前田勇編『江戸語の辞典』講談社学術文庫
「亦事知らずの沙汰ですか?」
奉行所の所務室にて、橘は平六に訊いた。
「どうも太刀筋が手練れと視えた。何たっておめぇ、仏のついた切り口がいつも袈裟斬りだなんだってよ。京二郎、辻かと思うかい」
火付盗賊改の鬼の平六は、齢六〇程のこの道勤めの三十年を同心として築き上げて来た。
半年の任期であるが、将軍からの特別な信頼を受けており、この度亦もやその任を受けたのである。普段は京二郎には親の様な情愛の雰囲気を醸し出すが、白洲にて何度もふんじばった歌舞伎者や罪人どもを突き飛ばして来た横暴でもあった。
徹底した石抱責の愛好者であった。
これをすれば直ぐに吐くからである。その為炯眼の黒々としたそのまなこに呑まれれば、近くの顔を知っているやくざどもは直ぐに震えがった。
「ここ最近、ゼニこさえりゃあー平然と犬畜生みてぇに人を斬る木っ端野郎が居るって聞いた。何やら仕掛人共じゃねえが、相当歪な剣術を使うってな。おめぇなんかしらねぇか」
鬼の平六は天覧試合で勝利する程の手練れだった。正眼の間を取る一刀流だった。己から無闇に踏み込む型では無いが、静寂の中でいつ俊速の一閃が極まるかわからぬ恐ろしい太刀捌きである。
御用の警告を一度でも無視すれば、
そんな男を以ってしても、昨今のこの江戸にいるという謎の人斬り稼業人に、恐れと警戒を与えていた。
「知らねえな、親父。亦実見するしかねえよ」
「そうだな。仏さんがどうかみるかねぇやな。畜生」
悔しそうに顔を顰めて長廊下の方を見た。
「ところでおめぇ昨日から女囲ってるってな」
「はぁ」
「ハァ、じゃねえよ馬鹿野郎。女の一つや二つできたってんなら手前、親分に報告しろって言ったろう」
振り返って迫った平六に、長屋の噂が届く速さに震えながらも、京二郎はとぼけた様に頭をかいた。
「十手持ちのおめぇが、
鼻で彼は笑ったが、馬鹿にした笑いでは無いことだけは分かった。彼はずっと「浅草の観音よりも優しくなれ」と言い付けて育てて来たのである。最早その優しさは仏の慈愛を越えていた。
「イヤァ囲ったわけじゃねぇんだ。あんなきったねぇ長屋に住まわせちまってんのが申し訳ねえ。そのうち俺がゼニ貸してやって近くの寺かなんかに口きいてやろうかと」
「てやんでえ、掴んだ手は離すんじゃないよ。いいか、盲でも何でも、そいつは一目惚れってやつだ。おめぇが拾って家に入れたってんならそいつは惚れたってこった。飯でも一生喰わせてやる覚悟で面倒見てやれよ」
「はあ」
「おめえも三十路だろうが。そろそろ固めるときだろう。あんまり選り好みしてるってえと奪衣婆が嫁に来るぞ」
「勘弁してくれよ。まだ昨日会ったばっかりだってんだよ」
「その瞽女さんは今何してんだよ」
「おれんちの掃除を……」
パンと、肩を強く叩かれた後、平六は笑って廊下を歩き去っていった。
「御帰りなさい旦那」
にこにこしながら座頭市は正座で待ち構えていた。めくらとは思えぬ程、部屋は塵ほこり一つない綺麗な仕上がりであった。
「おおっ、これ全部市さんがやってくれたのかい」
「左様で」
「マジかよ」
部屋に飛び込んだ京二郎は、この女はただのめくらではないと確信した。
釈迦の阿那律のごとく心眼が開いているのであろう。
「ありがとよ。御礼は……」
「もう三泊程」
「え?」
「お代は其れで」
妙に懐いている。せっせと金だけもらって出ていくかと思えばこの女、自ら泊めろと迫ってきた。彼は心中戸惑った。
散々平六に揶揄われた女が、急に深い情でも抱くように彼の心に迫ってきた。
慌てて目をこすった。女はにこにこしている。
「……よござんす」
「へへへ、ありがとうございます」
しまった。気味が悪いというのに良いと云ってしまった。武士に二言はない。
「まだ宿が取れそうにねえんで、そのあとは按摩で御宿にでももぐりこむって手筈で」
「もっといなよ」
「いやいやいや、流石にそりゃあ旦那に甘える訳にもいかねえもんですから」
「起つ迄居な」
「……お優しいですね、旦那」
「なんでそんなに優しいんです。こんな女盲に」
「かかあがつんぼだったんだよ」
「……さいざんすか」
「俺を棄ててだりむくりとそこの川で身投げしちまったがよ」
女は、真一文字に口を結んで、相対して座る男に黙って聞いた。
「それで、平六親分に拾われたと」
「そうだ。俺は観音様を怨んだ。今もさ。あんな糞石、ふんぞり返って突っ立てるだけでなけなしの銭が貰えらあ。けどよ、俺は何度祈ったって地獄しか見やしなかった。あんたとおなじだ。めくらだからって、犬畜生と同じ扱いになっちまうのが、俺は赦せねえんだよ」
市は突然暗闇の中で慈光に打たれた。直ぐ近くに仏がいる。
わずか一日で此処迄する男には並々ならぬわけがあるとは察していたが、僅か少しのやり取りで其れが急に閉塞していた心をこじ開けてきた。
「旦那」
女はそっと、後ろから巻き付くように抱き着いた。ひゃっとして振り返ろうとしたが、女はどんな人間よりも暖かかった。
「よう耐え為さった。よう生きてきた。あんたは仏だ。菩薩ですよ」