暗い、黒い廊下を進む姿があった。
星も月も差さず、灯り一つ無い漆黒の廊下を、手にした角灯一つでゆったりと歩く。
しかし、その角灯に照らされた姿すらも黒かった。
身を包む外套、頭に被る制帽も黒く、髪は言わずもがなに烏の羽の如く、暗闇を見詰める瞳は上質な墨を更に濃く煮詰めたかの様な黒だった。
ただ違うのは角灯を持つ手を包む手袋の白と、病的なまでに白い顔と足と、その服装に散らばる金具くらいだろう。
角灯の灯りに照らされて、ぽっかりと暗闇に浮かぶ白い顔は夜に浮かぶ月の様でもあり、闇夜から誘う使者の様でもあった。
耳障りな甲高い軋みをあげる廊下を、文字通り無人の野を行く様に進む姿は何時もと変わらないが、普段とは違い歩調はやや速い。
「提督殿」
「あきつ丸……」
「この様な時間、見回りは小官が行いますので、お早く部屋でお休みください」
「いやな、少々嫌な夢を見て目が覚めてしまってな」
「嫌な夢でありますか?」
やや速い歩調で行き着いた先に居た提督は、そんな事を言って嘆息した。
目の下の隈も大分濃い。確かに、夢見は悪そうだ。
「なあ、あきつ丸。お前は覚えているか? あの日、俺とお前が今の関係になった日を」
「……覚えているであります。それはもう、悪夢の如き明晰夢の様に」
「その日の夢を見るんだ」
暗闇に浮かぶあきつ丸の顔が僅かに引きつる。
あの日の事は、あきつ丸もよく覚えている。
あの紅蓮の炎の海で、自分達は〝こう〟なったのだ。
忌々しい怨嗟の日、あの日のせいで〝こう〟なってしまった。
「忘れようにも忘れられない。今もまだ瞼に焼き付いている」
「小官も同じであります。……幾度なく後悔の海で沈みかけました」
「なあ、あきつ丸。戦争は終わったんだな?」
「ええ、貴方が確かに終止符を打ちました」
深海棲艦との戦いは確かに終わった。
それだけは現実だ。
「そうだ。終わったんだ。後はその事後処理だけ。なのに、何故俺はまだ思い出すんだろうな」
「提督殿、それは致し方ない事であります。……刻み付けられた記憶は消えない傷であり、傷とは人を苛むものであります」
「ああ、そう、だな」
歯切れの悪い提督の返事に、あきつ丸は制帽で顔を隠したまま、沈痛に顔を歪める。
漸く〝ここ〟まで来たというのに、まさかこうなるとは予想以上に事が進んでしまっている。
全て後手に回り始めた。
あきつ丸は焦りを制帽で隠し、平静を装った。
「……さ、提督殿。部屋へお戻りください。小官が案内しますので」
「そうか、そうだな。明日も早いからな」
「ええ、明日も早い。……そうですな。夢のついでにこんな話は如何でありますかな?」
角灯で照らす道行きは異様に暗い。
じわじわと蝕む様な夜闇が角灯の灯りを遮る。
しかしあきつ丸はそれを苦とせず、淡々と歩みを進め提督に語り掛ける。
「夢というのは、その人物の深層心理を写し出す鏡であり、その人物が求める答えの一端であると、そんな話があるのであります」
「求める答え? 俺があれを求めていると?」
「まさか。刻み付けられた記憶は傷。鏡は傷付けば、傷を刻んだ光景を写し出す。提督殿は鏡たる夢ではなく、夢に刻み付けられた傷を見ているのでありましょう」
先を行くあきつ丸は顔を見せない。
だが、その顔は嘆願の色を刻んでいた。
「夢ではなく傷か……。では、俺の夢はなんだ?」
「さあ? それに関しては小官は提督殿ではありませぬ故、分かりかねますな」
「そうか……」
「夢とは現より離れた世界。あまり入れ込み過ぎれば、人は容易く呑まれてしまう。これは理想を追い求めるあまりに、身を滅ぼす様に似ていますな」
「確かに、そう言われればそうだな。いや、だとすると俺も身を滅ぼすのか?」
「……そうならぬ為に、小官が居りまする」
弱い声、しかし確かな否定の言葉に、提督は一瞬怪訝に眉をしかめる。
「提督殿。夢とは現より離れた世界でありながら、望みであり現実でもある。故に人は夢を追い求め、そして破滅する。しかし、提督殿にはこのあきつ丸が居りますからな。文字通り、大船に乗った気分で小官の話を聞いてほしいであります」
「お前、本当にそういうところだぞ」
普段と変わらぬ貼り付けたかの様な胡散臭い笑み、しかしそれは提督が慣れ親しんだ笑みだ。
「さて、追い求めると言えば古今東西に共通する話がありまして、それは何か分かりますかな?」
「共通する話か……。英雄譚にはつきものだろう」
「ええ、ええ、英雄譚にはつきものであり、そして誰もが望んでしまう。この国の神話にもある話であります」
「……この国の神話、まさか黄泉の国の逸話か」
「左様、人は誰しも喪えば望む。喪失の拒絶、だからこそ道を踏み間違える」
廊下が軋んだ。まるで、二人以外の誰かが居る様に、多重の軋みがあきつ丸の耳に届く。
お前じゃない
「……あきつ丸?」
「……提督殿。おかしな事を問うであります。……提督殿は小官を信じてくれますか?」
「あきつ丸……。お前に何かあっても、お前は俺の部下であり戦友だ。信じるさ」
一瞬見せた表情は、一体何だったのか。
しかし問い掛けの答えに満足したのか。あきつ丸は角灯を掲げ、ある扉を示した。
「到着であります。本日は自室行きあきつ丸線のご利用、誠に感謝します」
「切符は無いぞ?」
「では、乗車賃を頂かねば」
「まったく、何も無い部屋だぞ」
扉を開けると、そこは質素な部屋だった。
英雄らしい調度品も少なく、しかし書架には書物が満載され、机の上にも積み上げられていた。
よく片付いた床を踏み、提督は何かないかと探す中、あきつ丸は扉の鍵を閉めた。
「おい、どうした?」
「……提督殿。提督殿もあの日の夢を見る様に、小官も同じ夢を見るのであります」
角灯の灯りを落とし、扉の側にある棚の上にそれを置くと、あきつ丸はゆっくりと提督へと歩み寄る。
「身を焼く紅蓮の炎の海で、この腕の中で命が失われていく冷たさに凍え、魘されて起きるのであります」
「……やはり、忘れられるものではないな」
「ええ、消そうにも消えぬ記憶。……提督殿、夜に眠る方法は覚えておいでで?」
「ああ、酒を呑む。それか……」
「それか、女を抱くか。……提督殿、どうかこの不出来な小官に慰めをくださりませぬか」
外套を脱ぎ、制服のボタンを幾つか解き、あきつ丸は提督の胸に凭れかかる。
軽く小さな肢体、鍛えた自分とは違うふとすれば折れてしまいそうな程に細いあきつ丸の両肩に、提督は手を置いた。
「……あきつ丸、俺とお前は上官と部下だ」
「理解しております」
「なら、俺が手を出さん事も理解しているな」
「ええ」
あきつ丸の顔は見えない。
だが、提督はこのままあきつ丸を離せば、何かが手遅れになる気がした。
「なら、目が覚めるまで共に居ろ。俺も一人では眠れそうにない」
「仰せのままに」
二人は体を重ねる事は無く、同じ布団に入った。
身を焼く様な冷たさは無く、背中合わせの二人の命の鼓動が聞こえる。
「提督殿」
「なんだ?」
「……小官を信じてください。これから何が起きても」
「……分かった」
二人の言葉はそこまで。
後は少しばかり暖かな夜闇が部屋を満たしていた。