「へえ……! ここが道場なんだあ……!」
母屋に併設されている、咲島流の道場。普段は専らアイが修練に使っているその場所で、咲島の門下生でもなければ武術を嗜んでいるわけでもない──百人いれば百人が振り返るほど可愛らしいトップアイドルが、キラキラした瞳で辺りを見渡していた。
「なんだろ……由緒正しい剣道場って感じ? 自然と気が引き締まるというか……!」
「ただ古臭いだけだよ。俺も他所の所はよく知らないけど、普通の道場だったらもっといろいろしっかりしてるんじゃないかな」
板張りの、広さだけはそこそこであるものの、それ以外には目立った特徴が無い咲島流の道場。如何にもそれっぽい《咲島流》と書かれた看板(?)が掲げられているほかは、これと言って特徴的なものは無い。しいて言えば、床の一部が妙に凹んでいたり、色が変わっているところがあるくらいだろうか。
ユウからしてみれば、面白くもなんともない場所。普通の女子高生だったら、わざわざこんなところを見学したいなんて思わないはず。だから、いったいどうして──ユリが、ここを見学したいだなんて言い出したのか、ユウにはさっぱり理解できなかった。
「アイちゃんが着ているのは合気道の道着、なのかな? ホタルちゃんが着てたのと似ているような?」
「聞かれてるぞ、アイ」
「う、あ……」
「アイちゃーん」
「ひゃう」
アイは未だに、目の前にユーリがいることが信じられなかった。テレビの中でしか見られないはずのアイドルが、自分の家の道場にいることが信じられなかった。もしかして自分があまりに都合の良い幻覚を見ているだけなのではないかと、本気でそう思ってしまうほどに──その光景は、現実離れしているのだ。
「いくらなんでも驚きすぎだろ……いい加減、しゃんとしろ」
「む、無理だよ……! だって、ユーリちゃんだよ!? 逆に何でおにーちゃんは平気でいられるのさ!?」
「そうだそうだ! アイちゃんの方が一般的な反応なんだぞっ!」
久しぶりのその反応に、最近ちょっぴり自信を失いかけていたユリはすっかり得意になる。妹というある意味では一番強力な賛同者を得られたことをいいことに、ユウがどれだけ恵まれた環境にいるのか、ここぞとばかりにわからせる態勢に入った。
「友達連れてきただけなんだから、そんな驚くことでもないだろうよ……」
「それ! まずそれがおかしいの! おにーちゃんが友達を連れてきたってこともそうだし、その友達がユーリちゃんなんだもん! あたし、そこんところ全然聞いてないんですけど!?」
「そりゃあそうだ、言ってねえもん」
「うわあ、酷いお兄ちゃんだ。というか、やっぱり友達連れてきたことって無かったんだね……あれっ? ということは、もしかして……」
「うん?」
「……私が、初めて?」
「…………まぁ、そうなる」
ユウが友達を連れてきたのも。ユウが女の子を連れてきたのも。そして、咲島流ではない人間がこの道場に踏み入ったのも。全部全部、ユリが初めてだったりする。これがゲームだったら、今頃凄まじい勢いで実績獲得のアナウンスが表示されていたことだろう。
「……うひひ」
「なんだよオイ、ずいぶんご機嫌だな」
「そりゃあね!」
「……まぁいい。道着の話に戻るけど、一応体裁として合気道の道着を採用してはいる。ただ、あくまでポーズってだけで厳密に決まってるわけじゃない。実用性はともかくとして、エプロン姿だろうが全裸だろうが気にしないってのがウチの流派だ」
ちょうど今まさに、アイが着用しているのは合気道の道着だ。柔道着にも似ている真っ白な上衣と、下衣に真っ黒な袴を着用するといういたってオーソドックスなものである。服装は決まっていないとはいえ、なんだかんだでそれ用に作られていて実用的だから、事実上の正装になっているというだけだ。
「あっ、そうなんだ……じゃあ、ユウくんも道着に着替えてくれたりは……」
「なぜ?」
「わ、私がユウくんの道着姿を見てみたいの……!」
単純な興味なのか、それとももっと別の意味があるのか。ほんのちょっぴり頬を染め、目をキラキラと輝かせるユリを見て──ユウは、とてもとても判断に困った。反応に困ったと言っても良い。ことユリに限って言うならば、それが冗談なのか本気なのか、マジでユウには見分けがつかないのだ。
──もっと言えば、気恥ずかしさと照れくささもあるわけで。
「そこにいるだろ、俺よりも道着姿が似合うヤツ」
ユウよりも高い身長。ユウよりもがっしりとした筋肉質な体つき。出来の悪いコラ画像のような見た目の妹を指すことで、ユウは状況からの逃走を図った。
「おうアイ、見せつけてやれ。お前のその渾身の晴れ着姿を」
「ユーリちゃん……!」
兄に言われるがまま、ユリの目の前に立ったアイは。
「サインください……! この背中の所に思いっきり……! できれば、『アイちゃんへ』って書いてほしい……!」
己が欲望のまま、ユーリに懇願した。
「お前……」
「だって! こんな機会一生あるはずないもん! 後悔するくらいなら、あたしは今を全力で生きたい!」
「お、大袈裟だってば……サインくらい、いくらでも書いてあげるから」
「やったああああああ!」
ホレ見ろどうだ、と言わんばかりにユリはユウに視線を送る。これこそが本来の自分の魅力なのだ、少しはわかってほしい──とアイコンタクトを送った。
問題があるとすれば……ユリの魅力云々以前に、ユウがサインに対して興味関心を抱けない人間だったことだろう。そんな人間にサインの素晴らしさを語ったところで、意味なんてあるはずがない。
「んもう……ホント、ちょっとは興味持ってよ……。あっ、今更だけど本当に道着に書いちゃっていいの? こう、神聖なものだったりしない?」
「さっきも言った通り、正装はウチには存在しない。それに、ここでは
「そうそう! だからそのあたりは気にしなくて大丈夫……あっ!?」
それに気づいて、アイは絶望した。
「ど、どうしよ……!? このサインペン、水性だ……!? 洗濯したら、ううん、汗かいただけでも落ちちゃう……!?」
「んー? じゃあ、今度来たときは油性のペンで書いてあげるね。これも落ちちゃったら書き直すから、その時は呼んで!」
「え……!? い、いいの……!?」
「もちろん!」
良いも何も、ユリとしては願ったり叶ったりだったりする。合法的(?)な口実は、あればあるだけ困らない。再び来れる機会なんて次にいつあるのかまるで分らない以上、ユリは今日のこの訪問をただ楽しむだけで終わらせる気はさらさらなかった。
「それに、アイちゃんはサインだけで満足できるのかなあ? 一緒に写真撮ったりとか、もっといろいろやりたくない?」
「や、やりたい……っ!」
「だよね? だから、その代わりと言ったらなんだけど……ちょっと、ここでお兄ちゃんと──ユウくんと、試合を見せてくれたりしないかな?」
「えっ」
試合。道場なのだからそれが行われるのは当たり前で、そしてここには都合の良いことに同じ流派の二人がいる。ちょいと腕を見せ合うのには──咲島流の実態を見てもらうのにこれほど都合の良いことは無く、そして何より、試合をするのであれば道着に着替える必要がある。
そう、道着姿。ユリは試合を見たいのではなく──いや、それ自体は間違いではないのだが、それ以上に、ユウの道着姿を見たいのだ。
──だって、ユリは自らの正装であるアイドルの衣装姿を見せている。なのに、ユウは一切その類の衣装を見せていない。それはなんだかちょっぴり不公平だと、ユリにはそう思えてならないのだ。
「本当に、軽く手合わせするだけでいいの。アイちゃんのカッコいい所、見てみたいなあって……ダメ、かな?」
ちょっぴり卑怯かも──という自覚を持ちつつも、ユリはこの作戦が成功することに確信を抱いた。
が、しかし。
「ごめん、ユーリちゃんの頼みでも……! ユーリちゃんの頼みだからこそ、できない……ッ!」
アイから返ってきたのは、苦悶に満ちた予想外の答えであった。
「えっ……り、理由を教えてくれたりとか……やっぱり、お兄ちゃんの方が強いから?」
「あはは……そんなの、比べる気にもならないほど差があるもん……。あたしが五人いて、ようやく利き手を縛ったお兄ちゃんに足を使わせられるかどうかって所だし……」
「えっ」
「──それとウチの流派の試合は、ちょっと刺激が強すぎるからだな」
「えっ」
咲島流は武道ではなく武術である。道を極める手段として武を修めているのではなく、効率よく相手を叩きのめすために武を修めているのである。だから、試合と言えども容赦はしないし、けっこうなケガをすることも普通の武道以上に多かったりする。
「ここ、剣道の道場みたいに板張りだろ? 合気道や柔道の道場だったら普通は畳だ。少なくとも板張りじゃない。こんなところで相手を投げたら、ダメージがデカすぎる」
「え……でも、ユウくんってなんか投げたりしてなかった?」
「咲島流において、倒れることはそのまま死を意味する。倒れた段階で終わりだから、倒れないように修練を積む。故に床を気にする理由がないわけで……その、遊びに来た女の子に見せられるような光景じゃない、かな」
いくらユウでも、さすがにそのあたりの常識は弁えているつもりだ。少なくとも、ただ遊びに来ただけの女の子にそんなバイオレンスな光景を見せるだなんて、普通の人間の感性から逸脱した行いだろう。
「さ、ここはもういいだろ。さっさと母屋に戻ろうぜ……アイも、急いで着替えて来いよ。卵焼きの作り方のレクチャー、お願いしたいんだ」
「あっ、そうだった……! あたし、ユーリちゃんと一緒に台所に立てるんだった……っ!」
そして、なによりも。
(道着姿が見たい、か……そりゃ、無理な話だよ)
──ユウはもう、一年以上は道着に袖を通していないのだ。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「なるほど……! あの卵焼き、黄身だけしか使ってなかったのか……!」
「う、うん……。その、あたしが白身だけの卵焼きが好きだから、お兄ちゃんのは余った黄身だけで焼いたやつにしてるの」
咲島家の台所にて、ユリはその極秘情報を心のメモ帳にしっかりと書き込んでいく。和風だしを使ったシンプルな卵焼きなのになぜ味が違ったのか……その理由は、ふたを開けてみればいたって単純なものだった。
「でも偉いねえ、アイちゃんは。お兄ちゃんのためにお弁当を作ってあげるだなんて」
「そ、そうかなあ。あたし、自分が食べたいものだけ入れたいからやってるだけで……お兄ちゃんのは本当についでだし」
そうは言っても、それをほぼ毎日続けるのはなかなか大変なんじゃないだろうかとユリは思う。ユリの知っているユウのお弁当箱はとても大きくて、レパートリーを考えないにしても、あの容量を埋めきるのは結構大変なことだ。決して「ついで」で済ませられるようなものではない。
「ほら、その……あたし、見ての通りの体格だから……」
ちょっと恥ずかしそうな……あるいは、後ろめたそうな表情。なるほど確かに、アイは初見だとちょっとびっくりするような体付きをしている。身長は明らかに自分よりも頭二つは大きくて、そして腕の肉付きはまさしくユリ好みのたくましいものだ。肩幅だってすごく頼りがいがある感じで……さっき抱きしめたあの感触を信じるならば、きっと腹筋だってバキバキだろう。
端的に言えば、アイは成人男性もびっくりな、プロレスラーの如き体格をしているのだ。顔を隠して体だけを見た時、それが女子高生だと言い当てられる人間はきっといない。
「私は好きだけどな、アイちゃんのこと。すっごく頼りがいがありそうだし……それに」
「そ、それに?」
「──作ったご飯、たくさん食べてくれそうだもの!」
ユリは料理が好きだ。もっと言えば、自分が作った料理を美味しい、美味しいと他人が嬉しそうに食べてくれる姿が好きだ。だから、例えアイが女子高生らしからぬ肉体をしていようと全然気にしないどころか、むしろばっちこいって感じなのである。
「卵焼き、作り方教えてくれてありがとね! ……お礼と言ったらなんだけど、他のメニューは私が腕を振るっちゃおうと思います!」
「ほああ……! ユーリちゃんの手料理……! ほ、本当にいいの……!?」
「もっちろん! ちなみに、何かリクエストはある? たいていの物は作れるつもりだけど……」
「ユーリがちゃんが作ってくれるのなら、何でも! ……あ、でも、しいて言うならユーリちゃんの作った卵焼きも食べて見たくて、あと」
「ふむふむ?」
卵焼きだけじゃちょっとおかずが寂しいな──なんて思っていたユリに、アイは自身でも気づかずにとんでもない爆弾を投下した。
「いつぞや、おにーちゃんが貰ってたクッキーも食べたい……。あれ、おにーちゃんが独り占めしちゃったの……」
「ぴゃ」
クッキー。たしかにユリは一度だけ、ユウにクッキーを焼いて渡したことがある。あの時はまだただのジョギング仲間という関係だったはず──きっとそうに違いなくて、単純に、あの雨の日のお礼として渡しただけのはずのものだ。
「ひ、独り占めしちゃったの? ユウくんが?」
「うん……女の子から貰ったものだって、嬉しそうに」
「おうコラ、聞こえてんぞ。あることないこと吹き込んでんじゃねえ」
今の方から聞こえてきた声。そこまで大きな声ではなかったというのに、ユウにはしっかり聞こえていたらしい。結構食い気味に割り込んできたことから、もしかすると自分たちの会話に聞き耳を立てていたのかもしれない──なんて、ユリは思った。
「なんだよぉ、一人で全部食べたのはホントでしょお? ユーリちゃんから貰ったものだって自分でも言ってたじゃん!」
「あの頃はまだ、アイドルだとは知らなかったって言ってるだろ。それと、お前の言い方は誤解を招く言い方なんだよ」
「……でも、女の子から貰ったってことで嬉しそうにしてたのはマジだもんね。美味しいって言ってたのもホントだからね」
どうせお礼の一つもまともに言えてないんでしょ、とアイは確信を抱いているかのように呟く。ユリとしてはもう、既にこの段階で胸がいっぱいで自分でもよくわからないドキドキが止まらなかった。
「ふんだ。だいたい、気になるならこっちに来て混ざればいいのに。それができないから座って待ってるだけだなんて……」
──気になってるんだあ。
いったい何がどう気になってるのか。妹と自分が一緒にいると何か問題でもあるのか。それとももしかして、初めて見せたエプロン姿が気になっているのか。いやいや、ここはもっと大胆に、
「ま、お兄ちゃんのことはもういいや……それでユーリちゃん」
「なっ、なぁに?」
「もし、聞いてもらえるなら……あたし、オムライスも食べてみたい」
「……うん、任せて!」
卵焼きとオムライスで被ってしまうと言えばそれまでだが、ほかならぬアイの頼みだ。ユリとしてはその願いを聞くことはやぶさかではないし、おそらくほとんど食べたことがないであろうユウにそれを振舞えるまたとない機会でもある。
「よーし! じゃあオムライスをメインに、食後のおやつにクッキーも作っちゃうね!」
「ひゃああ……! 本当に夢みたいだあ……!」
卵焼きはいつも通り作ればいい。ユリが作るそれは特別何か工夫をしているわけでもないから、この場にある材料で問題なく作ることができる。例え他所の家の台所であろうと、その程度は何の障害にもならない。
「んー……これだと材料ちょっと余っちゃうかも。……アイちゃん、好きな食べ物ってある?」
オムライス用のチキンライスの仕込みをしながら、ユリは隣にいるアイに問いかけた。
「う……その、高たんぱく低カロリーなやつ」
「あはは! アイちゃんらしいや! ……でも、さすがに今の材料じゃちょっと厳しいから、今度何か考えておくね」
鶏肉、ブロッコリー、ちくわ……と、ユリの頭の中に高たんぱく低カロリーと言われる食材が浮かび上がってくる。いくつか挙がったところでそれらがユウのお弁当によく入っているおかずであることに気付き、そしてなぜユウの卵焼きが卵黄のみなのかも理解してしまった。
「でも嬉しいなあ! ユーリちゃんがあたしの食べたいものを聞いてくれるだなんて! ……その、言って良いのかわかんないんだけど」
「ん、なぁに?」
「あたしね……ユーリちゃんみたいな、お姉ちゃんが欲しかったの! だからいま、あたしすっごくうれしい!」
「アイちゃん……!」
もし、左手でフライパンを持っていなかったら。もし、右手がフリーだったのなら。きっと自分は、隣にいるこの可愛い妹を全力で抱きしめていただろうとユリは思った。
「ふふっ! いいよ、お姉ちゃんって呼んでも!」
穏やかで、和やかで、とても安らぐ雰囲気。ただ普通に喋っているだけなのに、ただ普通に料理しているだけなのに、なんかもうすごく楽しい。今日初めて会ったとは思えないくらいに会話が弾むし、なんならこのまま一生お話ししていてもいいくらい。
おそらく、アイも同じように感じていたのだろう。だからこそ──ちょっと踏み込んだ質問が来るのも、流れとしてはそこまでおかしいことではなかった。
「ねえ、ユーリちゃん……気になってたんだけど」
「なぁに?」
「ユーリちゃんとおにーちゃんって、どういう関係なの……?」
「ふむ」
ドキ、と心臓が一瞬跳ね上がって。されども、”お姉ちゃん”として無様な姿を見せられないユリは、あくまで年上として──自信たっぷりに、逆に聞き返して見せた。
「おにーちゃんは、何て言ってるの?」
「……何にも教えてくれないの。ジョギング仲間って最初は教えられて、その後は……あのライブの後は、何も知らないって」
「ほほお……」
実際は知らないどころか、クラスメイトとして、ボディガードとしてほぼ毎日会っていた。休日は事務所でレッスンに付き合ってもらっていたわけだから、どう考えても浅からぬ関係と言って良い。
「そうだよ……今更だけど、クラスメイトのこともボディガードのことも、さっきちょろっと話してくれただけ……! ユーリちゃんに関する話、おにーちゃん何にも教えてくれてない……! 本当は毎日会ってたって言うのに!」
「まぁ、そこは一応守秘義務があるみたいだし……」
──男の子って、家族にガールフレンドの話ってするのかなあ。
きっと、恥ずかしがってできなかっただけだとユリは結論付けた。少なくともユリの知っているユウは、そういうことにはオープンじゃない、結構な奥手であるはずだった。
「んー……アイちゃんには、どういう関係に見える? ううん、どういう関係がいいのかな?」
相手が奥手であるならば。
ここは一つ、ちょっと大胆に攻め込んでみよう。大胆に、外堀の方から攻略していこうとユリは作戦を少しばかり変更した。
「ど、どうって……! そ、それはやっぱり……!」
「んー? 言うだけならタダだぞぉ?」
「お、畏れ多すぎて言えない……! せめて、おにーちゃんがもっとまともなファッションセンスと人付き合いを覚えてからじゃないと……!」
よっしゃ、とユリは心の中でガッツポーズをした。
この反応、なかなかに悪くない。悪くないどころか、想定しうる限りほぼ最高の物と言って良い。
「ユウくーん、私達ってどういう関係? アイちゃんに教えて上げちゃって!」
「仕事の関係」
だから──間髪入れずに返ってきたその答えを聞いても、ユリに動揺はない。むしろ、食い気味に返してくる分気になってるんだろうなって確信がどんどん強くなっていく。
「んもう、照れちゃってえ! 本当のこと、言って良いのに!」
「本当のことしか言ってねえだろうよ……」
いつかきっと、必ず。向こうのからそれを言わせてやる──と、ユリは決意を新たにする。周りに邪魔をする人間はおらず、環境も悪くないとあれば、あとはもう……自分自身の努力だけ。そしてユリは、人を振り向かせることに関してはちょっと自信があった。
「ねえ、ユウくん」
フライパンをゆすりながら。ずっと向こうにいるはずのユウに、ユリは上機嫌で呼びかけた。
「もう一品、何か作れそうなんだけど……何がいい?」
「……そうだなあ」
たっぷりたっぷり考えて──そして、ユウから返ってきたのは。
「味噌汁が飲みたい」
思わずドキッとしてしまうそのチョイス。この状況の中、否が応でも連想してしまうのは一つしかなくて……そしておそらく、他意は全くないであろうということもユリは分かっている。どうせ、せっかくだから汁物もつけたいだとか、そう言った理由でしかないのだ。
「……ホント、そういうとこだぞ」
それでも。
何もかもが、堪らなく楽しくて幸せで……ドキドキする。だから、いましばらくはこのドキドキを楽しみたいと、ユリは思ってしまった。
「それは、毎日飲みたいって遠回しに言ってるのかなあ?」
「飲んでみないと分からねえなあ」
「……可能性は、あるんだ?」
「……こ、言葉の綾だ」
こんな些細なやり取りすらも楽しい。きっといま、自分は妹に見せるにはちょっと恥ずかしい顔をしているのかも──なんて思いながら、ユリはとびっきり美味しい最高のお味噌汁を作るべく、準備を進めていく。
(……あれ?)
だから。
あまりにも、楽しすぎたから。
(……食器の数が、なんか少ない?)
──その違和感に言及する機会は、最後まで訪れなかった。