アイドルクロージング!   作:ひょうたんふくろう

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58 着せ替え:後編

「ユウくん──服、脱ぎましょうか」

 

「う、うっす」

 

 言われるがままに、ユウは上着を脱いでTシャツ一枚の姿になる。なんで自分は年上のおねーさんに命令されるまま、こんな高級なお店で服を脱いでいて、しかもその様子を同い年の女子にガン見されているんだろう……なんて、そんな考えが頭によぎったが、しかし悲しいかな、ユウにはもはや抵抗する術も気力も残っていなかった。

 

「……あら! 思っていた以上に似合ってるわね!」

 

「そ、そうですか?」

 

 まず間違いなく高級であろうそのスーツ。シャツの上に直接着ているせいで、鏡に映った自分はなんともちぐはぐというか、違和感が凄まじい。ついでに言えば、ユウが自分で理解できるほどスーツに着られている感じがして……はっきり言って、浮いているようにしか見えない。おまけに下半身はいつものズボンだというから、余計に滑稽に思えてしまう。

 

 そして不思議なことに、なぜだか妙に体にフィットする感じがする。どうやらこの老人は、立った一目でユウの体型を見抜いていたらしい。

 

「なんでかしら……肩回りがしっかりしていて、シルエットが良いからかしらね?」

 

「あ、あと胸板も! ユウくん胸板もすっごいもん! いつもは動きやすい奴とかゆったりしたのを着てるけど、絶対こういうカチっとしたやつも似合うと思ってたんだあ!」

 

「ええ、ええ。とてもお似合いでございますよ。……さて、次はネイビーにいたしましょうか。こちらもまた落ち着いた印象を与えるものですが、黒よりも少し華やかに見えると思います」

 

 続いて手渡された、ネイビーのスーツ。よくよく見ると、無地ではなくてシマシマ模様──つまりはストライプのそれ。言われるがままに羽織ってみれば、なるほど確かに先ほどよりも明るい印象を受けるというか、少しばかり雰囲気が若々しくなったように思えないこともない。

 

「ネイビーも明るくていいわね……でも、なんだか就活生か新入社員って感じかしら?」

 

「生地や柄を変えれば印象もまた変わりますが、まずはブラウンも試してみましょうか。ダークブラウンやミディアムブラウンであれば、穏やかで落ち着きのある大人な印象を与えられますよ」

 

「やっぱりユウくん、脱ぐとすっごいよねえ……! こんなにすごいの、隠しておくなんてもったいないよ……!」

 

 そうして次々に渡されるスーツ。黒いの、紺色の、茶色の、あと柄が入っているもの……などなど、いろいろだ。正直ユウは、スーツ一つにここまで種類があるだなんて初めて知ったし、何より不思議なのは──先ほどからずっと、自分の意見ではなく姫野やユリの言葉でスーツが選ばれているというその一点である。

 

「うーん……! どれもカッコいいなあ……! 許されるなら全部買いたいくらい……!」

 

仕事用(・・・)のスーツだけのつもりだったけれど……普通のスーツも買っちゃおうかしら……?」

 

 何度も何度も、試着のそれをユウの体にあてがって。何度も何度も、ユウの体をぺたぺたと触って。本当に楽しそうに──文字通り、お人形の着せ替え遊びをするかのように、姫野とユリはそれを心の底から楽しんでいる。

 

 ユウとしては堪ったものじゃない。別に変な意味なんてないはずなのに、なんだか妙な気分になって来るというか。冷静に考えて、妙齢のおねーさまと国民的アイドルに着替え(?)を覗かれるなんて──いいや、冷静に考えなくてもだいぶ妙な状況ではある。

 

「勘弁してくれ……何が悲しくて着せ替えショーなんてやらなきゃいけないんだよ……」

 

「あら。いくら男の子でも、服を買うときに試着くらいはするでしょう?」

 

「そりゃまあ、するときもありますけど……だからといって、こんな」

 

 ──こんな、際どいところまで衆人環視の中でひん剥かれることは無い。

 

 無いはずだ……と思いたいが、しかし悲しいかな、ユウにはそんな”普通”がわからない。もしかしたら、複数人で服を買いに出かけた時はこれが普通なのかもしれない、という可能性に思い至ってしまっている。そうでもなければ、胸も腹筋も、なんならパンチラまで晒している今の状況の説明ができない。ついでに言えば、結構けろっとしている姫野に対し、ユリのほうは妙に鼻息が荒くなっているというのだから、余計に判断に迷ってしまう。

 

「別に今更じゃない。あなた、みんなの前で脱いだでしょ」

 

「そうだよ! 今更じゃん!」

 

「いや、あの時は緊急だったし……それに、たとえ一度見られていたとしても、そんな食い入るようにガン見していい理由にはならんだろ」

 

「だってぇ……わたし、あのときほとんど見られなかったんだもん……!」

 

「……こーゆーのって、普通逆じゃないんすかねえ? なんで(おまえ)のほうが(おれ)に対してそんなセリフ言うんだよ……」

 

「それだけあなたの体が立派ってことよ……んん、ユリ。本音はどうしようもないにしても、せめて建前くらいはちゃんと取り繕えるようにしておきなさいな」

 

 もはや試着室としての機能をほとんど果たせていないそこで、ユウは心の中だけで悲しみの涙を流す。本来は頼りになるはずの姫野がこうしてこの行為を黙認している以上、もはや男心の尊厳が守られることは無いのだろう。ユウはただ、黙ってこの運命を受け入れるほかないのだ。

 

 ──体育の着替えとはわけが違うんだよなあ。

 

 これが教室で、体育の着替えであれば。男子はみんな、女子がいくらか残っていようが平然と着替えだす。教室の扉が全開であろうと気にしないし、誰かにパンツを見られようがなんとも思わない──むしろ、女子のほうが変なものを見せるなとキレてくる。もちろんユウもそんな一般的な男子の一人ではあるが、やはりこの状況は決して慣れるようなものではなかった。

 

「んー……どれもいいけど、せっかくだし奮発して五着ほど仕立ててもらいましょうか」

 

「やったあ! ね、ね! 私、色と柄選んでもいいよね!」

 

「ああ、もう好きにしてくれ……どうせ俺にはよくわかんねえし……」

 

「……ま、ユウくんが良いならそれでいいけど。とりあえず、細かいサイズを測ってもらいましょうか」

 

「……え? これ、そのまま買うんじゃないんですか?」

 

 はて、どういうことだ──とユウは首をかしげる。この老人が見繕ってきてくれたスーツは、どれもユウのサイズとほぼ同じものだ。実際に着ているのは試着用のそれとはいえ、あとは売り物として扱っている同じサイズのものを買い上げればそれで終わりのはず……今更新しくサイズを測る理由なんて、どこにもないはずである。

 

「それはあくまで大体の感じをつかむためのものよ。首回りとか肩回りとか、そういう細かい寸法を測ったうえで、ちゃんと体にぴったりあったものをここは仕立ててくれるのよ。……今だってほら、微妙に大きいサイズでしょう?」

 

「いや……そっちのほうが動きやすいし、普通服ってちょい大きめの買うじゃないですか。そうじゃないとすぐに着られなくなっちまうし」

 

「そうだった……あなた、成長期の男の子だったわね……」

 

 だからちょっと私服がアレだったのね──なんて、なんだか不穏なことをつぶやいてから。

 

 姫野は、ユウを落ち着かせるように語り掛けた。

 

「人前に出るときに着る服なんだから、ちゃんとサイズがあったものを選ぶのが普通なの。サイズが合わなくなったとしても、少しくらいなら仕立て直せばどうにかなるし、最悪買いなおせばいい。動きやすさについても、ちゃんと体に合ったものだから心配しなくてもいいはずよ……たぶん」

 

「なんすか、そのたぶんって」

 

「だって……あなたの場合は、その」

 

 普通の人とは運動のレベルが違うから。姫野が口に出そうとして出さなかった言葉の続きを、ユウは正確に読み取ることができた。

 

「……まあ、わかりました。……ところで、その」

 

「……あら?」

 

 先ほどの失敗を反省しているからこそ。

 

 ユウはちょいちょいと姫野に手招きして──店員である老人に聞こえないように、こっそりと話しかけた。

 

(サイズに合ったものを仕立ててくれるって、それってつまりオーダーメイドってことっすよね? かなり高いんじゃ……)

 

「なあんだ、そんなこと。そうねえ、ここの相場は──」

 

 さらっと姫野が告げた金額は。

 

 咲島流の師範代であるはずのユウに対して、致命的なまでの精神的動揺を与えるのに十分なものであった。

 

「え゛っ……!? そ、そんなに……!?」

 

「あなたたちにとっては大金だろうけれども。ちゃんとしたスーツならだいたいこのくらいよ?」

 

「いや……いやいやいや……! ウチの近所のちょっとデカめのスーパーで売ってたやつはもっと安かったっすよ……!? しょ、正直持ち合わせが……!」

 

「ああ……二階とか三階の衣料品コーナーのところで売ってやる奴かあ……」

 

「清々しいほど庶民的な感覚ね。紳士服量販店……とまでは言わないけれど、せめてアパレルショップで見たって言ってほしかったわ」

 

 そういう金銭感覚のほうが却って安心できるのかしらね──なんて、小さく呟いて。そして姫野は、にっこりと笑った。

 

「安心して、経費で落とすから」

 

「経費で落としていい金額なんですか……!?」

 

「別にいいわよ。あなたの場合、業務でしか使わないってわかりきっているもの。クリーニングとかも全部こっちでやるから。ただ、事務所で管理することになるから普段使いとかはできないけれど……」

 

「普段使いなんてしないし、むしろそっちのほうがありがたいっす……!」

 

 スーツをタンスの中にしまうわけにはいかないし、お高いそれともなればちゃんとした手入れも必要になることだろう。どこにでもいる男子高校生でしかないユウがそのあたりの対応をきっちりできるかと言われれば、当然答えはNoだ。うっかりすれば、そのまま洗濯機に入れてしまうことだってあるかもしれない。

 

 であれば──どうせ仕事でしか着ないのだから、事務所に置いてもらったほうが絶対に良い。あくまで仕事着として借りているという形にしておけば、ちゃんとした手入れもしてもらえるし、ちゃんと保管もしてもらうことができる。姫野の提案は、ユウにとっては願ってもないことであった。

 

「では、採寸の準備をいたしますね……生地やボタンもお選びになりますか? せっかくですし、よろしければネクタイの方も」

 

「そうですね……そちらも見本をいただけるかしら?」

 

「承知しました」

 

 ややあってから、持ってきてもらったカタログ(?)とサンプル。そこにはスーツの色や柄のほかに、どういう部分をカスタムできて、それぞれどんな特徴があるのか……といったことが、丁寧に記載されてた。

 

「生地の繊維なんて選べるのか……」

 

「どーする、ユウくん? 着心地が良いのは天然繊維だけど、耐久力は低いんだって。合成繊維なら安くて丈夫だけど、着心地はちょっと悪いって」

 

「安くて丈夫な奴で大丈夫だ。着心地はあんまり気にしないし……」

 

「織り方は? 朱子織は見た目がすっごくよくなるみたいで、綾織は丈夫で伸縮性もあるって! ……ほら、これ!」

 

「ほーん……正直、違いがよくわかんねえ……。こんなの、よほど近くで見なきゃわからなくないか?」

 

 ユリから手渡されたサンプル。なるほど、確かに言われてみればなんとなく朱子織のほうが艶やかであるように見える……が、それもかなりしっかりじっくり見ないとわからないように思える。少なくとも、遠目からではどちらも同じようにしか見えないだろうし、どちらであっても上等なものにしかユウには思えなかった。

 

「じゃあ綾織にしておこうかあ。……ベント、ラベル、ベストはどうする?」

 

「……わかんね、全部お前に任せるわ」

 

「んふふ、おっけー!」

 

 言質貰っちゃったからね……なんて、にこにこと笑うユリを見て、少しばかり早まってしまったかとユウは内心で危機感を抱く……も、冷静に考えてみれば、そもそもとして自分で判断できないからこんな事態になってしまっているのだ。であれば、信頼できない自己判断よりも、センスがあるであろうユリに任せたほうが何倍も良い結果になるはずなのである。

 

「ユウくん、あなた……その、ちょっとは思うところはないの? 五歳の子供でも、もう少し自分の好みを主張するものだと思うけど」

 

「思うところがあるから、あるがままを受け入れてるんですよ……」

 

「そのとーり! ユウくんは私のお人形になってればいいの!」

 

 この場で誰よりも──スーツを着る張本人であるユウよりもはるかに気分を弾ませながら、ユリはああでもない、こうでもないとカタログとサンプルを突き合わせて理想のカスタムを形作っていく。文字通り、気分はお人形の着せ替えごっこをしているようなものなのだろう。ましてや、”お人形”も”お洋服”も普通のそれとはかけ離れた一級品だというのだから、楽しくないはずがなかった。

 

「でもでも、少しくらいはユウくんの意向も取り入れなきゃって思ってるんだよねー」

 

「いや、もういっそ全部選んでくれていいんだが」

 

「……それじゃダメなのっ!」

 

 ちょっぴり顔を赤くして、そこだけは絶対に譲れないとユリは激しく主張する。残念ながら、今のユウにはユリがどうしてそんなことを言うのかなんて理解できるはずもない。

 

「ほら、ボタンは選んでみよう? これならわかりやすいでしょ?」

 

「お」

 

 小さな箱の中に並べられているボタン。なるほど、一種独特の高級感を醸し出しているもの、なんだか煌びやかで華やかなもの、どことなく落ち着いた雰囲気があるもの……などなど、織り方や生地の種類に比べれば、ユウでもその違いがわかりやすいように思えた。

 

「プラスチックとか皮のやつよりは、こっちのカッコいいのがいいな」

 

「やっぱり! ……あっ、でもこの真ん中のシェルボタン、ちょっと割れやすいんだって」

 

「あー……じゃあ、こっちのは?」

 

「上のが水牛ボタン、下のがナットボタンだね。ナットボタンは天然椰子で、使い込むほど色が深くなるんだって。水牛ボタンも変色はしにくいけど、使い込むほど色合いが深くなるって……あれっ?」

 

「なんかよくわからんが、水牛ボタンのほうが強そうだし雰囲気あるな。少し透明感もあって綺麗だし」

 

「おっけー!」

 

 ボタンの色合いと合わせるとこっちのほうがカッコいいよね──なんて、機嫌よくユリは残った項目についても決めていく。正直ユウには何が何だかさっぱりわからなかったが、それでもユリの機嫌がここまでよくなるのであれば、これがベストな選択だったのではないかと思えてくる気分であった。

 

「最後に、ネクタイ!」

 

「おう」

 

 数本ほど用意されたネクタイ。青いもの、緑のもの、赤っぽいもの……などなど様々な種類があるが、そのすべてが素人のユウでもはっきりわかるほど高級感にあふれている。

 

「ここは無難に、深い青のやつで──」

 

「あ、それダメ」

 

 ユウの言葉が終わる前に。

 

 ユリは、今までに見せたことがないほどにはっきりと、その意見を拒絶した。

 

「じゃ、じゃあここはあえて赤っぽいので──」

 

「それもダメ」

 

 はっきりとした拒絶。

 

 顔は笑っているのに、目は笑っていない。

 

 なにかやらかしてしまったのか──と、ユウは内心焦りまくるも、しかし心当たりはまるでない。正真正銘、一体何がタブーだったのか、ユリの地雷がなんだったのか……今回ばかりは、まるで想像ができなかった。

 

 ゆえに。

 

「わ、わかった……じゃあ、何ならいいんだ? いや、何ならダメなんだ?」

 

 はっきり、真正面から切り込む。下手に被害を広げるよりかは、腹をくくって突っ込んだほうがまだいくらかはマシのはず。

 

 多少のダメージを覚悟したユウのその判断は、意外にも悪くない……いいや、最善と言ってもいい選択であった。

 

「赤、青、黄色は絶っ対ダメ! その三色だけは認めませんっ!」

 

「あ、そう……別にいいけどさ」

 

 はて、なんでダメなんだろう──と、ユウは心の中だけで首をかしげる。別段ダメな理由はどこにも見当たらない。付き合いは決して長くはないが、それでも相応に深い付き合いではあるはずなのに、今までそんな素振りをユリは見せたことがない……そう、まるで心当たりがない。

 

 ただ、まぁ。

 

 あえてダメなものを選ぶ理由はどこにもない。

 

「じゃあ、緑のにでもするか」

 

「……黒はダメ?」

 

 お願い、というよりかはどこか甘えるように。

 

 超国民的アイドルは、ファンの前では決して見せない表情で、ユウを上目遣いで見上げた。

 

「いや……黒のネクタイってのは喪服のやつだろ。さすがにそれくらいは知ってるぞ」

 

「チェックのやつ!」

 

「……ま、いいけど」

 

「えへへー……!」

 

「……嬉しそうだな?」

 

「そりゃあね!」

 

 ユウくんは私の(・・)ボディガードなんだからね──という、小さなつぶやき。幸か不幸か、そんな言葉を耳にできたのはこの場では姫野しかいなかった。

 

「……ユリ。あなた、束縛するタイプだったの?」

 

「えー? 束縛はしないけど、独占欲くらいはあるよ? ……姫野さんも、わかるでしょう?」

 

「否定はしないわ……さ、ネクタイは決まったんでしょう? ちょっと試しにつけてみたら?」

 

 ほら、と渡されたそれを受け取って。

 

 そしてユウは、致命的なことに気づいてしまった。

 

「……あの、姫野さん」

 

「……まさか」

 

 いくらなんでもそんなことはないだろう、さすがにそれは嘘だろう……なんて、姫野の驚愕の表情から逃れるようにして。穴があったら入りたいと言わんばかりに身を縮こませて、ユウは申し訳なさそうに呟いた。

 

「……俺、ネクタイの着け方わからないです」

 

 社会人の男性で、ネクタイの着け方を知らない人間はいない。大抵の人間はほぼ毎日つけるし、そうでないとしてもスーツを着る機会なんて絶対巡って来るのだから、上手い下手の違いはあれど、やり方が全く分からないなんて奴は存在しない。

 

 が、しかし。

 

 ユウは社会人ではなく、高校生だ。

 

「そんな……いえ、確かにそうね。あなた学ランだし、普段着でも着けないだろうから……むしろ、知らないのが当然よね」

 

「……」

 

「いいのよ、ユウくん。別に恥ずかしいことじゃないの。誰だって最初は初めてで、ユウくんは今日がその日だったってだけ」

 

 どこまでも優しく、そしてユウのプライドを傷つけないように穏やかに。いっそ母性を感じさせるほど慈愛に満ちた表情の姫野は、慰めるようにしてユウの肩を叩いた。

 

「すみません、姫野さん。それ逆に心が抉られるっす……」

 

「ふふ……大丈夫。何も心配しなくていいんだから」

 

 ユウの手元のネクタイをそっと手に取った姫野は。

 

 ユウの目の前に立って、にっこりと笑った。

 

「ほら、つけてあげるから。首をあげなさい」

 

「「えっ」」

 

 思いっきり、顎をぐいっとあげられて。

 

 気づけば、姫野の顔がすぐ目の前にあって。

 

 ──ついでに何か、ふわりと良い匂いもして。

 

「ほら、逃げないの。やりにくいでしょう?」

 

「いや、あの、その……!」

 

 ──この人も、普通に顔がきれいなんだよなあ……!

 

 たとえ普段から話す人であったとしても。たとえ見慣れている人であったとしても。

 

「あらやだ、いっちょ前に照れてるのかしら?」

 

「うっ……」

 

「ふふっ……ユウくん、意外と可愛いところがあるわよね?」

 

 綺麗な妙齢のお姉さんにこうも肉薄されて、ドキドキしない男子高校生は存在しない。あえて語るまでもないが、首元のネクタイを結んでもらうというその行為は、決してただの知り合いの距離感ではない。それが許されるのは、あらゆる意味で特別な関係でしかないのだ。

 

「だ、だめーっ!」

 

 半ば押しのけるようにして、ユリが姫野をユウから引き離す。

 

 本当に、マジに助かった──と、ユウは心の底からユリの感謝した。

 

「……あなた、やっぱり束縛するタイプね」

 

「ち、違うもんっ! でも……そう! 姫野さんがいつもやってあげられるわけじゃないでしょ!? それじゃダメだと思う!」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

「……私がやるっ!」

 

「えっ」

 

 気づけば。

 

 ユウの目の前に、若干目を潤ませて頬を赤らめた──姫野にしてやられたからのせいに違いない──ユリがいる。その手には当然のごとくネクタイが握られていて、そしてその瞳は紛れもなくユウのことを捉えていた。

 

「……ユウくん?」

 

「お、おう……」

 

 うひゃあ、と声を上げそうになるところを、ユウは鋼鉄のごとき意志で捻じ伏せる。しゅるりとそれを首にかけられる瞬間、すっごく顔が近づいてきて……文字通り、吐息のかかる距離になって。姫野と違う良い匂いがふわりと漂ってくるのもさることながら、ユリの高めの体温まではっきりわかってしまって。

 

「……ん、くび」

 

「う、うん」

 

 くい、と指で顎を上げられて。

 

 なんだかとてもとてもくすぐったい様な、こそばゆいような。

 

「……」

 

「……」

 

 これはきっと、首元に手を掛けられているからだ。

 

 だから、こんなふうに妙な気分になるんだ。だから、妙に動悸が激しいんだ。

 

 きっとそうに違いないんだ。

 

 頼むからマジでそうであってくださいお願いします──と、ユウは心を無にするべく必至で祈りをささげた。

 

「えっと、えっとぉ……!」

 

 くいくい、しゅるしゅる。

 

 首元というか、胸元というか。ともかくその辺りが何やらもどかしい感じがして、そしてすぐ近くからユリの悩ましい声が聞こえてくる。

 

「頼む、なるべく早く終わらせてくれ……!」

 

「あ、焦らせないで……! 自分でやるのと違って、反対だとよくわかんないの……!」

 

「反転するだけだろ……!?」

 

「それがよくわかんないんだってば……!」

 

 焦る必要がどこにあるのかしら──と、姫野は冷静に考える。なんだかもう、一周回ってこの光景が滑稽に見えてきたというか、微笑ましく思えてきたというか。どんなにお金を出しても決して見ることができないアイドルのこんな姿を見られる自分は、もしかして世界で一番ラッキーなのかもしれない……なんて、そんなくだらないことを考える余裕さえあった。

 

「……二人とも、もしかしなくても緊張してる?」

 

「首に紐をくくられていて、緊張しない人間がいますか……!?」

 

「あら、認めるのね」

 

「ええ──ついでに言えば、必死になって我慢(・・)してますよ」

 

「「えっ」」

 

 姫野と、そしてもちろんユリの動きが止まる。

 

 あの、ユウに限ってそんなこと(・・・・・)はないはずだ──と、普段の二人なら自信をもって断言することができたことだろう。だけど、今のユウは明らかに普段に比べて緊張した様子で、それこそどこにでもいる男子高校生のように頬を赤らめ、所在なさげに視線を彷徨わせている。加えて、こんな密着状態ともなれば。

 

 もしかしたら、もしかするのも止む無しなのではあるまいか。むしろそれこそが自然なことなのではあるまいか。そう思えてしまうのも、無理からぬ話ではあった。

 

「──懐に入られたり、首に手をかけられたり。そういう致命的な状況には反射で対応(・・)するように叩き込まれてますから。自分の意志とか、関係なくね」

 

 姫野は、ユウから二歩ほど距離を取った。

 

「あ……なんだ、そういう意味かあ」

 

「……俺が言うのもおかしいけど、姫野さんの反応が普通だからな。むしろなんでお前はビビらないんだよ?」

 

「その時は責任取ってもらうだけだし?」

 

「お前……」

 

 ユウにとっての困りごとの一つ。ユリの言葉がどこまで本気なのか、どこまで冗談なのかまるでわからないところだ。普通に考えたら冗談のはずだけれど、しかし、こいつならやりかねない──なんて、奇妙な確信を覚えている自分さえもいる。悲しいことに、そう思えてしまう程度にはユウとユリの付き合いは深いのだ。

 

「……できた!」

 

 そして、気づけば。

 

 鏡の中の自分が、ネクタイをつけている。襟の無いシャツの上からつけているものだから少々違和感があるが、それでも普通に結べている──下手くそがぐるぐると巻いたような、不格好な感じにはなっていない。

 

 首元に立体感のある綺麗な三角形が形作られた、いかにもネクタイらしい結び方。もしユウにその手の知識が少しでもあれば、それがウィンザーノットと呼ばれる結び方であることに気づけただろう。

 

「ど、どう……?」

 

「おー……良い感じ」

 

「だよね!」

 

「でも、もうちょい締めたほうがいいかも……どうすりゃいいんだ?」

 

「こっちを引っ張るの!」

 

「ぐぇ」

 

 くいくい、くいくい。

 

 心の底から楽しそうに、ユリはユウのネクタイを引っ張った。当然、それに釣られるようにしてユウの頭も動くわけで。というか、サンプルとはいえお店のものに万が一があってはならないと、ユウのほうがその動きに合わせる必要があるわけで。

 

「んふふ……! もう、私のされるがままになっちゃったねえ?」

 

 おそらく、拳三個はないくらいの距離。そんな超至近距離に、いたずらっこのような笑みを浮かべたユリがいた。

 

「勘弁してくれ……」

 

「どうしよっかなあ!」

 

 この娘、なんか覚えちゃいけない遊びを覚えちゃったんじゃないかしら──と、姫野はユリのことが少し心配になった。

 

「ほら、そのくらいでいいでしょう? あとは帰ってから楽しみなさいな」

 

「あの、俺の意見は?」

 

 ユウのその言葉を華麗に無視して。そして姫野は、いまだにユウのことをガン見しているユリの腕を引っ張りながら言った。

 

「私たちは退散するから、採寸が終わったら声をかけてくれる?」

 

「えっ……行っちゃうんですか?」

 

「そりゃあね。あなただってやりにくいでしょう?」

 

「そうですけど……ガチな採寸とか、俺わかんないですよ……?」

 

「お店の人に任せておけば大丈夫よ」

 

 男子高校生(こども)の着替えや裸を見て楽しむような趣味は姫野にはない。ましてや、人のものを奪い取るような趣味だってない。何より、姫野はこれでも大人で、一応は子供に対し道徳や倫理を説く立場であるのだ。

 

 であれば──いい加減、暴走しがちなユリをこの場から引き離すのが、姫野の大人としての役割なのである。

 

「本当の本当に大丈夫なんですよね……!? 俺、マジでこの手のことはさっぱりわかってないですからね……!?」

 

「採寸だけでそんなに不安になる必要なんてないわよ……。難しい言葉で言ったとしても、結局はサイズを測っているだけなんだから」

 

「……わかんないことがあったら、電話してもいいです?」

 

 怯えた子犬のような表情を見せるユウを見て、姫野はなんだかたまらなく愉快な気分になった。

 

「はいはい、何でも聞いていいから……あ、さすがに金癖とか聞かれても困るけどね」

 

 だから、これは。

 

 普段の姫野からは絶対に考えられない、失言(うっかり)だったのだ。

 

 

 

「金癖……って、なんですか?」

 

「あ゛っ」

 

 

 

 確かに固まる空気。奇妙な沈黙が満ちる。

 

 姫野の内心の焦りに気づいているのか、いないのか。ある意味当然の帰結として、ユウは──姫野と同じくらいにファッション用語に詳しそうなユリに問いかけた。

 

「なあユリ、知ってるか?」

 

「ううん……私も初めて聞いたよ?」 

 

 ユリがその言葉の意味を知っているはずがない。いや、決して可能性はゼロではないのだろうが……もし知っていたとしたら、姫野はなんだかちょっぴり悲しい気分になることだろう。

 

「マジか……お前も知らないガチな専門用語かよ。事前に聞いといて正解だったな」

 

「うーん……私もそれなり程度には詳しいつもりだったけど。やっぱりまだまだ知らないことは多いんだなあ」

 

 見つめあって、不思議そうに首をかしげる二人を見て。

 

 そして、次の瞬間に自分に訪れるであろう未来を幻視して。

 

 姫野は、数秒前の自分を呪いたくなった。

 

 

 

「金癖ってなんすか、姫野さん?」

 

「教えて、姫野さん!」

 

 

 

 無邪気な、きらきらした瞳で聞いてくるユウとユリに対して。

 

 姫野は、大人としての精一杯の威厳を保ちながら、静かに答えた。

 

 

 

「──子供は知らなくていいことよ」

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