪んだ。
椅子からずり落ちそうになるのを大きな手が肩を掴んで支える。ナナリーの背中に腕を回して抱きかかえ、耳元で何かを囁いた。
その刹那、重い瞼が落ちた。呪文ではなかった気がするけれど、もはや眠気に抗えない。
ナナリーの意識は黒い渦に巻き込まれる。時を遡るように記憶を逆に辿っている。
渦に飲み込まれ溺れそうになるのを必死で堪え、自分の体を抱きしめた。吹き荒れる風と渦の向こうに、
さっき耳元で聞こえた、馴染みのある低い声は。
──必ず君を助ける。
胸に深い安堵が広がっていく。ぎゅっと眉間に寄せていたしわが
*
事前の打ち合わせ通りとはいえ、ナナリーが倒れるのを黙って見ていることはゾゾにはできなかった。ナナリーの名を叫び、手を差し伸べようとした。しかし、ロックマン隊長に手で制される。
やはり若くして騎士団の隊長に就いている彼は違う。感情を全く表情に出すことなく冷静に動いている。椅子から落ちそうになるナナリーを受け止めると、横抱きにして彼女に七色外套の魔法をかけた。
七色外套を掛ける直前、ナナリーが彼に手を伸ばして、一瞬だけその手を優しく握った。彼の感情の
ロックマン隊長がナナリーを抱き上げ、ゾゾはナナリーの荷物をまとめた。食事をしていたこの席は事前に彼から指定されていて、ゾゾたちが座ったときから認識阻害の魔法が発動している。七色外套とは異なる仕組みの認識阻害の魔法らしい。姿は他人の目に見えているが、それが自分だとは認識されない。そんな魔法である。
ゾゾはそんな魔法を初めて知ったが、詳しい仕組みは聞いていない。もしナナリーならすぐさま魔術書を調べ始めるだろうと思った。
ナナリーを横抱きにしたロックマン隊長は指を振り、彼自身にも同じ認識阻害の魔法をかけた。すると、あんなに目立つ容姿の彼が、ゾゾの目の前に立っていても彼だと認識できなくなった。なるほど、これはすごい
ゾゾは小声で「行くわよ」と声をかけた。彼が頷くと、ゾゾは人にぶつからないようにハーレの表の入り口に向かって進み、扉を開けっ放しにして外に出る。一度後ろを振り返ってみたが、どこにロックマン隊長がいるのかさっぱりわからなかった。
ハーレの裏に回るとロクティス所長が待っていた。寒空の下、他の職員は誰もいない。パチンと指を鳴らせば認識阻害の魔法は解除される。ナナリーには七色外套をかけたままだ。
所長は沈痛な面持ちで、胸の前で両手を握りしめていた。その手が震えている。
「隊長さん、申し訳ないけれど、ナナリーをお願いするわ」
「これ、ナナリーの荷物よ。他に置きっぱなしにしているものがあったら、私が預かっておくと伝えて」
「……不甲斐なくてごめんなさいね。私たちがついていながら……こんなことになるなんて」
所長の茶色い瞳は暗く
協力を頼まれはしたが、ゾゾはこの件の詳細を知らない。ナナリーに睡眠薬を盛って拉致同然に保護するという方法もそうだが、想像以上に事態は深刻なのだと察せられた。
「ヘルは騎士団が保護します。何かあれば団長に連絡して下さい」
「わかりました。この件に関してハーレは全面的に協力を約束します」
所長が深く頭を下げる。ロックマン隊長は無言で頷くと、金の杖を取り出して転移の魔法陣を起動した。
魔法陣の放つまばゆい光に目を瞑る。一瞬の後、目を開ければそこはいつもと変わらないハーレの裏庭が広がっていて、すでに彼の姿はなかった。
「隊長さんが戻ってきてくれてよかった」
「本当にね……」
肌を刺すような冷たい風がゾゾと所長の髪を巻き上げる。ぶるっと身震いをして、どちらともなくハーレの裏口に向かって歩き始めた。