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・峰隆一郎『人斬り弥助』集英社文庫
「もし」と暗闇の軒先でめくらは云った。
「何か」
「
「如何にも。こんな夜分に拙者に呼び掛けるとは、何の使いだ。
「如何にも。あんたを斬りに来たんで」
刻で云えば丑八つ。京二郎には偶然に古客だった幕臣と路傍で逢って、是非とも朝までお礼をしたいと誘われてしまいどうしても一日空けると方便を突きとおした。
京二郎はまんまと騙された。
朝倉はこの江戸・浅草における一大道場、朝倉思道流の創始であり、悪名高い剣客であった。若き時分から一等抜きんでていたこの男は、毎度借財を大量に近所の番頭を恐喝することでこさえ、その全てを門弟たちと共に遊郭の遊興費に回していた。
その遊郭の中でも特に天下一と名高い太夫お銀を愛妾として娶ろうと画策していた。お銀は京二郎の様な貧乏同心なぞ決して逢寄れない筈であったが、2年前にとある豪商の乱暴な夜伽の相手に耐えきれず顔を頭巾で隠し、知人の飯炊き女の召し物を盗んで逃げだしたことが有った。
遊郭に於いて脱走は死罪である。直ぐにでも追手が來る。毎度駆け落ちをはかる客と遊女たちは心中するのが落ちである。そんな土座衛門の打ちあがったのを散々見てきた京二郎は曽根埼心中を酷く侮蔑している。
直ぐに太夫が失踪したことで大混乱になった遊郭から、齢60過ぎの夜鷹にすら喰われて心身消耗した経験のある彼の下にも、捜索に来て欲しいと取り仕切りのやくざから乞われて参加したことが有った。
運が良ければ己の女になるかもしれぬ。元より神仏は信じていない。一人十手を以て汚い小屋に踏み入った時だった。藁に紛れて震える美白の女がいた。お銀だった。どうか見逃すか脇差で一思いに殺してくれと縋り付いてきたのであるが、後から駆け付けてきた鬼の平六に匿う様に云ったところ、どうやら彼の威厳に免じて、そのまま復職する事と屈強な相撲取りのヤクザに落ちた連中の用心棒が就くことを条件に、彼女は生き残ることが出来た。
お銀は不本意ながら再び太夫に返り咲いたが、それ以来遊ぶ文無しの京二郎を引き入れる迄信頼していた。店としても十手持ちが出入りすればよそのやくざや歌舞伎者が近寄らなくなるため、用心の為に彼が
「貴様、そうそう下天に命を落としたのだ。拙者も鬼畜ではない。貴様の様な虫けらの吹き消せる命一つとて、見逃す度量は持っているのだ」
にやつきながらも、声がした暗闇の軒下を絶えず警戒しながら、半歩ずつ後ろに下がり、左手は鯉口を切っていた。
「へえ、そいつはありがてぇありがてぇ。ただこちとら銭こさえて来たんです。逃げる訳にも、逃がすわけにもまいりません」
虚ろ気に暗闇からぼうっと影が尾を引くように出てきた。暗闇から浮き上がった輪郭を頼りに肉眼は其れを唱えた。左肩に長い竹竿か、鳩杖に寄りかかる肉と皮だけが張り付いている老婆の様に前かがみになった女が、のらりくらりと寄ってくる。
「それは仕込みか」
「へえ、あっしの商売道具です。あんたは立派な紋付袴をお召しになって、立派な刀も御持ちでしょうが、生憎最期の冥土の旅は、持ってけるもんじゃござんせん」
不気味に寄ってくる其れは、まるで地獄の獄卒が己を引き裂く為に来た様にすら思える。
それにしてもこの女、さっきから己に眼を合わせるようなことはしてこない。若しやめくらか。
「貴様、何処を視ている」
「あんたのどす黒い心です」
ぴたっと朝倉は足を止めると、殺意を一気に両眼に宿して身を屈め、右手を柄にやった。
「やあ!」と叫んだ。
右足を踏み込んだと同時に一閃した。
そう信じる余裕だけが最期に渡された余裕だった。
どんっと、腹に何かが突っ込んできた。剣は竹竿で抑えられている。
そのまま後ろに押し倒されると、左下から右肩に掛けて斜め上に一閃された。
腸から腹、そして首の動脈に掛けて正確にとらえていた。
「ぐえっ」とか弱い男の声が聴こえた。
「あだな月夜の寂静に、視えねえだけが救いです」
女は確かに息を絶えたのを、手に遺る肉を切った触覚から確信してその場を立ち去った。
「たく、またこれか」
岡っ引と十手持ちはデコを掻いて呆れていった。
「京二郎。手前どこ行ってやがった。めくらの女のとこか、それともお銀か」と同僚の一人が悪態をついた。
彼が純粋無垢な旗本の出ではない事と、乞食の出から鬼の平六の加護を受けて育った事。そしてその身分の癖に遊郭の最上の女に贔屓されている事から激しく嫌悪されていた。
「すいやせん、寝坊です」
「寝坊だと?」
「やめろやめろおめぇら。仏さんの前だぞ。喧嘩すんなら他所でやれ」
鬼の平六の声が澄み渡る。同心や岡っ引の背筋は伸びる。一転して水を打ったように静寂の現場は到来した。
御簾を上げると、既に青白く霜に埋もれた亡骸の風合いであった。鮮血が半日経てば黒々としたシミとして不気味な形で浮かび上がっている。
「コイツは逆袈裟だなぁ」と平六は述べた。人差し指で傷口をなぞる。
「目先だけなら、逆手斬りか。下から左斜め、腹と頸部の動脈に居合で抜いたな」
「男ですかね。こんだけの深ぇ刀傷で逆手持ちなんざ、女じゃまず無理だ」
「浅ぇ」と平六は云った。
「京二郎、世の中にはデイダラボッチみてえな剛力のかかあはゴロゴロ居るぜ。おれんちのばばあとかな。後は一揆の百姓の女とか、幾らでも腑抜けた大名の男よか刀差しても見違えねぇあまはいる」
「女も含みに入れんですかい」
「あたぼうよ、取り敢えず、オイ」
「へぇ」と岡っ引の連中が平六の元に集った。
「詳しく首実検だ。持ってけ」
亡骸が荷車で奉行所まで引かれるのを見つつ、京二郎は左掌をぐりぐりと己の十手で押した。己の推理の甘さを、年季の鬼火盗改にたった一言だけ指摘された悔しさがあった。
「ちょいと邪魔するぜ」
亦憂さ晴らしに来てしまった。ここに来る時だけが、一番生を実感できる。吉原遊郭は浅草寺から歩いて直ぐ裏にある。女人禁制のありんす国は、京二郎をも優しく包む。裏口から飯炊き女に驚かれつつも情人が来たと分かれば一安心。
「同心様、こんばんわ。お銀さんならこっちだよ」
手招きして住み込み専用の階段を上がり、奥の手迄行くところに、女はいる。
「姐さん、ちょいと」
引き戸越しに飯炊き女が声掛けをした。いつでもこの瞬間は婢の様な長屋暮らしをさせられている己にとっては極楽浄土ままである。
「なんだい」
「八丁堀」と女は言った。
「…入んな」と太夫は言った。
八丁堀とは隠語である。本来ならば奉行付きの役人の呼び方を差すが、此処では京二郎そのものを現す。
「待ってたよ、旦那さん」
鳥篭の押し込まれた太夫も、真にこの男が来るとなると、全てを曝け出す。
「よう、亦来ちまったよ」
「ああ、旦那さん」と女の元に座った途端、縋り付いて来た。
「あたし、もう怖くて仕方がないんだよ。いつも薄汚ぇ猿の相手ばかりしてやんなし、この前は上洛して来た芋客の野郎、あたしの事をからくりか何かと間違えやがって乱暴しやがった」
「…出してやれなくて、俺の不徳だよ」
「ねぇ、一緒に逃げちまおうよ。下総に、逃げ切った女郎が百姓と坊主の寺で暮らしてるんだ。そこの坊主は念仏のお人で、役人も……」
元締めもこの太夫をさっさと身請けに出してしまいたいというところだった。鬼の平六に免じて首の皮一枚持たせてやってるが、逃げ出した女なぞ犬畜生に等しい。既に傷物だ。
それでも江戸の街ではこの太夫の人気は高い。
「今は無理だ。亦殺しがあった」
「誰がやられたんだい」
「朝倉」
「あいつがかい!」と女郎は嬉しそうだった。
「殺しに嬉しそうにするない。腐っても殺しだ」
「あんな野郎、死んじまって天下の為になるよ。生きてる方が無理だ」
「…門弟の奴らが気狂いになっちまったんだよ。奉行所にも押し掛けて来て、調べが進まねえ」
「どっちにしろ、斬ったお人は菩薩だね」
お銀は京二郎の襟元に手を入れて弄る。彼は何も手を出さない。其処がこの太夫を衷心から惚れさせた男の優しさである。
「馬鹿野郎、人斬りが菩薩かぁ?」
「だって、斬られてるやつみんな悪いやつじゃ無いか。偶には殺さなきゃ世は治らないだろう」
お銀は京二郎の優しさに触れている時が一番好きな事である。勿論此奴も男だ。大体袴が膨らんでいる。が、彼は僧侶の様に肉欲との闘争を繰り返して、今まで自身に手を出して来たことは一度もない。
此の男なら押し倒す位の求め方をしても赦すのに、此方から誘っても絶対に乗ってこない。怒張した下部を掌で弄っても途中で帰ってしまう。口を吸ったことが一度だけあった。それだけである。後は大抵の夜伽の客の文句と、駆け落ちのすゝめ、奉行所の虐めを嘆いて帰る。
「ねぇ、今、按摩の女と住んでるんだろう」
「おめぇの耳にまで入ぇってんのか」
「あんたの事なら地獄耳だよ。惚れたのかい。太夫迄落とした男がめくらなんか連れ込んでさあ」
「まだ其処までいってねえよ。俺はただ宿貸してるだけだ。市さんは犬じゃねえしな。よっぽど奉行の踏ん反り返ってる野郎よりも潔白な奴さ」
「そうかい…」と女郎は落ち込んで嘆いた。
この太夫をかなぐり捨てたいと思えど、京二郎の一等にはなれていない。そんな時にめくら瞽女がこの男と住んでいる、それが一番悔しい。