アイドルクロージング!   作:ひょうたんふくろう

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46 気迫:前編

 

「さて、これからのことについてだけれど」

 

 某アイドル事務所の、ダンスレッスンスタジオ。四人のアイドルと、そして場違いな一人の男子高校生を前にして、プロデューサーである姫野は教師のような風格を漂わせて言った。

 

「次のライブに向けてのレッスンを強化していきます。段取りを組んでいくにあたってユウくんが現場へ──関係者の目に触れる機会も増えていくことでしょう。だけど、ユウくんがボディガードであるという事実は伏せます。もちろん、例の四階から飛び降りた人だってこともね」

 

 ユウに否はない。元より、なるべく目立ちたくない性分なのだ。だからこそ秘匿できるなら可能な限り秘匿しておきたいし、無暗に騒ぎ立てられるのもできることなら勘弁してほしいというのが本音であった。

 

「そうね、表向きには力仕事担当の雑用バイトかしら。だからあなたたちも、何かあったら適当に話を合わせておいてくれる?」

 

「それは構わないけれども……その建前を使うなら、本当に働いていないと不自然じゃないかい?」

 

「私専属の、ってことにしておくわ。実際、荷物持ちとかそういうパッと動ける力仕事担当が欲しかったところだもの。これならユーリの近くにいても不自然じゃない……ユウくん?」

 

「それが仕事なら。あくまで最優先はボディガードですよね?」

 

「もちろん」

 

 最優先はユリのボディガード。けれどその事実を隠すために……現場にいても不審がられないように、表向きの建前として力仕事担当の専属バイトとして振舞う。ただの男子高校生がそんな美味しすぎるバイトとして雇われるのは少々不自然だが、そこは姫野が信頼と権力をもって何とかするらしい。

 

「ウチの社員なら、そのうち自ずと察する(・・・)でしょう。問題なのは関係会社のほうね。私やユーリがユウくんの近くにいられない時もあるかもしれないし……その時は」

 

「私たちが、出来る限りのサポートをする……ですね」

 

「そういうこと。不自然じゃない程度に咲島くんを使ってくれれば、色々と融通も利くことでしょう」

 

「んー……姫野さん、本当にそれでいいのかなあ? いや、私だって無いとは思うけどさ、それこそボディガードの本当の仕事を考えるなら、下手に隠さずにユーリにつきっきりのほうがいいんじゃないの?」

 

「……ユウくん?」

 

「ヤバいのが近づいたら気配でわかるので、そもそも近づけさせません。もし万が一があったとしても……デカい声を出すなりしてもらえれば、十秒でかけつけます。常識の範囲内でちょっと離れる、くらいだったら問題ないっす」

 

「……だそうよ」

 

「気配って……えっ、気配? マジに言ってる?」

 

「マジなのよ、これが。ユウくんのことは忍者か何かと思ってもらって構わないわ。そうでもなければ……ただの高校生を、こうして雇うことなんてないわよ」

 

「うわーぉ……姫野さんがそういうってことはガチなんだぁ……」

 

 生憎、ユウは忍法なんて大それた技術は持っていない。スパイや映画に出てくるエージェントみたいな活躍をするのも難しいだろう。だけれども、単純な身体能力だけであれば……それらしいこともできるし、もしかするとそれ以上のことも出来ないこともない。

 

「ま、私が知る限り世界で一番頼りになるボディガードよ。もし万が一あなたたちに不測の事態が起きたら、その時は警備員じゃなくユウくんの近くに行きなさい。それこそ、安心して四階から突き落とせるくらいの実力はあるから」

 

「褒められてるんすかね、それ」

 

「もちろん」

 

 ともあれこれで、自己紹介としては十分だろう。現役アイドル本人との面識があれば、もし何かあった時でも当の本人からフォローを入れてもらうことができる。それはある意味、この事務所の社員証よりも強力な証明に成り得るはずだ。社員証などはいくらでも偽造できてしまうかもしれないが、アイドル本人の生の言葉はどうやっても偽造することはできないのだから。

 

「さて、個人としての友好は後で温めてもらうことにして……ユーリ、レッスンの成果はどうなの?」

 

 ある程度話がまとまったとみた姫野が、ここに来て本題に入る。そう、ユウのことは確かに大事なのだが、目下のところ一番重要なのは復帰に向けたユーリのコンディションの方だ。

 

「んー……なんか、自分でもよくわからないんだけど……ちょっと調子、悪いかも」

 

「へえ。あなたがそんな風に自分で言うなんて、よっぽどのことね。……ちょうどいいタイミングかしら?」

 

 にこりと笑った姫野は、ユーリ……ではなく、その隣にいるユウに言葉をかけた。

 

「ユウくん、せっかくだからダンスレッスンに付き合ってちょうだい」

 

「「え」」

 

 声が二重に聞こえたのは、決して気のせいではない。

 

「なんでまた……俺が付き合ってもしょうがないでしょう? 仕事は済んだし、いつも通り帰ろうかなって……」

 

「はぁ……アイドルの生のダンスレッスンよ? それが見られるってすごいことなんだけど」

 

「いや別に……ユリの顔なら、見慣れているし」

 

「「……」」

 

 ──こういう子なのよ、と姫野は三人娘にアイコンタクトを送った。

 ──こういう人なんだよ、とユリも三人娘にアイコンタクトを送った。

 

 一方で三人娘はと言えば、ユウの発言が信じられないとばかりにあんぐりと口を開けている。ちょっと悔しいが今現在一番勢いのあるトップアイドルの秘蔵の練習シーンを見られるチャンスを……それがなくとも可愛い女の子が頑張る姿を見られるチャンスを、よりにもよって男子高校生がとんでもなく軽いノリで断ったのだ。こうなるともう、一体どうすればこのたった一人の男子高校生を振り向かせることができるのか、三人とも想像することはできなかった。

 

「お客さんがいたほうが練習でも気が引き締まるというものよ。それに、ちゃんと普段の状態を知っておかないと異変に気付くこともできないでしょう?」

 

「なるほど、言われてみれば」

 

「あと……レッスンが終わったら、ちょっとした交流会として焼き肉に連れて行ってあげるわ。この前と同じ、チェーン店の食べ放題の所だけれど」

 

「ぜひともお供させてください」

 

「……ユーリ、あんたもしかして焼き肉にコンテンツ力で負けてない? それも高級な焼き肉じゃなくて、チェーンの食べ放題」

 

「うふふ……マリナちゃん、実はこれでもマシな方なの。この前なんて、百円のウィンナーパンに負けそうになったから……」

 

「「……」」

 

 マリナはそっと、ユリの肩を叩いた。ミチルは優しく、ユリのことを抱きしめた。ホタルはすごくドン引きした表情で、目の前にいるこの男子高校生が地球外生命体か何かであるような顔で見つめていた。

 

「……ユウくんの素行については後でたっぷり語ることにしましょう。ユーリ、準備なさい」

 

「あ……は、はい」

 

 姫野の合図で、三人娘がその場から少し距離を取る。ユウもまたそれに倣い、ユリだけが鏡の前に陣取る形となった。たった五人だけしか観客がいない小さなものだが、一応はステージとしての体裁が整っていると言えなくもない。

 

 後はもう、姫野の合図で音楽をかけるだけ。それはユリ自身も分かっているのか、ほぼ無意識で反射的に、体はスタート直前の──イントロが流れる時の構えを取っていた。

 

「ふぅん……ここまで、何かおかしいところはないと思うけど」

 

 長い長いおしゃべりのおかげで、体力は十分に回復している。練習直後は荒れていた呼吸も、今はすっかり元通り。むしろ、汗で体を冷やしていないか、エンジンを温め直した方が良いんじゃないか──そんな心配をした方が良いくらいだ。

 

 そして。

 

「あ……姫野さん、ちょっとタイム……」

 

 この場にいる誰もが注目し、ユリが踊りだすのを待っていたというのに。

 

 その当の本人が、ストップをかけた。

 

「どうしたの? まさか本当に調子が悪いの?」

 

「ううん、そうじゃなくってぇ……その、ちょっと十秒時間下さい」

 

 ぱぁん、とユリは両手で気合を入れるように自らのほっぺを叩いた。そのまましゃがみ込むように蹲って、すーはー、すーはーと深呼吸を数回。

 

「……ユーリちゃん? 本当に大丈夫?」

 

「うん、大丈夫……大丈夫、なんだけど」

 

 もし、ユウに少しでもそういう経験値があったのなら。

 

 抑えた両手の指の間から見えるユリの顔が……びっくりするほど紅潮していたことに気付けただろう。あるいはもっと単純に、その黒髪から覗く耳が真っ赤になっていたことに気付けたかもしれない。

 

「ちょ、その……なんか、すっごく恥ずかしい……っ!」

 

「……なぁマリナ、薄々思っていたんだがね」

 

「うん、間違いなくこれはマジのやつだね。もう茶化すのは無理だよ」

 

「咲島くん……ユーリちゃんにいったい何をしたんだろう……」

 

 幸か不幸か、ユウにはその会話の意味がわからない。あるいはわからないと思い込んでいるだけなのかもしれないが、いずれにせよ、こうもわかりやすいサインであろうと、それを発しているのがアイドルであろうと、「アイドル流のルーティンか何かかな」くらいにしか思っていなかった。

 

「……音楽、かけるから」

 

「──!」

 

 問答無用で始まったミュージック。なんだかんだでさすがはプロというべきか、その音が聞こえた瞬間にユリは飛び跳ねるように立ち上がり、ポーズを決める。顔の紅潮こそまだ残っていたものの、その表情も、その目つきも、真剣さを孕んだ一流アイドルとしてのそれに一瞬で切り替わっていた。

 

 

 ~♪

 

 ~♪・♪!

 

 

 ──すげえなあ。

 

 踊るユリを見て、ユウはシンプルにそう思った。いや、すごすぎて語彙を喪失したと言ったほうが正しいかもしれない。

 

 軽快に流れる音楽のリズムに乗って、体を動かすだけ。確かに激しい動きではあるが、かといってオリンピック選手でもなければできないような動き、というわけではない。そこらの子供でも真似しようと思えば真似できるもので、ユウほどの身体能力があれば、二時間は同じ動きをし続けることができるだろう。 

 

 だけど──ユウには、自分がユリと同じように体を動かせるとは到底思えなかった。

 

 ~♪!

 

 ~♪♪・♪・♪!

 

「おー、良い調子じゃん?」

 

「これを踊ってるのを見るのは初めてだけど……問題ないように見えるね」

 

 腕を動かすだけ。足を跳ね上げるだけ。言葉にするのは難しいけど、なんか腰をくいってやってポーズを決めるだけ。

 

 たったそれだけの動作のはずなのに、ユウは素直にユリのことがすごいと思えた。なにがどうすごいのかは上手く言葉にできないが、とにかく何か凄いのだ。

 

 もし、まったく同じように自分が体を動かしたとしても、きっとこの”何か”を観客に与えることはできないだろう。思わずそれに釘付けになってしまい、目が離せなくなる──いわばこれこそが魅力なのかと、ユウは夢心地の世界でそんなことを考えた。

 

 ~♪

 

 ~♪

 

「転調のところもばっちり……違和感ゼロ、ですね」

 

 こんなときでも、ユリの笑顔はばっちりだ。ただ漫然と体を動かしているのではなく、そのダンスを見えない誰かに見せつけている。自分はここにいるぞ、私だけを見てくれ──と、そんな意志を込めてダンスを踊っているのだ。

 

「──♪」

 

 だから。

 

 時折ぱっちりと目が合って。

 

 自分だけを見つめる熱っぽいまなざしとその笑顔に。

 

「──!?」

 

 柄にもなく心臓がどきりと跳ねてしまうのは。

 

 きっと自意識過剰なことで、そしてアイドルが持つ魔性のせいなのだと、ユウは無理矢理思うことにした。あのウィンクも、あの仕草も、あの表情も……何もかもが、アイドルとしての技術や奥義なのだと、そう自分に言い聞かせた。

 

 だって、そうでもないと。

 

 

 

「──はい、おしまい!」

 

 

 

 そして気づけば、姫野が終了の合図を告げていた。いつの間にかユリはユウの目の前でフィニッシュのポーズを取っており、少しばかり荒くなった呼吸の音がユウの耳にはしっかりと聞こえてくる。

 

 あふれるばかりの魅力的な笑顔はユウの瞳をしっかりと捉えて離さず、こんな練習であっても──練習だからこそ、ユウというたった一人の観客を魅了し尽くしていた。

 

「──やっぱすげえよ、お前」

 

 敬意。

 

 方向性は全く違えど、究められた(すい)の技術を見て。同じく技術を究めた人間の一人として、ユウは自然と拍手を送っていた。

 

 一方で、ユリの方と言えば。

 

「うー……」

 

 ぺこりと観客に向かってお辞儀をした瞬間、その太陽のような笑みを曇らせた。

 

「……やっぱり、さっきよりもなんか変!」

 

 不満を隠そうともせずに、ユリはそう言い切った。ああでもない、こうでもないとフォームを確認しているが、やっぱりどうにもしっくり来ていない様子である。

 

「みんなもわかったでしょ!? なんかこう……なんか変なの!」

 

「そうかあ? 俺はいつもみたいにすげえなあって思ったけど」

 

「んんん……! 嬉しいんだけど、ユウくんにそう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、そうじゃなくってぇ……!」

 

 悔しがりながら嬉しがるという地味に高度なことをやってのけながら、ユリは三人娘にアイコンタクトを送った。

 

「ミチルちゃん!」

 

「いえ……十分、出来ていると思いましたけど……。せいぜいが、仕上げとして最後の詰めをする段階、って感じでしょうか」

 

「ホタルちゃん!」

 

「動きは完璧なように見えたねえ。少なくとも、映像と同じではあるよ」

 

「マリナちゃん!」

 

「ブランクあったし、そのせいじゃない?」

 

 三人ともが、ユリのダンスに問題は無かったと判断した。体の動きも、表情も、リズムにもこれと言っておかしいところはなかったと言っている。ユリが感じているような奇妙な感覚……あるいは言葉に出来ない違和感のようなものも、三人にはまったく見当がつかないとのことだった。

 

「……咲島くんがいるから緊張した、とか?」

 

「それは大丈夫、むしろ恥ずかしいけどやる気はでたし……この感じ、一人でやっていた時もあったから」

 

 ユウが原因ではない。ただ、一人で練習していた時よりも違和感は何となく強くなっている気がする。それを上手く言葉にできないのが、ユリには何とももどかしくてしょうがない。

 

「キミの言うことだ、さすがにただの気のせいだってことは無いだろうけど。しかしこうなるともう、我々にはお手上げかな」

 

「うー……姫野さんは?」

 

 仕事仲間でもわからないのであれば。

 

 次に白羽の矢が立つのは、身近なボスである。

 

「うーん……私もそんなに変わらないと思うけれど。でも、言われてみれば……しいて言うなら、いつもとなんか違うような気もするわね」

 

「それ! それなの! さすが姫野さん!」

 

「……でも、私自身もそれが何なのかわからないわよ? 言われてみてようやく、なんとなくそうかもってだけだし。私の気のせいって可能性の方が強いもの」

 

 同じアイドルの目線から見ても、プロデューサの目線から見てもその正体はわからない。本人ははっきりと違和感を覚えているのに、他者から見るとなにも無いように見える。

 

 こうなるともう、ユリに残された手段は。

 

「ユウくぅん……!」

 

 胸の前で手を組んで。

 

 ちょっぴり目を潤ませた上目遣い──すなわち、一番信頼できる異性へのお願い攻撃であった。

 

「おいおい……俺がダンスのことなんてわかるわけないだろ? ましてや、その道のプロでさえわからないってのに」

 

「なんでもいいから! それに、素人だからこその意見ってのもあるじゃん!」

 

「素人どころか、原始人以下だから困ってるんだが」

 

「それでもいいの! 本当に、ほんのちょっとのことでもいいから!」

 

「う……」

 

 そうまで言われて、必死にお願いされてしまえば。

 

 元々この手のことにはめっぽう弱いユウが、断れるはずもなかった。

 

「あー……その、あくまでただの一例というか、思い付きみたいなものなんだが」

 

「うん!」

 

「──気迫、じゃねえかなあ」

 

「……気迫?」

 

 はて、なんのことかしらん──とユリは小首をかしげる。姫野はもちろん、三人娘の方も首を横に振った。

 

「動きは全く同じなんだろ? なのに何かが違うとしたら、そこに気迫が乗っているかいないかだ。少なくとも、俺の知識の範囲だとそういうことになる」

 

「むむむ……もっとわかりやすく言うと?」

 

「アイは……あー、妹が言うには、【めっちゃノリノリ】とか、【やる気マックス】とか?」

 

「……ますますわからないわね、それ」

 

「俺もそう思うっす」

 

 とはいえ、話した以上は説明するほかない。アイの説明は現代風にアレンジ(?)されているせいでわかりづらいが、そうなる前の本質をユウは理解しているし、そして何よりも──咲島流の基礎技術の一つとして、それを実演することができるのだから。

 

「見せたほうが早いんですけど……ええと、ホタルさん?」

 

「おや、御指名かな」

 

「……ユウくん?」

 

「いや、変な意味はないから……この中で唯一、武道を齧ってますよね。ちょいと付き合ってもらえますか?」

 

「……公式プロフィールには書いてないはずだがね。なんでわかったんだい?」

 

「体の動かし方」

 

「……こりゃホントに、忍者か何かを相手にしていると思った方が良いねえ」

 

 呼び出されたホタルは、ユウの前に立った。いったい何が始まるのかと、他の面々は二人から数歩ほど距離を取る。

 

「ご指摘の通り、私はほんのちょっぴり合気道を齧っている。最低限の護身術程度で、とてもキミに通用するレベルじゃないと思うけど……そう言えば、キミの流派は? 何を嗜んでいるんだい?」

 

「そのまま、咲島流って言うんですけど……まぁそれは置いておくとして」

 

 す、とユウは自分の顔の横に拳を持ってきて──ホタルの顔面を打つ構えを取った。

 

「今から俺が、ゆっくりとパンチをします。もちろん、寸止めしますが……これを、目を瞑らないで受けられますか?」

 

「ゆっくりって、どれくらいだい?」

 

「──これくらい」

 

 ゆっくり。本当にゆっくり。たっぷり五秒もかけて、ユウはホタルの面前にパンチを放った。眼球までの距離にして、およそ拳二個分ほどのところでその動きを止めて、さぁ、どうだと言わんばかりにホタルに視線を送る。

 

「赤ちゃんと遊んでいるのかってくらいにスローモーションだね。それに寸止めというには距離が空き過ぎじゃないかい?」

 

「……瞬き、しましたか?」

 

「するはずないだろう、これくらいで。十分目で追えるスピードだし、届かないってわかりきっている。目を瞑る理由なんてどこにもないね」

 

「……じゃ、この速さなら?」

 

「っ!?」

 

 すごくさりげなく──しかし、さっきよりは早いスピードで。パンチと呼ぶにはあまりに貧弱だが、しかしそこそこの……具体的には、人がビビるには十分なほどの速さをもって、再びユウはホタルの面前で拳を寸止めした。

 

「いや……さすがにこれは瞑っちゃうだろ。当たらないとはわかっていても、反射でそうなっちゃうって」

 

「そうですね、人間の体の仕組みとしてそれは普通のことですよ。逆に目をかっぴらいたままだとしたら、ちょっと危ないかもしれませんね」

 

 そこそこの速さの物が、面前に迫って来る。人間の本能的な反射として、目を瞑るのは当然だ。例え絶対に当たらないと分かっていたとしても、自分の意思とは関係なくそうなってしまうものなのである。

 

「……で? いったいこれが、ユーリの不調とどう関係するんだい? 気迫がどうのって言っていたけれども」

 

「その気迫を今から見せようかと……んん」

 

 頼むから、下手に怖がって引きずらないでくれよ──なんて思いながら、ユウは説明をつづけた。

 

「今から、一回目と同じようにパンチを打ちます。いや、一回目よりもずっと遅いパンチです。だからこれを……最初と同じように、目を開けたまま受けてください」

 

 何言ってんだこいつ、とでも言わんばかりに怪訝そうなホタル。同じくユウが何を言わんとしているのかさっぱりわからないといった表情のギャラリーたち。唯一ユリだけは何か面白いものでも見られるのかとワクワクした表情をしているが、そこにはほんのちょっぴり、嫉妬の炎が混じっていたりする。

 

行きますよ(・・・・・)

 

 あえてわざわざ、声に出して。

 

 そしてユウは──先ほどと同じように、顔の横に拳を構えた。

 

 

 

「──ッ!?」

 

 

 

 その反応は、非常に速やかかつ劇的だった。

 

 ユウが構えた瞬間──まだ動き出してすらいないのに、ホタルはほぼ反射的に、両腕を目の前で交差させて身を守る構えに入っていた。なんだか目の前にいるユウが酷く恐ろしく、巨大なものに見えて、体中から冷や汗がぶわりと噴き出した。

 

「あ、あ……!?」

 

 背中に感じる、非常に不快なゾクゾクとした何か。冷気のようなものが背骨を伝って全身を駆け巡る。

 

「ひっ……!?」

 

 生れてはじめて。

 

 ホタルは全身で鳥肌が立つという、奇妙で得難い体験をした。

 

 

 ──やられ、る。

 

 

 静止しかけた時間。何もかもがゆっくりとなったこの空間。ホタルの生物としての本能がもたらしたその研ぎ澄まされた知覚は、ユウの拳がほんのちょっぴりとだけ……さっきよりもさらに遅いスピードで、わずか1cmばかり前に進んだのを確認した。

 

 

 

「──ぁ」

 

 

 

「……とまぁ、こんな感じっす」

 

 気づけば、ホタルは床にへたりこんでいた。より正確には、後ずさろうとして足がもつれ、よろけて倒れたと言ったほうが正しいだろう。へたりこむならぺたんと可愛らしく女の子座りをしているような感じ……と言うのがアイドルとしての理想だろうが、今のホタルは尻から落ちて──要は、あんまり他人様には見せられない無様な格好になっている。

 

「え……ちょ、ホタル? あんたいったいどうしたの? ……うわっ!? 冷や汗すごっ!?」

 

 何事かとマリナがホタルに近づくも、当のホタルは口をパクパク動かすばかり。その目はユウの右手に釘付けになっており、マリナが体を揺さぶっているのなんてちっとも気にしていない。

 

「咲島くんが、ちょっと拳を動かそうとしただけに見えましたけど……。ホタルちゃん、大袈裟に反応し過ぎでは……? そのせいで自分で足を引っかけて転んじゃった……んですよね?」

 

「いえ、そうじゃないんですけど……立てますか?」

 

「ひッ!?」

 

 たぶん無理だろうなあと思いつつ差し出した手。もちろん、座り込んでしまった彼女を立たせるために差し出したものだが、それを見たホタルはひどく怯え、近くにいたマリナの腰に子供のように抱き着いた。

 

 

 

「ぃや……っ! こない、で……っ!」

 

 

 

 関係者しかいないはずのダンスレッスンスタジオに響く、そんな言葉。一人の女の子が漏らした、小さな悲鳴。はっきりとわかるほどに震えた体に、今にも涙がこぼれ落ちそうな揺らめく瞳。

 

 ──誰がどう見ても、ホタルがユウに怯えているのは明白だった。

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