暗い、黒い廊下を進む姿があった。
星も月も差さず、灯り一つ無い漆黒の廊下を、手にした角灯一つでゆったりと歩く。
しかし、その角灯に照らされた姿すらも黒かった。
身を包む外套、頭に被る制帽も黒く、髪は言わずもがなに烏の羽の如く、暗闇を見詰める瞳は上質な墨を更に濃く煮詰めたかの様な黒だった。
ただ違うのは角灯を持つ手を包む手袋の白と、病的なまでに白い顔と足と、その服装に散らばる金具くらいだろう。
角灯の灯りに照らされて、ぽっかりと暗闇に浮かぶ白い顔は夜に浮かぶ月の様でもあり、闇夜から誘う使者の様でもあった。
耳障りな甲高い軋みをあげる廊下を、文字通り無人の野を行く様に進み、曲がり角を曲がった先で、人影は怪訝な声を漏らした。
「ややあ? こんな時間に灯りが」
漆黒の廊下、先すら見えない暗い道行きにひっそりと漏れ出る灯りがあった。
漏れ出る灯りは、談話室と書かれた扉から僅かに漏れ出ていた。
「やうやう、提督殿。この様な夜更けに如何なされましたかな」
「……あきつ丸か。いや、少し寝付けんでな」
灯りの主は黒、あきつ丸が見回る鎮守府の長である提督であった。
軍人らしい体格と、男すら見惚れる様な精悍な顔つき。あきつ丸とは正反対なよく日に焼けた肌と、汚れ一つ無い真白い軍服。ただ違うのはその軍服に散りばめられた数々の勲章だろう。
しかし、洋室の机に向かい座る姿はやはりか、些か疲れが見える。
「……見回りか」
「ええ、ええ、見回りであります。提督殿は?」
「俺はやはり寝付けん。明石に何か処方してもらうか」
「……おっと、提督殿。それよりもまずは試す価値のある手があるであります」
「ほう?」
「酒であります。酒を呑んで寝るのであります」
言うと、外套の中から三合程の日本酒を引っ張り出す。
「お前、また食堂から盗ってきたのか」
「いえいえ、これは完全に私物であります。明石殿と二人で頼んでいた物でして、その片割れですな」
呆れる提督に早口で言うと、あきつ丸は談話室の棚を漁り始めた。
角灯の灯りを頼りに棚の中から取り出したのは、ティーカップが二つとやけに色が濃い豆菓子の小袋だった。
「お前、よく誰のか分からんものに手を付けられるな」
「提督殿の部下になる前の隊では、銀蝿があちこちにおりましてな。いやはや、中々に重宝したものであります」
「隠れ蓑にか?」
「銀蝿をするなら、その程度の覚悟はあるでしょう」
しれっと言い切り、ティーカップに日本酒を並々と注いでいく。
角灯の灯りを透かして、水というより蜜の様な酒は米の甘い香りを僅かに二人の鼻に届けた。
「本当に良い酒みたいだな。お前のその嗅覚には感心するよ」
「ややあ、小官は無趣味なもので、こうした食い道楽呑み道楽しかないのですよ」
「多趣味そうな雰囲気だがな」
「まあ、平和になりまして暇ではありますので、いっそ何か趣味でも持ちますかな」
ティーカップの縁を掴む様に持ち、酒を口に流し込む。
米と酒精が入り雑じった純米酒独特の香味、確かな甘味と辛さがあるのに、水の如く喉を滑り落ちていく。
「上善如水とはよく言ったものでありますな」
「確かに、本当に水みたいに入るな」
豆菓子も強い醤油の焼けた匂いがいい。
豆菓子をあてに呑む酒ではないが、今はこれしかない。
「しかし、お前このところ毎日見回りしてないか?」
「それ言うなら、提督殿もこのところ不眠が酷い様で」
「俺は元々不眠気味だ。だが、お前はこの最近に見回りをよくしている。……何かあったのか?」
「……ふぅむ、やはり提督殿の目は誤魔化せませんな。……実を言うと、ちょっと古巣が要らぬちょっかいを」
「古巣というと、陸か……」
「ええ、小官と提督殿の古巣であります」
提督は目を閉じると、一気にティーカップを空にした。
「戦時の最大の功績を、提督殿に取られたのが癪に触った様子で、まあ品の無い手を」
「蛇の道は蛇、お前に任せる」
「仰せのままに。ささ、もう一献」
ティーカップに酒を満たし、二人は何も言わずにそれを傾け、瓶の中身が底を尽く頃にあきつ丸が口を開いた。
「そう言えば、酒以外にも薬に頼らぬ手がありましたな」
「ほう、そりゃなんだ?」
「女でありますよ。適当な後腐れの無い女を抱けば宜しい。……そうでありますな。商売女でも都合しますかな? 実は小官、そちらの手引きも得意であります」
「あのな、俺の立場でそういうのは避ける話だ。……どんな繋がりがあるか、分かったものじゃない」
「やや、これは失敬。しかしそうなると……」
角灯の灯りが揺れる。
風や机が動いた訳でもないのに、角灯の火が揺れる。
辺りの闇も一層濃くなり、最早角灯の灯りが届く範囲しか、その場の姿は見えない。
まるで、この鎮守府には二人しか存在しないかの様に辺りは静まり返り、闇に浮かぶあきつ丸の白い顔が、僅かに紅に染まっている。
お前じゃない
「小官なぞ如何でありますか? これでも小官、男連中からは抱きたい娘の上位でして、まあ小官も提督殿に抱かれるなら吝かではありませぬ」
「莫迦を言うな。部下に手を出す程腐っちゃいない」
「ふむ、これは失敬。しかし、これは本心であります。下手な男に抱かれるくらいなら、提督殿の一時の慰めでありたい。小官、小娘の様にそう考えているのでありますよ」
提督のため息が闇に落ちた。
辺りの闇は更に濃さを増し、見えるのは提督の白い軍服と、あきつ丸の顔くらいなものだ。
異質、異様な空間の中であきつ丸はティーカップに残る酒を呑み干し、提督に笑みを向ける。
「自慢ではありませぬが、小官見た目や肢体には多少の自信がありまして、一夜を提督殿が飽きる事は無いかと」
「あのな、あきつ丸。俺は男でお前は女、これは事実だ。……だが、それと同時に俺はお前の上官で、お前は俺の部下だ。悪いが、今の話は無しだ」
「いやはや、要らぬ世話でありましたな。しかし、もうどうにもならぬとなれば、最後の手段として小官を選んで戴きたいものであります」
「お前なぁ……」
酒も無くなり、肴も尽きた。
辺りの暗さは常軌を逸している。
しかし、あきつ丸は僅かに紅の差した顔を上げると、制帽を目深に被り直し、懐中時計を提督に見せぬ様に確認する。
「……もうよい時間であります。ささ、提督殿。自室に帰る時間でありますよ」
「はあ、お前のその切り替えの早さは何なんだろうな」
「話にはするとしないで、大きく差が出るのでありますよ。ほら、現に提督殿は欲の捌け口を見付けたでありましょう?」
「お前だけは絶対に選ばん。お前を抱いたら、なんか逃げられなさそうだ」
「おや、これでも小官は理解がある方でして、慰めの関係でも構いませぬが?」
「そういうところだよ」
提督が呆れながら言った言葉に、あきつ丸は目深に被り直した制帽の庇の奥で柔らかに笑んだ。
何かと疑問に首を傾げる提督をよそに、あきつ丸がゆっくりと立ち上がり角灯を掲げれば、普段の談話室が照らし出される。
「さ、提督殿。お帰りはこちらに」
あきつ丸が扉を開け、提督に促す。
「本日も部屋まで送って差し上げましょう」
「ああ、頼んだ」
談話室には誰も居らず、空になったティーカップが二つ、テーブルの上で暇そうに鎮座している。
「と、片付け……」
「後で小官が済ませておきましょう。さ、明日も早いのでありましょう?」
「済まんな」
「いえいえ、これも部下の役目なれば」
何時もと変わらぬ、貼り付けたかの様にも見える笑み。
もう慣れたものだが、何か違和感があった。
あなたが であれば
「あきつ丸、調子でも崩したか?」
「まさか、このあきつ丸。体調管理に手を抜きませぬ」
「そうか……」
どこか釈然とはしない様子でも、提督はあきつ丸に背を向ける。
「……本当に聡い人であります」
誰にも聞こえぬ呟きは漆黒の闇に呑まれ、二人の黒と白は僅かな灯りを頼りに姿を消した。
提督