僕の家族は『黒インク』と呼ばれるインクの、人体実験の被験者だった。
その頃にはもう僕の両親は実験で亡くなっていて、その時の僕に残されたのは妹のフリージアのみだった。
実験は辛く苦しいものだったけれど……僕達二人は「フリ」「兄さん」と、互いに寄り添って、生きていたんだ。
しかしある時、フリージアに命の危機に関わるような実験が施されることになったんだ。
それを聞いた僕は、とても正気を保っていられなかった。
僕は隙を見て黒インクが入った注射器を2本奪い取り、それを使用した。
どくんと、僕の心臓が鳴った。
刺した箇所から黒く、黒く、染まっていく。
苦しくて、思わず咳き込んだ。
元の僕の色、紫色が消えていく。
気がつくと、研究所は火の海だった。
大量の被験者や研究員が、ガレキの下や火の向こうで悲鳴をあげ、それぞれ逃げていた。
黒インクにのまれないようにと、必死に意識を保っていたのだが……保つのに必死で周りの状況までは見えていなかったらしい。
これでは意味がないじゃないか。フフッと皮肉めいた笑いが出る。
ふと、ガラスで確認した僕のゲソや目は──黒く染まっていた。
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「フリージアっ!!」
「にぃ……さん……? たす、けて……」
僕はいくつもの部屋を探し出し、やっとの思いで妹を見つけた。
実験台に拘束され、苦しそうにもがく彼女。
妹の左のゲソ先には、すでに黒インクの実験のアトが現れていた。研究員は騒動に驚いて逃げたのか、そこにはいなかった。
僕はそれ見て、また怒りを込み上げてきた。
すぐさま彼女の拘束具を外し、彼女に告げた。
「フリ、よく聞くんだ。今、研究所は火に囲まれている。この騒ぎに紛れて別々に逃げるんだ」
「えっ……そんなのイヤッ!! 兄さんいっしょににげよう? 1人はイヤだよ!!」
「いや、2人で逃げると見つかりやすくなってしまう。それはできない」
「でもっ……!!」
思ったとおり、フリージアは泣いてイヤがる。
僕は彼女に、研究員がぬぎ捨てたであろう黒いダウンをかけながら言い聞かせた。
「フリ。よく聞いてほしい。これはお別れだけど……後で必ず会うための、ほんの少しだけのお別れだ。僕は必ず、後で君を見つける。これは約束だ。いいね?」
「でも…………」
まだフリージアは渋る。
ふと、僕は近くにあったメスを見つけた。迷うことなくそれをつかみ、フリージアに向かって振り下ろした。
「兄さん!?」
フリージアが驚き、ぎゅっと目を閉じた。
ざくりと音が部屋に響く。
僕が切り落としたのは、黒インクに染まった彼女の左ゲソの先。
「“こんなもの”がある世界に、君を置いておきたくないんだ。
君には、外の世界を見てほしい。
自由に生きてほしい……。
僕は大丈夫。だって君の『兄さん』だから。それは君が一番わかってるだろう?」
「兄さん……」
ようやく、フリージアがコクンとうなずいてくれた。
僕はホッと息を吐き、彼女の頭をなでながら言った。
「この部屋を出て、君は左に行くんだ。僕達と同じ被験者だったイカがいっぱいいるから、君の小さい体ならうまくもぐりこめるだろう。
……僕は右に行く。遠まわりにはなるけど、ヒトケが少ないから大丈夫。心配しないでくれ」
「わかった……兄さん、気をつけて」
「あぁ、もちろん。君も気をつけて。時には他のイカをたよるんだよ。でも、たよるイカは選ぶようにね」
トトトッと可愛らしい走り方で、彼女がドアから去っていく。僕はそれを少し笑いながら見送った。
「────さて」
彼女が完全に走っていったのを確認したのち、僕は脱出のために調べておいた研究所の形に思考を走らせる。
───彼女に行かせた左通路には、ここから一番近い入口に繋がっている。
火の粉も少ないし、研究員もあまり使用しない入口だ。よっぽどのことがない限り、彼女は確実に外へ出られるだろう。
一方、右通路は──研究員が多くいるところだ。
逃げる者、火を消そうとしている者、研究を隠すために被験者を処理している者……騒動を起こした僕を探している者もいるだろう。施設の中心にも近いから、火が出ている場所も少なくないはず。
しかし、僕はどうしてもそちらに行かなくてはいけなかった。
妹を───フリージアを、確実に逃がすために。
「フリージア、君は必ず生き残るんだ。君はまだおさない……。僕の分まで、生きてくれ」
近くにあった白衣を乱暴に手に取り、被験者服を隠すように身に付ける。これなら被験者だと気付かれず、研究員達の中心まで行けるだろう。
「さぁ、もうひと暴れだ」
僕は燃え盛る炎に向かって歩き出した。
───自らを、オトリにするために。
◇ ◆ ◇
「────ぐっ……ぅぁ……ハァ…………」
火傷で痛む所を押さえ、僕はふらふらと歩く。
結局、オトリになるために大暴れしたのはいいものの、ブザマに生き残ってしまった。僕には何もないと思っていたけれど、悪運だけはあったらしい。
それにしても、ここはどこだろうか?
高い壁にはさまれ、その間には灰色の空が見え隠れしている。
物は乱暴に置かれ、四角く青い箱からはなんとも言えない臭いがほのかに臭う。
その箱の横には黒や透明、その他色のついた袋がパンパンに膨れ上がり、山のように置かれている。
「…………っ」
もう限界だった僕は、その袋達の上へたおれた。
ドサっと、小さくはない音が出た。
急に、今まで冷たい風が僕の左ほほを突き刺していたことに気づいた。
ほほに残る傷跡はズキズキと痛み、当時の記憶を否応にも思い出させる。
これは……ほほから胸にかけて残る実験のアトか。確か『ていおん実験だ』と、研究員どもが言ってたっけ。
あれは痛くて……寒かったな。
寒い部屋に閉じ込められて、指の先から体が凍っていく感覚がして、何度「助けて」と叫んでも、無視をされて。フリージアの声も、どんどん遠くなっていって……。
結局、いつも本当に意識が遠のく直前に出されて、体の色んな所を調べられて、アイツらが満足したらポイッと僕たちの部屋に放り込まれたっけ。
フリージアにはいつも「兄さん! 兄さん!」って、心配をかけさせてしまった。
僕はもう、ここで力尽きるのだろう。最後にわかった悪運も、もうここまでだ。フリージアには申し訳ないことをした。
最後に彼女へ送った言葉がウソ、だなんて。
まぶたがどんどん重くなる。僕のキライな黒色が、世界を閉じていく。
あこがれていた外の世界も、わかってはいたが想像よりずっとキレイなものじゃなかった。
空はキレイな青色ではなく、灰色で。
花の気持ちいいニオイはなく、ツンとイヤなニオイが僕を囲む。
緑豊かな草原なぞなく、あるのは研究所と同じようにそびえ立つ白の壁。まぁ空が見える分、研究所よりはマシだけど。
絵本の中なんて、所詮は夢物語だった。
あぁ、初めて見た空の色がこんな──イヤな色、なんて───
そこで僕は完全に意識を手放した。
最後に「……誰?」という、ささやくように静かな声が、聞こえた気がした