観客席に、例えようのない不安が渦巻いていた。
「設備不良」のアナウンスが入ってからおよそ十五分。あれから一部の照明は戻ったものの、未だにライブが再開する気配はない。明るくも暗くもないこの会場内で目立つのは、てのひらサイズの小さな四角い明かり──つまりは、観客たちが持つスマホの画面の明かりだ。
スマホ。本来であれば、ライブ中に見るようなものではない。高いお金を払って憧れの人物に会いに来たというのに、いつでも見られるくだらないニュースやSNSを確認するのなんて愚の骨頂だ。これが無理やり付き合わされて来ているというのであればまだしも、ここに居るのは入手困難なチケットの争奪戦争を勝ち抜いてきた人間たち。そんな人間たちが、ライブ中にスマホを触るはずがない。
一方で、現代人はスマホから離れることを酷く嫌う。移動中、食事中、入浴中……と、程度の差こそあれど常にスマホを手にしていると言ってもいい。それは日常だけでなく、何か異常事態が起きた時もそうで、台風や地震などの天災、大きな電車事故が起きた時に真っ先にスマホを確認するという光景はもはや珍しくもない。
そう。本来であれば、ライブ中にスマホを触るなんてありえない。一方で、何か異常事態が起きた時に真っ先に触るのがスマホだ。
そして悲しいことに──彼らがライブ中であるのにスマホに釘付けになっているのは、その【何か異常事態】が起きてしまったためにほかならない。
──なあ、さっきのって……。
──ちょっとしか見えなかったけど、あれってやっぱり。
──ユーリちゃん、倒れてなかった……?
(……)
あちこちから聞こえてくるそんな言葉に、彼は小さくため息をついた。
ホタル、マリナ、ミチルの合同ライブ。これはもう、本当に言葉にできないほど素晴らしかった。例の痛ましい事件以降、このプロダクションはあまり大きな催しをしていなかったというのに、それを感じさせないほどきっちりと全てを仕上げて……そして、こちらの期待を大きく上回ってくれていた。
これこそがアイドルだ、これこそがアイドルの魅力なのだ──と、何度彼が心で叫んだのかわからない。このライブに立ち会うことができて、この世の全てに心からの感謝をしたし、この感動をもたらしてくれたステージの上の三人には、自分の生涯全てを捧げても良いとさえ思った。
本当に久しぶりの、心から燃え上がるあの熱い感情。だが悲しいかな、夢のようなあの時間も終わりがきてしまった。諦めきれない彼は声が枯れ果てるほどにアンコールの叫びをあげるも、それもばっさり切り捨てられてしまって。
心のどこかでわかっていた。これはもうしょうがないことなんだと、どこか冷めた自分が納得していた……というのに。
──その代わり、と言っては何ですが……今日は、とってもスペシャルなサプライズがあります!
その予想が良い意味で裏切られるだなんて、いったい誰が想像したことだろう?
その期待が悪い意味で裏切られるだなんて、いったい誰が想像したことだろう?
聞きなれた、何よりも待ち望んでいた、聞くことはできないと思っていたメロディが流れて。
数十日ぶりの、あのユーリが満を持してステージの上に立って。
そして──苦しそうに顔をゆがめて、崩れ落ちて。
もう、何が何だかわからなかった。いや、わかりたくなかったと言ったほうがいい。少なくとも本能はそれを受け入れることを拒否して、しばらくの間脳ミソの動きがフリーズしていたのは確かだ。
──スタッフに連れ出されてた、よね……?
──た、たぶん……。でも、なんかすっごく速くなかった……?
──そうだった? でも、電気が消えたのって、きっと……。
(……そういうこと、なんだろうな)
ユーリが崩れ落ちた直後、凄まじい音とともに電気が消えた。そのせいで……あるいはそのおかげで彼は我に返ることができたわけだが、改めて冷静に考えると、気になる点はいくらでも出てきてしまう。
もし本当に設備不良だったとして。どうしてユーリはステージにいない? どうして声の一つも発してくれない? どうして……スタッフがステージに飛び込んできてまで、連れ出した?
そう、冷静になれば……改めて思い返してみれば、簡単にわかる。
設備不良のせいでライブが中断しているわけじゃない。設備不良はただの建前で、本当はユーリにのっぴきならない事態が起きているのだ。そのせいで……致命的なことが起きる前に、スタッフが連れ出さざるを得ない状況になってしまったのだ。
(……大丈夫かな)
ぐ、と彼はスマホへ伸びかけてしまった手を止めた。すでに周りはみんなスマホを取り出して、今の状況をSNSに書き込んでいる。
きっとあることないこと面白おかしく書き込んで、無駄に注目でも集めようとしているのだろう。あるいは、斜め上にずれた正義感と使命感に基づいて、自分こそが現状を正しく発信してやるのだ──なんて思っているに違いないと、そう思えてならなかった。
(……)
ユーリに異常事態が起きた。おそらくこれは間違いない。さすがに「設備不良」で誤魔化されるほど、彼は耄碌していない。
けれど、それしかわからない。それしかわからないせいで、余計に不安が掻き立てられる。
もっと情報が欲しい。何でもいいから情報が欲しい。そしてそんな彼の望みをストレートに叶えてくれるのは……この、ポケットの中にあるスマホだ。
(……)
けれども、ろくな情報がない事なんてわかりきっている。ただの憶測やデマが飛び交っていることなんてみないでもわかる。現場にいて一番状況を把握しているであろう自分でさえ何もわかっていないのだ。ネット上で新たな情報を手に入れられるわけがない。
(そうだよ、どうせ好き勝手適当なこと言ってるだけだ)
最速の情報は、現場でのアナウンス。常識的に考えて、これしかない。それが一番信憑性もあって確実な情報だ。
だから彼は、待つしかない。
そして──たとえ悪い情報であっても、受け入れる覚悟を決めるしかないのだ。
(大丈夫、きっとユーリちゃんなら)
そんな風に祈りながら、果たして何分経ったことだろうか。
何の前兆も前触れもなく。本当に、それが当たり前であるかのようにして──ふ、と全ての照明が落ちた。
──え。
──もしかして、本当に設備不良?
──いや、これは……!
彼には……いいや、ここに居るすべての人間にはわかる。この暗闇は恐れ忌避する暗闇じゃない──大いなる期待と希望に満ちた、始まりを告げる暗闇だ。
だって、ほら。
暗闇を切り裂くように、ステージにまばゆいスポットライトが当たっている。そこに立つものの魅力を何十倍にも引き立てる希望の光が、煌々と輝いている。
(……!)
気づけば、あたりはしんと静まり返っていた。不穏に満ちたざわめきはその姿を消していて、代わりに期待に満ちた空気が張り詰めていく。すごくすごく静かなのに、その高まりゆく熱意だけは肌にぴりぴりと感じられて、互いの鼓動が、見えない何かを伝って感じられるほど。
そして……とうとう、その時は訪れた。
──コツ、コツ、コツ。
確かに聞こえてくる、規則正しい足音。足音の主を探すように、スポットライトがせわしなく動いて。
まばゆい光が、その人物の姿を捉えた。
──え?
アイドルの衣装──ではなく、黒いジャケット。
可愛らしいスカート──ではなく、黒いスラックス。
華やかなリボン──ではなく、シンプルなネクタイ。
誰もが憧れるアイドル──ではなく、サングラスの若い男。
そう。ステージの上でスポットライトを浴びているのはアイドルなんかじゃない。黒いスーツに身を包んだサングラス姿の若い男だ。髪は撫でつけてオールバックにしていて、サングラスをしていることもあって全体的に厳めしい。間違っても男性アイドルのようには思えず、有体に言って……要人のSPか、マフィアの用心棒といった出で立ちだ。
そんな彼は。あまりにもこの場に似つかわしくないスーツ姿の彼は。
ステージのど真ん中で、全員の注目を浴びている。
否。
その場にいる誰もが──どういうわけか、彼から目が離せなくなってしまったのだ。
理由なんて、誰にもわからない。ただ、どうしても目が離せない。目立つ場所に立っているんだから当然だろうと言われればそれまでだが、「目を離す」、「ほかの場所を気にする」という選択肢そのものがきれいさっぱり頭の中から抜け落ちて、それに気づくことすらできないのだ。
そして……それほどまでに強烈な存在感をかき消せるのは、より強い存在感を持つ何かしかない。
『みんなーっ、おまたせーっ!』
何よりも待ち望んでいた、甘い声が会場に響く。
──スーツ姿の彼は、ゆっくりと観客席に向かって歩き出した。
『長い時間待たせちゃってごめんなさいっ! ようやっと設備不良が直ったよーっ!』
カラフルな光が闇を切り裂き、そして聞き覚えのあるメロディが会場に響いていく。
──スーツ姿の彼はステージを降りた。
『その分……ううん、今日の分だけじゃなくて、今までの分全部を込めて! 全力で歌うから! 最後まで……そしてこれからも、よろしくお願いします!』
舞台袖から、誰もが望んで止まなかったアイドルが姿を現した。夢を振りまく笑顔は何よりも輝いていて、その可愛らしいくちびるは希望のメロディを紡ぐ時を今か今かと待ち構えている。憧れの象徴である衣装はスポットライトに照らされて、眩しく煌めいていた。
ユーリという存在そのものが放つ圧倒的なオーラが会場を包み込み、その場にいる人間を熱狂の渦に引き込んでいく。
──スーツ姿の彼はステージと観客席の間で仁王立ちしているが、もう誰もそのことに気付いていない。
『それじゃあ……いっくよぉーっ!』
観客の視線を一身に受け、彼女はぱちりとウィンクする。満面の笑みで指鉄砲を打ち、そして天に指を突き付けた。
口元にマイクを持っていけば、後はその瞬間を待つばかり。
『これが私の──【O'ast Kitten!】』
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お日様微笑む 昼下がり
誰もいない教室
ナイショの夢から 跳び起きて
左手 じっと見つめた
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「……なんとか、なったわね」
舞台袖。ちょうどステージの真横となるそこで、姫野はほうと安堵の息を吐いた。
ステージの上で歌っているユーリは、先ほどまでの様子が嘘であるかのように晴れやかで元気いっぱいだ。数十日とはいえそのブランクを感じさせないほど……否、姫野が今まで見てきたどのライブよりも自由に、全力でその魅力を振りまいているように見える。
「なんとまぁ……効果覿面ですな」
「ええ──ご協力、ありがとうございます」
一度は倒れてしまったユーリが、こうして何事もなくステージの上に立っていられる理由。
そんな理由を作ってくれた立役者の一人──サングラスを外し、スタッフ用のジャケットを着こんだ企画会社の代表取締役に、姫野はにこりと微笑んだ。
「大勢の人間からの視線が怖い。だからステージに立てない。アイドルである以上、人を減らすことも、人から隠れることもできないわけだが……」
「それができないなら、大勢に見られていても安心できるようにしてあげればいい。……思った以上に副次効果のほうが大きいのは嬉しい誤算ですわ」
姫野が考えた策。人前に立つのが怖いのなら、人前に立っても怖くないと思わせればいい……という、実にシンプルな考え。
具体的には──ユーリのすぐそば、その視界の中にユウを置いておくというものだ。
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夢の名残が 切なくて
くちびるを つきだしたけど
黒猫見てるの 気が付いて
ほっぺが 真っ赤になった
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「は、はは……でも、びっくりしたよ。まさか咲島くんをひん剥くばかりか、社長さんのスーツまで脱がして咲島くんに着せるだなんて」
「二人の身長、ほとんど変わらなくてよかったわ」
「でもって、メイクさんの持ってる整髪料で咲島くんの髪をわしゃわしゃーってやって」
「髪型で人の印象って、かなり変わるものだから」
「仕上げに、社長さんのサングラスを拝借すれば……立派なボディガードの誕生ってことですね」
「細かい粗はあるけれど、遠目から見たらまさしくその通りね」
ユウとユーリ。二人のことを良く知っている姫野は……ユリがユウに対してどんな気持ちを抱いているのかを知っている姫野は、解決策をすぐに思いついた。
なんてったって、すでにユウはその
であれば──あとはどうにかして、違和感をなるべく少なくしてそれを実行するだけ。そして都合のいいことに、その肩書も、衣装も、ここにはすべてそろっている。
「ちょっと無理矢理感はあるけれど……ボディガードであれば、近くにいてもそこまで違和感はない。黒っぽいスーツとサングラスを着けていれば、否応なしにそういう風に見えてしまう。見た目が見た目だから、人相も随分隠せる……ユウくんだと気づける人間は、ほとんどいない」
だから、変装(?)させたユウを先にステージに出した。観客の注目をいっぱいに引き付けてもらって、そのままステージと観客席の間に陣取ってもらった。そうすれば、実際にステージの上で歌うユーリからは……常に、ユウのその背中を見ることができる。
そう、ライブ中ずっと……ユウが近くにいることが実感できる。何かあってもすぐに助けてもらえるということははっきりとわかる。
ならば、ユーリが気に病むことなんて何一つない。今までと同じ通り、いいや、今まで以上のパフォーマンスを発揮できるのは明確だ。
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秘密 はちみつ 夢見るミルク
ぺろり人差し指なめて
あなたの心 リボンを解いて
魅惑のフォークを刺して かじりたいな
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「でも……本当に、楽しそうに歌っていますね……」
「形は違えど、一緒にライブをしているようなものだからねえ。堪らなく楽しいんだろうよ」
「あー……ついでに、ちょっぴりのスリルというか、ドキドキ感もすごそう……」
羨ましそうにユーリの横顔を見る三人娘。そう思ってしまうのも無理はないと、姫野は思った。
あの時──見た目をボディガードに近づけるために服を脱げと言ったその直後、ユウは何のためらいも無くジャケットに手をかけ、そしてズボンを脱いだのだ。きっと姫野が止めなければ、パンツだって脱いでいたに違いない。
いくら暗がりだったとはいえ、ユウは何人もの目の前でそんなことをやってのけたのだ。ユリをステージの上に立たせたいというその気持ちだけで、既にそれだけの覚悟が決まっていたのだ。
──本当に仕事だから、ってだけなのかしらね?
どう都合よく考えても、既にこれは最初の契約の内容を超えている。だけれどもユウは、自分の「その後」のことなんて一切考えずにステージの上に立ってくれた。今でこそ観客全員がユーリに夢中になっているが……このライブが終わった後のことを考えれば、良くも悪くも今まで通りでいられるはずがない。
それはきっと、ユウにとっては最も避けたいことだろう。姫野も三人娘も、ユウのそういった気質は良く知っている。
だからこそ、ユーリのことが羨ましい。そんなユウに何の躊躇いも葛藤も無く動いてもらえるユーリが、アイドルとかそういうのを抜きにして唯々単純に羨ましい。一種の憧れと言ってもいいくらいだ。
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私とキミで O'ast Kitten!
太陽だって 溶けちゃいそう
勇気の風に その身任せて
初めて会った あの場所へ
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「しかし……よかったんですか?」
「よかった、とは?」
ジャケット姿の代表取締役が呟いた言葉を、姫野は確認するように繰り返した。
「……そちらの方針に口を出す気はないですが。少なくとも、今後しばらくは彼が一緒にいないといけなくなってしまうのでは?」
「ふふ……そうでしょうね」
良くも悪くも、ユウがいれば問題なくステージに立てることがわかってしまった。良くも悪くも、ユウという存在そのものが公になってしまった。もちろん名前や顔まで公表しているわけじゃないが、【ユーリのステージの前に立つボディガード】という存在は公然の事実になったと言って良い。
つまりは……これからしばらく、短くない期間においてユウはユーリのステージに付き合うことが決まってしまった。そしてもちろん、それに伴う弊害やゴタゴタなんかも付き纏うことだろう。
「でも……いつもより、ずっとのびのびやってるわ」
「……たしかに」
でも、それだけだ。ユーリは今誰よりもこのライブを楽しんでいて、ユウはすでに何もかもを受け入れる覚悟を決めている。
だから……そう言う細々とした難しいことは、大人である自分がなんとかすることだと、姫野ははっきりと断言することができた。
「それよりも今は、もっと大事なことがありますよ?」
「む?」
舞台袖であっても伝わるその気持ち。ステージの上で満面の笑みを浮かべて観客に魅力を振りまくユーリと、その前でひっそりと仁王立ちをするユウ。
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キミを見つけた O'ast Kitten!
恋煩いが 止まらない
ちょっとビターなカフェラテ飲んで──
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『──これが私の O'ast Kitten!』
サビの終わりの、最高に盛り上がったところ。ぴしっと伸ばされた人差し指が観客を打ち抜いて、魅力の射手はポーズを決める。黒く大きな背中はただ悠然とその場に佇み、背中にある者を絶対に守り通すというその気迫をにじませている。
そんな二人の姿を、何よりも眩しく輝くその姿をしっかり目に納めてから──姫野は、ユーリのファン一号としての心からの笑みを浮かべた。
「──今は、ユーリのライブを楽しまないと!」
──痛ましい事件から復活を遂げた超大型新人アイドルのサプライズ復帰ライブ。それが大成功の元に終わったのは、語るまでもないことだった。