俺の目には、キミしか映らない。キミにも、俺だけを見ていて欲しいな。
ピピピピ、ピピピピ。
静かな部屋に、目覚まし時計の音が鳴る。布団から這い出て、目覚ましを止める。冬の間、隙間風に襲われて極寒となる
「儚い……」
思わず、そう口に出ていた。まるで薫みたいだ。きっと、薫もこれを目にしたら、「儚い……」と言うに違いない。俺も最近、「儚い……」と口にすることが増えた気がする。最初は、薫の「儚い……」というのが俺にはよくわからなかった。でも最近は、うっすらではあるけれど、薫の「儚い……」がわかってきて、二人で共有できるようになったから、「儚い……」と口にしてしまうんだろうな。ああ、何だか、薫に早く会いたくなってしまった。布団を片付け、通学カバンを持った俺は、リビングの方へと身を翻す。いつも通り、食卓の上には作り置かれた朝食と、母の丸っこい文字で走り書きされたメモが置いてある。「遅くなる」とのことらしい。俺は、通学カバンの中からペンを取り出して、母のメッセージの下に一言書き添える。「ありがとう」と。こんなことをするようになっているだなんて、数か月前の俺では考えられなかった。これも、薫の言葉のおかげだ。
「拒絶していたら、相手がどう思っているか、わからないだろう?」
薫に諭されて、ようやく気付いた。まず、俺はメモに感謝の一言を返すようにした。さらに、母と話すときは、母と目を合わせるようになった。すると、母も前よりは早く帰ってくるようになったし、まだぎこちないけれど、話しかけてくれるようにもなった。母との関係は、少しずつ、修復へと向かっている。僕は食卓に着く。
「いただきます」
さあ、さっさと朝食を済ませて、
朝、自分の教室に行く前に俺が三年C組の教室を覗くと、薫はどうやらいないようだった。はて、どこに行ったのだろう?
「薫様なら、麻弥ちゃんと部室に行ったよー」
すると、教室の中にいたA組の茶髪の子からそう声が飛んでくる。C組の子とおしゃべりしに来ているのだろう。そうか、部室か。今日から新入生の勧誘が始まるから、大方その準備をしに行ったというところだろう。しかし、なぜ俺は何も言っていないのに、薫を探しているとわかったのだろう? さらに教えてくれた子は、ニコッと笑ってウインクをした。なぜ今、ウインクなんかしたのだろう? 色々不思議に感じつつもとりあえず、俺は教えてくれた子にお礼を言って部室へと向かう。
(勧誘か……)
廊下を歩きながら、俺は去年の勧誘のことを思い出す。去年の勧誘にはとてもたくさんの生徒が集まってくれた。ただ、そのほとんどが薫目当ての女子で、そこからさらに正規入部してくれたのは数人程だったから、今年もそうならなければいいが……。
廊下をまっすぐ進んで、曲がり角を左に行けば、そこが演劇部の部室だ。
「おはよう」
俺が部室に入ると、薫と麻弥さんが机の前で何か話している。俺が来たことに気づいて薫がこちらに振り向く。
「やぁ。おはよう」
「おはようございます」
麻弥さんも振り向いて挨拶を返してくれる。
「何か手伝おうか?」
「いいえ、もう、放課後にこのチラシを配るだけですから」
そう言って麻弥さんは机の上のチラシを指し示した。そのチラシには、演劇部員募集という手書きの大きなフォントに、演劇のワンシーンがこれまた手書きで描かれている。去年、先輩たちの用意したチラシは、ネットにあるフリー素材を利用して作ったものだったから、とても新鮮だ。
「すごいなこの絵……。誰が書いたんだ?」
「それはですねー……」
「麻弥。それは……」
麻弥の言葉を、薫が遮る。麻弥さんは不思議そうに薫を見るも、すぐ何か察したように頷いて黙ってしまった。麻弥の横に立っている薫の顔が少し赤い。少し困ったような、そして恥ずかしがっているような、そんな感じだった。
「……ん?」
この絵の描き方、どこかで見た覚えがある。どこだっただろうか。俺は食い入るようにチラシを見た。やはりこの絵の雰囲気は、絶対に見たことがある。俺はふと、部長と副部長の名前欄を見る。この字は……!
「これ描いたの……、薫か?」
薫は、ゆっくりと頷いた。
「……どうだい。少し子猫ちゃん達に頼まれて描いてみたんだ。変じゃ、ないかい?」
「ああ。変なところなんかないさ。とても、とても綺麗だよ」
そういえば、前、美術の授業で薫が描いた絵を見せてもらった時も、薫は恥ずかしがってたな。そう思い出しながら、俺は薫に聞いた。
「これ、ロミオとジュリエットのシーンだよな?」
「ああ。数多くある演劇作品の中でも、知名度の高い作品だからね」
確かにロミオとジュリエットは、演劇をよく知らない人でも名前くらいは聞いたことがあるだろう。しかも、描かれているのもどこかで目にしたことがあるだろう、ジュリエットがバルコニーからロミオを見下ろしているシーンだ。演劇の宣伝にはもってこいだろう。
「すごく良くできてる……。今日の宣伝、俺も頑張らなきゃな」
「あぁ。今年もたくさんの子猫ちゃん達を魅了してみせよう……!」
俺が決意を口にすると、大仰な動きと共に薫も意気込みを発する。いつもの薫らしいな。
「魅了するだけじゃなくて、ちゃんと勧誘もしてくれよ?」
「わかっているさ。この瀬田薫に任せてくれ!」
俺と薫はお互いに笑い合い、放課後の健闘を誓った。
日が長くなってきたとはいえ、六時半にもなれば暗くなってくる。先程まで新入生勧誘や体験を行っていた部活の群れも、今は片付けに追われていた。
演劇部の勧誘は、今年も薫のおかげで大成功だった。沢山あったチラシも、あっという間に無くなってしまって、そこからは薫の一人芝居が繰り広げられていた。その間に俺と麻弥さんが先導して片付けを済ませたので、演劇部はどの部活よりも早く帰ることができていた。他の部員が一足先に帰った後、部室の施錠を任された俺は、鍵を職員室に返却し、早歩きで校門に向かっていた。
「ごめん。待たせて」
「それほど待ってないさ」
校門前で待ってもらっていた薫と合流して歩き始める。今日のこの時間の話題は、やはりさっきまでの新入生勧誘へと自然に移る。
「今年も沢山の子猫ちゃんが集まってくれたね」
「そうだな。後日ある体験会も大盛況になりそうだ」
「フフフ。勧誘はこれからが見せ場だね。私の華麗な演技で子猫ちゃん達を魅了せしめて見せよう!」
薫は、明後日の体験会での演技に気を吐いた。
「そうだな……」
今年も、薫のファンがまた一段と増えそうだ。嬉しいこと
「どうしたんだい? 浮かない顔だね」
顔に出てしまっていたか。薫が俺の前に出て足を止め、顔を覗き込んでくる。
「何でもないよ」
「本当かい? そうは見えないよ」
薫は、心配そうに眦を下げる。赤色の瞳が揺れていて、戸惑っているように見える。俺のために、そんな目をしないで欲しい。罪悪感から目線を逸らそうとする。でも薫の瞳から、目を逸らすことはできなかった。
「……薫のファンが増えるのは、いいことだよ。だけど……」
俺は、ぼそぼそと心の内を吐露し始める。
「……薫を追うファン達を見て、時々、考えてしまうんだ。彼らは、薫を奪おうとしているんじゃないかって」
「私を、奪う……?」
薫がそう言って、頤に手を当てた。考え込む薫を横目に、俺は言葉を続ける。
「彼らの中に、薫を狙っているような眼をした奴らがいるんだ。薫がそんな馬の骨共を愛することなんてないってわかっているけれど、俺は不安なんだ……。薫が取られてしまうんじゃないかって……」
二人の間に、沈黙が横たわった。心の内のありのままを話した俺は、怖くなった。自分の言ったことをよく考えてみろ。お前は、今まで散々、薫に愛されておきながらその愛を疑っている。これは、薫に対してあまりにも不誠実ではないか。俺は、俯いている。今度は、薫の表情を見られない。見たくない。俺のせいで表情を歪ませているであろう薫を見れば、きっと死にたくなってしまう。
「私が真に愛するのは、キミ一人だけだよ」
俺は、思わず顔を上げた。俺に向けられていた表情は、曇りなどではなく、快晴だった。薫は、まっすぐと俺を見据え、アルカイックスマイルを浮かべていた。
「誰にアプローチされようと、私の心はキミのものだよ」
「薫……」
薫の双眸から覗く赤い瞳から、今度は別の意味で目が離せなかった。
「それに……」
薫は、更に言葉を続けようとする。しかし、一旦言葉を詰まらせた。
「……私だって、キミが他の子猫ちゃん達と話しているのを見ると、不安になるよ」
驚いた。まさか、薫もそんな風に思うことがあるとは思わなかったのだ。
「……あまり気にしていないだろうけれど、キミは子猫ちゃん達から人気なんだよ」
薫は、俺が驚いたことを見透かすように言う。
「だから、その……。キミも、気をつけて欲しい……。……聞いているのかい?」
声が尻すぼみに小さくなっていく薫は、とても愛おしくて。俺は、薫にずいと近寄って。一瞬の、間があった。
「ごめん、不安にさせて。俺も、気をつけるよ」
何をされたのかわかっていない薫が、呆けた顔をしている。その顔が、段々赤く染まっていく。
「……!」
恥ずかしさのあまりか、薫は両手で顔を覆った。ああ、なんて可愛いんだろう。
「可愛いよ。薫……」
「か、からかわないで……」
声が上擦って、王子様口調が抜けた薫。ああ、なんて愛おしいんだろう。
皆の
薫さん達は、まだ高校生です。