暗い、黒い廊下を進む姿があった。
星も月も差さず、灯り一つ無い漆黒の廊下を、手にした角灯一つでゆったりと歩く。
しかし、その角灯に照らされた姿すらも黒かった。
身を包む外套、頭に被る制帽も黒く、髪は言わずもがなに烏の羽の如く、暗闇を見詰める瞳は上質な墨を更に濃く煮詰めたかの様な黒だった。
ただ違うのは角灯を持つ手を包む手袋の白と、病的なまでに白い顔と足と、その服装に散らばる金具くらいだろう。
角灯の灯りに照らされて、ぽっかりと暗闇に浮かぶ白い顔は夜に浮かぶ月の様でもあり、闇夜から誘う使者の様でもあった。
耳障りな甲高い軋みをあげる廊下を、文字通り無人の野を行く様に進み、曲がり角を曲がった先、先すら見えない暗い道行きにひっそりと漂う灯りがあった。
提督
「……提督殿。また如何なされましたかな」
「あきつ丸、いやちょっと、妙に落ち着かなくてな」
「ふむ、落ち着かぬと。であるならば、小官が熱い珈琲でもお淹れしましょう」
「なんだ、無趣味だと言ってたのに珈琲なんて趣味があったのか?」
「趣味にもならぬ手慰みでありますよ。ささ、小官の部屋へ」
「……お前、他の男にはそんな事言うなよ?」
「おや、小官の心配を? それはそれは、勿体なきお言葉ですが、小官が部屋に上げる男は提督殿だけですので」
「お前、本当にそういうところだぞ」
飄々と笑うあきつ丸に嘆息しつつも、提督は彼女の後に着いていく。
ゆらゆらと揺れる角灯の灯りは、暗闇に蝕まれながらも確かに行き先を示す。
「しかし、落ち着かぬとは、何か悩み事でも?」
「ああ、前は気のせいだと言ったが、やはり皆と話せていない様な気がしてな。……妙な事を言うが、この鎮守府には俺とお前しか居ない様な、そんな気がな」
「……ふぅむ、しかし提督殿。小官なぞ、こうでもせねば貴方と話す事も出来ぬのです。……やはり、気のせいでありましょう」
提督 こっち こっちへ
角灯が揺れ、行き先を示す灯りがぼやける。
しかし、あきつ丸は一向に構う事無く歩を進め、提督へ語る口を止めなかった。
「いやはや、一番の古女房を放って置くとは、提督殿も隅には置けませぬな」
「言ってろ。万年ニヤケ面の腹黒が」
「ははは、これは生来の面でして、中々に便利なものでありますよ」
ケラケラと笑うあきつ丸。しかし、提督からは見えぬ目は確かに揺れる角灯の灯りを忌々しげに睨んでいた。
「まったく、腹の底を見せん奴だ」
「なに食ってるか分からない他人の腹なぞ、覗くものではありませぬよ」
「そういう話じゃないんだが」
「そういう話でありますよ。では、到着であります」
漆黒の廊下の中で、一つだけはっきりと浮かび上がる扉があった。
木製の扉は闇の中で異質な存在感を放ちながらも、不思議な落ち着きも感じる。
「ささ、遠慮せずにどうぞ」
扉を開くと、柔らかな灯りが差し込む。
「それじゃ、邪魔するぞ」
「ええ、適当に座っていてください」
あきつ丸の部屋は実に簡素なものだった。
備え付けの机やベッド、制服や外套を収める洋服棚。
この鎮守府の何処にでもある部屋、雑多な種類の書籍が詰められた書架を見ていると、扉のすぐ横にある簡易な台所から軽い破砕音が届いた。
「豆からか。本格的だな」
「非番の日に近くの商店で、安く売り飛ばされていたものですが、これが中々に手に馴染むもので」
軽く乾いた破砕音が、あきつ丸がミルのハンドルを回すに合わせて重なり、次第に小さくなっていく。
挽き終わった豆の粉を、ドリッパーに嵌めた紙のフィルターに入れる。
陶器で出来たドリッパーとサーバーは、明らかに趣味のものだったが、提督は何も言わずあきつ丸が淹れる珈琲の香りを楽しんでいた。
「こうして、始めに少し湯を掛け蒸らすと香りが良くなるらしいですな」
「らしいって、解ってやってるんじゃないのか」
「ははは、小官こういったものの良し悪しには少々疎いのでありますよ」
「よく言う。そのミルも何も見るからに良い品に見えるが?」
「はて、小官無趣味故に分かりかねますな」
ドリップポットを片手に首を傾げ、やはり白を切るあきつ丸だが、提督には分かる。
この顔は図星を突かれた時の顔だ。
「まあいい。それでそれからどうする?」
「後はゆっくりとのの字を書く様に、湯を注げばいいだけであります。細かい事は気にせずに」
湯気を漂わせ、ゆっくりと珈琲を淹れるあきつ丸の姿は、不思議な落ち着きを感じさせる絵になっていた。
「似合うな」
「ふぅむ、退役した後は喫茶でもやりますかな?」
「なにか妙な人気が出そうだな」
「……提督殿も一緒に如何ですかな」
「そうだな……。退役した後なら悪くないな」
湯気は白く、湯気を発する珈琲は黒い。
しかし、部屋の外の無明の闇とは違う暖かみの感じる不思議な黒をサーバーに満たすと、濃い藍色のカップにそれを注いでいく。
「お待たせ致しました。砂糖はお好みで」
「聞く話によると、珈琲をブラックで飲むのは日本人ぐらいらしいな」
「ほう、それは初耳ですな」
「まあ、真偽は分からん話だがな」
あきつ丸より渡されたカップを傾ければ、珈琲独特の香りと苦味が口に広がる。
しかし嫌な苦味ではない。後に残らない素直な苦味と、余韻を残す香り。
素人ながらにも、豆もあきつ丸の腕も良いものだと分かる。
「良い豆だな」
「これも商店で捨て値で売り叩かれていたものでありますよ」
「さあ、それを知るのはお前だけだからな」
同じくカップを傾けるあきつ丸の表情に変化は無い。
だが、照れ隠しのつもりだろう。
そのぐらいは解る関係だ。
「提督殿。……退役後はご予定は?」
「特には無いな。というより、何時退役出来るか分からんな」
「全くですな。戦時の英雄、引く手は数多でありましょう。しかし、望むのであれば……」
「ん? なにかあるのか?」
「そうでありますな。もし、小官の望みを聞き入れて戴けるなら、提督殿の行き先には是非小官めを」
「はは、俺も惚れ込まれたもんだな」
「小官、提督殿以外に従う気は毛頭ありませぬ故」
珈琲の香りが満たす部屋で、二人は珈琲が無くなるまで益体の無い話を続けた。
そして、時計の鐘が鳴った時、不意にあきつ丸は言い出した。
「……提督殿。今日はもう遅いので、小官の部屋でお休みください」
「いや、普通に自分の部屋に戻るぞ」
「……言い難い事ですが、少々外からやんちゃしようとしている輩が居りましてな。まあ、念のための用心であります」
あきつ丸の目は扉に向けられていた。
「……分かった。布団はあるか?」
「いえ、そのベッド一つだけであります」
「……戻るか」
「ややや、提督殿。同衾は初めてではありませぬでしょう?」
「お前な……」
「まあ、お気になさらず。しかし、もしその気がおありなら、小官は別に構いませぬとも」
普段と変わらぬ貼りつけたかの様な胡散臭い笑み。
しかし、それは何故か寂しげに見えた。
「手は出さん。ほら、さっさと寝るぞ」
「ええ、寝ましょう」
カップを片付け、灯りを落とし同じ布団に入る。
ただそれだけ、それ以上の何かがある訳でもなく、それ以外になにもない。
静かな寝息を耳に、あきつ丸は暗闇に浮かぶ扉を睨んでいた。
提督 こっち こっちへ お前じゃない
「……引く手数多と言えど、引く手を選ぶ権利はこちらにある」
それだけを呟くと、あきつ丸は目を閉じた。
眠りに落ちるまでの僅かな間、耳に届いたのは提督の静かな寝息だけだった。