失われた愛を満たしてくれたのは、貴方でした。
ピピピピ、ピピピピ。
静かな部屋に、目覚まし時計の音が鳴る。布団から顔を出すと、朝の冷たい空気が襲ってくる。この時期の朝は辛い。布団からのそりと出て、目覚まし時計を止める。立ち上がって部屋のカーテンをサッと開けると、日差しが寝ぼけた頭を起こしてくれる。布団を押し入れに上げ、自分の勉強机の横の通学カバンを拾い上げてリビングへ向かう。食卓の脚の側に通学カバンを放り置き、食卓の上を見た。そこには、いつも通り作り置かれた朝食に、これまたいつも通り小さめのメモが添えられている。メモには、走り書きした丸っこい文字で「今日も遅くなる」と書き置かれていた。しかし、いつもと違うのはその文字列の下に、「ごめんね」と書かれていることだった。
ああ、今年も
俺は、メモを握り潰して、向こうにあるゴミ箱を見ることもなく乱暴に投げ捨てた。
俺は、一月十八日が嫌いだ。
俺は、母と二人で暮らしている。所謂、母子家庭だ。父は俺が小さな頃に浮気して逃げていったらしい。顔なんか、これっぽっちも覚えていない。母は俺を育てるために、昔から朝から晩まで働き詰めの生活を送っている。だから、忙しくて俺の相手をしていられない。必然的に、俺は小学生の時から鍵っ子だ。それでも、時々は家に居てくれて、学校行事に来てくれて、誕生日も祝ってくれた。母が居る日は、他のどんな日々より特別感があって嬉しかった。
母と俺の関係が変わったのは、俺が十四歳の誕生日だった。身体は成長しても、母に祝って貰える誕生日は特別で、何よりも楽しみにしていた。でも、あの年、母は俺を祝ってくれなかった。「仕事が忙しい」と。でも、そもそも誕生日の前から変だった。今までより帰ってくるのが更に遅くなったし、ベロベロになるまで酒を飲んで帰ることが増えた。何より、避けられるようになった。到底、母が忙しいだけとは、思えなかった。
俺はある日、母に尋ねた。
「俺のこと、避けてない?」
「そんなことないよ」
そう母は言う。何回探っても、母はそう繰り返した。俺は、母のことが分からなくなった。
そして、俺が十五歳の誕生日。母は、夜遅く泥酔状態で帰ってきた。俺の誕生日にも関わらず。俺が玄関にへたりこんだ母を起こした時、母は俺の顔を見て般若のような顔をした。そして、毒を吐いたんだ。俺と母という関係をドロドロに溶かす、猛毒を。
「なんでお前が、ここに居るんだ!」
俺は、急に激昂した母に突き飛ばされた。わけが分からなかった。
「私を捨てておいて、何で今更戻って来た!」
ああ、そうか。その言葉で、俺は理解した。母は、
「おいお前、何とか言……え……」
更に掴みかかって、俺の顔を至近距離で見た母は、そこでようやく気づいたようだった。罵声を浴びせていたのが、自分の息子だったことに。
「そっか。俺、父さんに似てたんだね。だから、避けられてたんだね」
「ご……ごめんね。そういうことじゃなくて……」
俺は素早く立ち上がり、
「父さんに似てるなんて、俺にはどうしようもないじゃないか」
その独白は涙と共に、暗い自室の闇に飲まれていった。
あの人は、俺のことを果たして愛してくれていたのだろうか。一月十八日は毎年、こんなことを考えてしまう。あれから、あの人と俺の隔絶は決定的となっていた。週に一度顔を合わせればいい方になっていた。
「どうしたんだい? 浮かない顔をして」
声のした方に顔を向けると、やり場の無くなった愛を注ぐたった一人の相手が、心配そうな顔をして立っていた。
「大したことじゃないよ。薫」
「本当にそうなのかい? それにしては難しい顔をしているけれど……」
「ああ、少し昔のことを思い出していただけさ」
俺は、薫に向かって笑ってみせる。薫に心配を掛けさせたくは無いから。
「ならいいんだが……。ところでこの後、時間はあるかい?」
「あるけれど……どうした?」
薫にしては珍しく、此方を窺うような口調。いつもなら、ハキハキと自分の言いたい事を伝える薫らしからぬ口調であった。
「少し、校門前で待っていてくれないか?」
「……? ああ、わかった」
用件を伏せて場所だけ指定したことを不思議に感じながら、俺は了解する。何か、大事な話があるのだろうか。
「では、練習に戻ろうか」
「ああ」
とにかく俺は、気持ちを切り替える。薫を心配させないためにも。
「やあ。待ったかい」
「いいや。俺もさっき出てきたところだよ」
部活終わり、俺は薫より一足先に校門前に来ていた。後から来た薫は、手に紙袋を持っていた。
「さて、私がキミに待っていて貰った理由なんだが……」
薫は、紙袋を差し出してきた。
「誕生日、おめでとう」
俺の心の中に、暖かな風が吹いた気がした。
「これは……?」
俺が聞くと、薫は顔を少し染めて開けるよう促した。俺は、紙袋の中身を出した。
「手袋……」
それは、毛糸の青い手袋だった。
「キミ、手袋を持っていなかっただろう? だから、君の好きな色の毛糸で、手編みしてみたんだ。……どうだろうか?」
薫は、はにかみながら答える。ああ、この感情は。
「俺の誕生日、覚えていてくれたのか?」
「当然だろう! 私は、君の恋人なのだから……」
薫が自信ありげに宣言する。しかし、恋人と口にするのは恥ずかしかったのか、最後の方は声が小さくなっていた。思わず俺は、薫を抱き締めていた。
「ど、どうしたんだい?」
薫の顔は、熟れたリンゴのように赤くなった。俺は、そんなことお構い無しに、薫を強く抱き締め、言った。
「ありがとう。薫」
寂しかった。ずっと、辛かった。あの人が、誕生日を祝ってくれなくなってから。愛が、カラカラに干からびて無くなってしまったようで。薫が、それに水を注いで満たしてくれた。
「ありがとう……ありがとう……」
俺は薫を抱きしめながら、泣いてしまっていた。そんな子どもに戻ってしまったような俺を、薫は優しく、優しく包み込んでくれていた。