「市さんよ」
「はい」
ふんどしを叩いて外に吊るしている京二郎と、按摩の稼ぎの手筈を整えて草履を履いた市は、そろそろどこか二人で浅草の観光でもしようかと考えを練り合っていた。
「いつお参りするよ」
「旦那さんは手ェ合わせるのは嫌じゃあござせんか」
「俺だけ合わせなきゃいいだけのことだ。あんたがうまうまっていつも言ってるから、団子でも食わせてやりてえと思ってよ」
「へへへ、すっかりばれてますね」
草履を結び終えて立とうとしたとき、京二郎が正面から覆いかぶさる。
「気ぃつけていっつくんな」
「おお、旦那さん。そんな、単なる日銭稼ぎでさあ」
「不思議と一緒に飯食ってるとあんたが唯の客には見えねえんだよ」
そういうと竹竿を右手に握らせて、彼の両手がその上から包んでいた。
「浅草の観音に負けねえ俺からのおまじないだ。あんたは今日も元気にまっつぐけえってくる」
「ホント、生き仏ってのはいるんでございますね」
「てやんでえ。死んで仏になって人様助けられるかよ」
「へえ、さいざんすね。ではでは、行ってきます」
市はすっかり彼の優しさにほだされて、抱き着き返す。長屋の連中も、こ奴らが
「また帰りが遅かったら、その時は寄り道だと思ってくだされば」
「辻斬りでもあったらたまんねえからな。少し離れたところで笛鳴らしてくれよ。そうすりゃあ安心するから」
「へえ、わかりました」
そういうと、市は猫背気味に竹竿を抱え込んで、何度も京二郎に会釈しながら歩いて行った。
「いつまで一緒に居れますかねぇ、旦那さん……」
「願わくば、
市は、少し大通りに出たあたりで、この感じたことは無い優しさが己に刃として突き刺さってきたことを恐怖として心に留めていた。
あの男と居ると猫と戯れる様に心が安らぐ。
下手すると、やくざから足を洗って共に生きる選択を選ぶことができるかもしれない。
「あっ」
市は思わず足を止めて空を見上げた。瞼の向こうに見えない筈の光を見た。
この空を包んでいる光、そして、それが内側から照らし出しているように暖かみが経絡を通っていく。
「いけねえ、こいつは厄介なもん出てきちまった」
京二郎といるとやたらとこの暖かさが内側から溢れ出して來る。一度も考えたことは無かったことだ。それを、己は思っている。
「やっぱり、あっしも、女ですね。吐いた言葉、返し刃で来ちまった」
「やっぱり女ですか」
「あたぼうよ。此の切り口、蘭方の目も同じこと言ってる」
京二郎と平六、そして兵太郎は、特注で蘭方医に書かせた実検の書を眺めていた。
「切り口の力が、男だったらもっと雑に力で押し切るから傷が深い。こいつはきれいすぎる入刀だ。女で、何処にも免許皆伝をしてねえ太刀筋かもしれない」
「父上、本当にその目立てが真として、どうそ奴を炙り出すおつもりですか」
「目明かしの野郎を片っ端から搔き集めて波止場や博打に送り込む。今は其れしかねえ。女の人斬りはあまた見てきたが、こんなに腕のたつ野郎は
京二郎と兵太郎は珍しく同期した。
二人でいきり立つ父を、眉を顰めて見つめ合った。
「兄上、どこから調べましょうか。私は他の十手持ちと目明しと共に見廻りで抜き打ちに番頭に当たってみます」
「俺も一緒に連れってくれ。宿屋のやつら、最近不貞浪人を匿ってる奴が多い。それも口実で揺すれば、意外と今回の人斬りの素性も吐くかもしれねえ」
「良い見立てです。ついでに仕掛けの素行も一網打尽できるやもしれませぬ」
「おう、頼んだぜ。後は秀泉の門弟のやつらも気を付けろよ。あいつら自分たちで見つけるってうろうろしてやがるからなあ。今は火消しと目明かしの十手持ちが寸ででとめてやがるが、半端に侍の恰好で肩で風切って歩いてやがる」
京二郎は馴染の火消しの"を組の迅五郎"親分から格別の信頼を置かれていた。
迅五郎は火消しの中でも最も人数が多く荒れくれ者が多い"を組"の頭目である。嘗て江戸では奴の名を轟かせれば大抵の悪行は通ってしまうほどの大親分であったが、平六がその統率力を見込んで抱き込んだのである。
その息子で、自分たちと同じようにオンボロ長屋で住んでいる京二郎とは自然と好感が湧く。そして京二郎の出自も全て知っている。
普段侍とは鳶口を手にして喧嘩の限り、流血の限りを引き起こしてきたほど彼にとっては因縁の対象だった。ふんぞり返り、馬上から十手を振り回すだけの代官たちには容赦なく啖呵を切って来た。
その気性の荒さから、同心たちは常に手を焼いてきたが、流石に鬼の平六相手には全く蛇に睨まれた蛙だった。その息子であり、決して気取らず、ふんぞり返らず、侍をたてにしない。
どうも同じ年の息子で"は組"にいる長男の正太郎と重なるので、京二郎の言う事は聞いてしまう。
「おう、京坊!どーしたい」
「よう
威勢のいい大工と鳶の連中が殺気立つようにせっせと働く中、京二郎は弟を引き連れて迅五郎を呼んだ。これから一斉の見廻りに行く。
余りの大々な行進になるが、全く姿かたちも掴めぬ人斬りに不安な緊張が張り詰めている浅草には、仰々しい迄の安心を与える必要があるのだ。そして、人斬りに加担している連中にも、大人数で捜査をしているぞ、という一定の重圧をかけることが出来る。
「平六さんがいよいよ重ぇ腰あげる気になったかい。ははは、あの老中のくそったれどもにごますってたジジイとは偉い違いだ」
「父上の侮辱、赦されると思うなよ。火消しの分際で」
「おうおういい度胸してんじゃねえかこの野郎。てめえみてえなくそがきを散々
ぞろぞろと頭目の啖呵に合わせて、威勢の良い男たちが集まった。
普段から侍だろうが刀を差したやくざだろうが、日ごろから拳を握って生きている連中である。直ぐに火花は飛び散る。
もみあいになる中、京二郎は迅五郎の肩を組んで声を張り上げた。
「やめろやめろ!死にゃ皆仏だ。喧嘩も酒も女もみんなできなくなるぞ」
「ったく、京坊。おめえは血も繋がってねえのに平六さんのまんまだなあ」
「弟は由緒正しい家の出なんだ。鳶と違って冗談通じねえからいけねえや。はっはっは」
大名行列、そして赤穂浪士。其れに並ぶ大行列として、浅草では語られる。
を組の行進。赤橙にをの一文字を刻んだ羽織を纏って、男たちは練り歩いた。
「迅五郎親分と、鬼の平六のせがれだ。あのきちがいの長屋に住んでる馬鹿同心だ」
「デカいツラして歩いてやがる。せめて迅五郎の名前借りてふんぞり
江戸の住人たちは姿の見えぬ人斬りを
「おう、ちょいと失礼するぜ」
「迅五郎の親分さん。今日は一体どーしたんで……」
緊張気味の博打の元締めはへっぴり腰で暖簾をくぐってきた迅五郎を迎えた。
「鎌鼬、何か知らねえか」
「いやあ、さすがにそいつはあっしも判りあぐねます。むしろ知ってるならこっちが教えてもらいてえくらいだ。最近は秀泉様が斬られちまってから、次は俺がやられるかもしれねえって夜分に気もしねえから、こちとら商売上がったりだ」
「そうか、邪魔したね」
「それでは、失礼いたします」
「へえ、按摩さん。気をつけてください」
迅五郎はちょうどその奥から女の按摩が一礼してお見送りされる場面に遭遇した。
最近平六からお銀との策略を阻むように、京二郎が女の按摩とひとつ屋根の下で暮らしていることを聴いていた。平六の愚痴相手になるのは毎度のことだったので、直感して解った。
「おい、めくらの姉ちゃん」
「へえ、あっしですか」
「そうだよ。ちょっと顔貸しな」
迅五郎のしゃがれ声を聴いて、市は直感した。
浅草一帯を取り仕切る大親分、を組の
熊の様なおおきな体躯で、柔術鳶の大得意。
酒屋で暴れた旗本の上段の一振りを、鳶口で受け止め頭を割った故に牢に入った過去の業も聞いている。
「京坊が馴染になってるってな、おめえさんだろう」
「へえ、迅五郎親分さんですか」
「おうよ、いま見廻りだ」