暗い、黒い廊下を進む姿があった。
月と星に照らされた暗い廊下を、手にした角灯を翳してゆったりと歩く。
しかし、その角灯と月明かりに照らされた姿すらも黒かった。
身を包む外套、頭に被る制帽も黒く、髪は言わずもがなに烏の羽の如く、暗闇を見詰める瞳は上質な墨を更に濃く煮詰めたかの様な黒だった。
ただ違うのは角灯を持つ手を包む手袋の白と、病的なまでに白い顔と足と、その服装に散らばる金具くらいだろう。
角灯の灯りに照らされて、ぽっかりと暗がりに浮かぶ白い顔はこの夜空に浮かぶ月の様でもあり、闇夜から誘う使者の様でもあった。
耳障りな甲高い軋みをあげる廊下を、文字通り無人の野を行く様に進み、曲がり角を曲がった先で、人影は怪訝な声を漏らした。
「やや、この様な時間にまだ灯りが」
薄闇に漏れ出す灯りは、執務室と書かれた扉の隙間からだった。
「やうやう、提督殿。この様な時間までご苦労様であります」
灯りの主は黒、あきつ丸が見回る鎮守府の長である提督であった。
軍人らしい体格と、男すら見惚れる様な精悍でありながら、右目の上を縦に傷が走る顔つき。
あきつ丸とは正反対なよく日に焼けた肌と、汚れ一つ無い真白い軍服。ただ違うのはその軍服に散りばめられた数々の勲章だろう。
「あきつ丸、お前もだろう。それは」
「小官はこれが役目でありまして」
飄々としながらも、どこか貼り付けたかの様な胡散臭い笑みを浮かべて、火を落とした角灯を扉の側の棚に置く。
「まったく、ご苦労なこった」
「まあ、習慣でもありますからな」
「習慣、習慣ねえ……」
来賓用のソファーに座るあきつ丸は、いつの間にか茶を淹れて飲んでいた。
「お前、いつの間に……」
「提督殿の分もありますとも」
あきつ丸が指差すテーブルの反対側、そこに湯気を漂わせる湯飲みが置かれていた。
昔から誰かの隙を縫う様に動く奴だと、提督は常々思っていたが、今回はしてやられた気分になる。
仕方ないので、執務机からソファーに移動して、湯飲みを傾ける。
「薄いな」
「そりゃ、茶筒の底に溜まっていた葉で淹れましたからな」
「お前、それを一応は上官に出すなよ」
「まあまあ、提督殿と小官の間ではありませぬか。それに、今は二人だけであります」
「本当にお前、そういうところだぞ」
湯飲みを傾ける顔は白く、ややもすると何も知らぬ者からは病人に間違われるだろう。
それに加え、このあきつ丸は表情の変化が乏しく、常ににやけた印象が更に誤解を招く。
まったく、と提督は息を吐く。
「あの日も大変だったな」
「いやはや、まさかあれほど慌てて、小官の病室に飛び込んでくるとは、小官は良き上官を持てて果報者でありますな」
「お前がまだ目覚めてないと聞かされたら、俺でも焦る」
「いやはや、まったく果報者であります……」
あの日、提督が死の淵より目覚めて、始めに聞いた報告は、自身の病室に居ないあきつ丸の安否であった。
「そしたら先に目覚めてて、平気な顔で饅頭食ってたニヤケ面が居た訳だが?」
「ははは、提督殿に心配を掛けるとは、不届きな輩も居たものであります」
「お前、本当にそういうところだぞ?」
眇で己を見る提督に普段通りのニヤケ面を返し、あきつ丸は外套の中から拳大の白い包みを取り出した。
「伊良湖殿の所からちょろまかした饅頭であります」
「お前な?」
「まあまあ、提督殿。間宮殿から許可は頂いているでありますから」
「本当にか?」
「おや、信頼する部下を疑うので?」
「その胡散臭いニヤケ面を辞めたら疑わずに済むかもな」
あきつ丸から饅頭を受け取り不敵に微笑むと、あきつ丸も更に胡散臭い笑みを返す。
僅かにあきつ丸の頬に紅が差しているのは気のせいだろう。
白い紙の包みを開けると、蒸されてからさほど時間が経ってないだろう生地が見える。
「蒸し饅頭、お前好きだなこれ」
「提督殿は焼き饅頭がお好きで?」
「ああ、餡はこし餡でタレがあれば尚良いな」
「ははあ、それはそれで有りでありますな」
「次の休みに食いに行くか?」
「ええ、是非に」
饅頭を齧れば、中は丁度の塩梅で炊かれたつぶ餡だった。
砂糖の甘さは控えめで、小豆の甘さが強く出ている。
良い小豆を入荷出来たのだろう。
流通が安定してきたであろう証に内心で頷き、あきつ丸が急須から淹れ直した茶を啜る。
「お前、中身は?」
「小官、こし餡であります。やや、提督殿はつぶ餡のご様子ですな」
「……はぁ、取り替えるか?」
「ええ、是非に」
餡の派閥が違う二人が饅頭を取り替え、また茶を啜る。
執務室の窓から見える月はまださほど高くなく、鎮守府内にもちらほらと灯りの点いた部屋が見える。
しかし、既に仕事中と言うには遅い時間。
饅頭を食べ、茶を飲み終えた二人は壁に掛けられた時計を見る。
「まあ、キリがいいし帰るか」
「では、小官も帰りましょう」
「見回りはいいのか?」
「実はここが最後でありまして、後は部屋に戻るだけなのであります」
「そうか」
カラン、と軽い音を立てる角灯に火を入れると、あきつ丸は執務室の扉を開いた。
「では、お部屋まで案内しましょう」
「ああ、任せる」
角灯で照らす廊下は月明かりが差し込み、なんとも言い難い雰囲気があった。
「そういえば、お前どうやってあの夢に来たんだ?」
「さあて、実は小官にもよく分からんのですよ。しかし、あの夢に行く前にこの指輪を撫でていた事は、よく覚えておりますな」
白い手袋を外すと、月明かりの下にまた白い手が露になる。そして、あきつ丸の左薬指には銀の光を反射する指輪があった。
「結局、俺が助かった理由は分からず仕舞いか」
「まあまあ、良いではありませぬか。胡蝶の夢、走馬灯の類いだと思えば、そう体験出来る話ではありませんからな」
「……そうだな。しかし意外だな。お前はそういう物を身に付けん印象があったが」
「提督殿から貰った証であります。小官が手離す時は、本当に最期の瞬間でありますよ」
「贈った甲斐があったと見るべきか?」
さて、それはどうでありましょう。
あきつ丸はケラケラと笑い、提督へ振り向く。
「何時かはこの様な支給品ではなく、提督殿本人から戴きたいものであります」
「部下に手ぇ出すかっての」
「では、退役した後ででも」
指輪を月明かりに翳し、ほんの一時愛しそうに見詰める。
その仕草は僅かに紅が差したあきつ丸の白い顔と、月の淡い光も相まってこの世から離れた色気と魅力があり、提督は一瞬だが見惚れた。
「おや、提督殿。どうなされましたかな?」
「まったく、お前は本当にそういうところだぞ?」
「はてさて、小官分かりかねますな。しかし、一人寝が寂しいと言うのであれば、小官喜んで伽を致しましょう」
「調子に乗るな」
「ははは、失敬」
飄々と貼り付けたかの様な、胡散臭い笑みのあきつ丸は手袋を直し、しかしと続けた。
「提督殿より指輪を戴けるとは、正直思っておりませんでした」
「嫌だったか?」
「まさか、恋仲になれぬというのは歯痒いながら、しかしそれはそれで心地好いものであります」
それに
「上官と部下、この関係が恋仲に劣ると誰が言えましょうや」
「お前、本当にそういうところだからな?」
とりとめも益体も無い話を続けながら、夜更けの廊下を二人は歩いていく。
もう、闇に追われる事も呑まれる事も無い。
はい、秋津夜語り完結で御座います。
元々、罰ゲームで作った本作、実は自作COCTRPGシナリオをそのまま流用しておりまして、まあまあすんなり書けたかなと。
ルート分岐として、あきつ丸か声のどちらを信じるかでエンディングが変わるシナリオで、本作はあきつ丸を信じるルートに進みましたが、バッドエンドもありだったかなと思ったり思わなかったり。
しかし、罰ゲームは見事消化しまして、肩の荷が降りたとはまさにこの事。もしかしたら、何か小話を書くかもしれませんが、今はこの辺で。
最後に本作をお読み戴きました皆様に多大なる感謝を。
逆脚屋