葛西 駿は、実に清々しい気分で走っていた。
まず、目の前を走る人間がいない。これが実に良い。目障りな背中も跳ね返ってくる砂利も無い。見通しが良くすっきりしていて、前方にいる観客の全員が自分だけを称賛の眼差しで見つめてくる。
この感覚が、葛西は何よりも好きだった。
さらに気分のいいことに、後ろから迫ってくる声も音もない。発情した犬のような荒くむさ苦しい息遣いも、どたどたと耳障りな地面を蹴る音も聞こえない。せっかくの清々しい気分も耳が不快になればその魅力は半減してしまうが、今日はそれが全くないというのが実に素晴らしかった。
その上、さらに。
この後のお楽しみを想像して、葛西はにやりと底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
決闘の賞品、可愛い女の子たちとのデート権。元カノである上村はもちろん、あの場にいた他の子全員が葛西のお眼鏡にかなうほどに可愛かった。特に、今まで同じ学年にいたことに気づかなかったのが不思議なくらいに可愛い子。あの子と一緒にデートができるだなんて、まさに夢のような話である。
元カノである上村がダサくてイケてない地味な男とつるんでいると聞いた時には、元カレである自分の品位も汚されたようですさまじく立腹したものだが、終わってみれば何もかもが自分にとって有利なように事が進んでいる。自分は勝利の女神に愛されているのだと、葛西は本気でそう思えた。
そう、勝利。
この決闘の勝利は、もはや確定したも同然だ。
陸上部の精鋭を集めた連合軍に対し、相手はたかだか「クラスで速い」人間を集めただけの寄せ集め。その上アンカーはあの運動がまるでできないダサい奴と来た。
ここに至るまで、一瞬たりともリードを取られてしまったのは想定外だが、それすら簡単に覆るほどの絶対的な事実。クラスどころか学校全体で見ても味噌っかすレベルのあいつが、陸上県大会レベルの自分に敵うはずがない。
その上、ほんのわずかとはいえ持っていたリードは、他でもない上村が転倒したことできれいさっぱり無くなってしまった。無くなってしまったどころか、逆に大幅なリードを与える結果となってしまっている。
いったいどうすれば、これで負けることができるのか。
──そんな風に、葛西が思っていた時だった。
(……ん?)
おかしいな──と、最初はただ単純にそう思った。
自分に注目しているはずの観客は、なぜだか自分とは別の所を見ているような気がする。自分に対して称賛の眼差しを送ってるはずなのに、どちらかと言えばその眼に浮かんでいるのは驚愕とか驚嘆とか、とにかく想像しているものとは全く別のものだ。
(俺以外を、見ているのか?)
そんなことは、あってはならない。注目されるのは、自分だけでいい。
そう思った直後──葛西は、自分の後ろから猛烈な勢いで迫りくる何かの存在を、確かに感じた。
「ひっ……!?」
それはもう、本能染みたものだったのかもしれない。振り向かずとも、確かにわかる。
圧倒的な力を持った何かが……今この瞬間もなお、首筋から背中にかけて強烈な違和感とプレッシャーを感じさせてくる何かが、自分の背中を追っている。
「なん、なんなんだよ……ッ!?」
葛西は生まれて初めて、試合中に「振り返って」しまった。捕食者に追われる小動物のように、後ろに迫るその恐怖を確かめずにはいられなかったのだ。
そこに、いたのは。
「ッ!?」
馬鹿にしていたはずの人間が。ダサくてイケてなくて見下していたはずの人間が。
名前すらろくに覚えていなかった人間が──表情を一切崩さず、しっかりと自分の背中を捉えている。
「嘘だろ……!」
さっきまでは、こんなプレッシャーなんて感じなかった。さっきまでは、間違いなくあいつはもっと後ろにいた。
なのにもう、ほんのすぐそこまで迫っている。凄まじい勢いで、保っていたはずのリードが削られていく。
そう、速い。速すぎるのだ。こうもはっきりその違いを突き付けられるだなんて、あり得ないはずなのだ。
「嘘だ……! 嘘だ嘘だ嘘だ……!」
規則的な足音。全く乱れていない息遣い。ほんのわずかに乱れた自分の息遣いと地面を蹴るリズムが、本来あり得ないはずの不協和音として葛西の心に痛烈な印象を与える。
綺麗な音に反して、風を切る音がどこまでも凶暴で獰猛なのが、より一層恐ろしさを引き立てていた。
「なんだよ……ッ! なんなんだよ……ッ!」
ハンデは、どれだけあった?
いったいどれだけ、最初の段階で差がついていた?
何をどうすれば、あれだけの差をこうも簡単に埋められる?
──こいつはいったい、どれだけ速いんだ!?
全力疾走。それは、間違いなく葛西が今まで走ってきた中で一番本気になった走りだった。ただただ後ろから迫る恐怖から逃げたいと、ただただ早く楽になりたいという気持ちが呼び起こした、間違いなく今までの葛西の中で一番速い走りだった。
が、それでも。
後ろから迫る音が、どんどん強くなっている。
もう、ほんのすぐそこまで来ていることが、眼でも耳でもない……肌から直接感じ取れた。
「まだ、だ……!」
それでも葛西は、諦めなかった。
最後のコーナーを曲がって、ラストスパートの直線。
これさえ乗り越えれば、こいつから逃げきれる。ここさえ何とかすれば、楽になれる。
そう、今この瞬間だけ死力を尽くして、ゴールテープを切ればいい。
たった数十メートル。たったそれだけであれば、自分もまだ何とか戦える。いいや、後ろの怪物をこのまま置いてけぼりにし、何とかギリギリ一着をもぎ取って見せる。
──そんな葛西の信念と覚悟は。わずかに残った希望の光は。
「え、あ……」
──ゴールテープが無いという絶対的な事実に。アンカーである自分はあともう一周、この化け物と付き合う羽目になるというその事実に打ち砕かれた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
──しょうがねえなあ。
「え……」
何が起こったのか、上村にはわからなかった。
「あ、れ……?」
気づけば、いつの間にか自分の手のひらからバトンが消えてなくなっている。さっきまでは確かに握っていたのに、今はもうその重さを感じることも無い。
最初は、涙で視界がかすんだだけかと思った。だけれども、それだったら手のひらからの感覚は伝わってくるはず。つまり、本当に消えてなくなっているということだ。
そして。
「さき、しま……?」
目の前にいたはずのユウが、どこにもいない。忽然と、夢か幻だったかのように姿が消え去っている。
「あれ……? 咲島どこいった……?」
「さ、さっきまでここにいた……よな?」
どうやらそれは、自分の気のせいなんかではなかったらしい。周りにいるクラスのみんなが、同じように突然に消え去ったユウを探している。
「さっき……しょうがねえな、って……」
そう、上村がつぶやいた時だった。
「きゃっ!?」
「おおっ!?」
一瞬遅れて吹き荒んだ突風。それが、ユウが走り出した時に生じたものだと気づいたのは、この場ではただ一人しかいない。
「ほら! あそこ!」
そのただ一人──この中で唯一ユウの本当の実力を知っていたユリは、満面の笑みでそこを指さした。
「な……咲島ぁぁぁぁ!?」
「は、速……!? な、なにがどうなってやがる……!?」
「ゆ、夢でも見てんのか……!?」
ユウが。あのユウが走っている。それもただ走っているんじゃなくて、凄まじい速度で走っている。その速度は明らかに陸上部のそれを軽く凌駕していて、とても文化部女子とどっこいどっこいの身体能力であるはずの人間とは思えない。
いいや、それどころか。
「え……速いって言うか、ぐんぐん差が縮まっている……!?」
「嘘だろ……!? 葛西は腐っても県大会レベルだぞ……!? それを、あんな……!?」
その走りは、あまりにも速すぎた。変装の名人が陸上の世界選手をユウそっくりに仕立て上げた……と言われてもまだ信じられないくらいに速かった。生身の人間の動きというよりかは、最近流行のプロジェクションマッピングで立体的なCGを見せられていると言ったほうがまだ信じられるというくらいに、その速さは人間離れしていた。
「お……おい! さっきまで葛西とあいつの距離、どれだけあった!?」
「少なくとも半周分はあったぞ!」
半周分。普通のリレーのトラックは一周400mだが、ここはごく普通の公立高校だ。一周はせいぜいが200m程度であることを考えると、その差はだいたい100m程度と言ったところ。
これだけの差があれば。ハンデが100mもあれば。小学生と高校生の勝負ならともかく、同じ高校生同士であれば埋まることのない絶望的な差である。
そのはず、なのに。
「速い……! 速い速い速い! 速すぎんだろあいつ!?」
「どうなってんだよマジで……!?」
絶望的なはずの差が、どんどん埋まっていく。瞬き一つしている間にも差が縮まっていき、今はもう、十分に射程圏内に入っている。そしてそれでなお、ユウの表情はいつもと特に変わらない……息切れをしている様子も無ければ、無理して速度を出しているようにも見えない。
そう、唯々自然体でユウは走っている。ともすれば軽くジョギングしているような印象さえ受けるのに、それが恐ろしく速い。まるで物理法則をガン無視しているかのようなその動きには、ある種の不気味ささえ覚えるほどのものがあった。
「あいつ……全然運動できないんじゃなかったのか……?」
「まさか……ドッジボールの時のアレは、まぐれでも偶然でもない……?」
「でも! それにしたって速すぎるでしょ!? むしろドッジボールよりもこっちのほうがずっと……!!」
上村はもう、何が何だかわからなかった。走っているのは確かに自分が運んだバトンを持っているユウなのに、普段のユウからは全然想像ができない身体能力を見せつけられて、軽く頭が混乱している。いっそ幻覚であればまだ納得できたものの、不思議なことに辺りに満ちる困惑と奇妙な期待の空気は間違いなく本物であった。
「ほらね、やっぱりそうだ!」
「ユーリ、ちゃん?」
そんな中。ユウを焚きつけた張本人は、にっこりと笑って自慢げに胸を張った。
「え……ユーリちゃん、もしかして知ってたの?」
「ううん、まっさかあ。みんなよりも付き合いの短い私が、
葛西とユウの距離はぐんぐん縮まっていく。もう、あと数メートルも無い。ここまでくればもう、その後どうなるかだなんて誰にでもわかる。
「私は単純に……ちょっと、見て見たかっただけなの」
「みてみた、かった?」
「うん! だって……私の応援で、咲島くんだけ本気になってくれなかったんだもの。本気になったらどれだけすごいだろうなって……すっごく気になってたの!」
コーナーを曲がって、最後のラストスパート。腐っても元陸上部の意地か、必死の形相になりながらも、絶対にリードはさせまいと葛西は走る。最後のゴールテープを切るのは自分だと言わんばかりに、前のめりになるようにしてこちらに突っ込んできていた。
──ただし、アンカーが走るのは二周である。そこにはまだ、ゴールテープは張られていない。
「これでようやく、普通に応援できるねえ?」
一週目が終わる直前。ちょうどまさしく、ユリの目の前で。
とうとうユウは、圧倒的に差が開いていたはずの葛西を抜き去った。
「──頑張って、ユウくん」
風を抜き去り、鎌鼬と見まがう勢いで走り抜けていく影。
聞こえていたら、嬉しいなあ──そんな思いを胸に抱き、ユリはその背中に大きな声援を送った。
▲▽▲▽▲▽▲▽
結論から言えば、A組と葛西連合軍の決闘はA組の勝利によって幕を閉じた。ユウは葛西を抜かした後もそのままのペースで走り切り、実にトラック半周分ほどの圧倒的な差をつけてゴールをしたのである。
「さきしまぁ……! ざぎじまぁぁぁ……!!」
「よくやったぞ咲島ぁぁぁぁ!」
「てめえなんだよこのやろう! すげえじゃねえかよこんちくしょう!!」
当然、A組の全員がお祭り騒ぎである。男子も女子も関係なくユウに群がって、ハイタッチはもちろん滾る衝動と興奮の赴くままにバンバンとその背中を叩いている。上村に至っては再び目に涙をいっぱいに浮かべて、泣き縋るようにしてユウの肩を掴んでいた。
「嘘だろあいつ……葛西相手にマジでブッ千切っちまったぞ……!?」
「あいつがスタートした時、トラック半周分葛西が勝ってたんだぞ……!? なのに、終わってみれば逆にトラック半周分の差をつけてあいつが勝っちまった……!」
「単純に考えて、葛西の倍の速さだった……ってことか? あり得るのかよ、そんなの……」
冷静に考えれば、誰にでもわかる。いったいどうして、同じ年代、同じ性別、人種だって同じなのにこうも圧倒的な違いが出てしまったのか。本来なら、同条件の人間同士で倍以上の差が出ることなんて絶対にありえない。
「県大会どころか……世界記録だって普通に超えているんじゃ……?」
「測ってなかったけど……というか、測るまでもなく……」
「……」
ユウの耳には、そんな会話がはっきりと聞こえている。感極まったクラスの面々はともかくとして、さすがに陸上部の連中は騙されてくれるはずもない。これが接戦だったのならまだしも、あれだけはっきりと違いを見せてしまえばもう、言い逃れなんてできるはずがない。
(どーしてこんなこと、しちまったのかなぁ……)
「さきしまぁぁ……!! さきしまぁぁぁ……!!」
「信じてたぜ咲島ァ! ドッジボールの時から、お前はやればできるやつだって!」
ああ、できれば何もかも忘れてクラスの連中とだけ一緒にいたい──そんな、ユウにしてはかなり珍しい思いがむくむくと胸の中で膨れ上がる中、行動したのはユリだった。
「ふっふーん! やっぱりユウくんも男の子だね!」
──何言ってんだお前、とユウは目だけで語って見せた。
──良いから私に任せなさい! とユリはぱちりとウィンクした。
「私の応援であんなに頑張ってくれるだなんて……きゃっ! なんだか恥ずかしいっ!」
「待て待て待て待て、なんでお前、そうなる?」
ぽっと頬を染め、いかにもそれらしく両手を頬にあてて身をくねらせるユリ。ユウはもう、他の面々の前だということも忘れて突っ込んでしまった。
「だって……私、ユウくんが走る直前に応援してあげたじゃん。可愛い女の子の応援があったから、ユウくんは本気で走ってくれたんじゃん」
「いや、それは……」
「──みんなも、私の応援があったら本気で頑張ってくれるよね?」
くるりと後ろを振り返り、ユリはクラスのみんなだけに特別でシークレットなウィンクを送った。
当然、その結果は。
「そりゃそうでしょ! ゆー……じゃない、一色さんの応援があれば誰だって本気になるって!」
「そうだそうだ! むしろそれ以上の理由があるっていうのか!?」
「あの咲島も、この魅力には敵わなかったってことだよなァ! 今日は本当のお前のことをたくさん知れて、俺ァ感激してるぞ!」
「えええー……」
クラスのみんなが挙げた雄叫びに、ユウはほんの少しばかり引いてしまった。ここまでくるともう、アイドルに熱中しているというか、熱狂を通り越して半ばヤバい宗教染みた何かさえ感じてしまう。
「……ほら。私の応援があったからってことにすれば、丸く収まるんだよ?」
だから、それでいいじゃん──と、ユリは悪戯を成功させた子供の様ににこっと笑った。
「さぁ、言って! 可愛い可愛いユーリちゃんの応援のおかげで、俺は頑張れたんだ──って!」
「この野郎……!」
しかしもう、ユウは既に期待に満ちた眼差しに囲まれている。もうどう頑張っても逃げることなんて出来はしない。ここで下手に逃げれば、それこそ有耶無耶にする最後のチャンスを潰してしまうことになる。
つまり、ユウは立ち向かうしかなかった。
「お……俺が、今回勝てたのは……」
「勝てたのは?」
キラキラと目を輝かせるユリ。やっぱりこいつ、睫毛も長くて黙っていれば可愛いのにな……と、ユウはそう思わずにいられなかった。
「……たまたま、追い風が吹いていたからだ」
「……」
「……」
「……」
ああ、これは滑ったな──と、普段ろくにテレビを見ないユウでもはっきりと分かった。
「……えー、あー、聞かなかったことにしてあげるから、もう一回」
「……ユウくん」
「……なんだよ」
みんなに聞こえないように、ユリはこっそり語り掛けた。
「……ホントのところは、どうなの? まさか、泣いてる優香ちゃんに絆されてとか……ユウくんに限って、それはないと……思いたいけど」
ユリ個人にとって、とてもとても大事で超個人的な事情が満載の質問。事と返答の次第によっては、ユリの今後の展開と方針を大きく変えざるを得ない、そんな質問。だからこそユリは、逃げ場のない今この瞬間、多少のリスクに眼を瞑ってでも問い質しておきたかった。
「それは……まあ、ちょっとはあるけど」
「え……ある、の……?」
「むしろアレ見て何も思わないほうがヤバいだろうよ……」
ごほん、とユウは軽く咳払いをした。
「──あいつの顔が、気に食わなかったから」
固まるユリ。その顔をじっくり眺めてから、ユウはにっと悪戯が成功した子供のように笑った。
「それと……理由になってあげるって、言ってくれたから」
「え……」
ユウは、高らかに叫んで拳を突き上げた。
「可愛い女の子に応援されたら、本気出さないワケにはいかねえからなァ!」
──おおおおおお!
陽気で明るいクラスのムードメーカーのように。先ほどまで演じていたそのキャラクター通りのユウの行動に、テンションが最高潮に達したクラスのみんなは簡単に引っ張られた。全員が腹の底から大きな歓声を上げて、競い合うようにして拳を天に突き付けている。
「もう……逃げたなぁ? 私はもっと、本気のユウくんの言葉を聞きたかったんだけど」
「そいつはもう売り切れだ。今日はお前の期待通りに頑張ったんだから、こいつで勘弁してくれよ」
「……しょうがないなあ! 今はこれで、許してあげる!」
その中心にいるのは、他でもないユウ。そんな事実が堪らなく嬉しくなって、ユリはにっこりと心から笑った。
Idle:怠惰
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