「本当に、酷い目にあったよ……」
もはやすっかり定番(?)になった車の中。運転席には姫野、そして後部座席にはユウとユリ……という、いつものメンバー。休日の午前中という、本来であれば心が躍るようなそんな時間に、ユウは深々とため息をついた。
「え……ユウくん、アイちゃんに話してなかったの? てっきり、全部話していたものだとばかり」
ユウの隣に座ったユリが、不思議そうに首をかしげる。ユウが
というか、何の変哲もない男子高校生であるユウと、今を時めく超人気アイドルのユーリの関係性を知っている人間なのに、その事実を知らないということは逆に違和感を覚えるというか、不自然なようにも思えた。
「いや……一応、守秘義務ってやつがあるし……」
「……なかったとしても、話さない気がする」
「う……」
じとっと半眼で見つめられて、ユウは思わず顔を逸らす。実際のところユリの予想はほぼ当たっていて、ユウはあのミーハーでユーリの大ファンである妹に話したら面倒なことになるぞ──なんて思って、本当に必要最低限のことしか話していないのだ。
「アイちゃんかわいそー……もう、全部話しちゃえばいいのに。……あっ、それとももしかして、私のほうから直接アイちゃんに説明してほしいんだあ?」
「やめてくれ、割とマジで」
そんなのどう考えても碌な目に合わない。この前のほんのわずかな時間でさえも、ユリとアイはとてもとても意気投合して、とてもとても楽しそうに過ごしていたのだ。あくまで「友達」としての関係でそのレベルにまで至っているのだから、もしここに「お仕事」の話まで持ち込まれたら……それこそ、アイは女子高生という本分を忘れてでもこっちに関わろうとすることだろう。そんなことになったが最後、あらゆる意味でユウの肩身は狭くなるというか、心落ち着ける場所が無くなってしまう。
「……また、遊びに行きたいなあ?」
「そ、そんなことよりも! 姫野さん、今日ってどこに行くんですか!?」
「むー……露骨に話題逸らした」
「……姫野さん!」
不満そうな表情で、肘でくいくいとわき腹を突いてくるユリをなんとかいなして。
そしてユウは──バックミラー越しに、何とも言えない表情でこちらの様子をちらちらとうかがっていた姫野に助けを求めた。
「……あなたたちみたいな若い子の空気に当てられるって、この年になると余計にキツく感じるわね。もう、どんな顔して聞いてればいいのか、私にはわからないわよ……」
「なんすか……こんなの、割といつも通りなのに……」
「
これもある意味じゃこの娘の思い通りなのかしら──なんて、小さく呟いて。
そして、姫野は表情を切り替えてユウに語り掛けた。
「ユウくん──あなた、スーツは持ってる?」
スーツ。世の中のサラリーマンの正装というか、戦闘服というか。特別な余所行きの服とも言えるし、ある意味じゃ社会の一員としての普段着とも言えるもの。成人している男性でスーツを着たことのない人間はおそらく少数派で、そして平日の朝の駅にでも行けば──スーツ姿の人間なんていくらでも見つけることができるだろう。おそらく、適当に石を投げれば十回中九回はスーツ姿の人間に当たるはずだ。
そんな、この社会では見ない日が無いと言ってもいいくらいにありふれたスーツであるわけだが。
「いや……持ってないっす」
学生であるユウは、持ってない。持っていないどころか、袖を通したのも──この前のライブの時に、例の社長のそれを借りたのが初めてであった。
「ま、そうよね……学生なら、制服があれば冠婚葬祭全部いけるものね。むしろ、その年で着たことがある子のほうが珍しいのかしら?」
「たぶん。そもそも、そんな畏まった場所に行く機会なんてないですし……俺の人生であったそういうちゃんとした機会って、入学式とか卒業式くらいですよ」
クラスメイトの中でもスーツを着たことがある奴なんていないんじゃないかな……と、ユウはぼんやりと考える。少なくとも、ユウがぱっと思い浮かべられる範囲ではそういう畏まった場に出たことがありそうな奴なんていないし、自分の記憶の中にある彼らはいつだって制服やジャージの姿だ。
ついでに言えば、スーツ姿どころか私服の姿すら想像できないし、見たこともなかった。
「……で、スーツがなんでさっきの話につながるんです?」
別にこれからいくらでも見る機会なんてあるだろ──なんて、心の中だけで誰かに言い訳をして。ユウは、何でもない風を装いながら姫野に問いかけた。
「前にも話したけど、ユウくんには正式にボディガードとして動いてもらうわ。もちろん、常にこの娘につきっきりってのは物理的に不可能だろうけど……たくさんの人の前に出るときは、必須だと思ってちょうだい」
「うっす」
「で……どういう形であれ”こちら側”の人間として大勢の前に立つんだから、普段のカッコじゃ示しが着かないでしょう? だから、ここらでひとつ一張羅としてカッコいいスーツを仕立てておこうってワケ」
この前の、ユーリの復帰ライブ。結果としてユウは例の社長のスーツを借りる形で大勢の前に姿を晒した。あの時は完全なイレギュラー対応としてそうせざるを得なかったわけだが、今後も同じように動くのであれば、当然自前のスーツを用意する必要がある。さすがにその都度近くにいる誰かのスーツを引ん剝くことなんてできないし、スタッフの上着だけ羽織る……だけでは、ボディガードとしての威圧感を持たせられないのだから。
「なるほど、そりゃ確かに」
「あら、意外ね。結構渋るのかなって思っていたんだけど」
「仕事ですからね。それに……仕事着が一着あれば、いちいち服を選ぶ手間も省けるなって」
「……そうね」
本当に、男子高校生って未知の生物だわ──と、姫野は改めて世の中の男子高校生の認識を改める。自分やユリであれば、新しい上等の服を買うと聞かされたら少なからず楽しい気持ちになるし、どんなデザインにしようか、どういう風に着ようか……なんて考えるのに、ユウは【服を選ぶ手間が省ける】だなんて、女子からしてみれはとても考えられないことを言い出したのである。
【服を買う】というその行為に対し、その行為の存在意義を全否定するかのような理由を見出す存在がいることを、姫野は生まれて初めて知ったのだ。
「……ま、男の子なら服に興味を持たないのは普通なのかしら? けど……一着あるといざってときに困らないのは間違いないから」
「なんすか、いざって時って」
「……それはまぁ、いろいろよ」
大学の入学式か、あるいは就活か。もっとありえそうなのは、友人や親戚の結婚式か。なんだか微妙に心の傷を抉られているような気分になった姫野は、それっきり口をつぐみ──そして当然、ユウにはその理由はわからない。ただ、なんとなく「大人っていろいろあるんだなあ」と思うのが限界であった。
「あの、姫野さん」
「……なぁに?」
スーツを買いに行く、ということがわかったからこその疑問。
このまま沈黙を楽しんでもよいが、その前にユウには絶対に確かめておかねばならないことがあった。
「……なんで、ユリも一緒にいるんです?」
「……えへへ?」
今日買いに行くのはユウのスーツだ。そのスーツが無ければ業務に差し障るというのだから、これは絶対だ。
けれど──それにユリが同行する理由はない。ユリにはユーリとしての、アイドルとしての衣装がある。それこそがアイドルの正装なのだから、ユリがスーツを買うということはないはずだ。
そんなユリが、この車に一緒に乗っている理由。
「
「だいじょぶ! 今日は完全にオフの日だから! というか、私がオフの日にスーツ屋さんに行こうってお願いしたの!」
じゃあ、なおさらどうして一緒にいるんだよ──とユウが声を上げる前に。
何か面白いおもちゃを見つけたかのような笑みを浮かべて──姫野が、バックミラー越しにユウに告げた。
「男の子のユウくんに、大事なことを教えてあげましょう」
嫌な予感。
ユウの第六感が、全力でこの場を離れるべきだと告げている。今すぐにでもこの車のドアをぶち破って、二人から距離を取れと告げている。
もちろん、やってやれないことは無いのだが──常識的に考えて、そんなことをしたらあらゆる意味でいろんなところに迷惑がかかる。
だからユウは、黙ってその言葉を受け入れるしかなかった。
「女の子はね──みんな、着せ替え遊びが好きなのよ」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「マシですか……?」
その建物を見て、ユウは思わず腰を抜かしそうになった。
スーツを売っている店。つまりはスーツ屋さん。そういうお店がこの世の中に存在することは知ってるユウだったが……今目の前にある現実は、ユウのあまりにも稚拙な想像を打ち砕くには十分すぎるものであった。
「……何て顔してるのよ。別に取って食われたりするわけじゃないんだから、しゃんとしなさい」
意外な弱点があったのね──なんて、くすくすと笑いながら姫野がその店に入っていく。
「お……俺、ここ入っていいやつ……?」
「え……緊張しすぎじゃない? ……あっ、それとももしかて、遠回しに手を繋いでほしいっておねだりしてるのかあ?」
ユリに手を取られても、ユウはそれに反応しない。
「……あれっ?」
なんなら、今はその気遣いがすごくありがたい──なんて、マジに思ったりさえしている。
「ゆ、ユウくん……?」
そのお店は──ユウの精いっぱいの語彙で表現するならば、【超高級スーツ専門店】というやつなのだろう。お金持ちの人しか入れない雰囲気が店の外にまで漂ってきているし、一見さんがうっかり迷い込んだ日には、黒い服を着たおじさんたちに叩き出されそうな気さえする。少なくとも、こんなどこにでもいる私服の男子高校生がふらっと立ち寄って良い場所にはとても思えなかった。
「もぉ……いこ?」
「お、おう……」
姫野がいる。あとユリもいる。だからきっと大丈夫だ──と、心の中で自分自身に言い聞かせて、そしてユウはユリに手を引かれるままゆっくりとその店の中に入った。
「う、お……」
圧倒される。上手く言葉にできないが、まさしく紳士──いや、貴族の社交場みたいな雰囲気に満ちている。もちろん、この現代日本に貴族なんていないし、貴族の社交場の空気なんてユウが体感しているはずもない。確かなのは、庶民じゃ一生関わることが無さそうなほどの高級感が漂っている……という、それだけだ。
「ほら、ユウくん。こっちにいらっしゃい」
「は、はい……」
姫野の隣には、人の好さそうな笑みを浮かべた好々爺が立っている。ユウの見立てでは、六十歳は確実に過ぎているだろうか。髪は真っ白で顔には深い皺が刻まれているから、実際はもっと年を取っているのかもしれない……が、その割には背筋がピンと伸びているためか、どうにも年齢が読みにくい。
「この子なんですけど……お願いできますか?」
「ええ、もちろん。必ずやそのご希望を叶えて見せましょう」
人生初めてのスーツに我々を選んでいただけて光栄です……なんて、上品な笑みを浮かべたその老人は、穏やかにユウに問いかけた。
「好きな色や柄はありますか? あるいは、なにかこだわりでも構いません。いくつか挙げていただいて、それに近いものを試着して細かいところを決めていきましょうか」
どこからどう見ても、初めてスーツを着るような子供。そんな子供に難しい言葉で接客するのはどう考えても悪手で、ともすれば悪い印象を持たれかねない。人としてあまりにもまっとうな判断をしたその老人は、ユウにもわかるように優しい言葉で──ユウの緊張をほぐすように、和やかに言葉を紡ぐ。
それに対する、ユウの答えは。
「じょ、丈夫で動きやすくて安い奴で……」
──ぱん、と静かな店内に響く軽快な音。
姫野が、ユウの尻をひっぱたいていた。
「──この子の言ったこと、全部無しで。似合いそうなのを三つか四つほど見立てていただけますか?」
承知いたしました、とだけ述べて老人は離れていく。一方でユウはと言えば、すごい形相をした姫野に手を引っ張られ、試着室へと誘われた。ついでに言えば、ユウの手を握る姫野のことを、同じく女の子があまりしちゃいけないすごい形相でユリが見つめている。
「──ごめんなさい、私が悪かったわ」
「謝らないでください……なんか、余計に居た堪れないっす……」
「……説明してない私が悪いんだけど。でも、ユウくん……こんないかにも高そうなお店で、【安い奴で】はないんじゃないかしら……? 無難に好きな色とか言えばよかったのに……」
「ほかに思いつかなかったんですよ……」
丈夫か。動きやすいか。洗濯は楽か。安いか。ユウの中での服を選ぶ基準と言えばそれくらいで、正直なところデザイン何てよほど酷いものでもなければ特に気にしない。最近の流行なんて理解しているはずもないし、正直なところ今どきの【ダサい】、【センスが古い】という感覚もあんまり理解できていない。『流行っていたものがどうしてダサいってことになるんだ?』……なんて、本気で思っていたりもする。
そんなユウに、まともなスーツのオーダーができるはずなんてないのだ。
「……いやでも、スーツって黒か紺とかじゃないんですか? あとは明るめの青っぽいのとか……」
「──最近は、もっとたくさんの色や柄があるのですよ」
時間にしてまだほんの五分かそれくらいのはずなのに、店員である老人は数着のスーツをもってやってきた。もちろん、その穏やかそうな笑みは一切崩れておらず、たったそれだけのことがユウに凄まじいまでの安心感を与えている。
「黒や紺色、灰色に茶色……それにベージュも。こっちのこれはカーキで、こっちはダークグリーンです。……いえ、緑褐色とか深緑のほうが伝わりますかな?」
「は、はい……」
見せてもらったそれは、どうみても緑系統であるようには思えない。黒に近い暗い色合いに、なんとなく緑色が入っているように思えないこともないが、少なくともユウが想像する『緑』とは似ても似つかないものであった。
「どの色も似あいそうではありますが……さて、どれから試着いたしますか?」
「んー……まずは黒からお願いできますか?」
店員である老人に、そう答えて。
そして姫野は、ユウに向かって笑顔で告げた。
「ユウくん──服、脱ぎましょうか」