「ほらよ、
「へえ、失礼いたしやす」
市をこのオンボロ長屋に引き込んだのも、あの漢方医と心中した母が重なるからである。あれだけ鯨の吞み込みで飯を平らげたのを頬杖付いて視ていると、自然と瞽女按摩にも愛着を抱く。
「旦那様、火付改の親分様に御付の割にゃあ、随分と貧相な長屋でございますね」
「うるせえ、こちとら日夜剥ぎに辻斬りに御用してんだ。それだけ俺も稼業で駆け回ってんだ。この前なんざ仇討の仕掛けの野郎をフンじばったんだ。いけすかねえ木っ端野郎でよ。俺の面ァ知ってやがった。此の水飲み百姓の楊枝差しってつけあがりやがった」
へっへっへと瞑ったまま女は京二郎が足元にうつぶせ寝になったのを、僅かに沸き上がった風と音で把握した。速くツボを押せと江戸っ子気質が無言で女を煽る。
「さいざんすか。ご苦労様でした。扨々、ちょいと失礼します」
女は上から跨ると肩からもみほぐしだした。中々の隆々とした筋骨が纏う布の上からでも手に伝わってくる。今まで何度も斬ってきたその手。そして按摩稼業で押してきた手。全てを視てきた手だからこそわかる。この男は相当の手練れと視える。
「おおおおお~。コイツは効くねえ市さんよ。あんた女のくせにやるじゃねえか」
「へえ、これ一本で遊行の渡世をしてきましたから。お、旦那様、右に寄ってますねぇ」
「お、マジかよ。あんた剣術も解る口かい」
「へへ、あっしは御侍様のかかりつけも前はして居りましたから、ちったあこのお方は刀をどう握る、どう寸法で斬りかかるか解るんですよ」
「怖いもんだねぇ。下手すりゃあ俺が何考えてるかもわかってそうだね」
当然である。この男の肩甲骨はどうも右上に上がっている。代謝もその具合に右斜めに偏っている。普段は剣の下の柄を右手で握るのだろう。構えは正眼か、八相。居合は
若しコヤツに己が関八州の千両首にやくざから示された口だと判ったら、孰れ抜かねば為らぬこともあるだろう。然し例え好意を手厚く受けたとて、自分はそうして生きてきた。視えぬからこそ、切先を向けられる恐怖がある。だからこそ斬る。たとい相手が師であっても、己に抜けば全て斬る。
「どうしたい、手が止ってるぜ」
「ああいや、こいつはいけねえ、すんませんでした。旦那様」
「なあ市さん、今夜宿はあるのかい」
「へへ、あっしみたいな盲を泊めてくださる方がいらっしゃればですがね」
京二郎は圧されながら眉を顰めつつ、じっと土間の黒々とした壁を見つめた。
幾ら按摩が下層だと蔑まれようが、こうして御用にも為らずに宵越しの金を集めているではないか。其処に俺と一体何の貴賤の違いがあると言えるのか。
「居るよ、此処に」
「へえ、旦那様みたいにお優しければいいですね」
「泊って来なよ。前夜鷹と寝た時に引っ張り出した布団があるんだよ」
「は?」
市は思わずそうぶつけてしまった。
「おいおい、俺があんたを抱こうって算段じゃねえのは何回も言ってんだろ。ただおめえさんがこのかてえ床に寝っ転がって明日迄明かせばいいだろっていってんだよ」
「よろしいので御座いますか」
「おめえさんも人の形してこの天下の将軍様の膝元で飯食って水飲みに来てんだろ。それに、これからの夜分じゃ盲の女が一人で歩いちゃ何されるか分かんねえ。あんたが剣にでも自慢があるんなら、構いやしねえが、狼の野郎みてえに腹空かせて目ん玉ぎらつかせてる浪人がうろうろしてやがる。あんたが斬られて身ぐるみはがされるのは視たかねえ。少なくとも俺の近くにいる時に斬られるのは止してくれ。同心の名が廃る」
市は手を止めたのを再び動かして笑いながら答えた。
「ハハハ、でしたら今晩お邪魔致しましょう。こんな盲に御声掛け貰って飯迄喰わせて貰っちまったってのに、寝床迄貸してくれるってのは、観音様の加護ですかねえ」
「何言ってやんでェ。観音なんざ拝んだところで銭が飛ぶだけじゃねえか。銭勘定で人様の心願を値付けしてやる野郎に、神も仏もありゃあしねえよ」
「はあ、そうですか」
市は直ぐに解る。この男が浅草の観音に対して不敬の念を平然と吐き捨て、己にこれだけの手厚い恩義を尽くしているのは、過去の事が尾を引いているのだ。
「ささ、あと少しで終るんだろ。ちょいと勘定出すから待ってな」
「いえ、まだまだ」
「そんなにしてくれなくてもいいよ。手間賃が伸びちまう」
「値は要りません。旦那様に此処迄の恩義頂きました御返しで御座います」
「いいのかい」
市はへらへらとして閉眼したまま続けた。結局、数程手先を振るって京二郎の凝り固まった方はすっかり回復した。
「いやあありがとよ市さん。すっかり丈夫になっちまった」
「旦那様が御悦び頂けましたら、あっしは何よりです」
深く座礼する市に、男は懐から金を出した。
「ほらよ市さん、とっときな」
小判一枚。銭ではない。こんな大金何処から出したのか。音でわかる。床を打ち付けて弾んだ数で幾ら男が出したのか。
「旦那様、いけやせん、あっしみたいな盲にこんなデカい金」
「なんだよ、受け取れねえってか。俺はあんたにこんだけの値打ちがあると見込んだんだ。もうこっからはあんたの金だ。博打でも何でも使ってくれよ」
「へえ、それじゃあ有難く……」
投げ捨てられた小判一枚、市は申し訳なさそうに懐にしまった。京二郎はそれを見て微笑むと、立ち上がって押し入れから埃被った夜鷹に寝かせた布団を引っ張り出した。やたらと
「おっと、畜生。一月も前でまともに洗ってなかったな。市さん、あんたは俺の使ってる奴で寝てくれ。俺は床でいいや」
そういって抱えた布団を、引き戸から投げ捨ててしまった。
「旦那様、大分荒れてらっしゃいますな」
市は思わず本音を口走ってしまった。これだけの好意を受けながら、同心の生活すら投げ捨てるほどに下流の民と共にしているのが心を打ったのだ。
「わりいな。俺はどぶみてえな貧乏同心だよ」
「明日、旦那様が御勤めの間、あっしが掃除いたしましょう」
「え?」
壁に畳んでおいた敷布団を敷いている最中に、その言葉を聴いた京二郎は思わず正座でじっとこちらを向いている市に訊き返した。
相変わらずにこにこ飄々としている女座頭。閉目した瞼の向こうに、男は何か暖かいものがあると見切った。
「しょうがねえなぁ、ちょいと頼めるかい。市さん」
「よござんす」
※参考文献
・峰隆一郎『加賀の牙』光文社時代小説文庫