ガラリアがいなくなる。それは罰なのか。愛する者を蔑ろにし、欲望に飲み込まれて生きていた俺への報いだとでも言うのか。それにしたってあんまりだ。地獄の責苦を負うのは俺一人で十分なのに。
病院から架かってきた電話に出てからは、頭が真っ白になった。ガラリアが交通事故に遭い病院に運ばれたという状況を、側にいた同僚にどう説明したのかも覚えていない。おそらく俺は気が動転していて、呂律も怪しかっただろう。それでも同僚は冷静に事態を把握し、すぐさま会社にタクシーを手配するとそれに俺を乗せてくれた。
しかし目的地のシアトポリス総合病院に間もなく到着するという地点に差しかかったところ、俺が乗ったタクシーは渋滞に巻き込まれた。その頃には俺の判断力は多少働くようになっていたので、タクシーを降りて自分の足で病院へ向かうことを決めた。シアトポリス総合病院は比較的に地元の施設のため、迷うことはないと踏んだ。
病院に向かう俺の姿は、周囲の目にはさぞ不気味に映っただろう。霜が降りる程寒い日が続く冬の最中、滝のように汗を流しながら息を切らして俺は走る。走ると言っても、足は全身を駆け巡る恐怖にもつれて、その度に何度も転びそうになる。
形振りかまってはいられない。俺は文字通り這ってでもガラリアの許へ行かねばならないのだ。
街の雑踏を抜けると視界が開け、見慣れた景色が広がった。気づけばついこの間、買い物帰りにガラリアと散歩をした公園の前を進んでいた。あの時、葉を全て落とした桜の木々が並ぶ物寂しい遊歩道を手を繋ぎ歩きながら、「春になったらまた来よう」とガラリアは言っていた。
そして公園を通り過ぎると、今度はガラリアの淹れるコーヒーの甘さが突然口の中に蘇った。これでもかと言わんばかりに白砂糖を入れてコーヒーを飲んでいる甘党の俺を見て、ガラリアはいつも目くじらを立てていた。そしてある日、通販で購入した高そうな黒砂糖を料理に使い始めて「こっちの方が健康にいいの。高いからむやみにたくさん使わないでね」と自論を展開し、ついでに俺の砂糖摂取量も管理するようになったのだ。
きっかり中さじ二杯分の黒砂糖が入ったコーヒー。控えめの甘さのそれを二人で飲むのが心安らぐひと時になっていた。
他愛もない会話を繰り返すだけのワンシーン。続くことが当たり前だと思っていた日々の光景。次々と頭に流れ込んでくる。
恐ろしくて、仕方がない。まるで現実が「鮮明に思い出せるのはこれが最後だ。あとはもう、色褪せていくだけだ。これからお前達の思い出が増えていくことはないのだから」と嘲笑っているようだ。
これ程までに自分が惨めで無力な男だと思ったこともない。想像を膨らませては非日常の世界をいくつも頭の中につくり出しているのに、我が身に降りかかった非日常にはなす術もなく翻弄されている。
何かに急き立てられるように進み続けていると、シアトポリス総合病院の案内板が見えた。
病院の正面玄関から中へ飛び込む。俺の凄まじい形相に呆気に取られていた受付の職員へガラリアがいる病室の場所だけ聞き出すと、一目散にそこへ向かった。
そして無心で扉を開ける。祈りを込める暇なんてない。
「シュワルツ……?」
リクライニングベッドで上体を起こして寝ていたのは、俺の女神だった。
つぶらな瞳はさらに大きく見開かれ、髪も服装も呼吸も何もかもが乱れている俺の姿をしっかりと捉えている。
「居眠り運転の車に交差点で接触しちゃったけど、軽い打ち身で済んだのよ。経過観察で入院が必要だけど、検査も異常がなかったから三日くらいで退院できるって」
いつもと変わらず穏やかな、それでいて芯の通ったガラリアの声が耳に響く。
俺は息を弾ませながら、ふらふらとベッドの傍らに歩み寄った。
「事故現場でスマホを落としちゃったから、病院の人から電話してもらったの。そんなに慌てて……最後までちゃんと話を聞いてなかったのね? 本当に、せっかちなんだから……」
「俺は……」
堰を切ったように涙が溢れ出し、頬を伝う。
喉から絞り出した声は上ずり、みっともなく震えていた。
「生きていけない。君なしでは生きていけない……‼」
そのまま膝を突き、縋りつくようにガラリアの膝元へ顔を埋め、むせび泣く。
「そうね」
ガラリアは身を乗り出し、殉教者の魂を導く聖母のように慈悲深く俺を抱いた。その華奢な身体で俺の全てを包み込んでいた。
「シュワルツは物を書く以外何もできないんだから、私がずっと一緒にいてあげないとね。だから大丈夫。私は……あなたを置いて、いなくなったりしない」
その表情を窺うことはできなかったが、彼女の声も微かに震えていたようだった。
ひとしきり泣いた俺はようやく落ち着きを取り戻し、ガラリアの入院手続きをするために再び病院の受付へ寄ることになった。
俺に対応したのは、栗色のくせ毛と人懐こい笑顔が印象的な若い男性の職員だった。泣き腫らした目の俺を訝しむでもなく憐れむでもなく、終始快活で感じのよい接遇をしていた。
「そうだ、シュワルツさん」
手続きを終えると、その職員は一度席を立ち、執務室の奥から片手にスマホを持って現れた。
「さっき事故現場でガラリアさんのものだと思われるスマホが見つかって、こちらで預かってるんです。間違いなければ、ガラリアさんに渡してもらえますか?」
「確かに妻のスマホです。御親切に、どうも」
「今日はいろいろ大変だったと思います。シュワルツさんも、ゆっくり休んでくださいね」
そう言うと彼は見る者の心を癒すような柔和な笑顔を俺に投げかけた。なんて思いやりに溢れた好青年だろう。
年下の彼からの余裕のある気遣いに、ぼろぼろの姿の自分がいささか気恥ずかしくなった。俺はスマホを受け取るとぎこちない微笑を浮かべて会釈をし、足早に受付を後にした。
ガラリアがいる病室に戻るためエレベーターに乗った。
そして動き出したエレベーターの中で、握りしめているガラリアのスマホに目を遣る。見つかったスマホは特に目立ったキズもないようだった。
壊れていなければいいが。そう思って何気なくスマホの電源ボタンを押した途端、映し出されたロック画面から目を離すことができなくなった。
そこに現れたのは、喜びの中で抱き合う男性と女性のイラスト。
『俺の理解者は……ごんぎつねさんだけだ……』
過去の自分の言葉が頭の中でこだましている。
見間違えるはずはない。それはごんぎつねさんと俺だけが知っている、俺の作品のために描かれた挿し絵。
胸に込み上げる感情に再度俺の目頭は熱くなった。
「ガラリア、君だったのか。いつも、いいにゃをくれたのは……」