──2007年 9月
9月に入ったというのにその日はまだ茹だるような暑さで、蝉もミンミンと鳴いていた。
夏油傑、離反
厳重な封印を施され、アキは縄や札で雁字搦めになって寝ていた。その寝顔はどこか苦しそうであるが仕方ない。
高専が吹っ飛んだあの日。タイミング良く五条がいたから死人は出なかったが、五条があの場に居なかったらきっとアキは高専内部に居た人間を鏖殺し、非術師まで手にかけていたに違いないだろう。
五条の術式反転「赫」をくらい意識と共に人体を半殺しにされたアキは、そのまま家入の反転術式によって全快した。しかし、目が覚めてまた暴れられても困るので、意識が戻らないうちに高専に居た術師総出でアキに封印を施した。そのため、今のアキは寝返りさえうてない身体となっている。
封印を施されたアキはとても痛々しく見ていられなかった。けれど、救いもあった。
五条曰く、「早川と「お姉ちゃん」の繋がりは完全に消えてねぇよ」とのこと。六眼で本当に注意しないと見つけられないほどギリギリ薄い糸が一本、繋がっているらしい。ならば絶対に「お姉ちゃん」はアキの元へ帰って来るはずだ。それまでの辛抱だと、封印されて眠っている同期を見ながら七海と灰原はキツく拳を握った。
ーーそしてアキが封印を施されて一ヶ月後、「お姉ちゃん」は帰ってきた。奇しくもその日は夏油傑が離反した日でもあった。
『アキ、アキ。目を覚まして』
「…ねぇ、さん」
『うん。お姉ちゃんだよ。一人にしてごめんね。ただいま』
「ねぇさん、姉さん!!」
厳重に何重にも縛ってあった封印は「お姉ちゃん」の前では容易く解かれた。さすがの特級呪霊と言うべきか。封印が解かれ、パチリと目を覚ましたアキは「お姉ちゃん」を見て目をまるまるとさせた。
本物? …本物だ。だってアキが「お姉ちゃん」を見間違う筈ないもの。
子供のようにわんわんと泣くアキの頭を「お姉ちゃん」は困ったように笑いながら撫でた。
「また、
『…帰ってきたよ。だから泣かないでアキ』
「うん…。でも……次、居なくなる時は一緒だ…」
アキの言葉を聞いて「お姉ちゃん」は固まった。けれどすぐに『うん』と頷いた。「ぜったいだからな…」そう言ってアキは目を瞑る。先程まで封印をかけられていた疲労と、封印は決して体力を回復出来る術ではない。即ち、家入から身体の傷は治してもらったものの、あの時放出した呪力は一切回復していないのだ。「お姉ちゃん」が帰ってきた安心感と枯渇した呪力を回復するため、アキの意識は強制的にシャットダウンさせられる。
でも、「お姉ちゃん」が居なくならないという不安が消えないのかアキは「お姉ちゃん」の腕を掴んだままそのまま気絶したのだった。
「ねぇ、お前死ぬ気だったでしょ」
『……五条くん』
きっと封印が解かれたことはいの一番にわかったハズだ。だが、敢えてアキが寝静まった頃にやってきたであろう五条の瞳孔は開きまくっている。壁にもたれかかり、腕を組んでいる五条は怒りが隠せていなかった。その怒りはアキには向かれていない。彼はきっと、ここに来るまでに色々あったのだろう。何となく「お姉ちゃん」はそれを察することができた。
「灰原と七海が言ってたよ。「初めて早川のお姉ちゃんを見ました」ってね。この俺でさえ六眼っていう特殊な瞳を駆使してもお前は黒く塗りつぶされて顔すら認識出来ない。なのに急に具象化からの姿を現した…それはお前と早川の間で交わされる縛りが関係してるんだろ」
『…いい加減アキには姉離れして欲しいんだけれど……どうやらまだまだそれは先みたい』
アキの頭を「お姉ちゃん」は撫でるけれど、アキのサラサラな髪の感触は一切感じられない。人ではないこの身体は、実態を持たず幽体だ。アキには「お姉ちゃん」が
「……傑が離反した」
『そう。その予兆は出ていたから時間の問題だとは思っていたけれど…案外早かったのね』
「知ってたのかよ」
『今にも人を殺しそうな顔をしていたらそりゃあ気づくんじゃない?』
「じゃあなんで救ってやらなかったんだよ」と五条の雰囲気がそれを「お姉ちゃん」に告げていた。そんな雰囲気を感じ取って「お姉ちゃん」は笑う。乾いた笑みだ。
『五条くんも家入さんも夏油くんの変化に気づいておきながら後回しにしていたじゃない』
そう言いながら「お姉ちゃん」はアキの頭を撫でるのをやめない。労るようにずっと愛おしそうに。頭を撫で続ける。どうか、幸せな夢が見れますように、そう願いながら。
『私はね。五条くんや夏油くんがどうなろうとどうでもいい。正直に言うと、灰原くんや七海くんもそれに含まれる。でも、あの二人はアキのお友達だから。
「……」
『それに何だかんだ、彼は隙あらばわたしを手駒にしようとしていたでしょう。私の存在を脅かす者をどうして救けないといけないの?』
「それは、」
『私はアキさえ生きていてくれれば、アキが「幸せ」でいてくれれば何も望まない。人が死のうがどうでもいい。アキが無事なら私は痛くも痒くもない』
「…ホント、お前は「呪い」だよ」
そう。「お姉ちゃん」は人間じゃない。「呪い」だ。たとえどれだけ人間っぽく見えていたとしても。所詮それは「呪い」でしかない。酷く利己的で排他的な存在なのだ。
『だからね五条。今回は見逃す。私が不用意に離れたせいでアキの中に溜まっていたアキの呪力とーー
ーー寒かったよね、アキ
ーー痛かったよね、アキ
ーー辛かったよね、アキ
ーー怖かったよね、アキ
ーー苦しかったよね、アキ
ーー寂しかったよね、アキ
ーー悲しかったよね、アキ
この部屋は冷えきっている。当たり前だ拷問部屋に暖房なんてついているわけがないのだから。むき出しのコンクリートと地面に散らばった鎖、そして誰のか分からない無数の血痕。あと、灰と化した呪符。
青白いアキは寒そうだ。でも幽体である「お姉ちゃん」にアキを温めてあげる手段はない。具象化すればそんなのは簡単に叶ってしまうけれど、あれは大量の呪力を必要とするし。それに、きっと正気であるアキの前に実態で現れたらーーアキは満足してしまう。それだけはダメだ。アキには生きて欲しい。生きる希望に向かって走っていて欲しい。幸せに、なって欲しい。
「…じゃあ、手を貸せ。俺は何も知らなかった。傑がどうして離反したのか、何も知らない無知で馬鹿な男だった。慢心してた。アイツなら強いから大丈夫だって。声をかけなくても勝手に隣を歩んでくれるものだと、そう思い込んでた」
壁に寄りかかっていた五条は二歩、歩くと寝ているアキに自身の上着をかけた。
「早川がやらかしたこの前の件で上はビビってる。そんな時に貴重な特級呪術師である傑が離反した。このままじゃ早川は死刑の道しかない」
だから、と言葉を五条は更に紡ぐ。
「俺は何としても早川を死刑なんかにはさせない。普通に人並みに幸せだったって言えるような、そんな生活を俺が提供する。だから、腐った上層部をぶち壊すのに協力してくれ」
『…人並みの幸せが一番難しいって知ってた?』
「分かってるよ」
『……上層部云々はアキに聞いて。でも、五条、貴方たちがアキと敵対しない限りは私は貴方たちを殺さない。その縛りだったら結んであげる』
「上等。んじゃ、その「貴方たち」は高専に通ずる者にしとくか。じゃねーとおじいちゃんたちを皆殺しに出来ねーもんな」
『勝手にして』
「勝手にするよ」
口元に笑みを浮かべた五条を見て「お姉ちゃん」は悟った。
ああ、
*
「マキマ。きっとあいつらはこの先、邪魔な存在になる。今、殺して置いた方が良かったんじゃないか?」
「私と早川姉弟のことに関して一切の口を出さないって言う約束だったハズだよ」
「分かっている。だから行動には移してないじゃないか」
とあるバーカウンターで。ウイスキーを嗜みながら男と女は話していた。
「マキマ」と呼ばれた女はグラスの中に入っている丸い氷を突きながら「本当かな」と笑った。
男はマキマの生みの親だ。彼女は彼の実験の産物で生まれた。それには感謝しているけれど、信頼しているかと聞かれればそれは別だ。だって彼女も彼も人間じゃないもの。
「それにしても、早川ちゃんは怒ってたね。あの子たちが私を「マキマ」にしてくれたのに、あんなに怒ってて…愉しかったなあ」
一体、早川ちゃんは何に怒っていたのだろう。彼女が「マキマ」の姿をしていたことかな? それともーー。ふふふ。
「私は
「前々から気になってたんだけど、キミは一体何を知っているんだ」
男のといにマキマは笑みを深めるだけ。
カランとグラスの中の氷が動く。
「何だと思う?」
「是非とも五条悟の殺し方だと嬉しいな」
「そんなの知るわけないよ」
くつくつとマキマは笑った。彼は随分と五条悟にお熱らしいけれど、彼女は全くもって興味が無い。彼女はもしかしたら五条悟を殺せる存在かもしれないけれど、きっと五条悟も彼女を殺せるのだろう。私が
「私は羂索に生み出されてからずっと、ずっと早川姉弟だけを見てきた。あの二人の奥底は恐怖心だらけ。私の術式にちょうど良かった。「マキマ」っていう女凄いんだよ? 術式チートだし」
「支配呪法だったかな」
「そうそう。流石に
ーーそのためにも早川くんをたっぷり幸せにしないとね。
地獄ってのは頼んでなくてもやってくるものだからさ。