(それにしても……)
辺りが段々と暗闇に染まっていく中、リクは約一か月前、医者から聞いた言葉を思い出していた。
『前回と比べ、黒インクの浸透率が上がっています。身体を酷使したせいで、黒インクに対する免疫が下がってしまったのでしょう。
とはいえ微々たる上昇ですし、彼は生まれつき黒インクを持っている子です。ですので、そこまで危険な状態では無いはずですが……。
なにしろ黒インクについては不明瞭な部分が多い代物です。私でも言い切ることが出来ません。
充分に気をつけて見てあげてください』
『そうですか……ありがとうございます。いつもすみませんね、先生』
『いやいや、礼には及びませんよ。これが私の仕事ですし、リクくんには特にいつも世話になってますしね』
『ハハッ、そう言っていただけると幸いです。
……請求書はバトロイカ社にお願いしますね』
『もちろん、わかってますよ。それにしても──』
「『黒インクのアザはなぜツル状になるのか』、か……」
あの医者が言っていたことを反芻する。
今回、黒インクの浸透率が上がったことで、シオンの手先から両腕にかけてツル状の黒いアザが浮かんでいた。
仕事柄、リクはシオンのように黒インクを元から持っているヒト達にはよく会っていた。リクの主な仕事が、そういった黒インクに関わるヒトをサポートすることだからだ。黒インクについてはほとんど分かってはいないが、種族や年齢に関係なく、共通する点がいくつかある。
その一つが、「ある一定の浸透率を超すと、ツル状の黒いアザが現れる」という事だった。
『浸透率』とは、そのヒトの体に対する『黒インクの侵食率』と言い換えてもよい。
特にイカ族やタコ族はインクに染まるという特性を持っているため、浸透率が比較的高くなりやすく、身体の状態によって浸透率が変動しやすいという傾向がある。
(そのアザが体に現れたということは、もう黒インクは本格的にシオンの一部になったということだ。
これから一生、黒インクはあの子の中で蝕んでいくだろう。
まさにツルが壁を伝って伸びていくように……)
リクはギリッと奥歯を噛み締めた。
あの日病室の外で聞いた、息子に向かって悲痛な声で謝る親友の声を思い出す。
こうなることはわかっていた。
仕方の無い事だとわかっている。
親友は被害者で、何も悪くないこと。
自分も仕事があるため、彼の息子に付きっきりになる訳にはいかないこと。
でも、それでも───
「リ──────ク、さんっ!」
「うわっびっくりしたぁ!? フリージア、いつの間に!?」
突如背中を強く叩かれ、リクは驚いて肩をビクつかせる。
後ろにいたのはちょうど待ち人だったフリージア。シオンの叔母で、親友の妹だった。
「けっこう前から居ましたよ? でもリクさん気難しい顔で考え込んでるので……イタズラしたくなっちゃいました」
えへへと人懐っこい笑顔で笑う彼女。
かつて兄の後ろに隠れてオドオドしていた面影は、今はもうどこにも無い。
リクはそのことに口元をふっと緩ませた。
「久しぶりの休暇はどうだったか? アーティやシオン達には会えたか?」
「もちろんですよ! 兄さんもカイさんも相変わらず幸せそうだったし、シオンくんもシエロちゃんもかわいくて……特にシオンくんなんか、兄さんそっくりになってきてて。兄さんの小さいころ思い出すなぁって」
「そっかそっか。良かったなぁ」
周りの静かな雰囲気に反して、いつもよりテンション高めで喋るフリージア。彼女にとって一番大切なヒト達なのがよくわかる。
「ありがとうございます、リクさん。リクさんのおかげで、すごく楽しい日々でした!」
「別にかまわねぇって。なんならもっと休暇取っててもよかったんだぞ? お前は普段働きすぎなんだから」
「それを言うならリクさんもでしょ。休暇取っても、仕事関連で会った子達の様子見に行ってるじゃないですか。
カイさんに会いに行ったり、奥さんや娘さんと遊びに行ったらいいのに」
「カ、カイはともかく……家族とはちゃんと一緒に過ごしてるよ。
けど妻も仕事が忙しいそうだし、娘は最近バトルに明け暮れてて、なかなか時間がな……」
「そんな言い訳して……そんなこと言ってたら家族と離れ離れになっちゃいますよ!
この前奥さん、『うちの夫は休みの日も仕事のことばっかだー』って愚痴言ってましたし」
「ちょっと待てフリージア。愚痴ってなんだ!? というかいつ知り合ったんだよ……!?」
驚愕の事実に驚き、頭を抱えるリク。それを見てふふふっと笑うフリージア。
和やかな雰囲気がそこに流れていた。
「じゃあお話はここまでにして─────それで? 次のお仕事はなんですか?」
一転して、フリージアがピリッと雰囲気を変えた。
「─────あぁ……コレだよ」
リクが茶色の封筒を手渡した。
フリージアは中身を取り出し、そこに書かれている内容を一瞥する。
「ふ──ーん。要するに、ここにいるヤツらを捕まえてくればいいんですね?」
「端的に言えばそうだな」
「でも、どうせコイツらも外れですよ。何考えてるから知りませんけど、最近あの憎たらしいアイツら見当たりませんし」
「昔フリージアとアーティを研究してた奴らか?
確かに近頃見ねぇけど、そういう時に限って何か企んでる時だよ。警戒してて損はない」
「それは、その通りですけど。いい加減アイツらも諦めてくれませんかね。兄さんのおかげで痛い目見たはずなのに、使い捨ての下っ端を使ってまでまだ狙ってくるなんて」
ぶつぶつと文句をいうフリージア。それを見て、リクは苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
「なぁフリージア……無茶はしないでくれよ。お前になんかあったら、アーティに俺が怒られちまう」
「大丈夫ですよ。だって兄さん、このこと知らないし」
「そういう問題じゃなくてなぁ……」
はぁと呆れたように頭を掻くリク。
「──リクさん、心配してくれているのは感謝してます。でも、これは私が選んだ道なんです。私が唯一、兄さん達のために出来ることなんです。
私はもう、守られるだけの存在じゃない。
あの時兄さんが命をかけて守ってくれたように……今度は私が、兄さん達を守らないと」
真っ直ぐな瞳でリクに宣言するフリージア。
彼女の瞳は太陽のように赤く、信念で燃えていた。
それはリクがよく知っている瞳のようで、でも全く違う決意の瞳だった。
「──お前ら、ホントよく似てるよ。どうしてこうも俺の周りは、ヒトの言うこと聞かない頑固者ばかりなんだろうな」
「リクさんがそれ言うんですか?」
「ハハハ……でもフリージアもアーティも、カイも。ホントにスゲェやつだよ。俺なんか、足元にも及ばない。
────お前らに会えて、本当に良かった」
「…………とにかく、私はもう行きますね」
「おう! 悪いけど、よろしく頼むな」
歩き出すフリージアに向かって手を挙げ、リクはその背中を見送る。
「───私からすれば、リクさんの方がスゴいヒトだと思いますけどね」
聞こえないように、ぼそっとフリージアは呟いた。
得体の知れない兄さんを、無条件に信用してくれて。
そういう流れだったとはいえ、兄さん達を守るために一緒にバトロイカ社に入ってくれて。
いつも見えないところで私達を支えて、守ってくれて……。
私や兄さん達では到底出来ない仕事だ。無条件でヒトを信頼し、信頼されるリクさんだからこそ、成せる仕事だ。
このヒトがいなかったら、きっと私や兄さん達はこんなに心穏やかに過ごせていないはず。
「一番優しすぎるんですよ、リクさんは」
そうこぼした一言を電灯の下に置いて、フリージアは再度暗闇に紛れていった。
紛れて見えなくなった背中を、リクはいつまでも見つめて微笑んでいた。