ヘンカツ部   作:神無月彩歌

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彼女たちの性嗜好事情

 五月初旬。世の中はゴールデンウィークを迎えていた。

 この時期になると、近しい者と交友を深めたり、旅行に出たりする人が多くなる。

 空の場合、友人と呼べる者は少なく、本来であれば出掛ける事はない、寂しい週になるはずだった。

「……おにぃ、どっかに行くの」

「んぁ? あぁ、まぁな」

 そんな空の恰好はというと少し遠出をするオシャレめいた衣服に身を包んでいた。

 ラフ過ぎず、派手過ぎない、健全な男子高校生のファッションであった。

 空は時間を確認すると、デジタル時計は八時十七分とデカデカと表示している。

「相変わらず早起きだよな。二度寝とかしないの?」

「ん~、ちょっとしたよ。けど、なんかこの時間に目覚めちゃうんだよね」

 生徒会に所属している海は、生活習慣として早起きが身に付いている。

 それゆえ、祝日であっても海は早起きをし、健康的な朝を迎えていた。

「海はどっかに行かないのか?」

「今日はどこにもいかないよ~。こうして、自堕落に時間を潰すんだ~」

「花のJCが出歩かないとか、非リアなやつめ」

「そういう、おにぃはどうなの?」

「ふっふっふっ、俺はこれから、ドゥェィト(デート)に行くんだもんね!」

 空はポケットから一枚の紙切れを取り出し、海に突き付けて見せた。が、

「…………はっ(笑)」

「何で鼻で笑うんだよ!」

 海の目には哀れみにも似た感情が含まれていた。

「いやいや、中学の頃にボッチだったおにぃに、彼女が出来るとか……乙ウケ」

 ぷぷぷ、と小ばかにした笑いをする海。事実なだけに、空は何も言い返せないでいた。

「それに、おにぃの性癖を理解出来る人って、よっぽどのマニアか物好きな女の子かもね」

「……ふ、ふーん、いいもん。俺は本当の事しか言ってないしー!」

 全てが事実なだけに、子供のように拗ねる空。

 しかしマニアと物好きな女の子、という部分まで言い当てた海を、エスパーか何かだと疑ってしまう。

 あの三人が空に好意を抱いているかは、さて置いての話ではあるが。

「はぁ~、おにぃキモい」

「あ、そ。まぁ、いいや。海の言ってる事、全部事実だしな」

「切り替え早くない? まぁ、そこがおにぃの良いとこではあるけど……」

「余計に否定するから墓穴を掘るし、誤解を生むんだ。過剰反応が活きるのは、テレビの中と、その場のノリだけなのさ……多分」 

「そこは言い切らないんだね」

「その場で思いついた自論だからな……っと、そろそろ時間だな。んじゃ、俺行ってくるわ」

「はいはい。いってらいってら~」

 バックを背負って、空は駆け足で家を出ていった。霜野家に残されたのは、海ただ一人だけ。

 父親は会社に赴き、専業主婦の母親は、ママ友と羽を伸ばしに出ている。

 リビングには響くのは、ゴールデンウィークの特集を組んでいるテレビ番組の音だけ。

 兄の出ていった玄関口に目をやるが、当然そこには空の姿が無い。

「デート、ねぇ~。…………羨ましいぃ」

 ソファの上にあったクッションを抱きかかえ、海は乙女としての願望を吐き出した。

        □

 集合時間は九時三十分。

 場所は玉鋼高校から徒歩五分の所にある和菓子メインの喫茶店。

 早めに家を出た空は、二十分前にこの喫茶店に辿り着いていた。

 店は喫茶店という形を保ちながら、全体的に『和』をイメージした内装が施されている。

 落ち着いた雰囲気と、好物の抹茶ラテが飲めるという事もあり、空は大いにこの店を気に入っている。

「あぁ、お金足りるのかな……」

 テーブルに置かれた抹茶ラテに口を付けて、空はため息交じりに一人愚痴(ぐち)る。

 宝探しゲームの報酬は、桜、柚子、姫乃とのデート。

 三人とも容姿に優れており、空の性格や趣味嗜好の理解者でもある。 

 思春期男子達にとって、これほど羨ましい状況はあるのだろうか。

 断じてないと思われる。

 しかしこのデート、空の財政を破綻させてしまう可能性を孕んでいた。

 チケット代に加え、食事代、ショッピング代、お土産代など、彼女達を満足させるために必要なお金は多く、非常に計画性がいる事となっている。

「今日は柚子さんと付き合うから……」

 つぶやいた言葉は、三股をかけているクズ男を連想させ、空の脳内で刺されてしまう未来を予測させた。そんなことを考えている暇はないと、頭を振ってリセットする。

「オタクはお金が掛かる。これは常識だ。問題は姫乃と桜さんなんだよな……」

 注文した季節限定のたい焼きを食べて、糖分を補給しながら財政案を思案する。

 口の中に広がるのは、サクランボの甘酸っぱさと、それを補助するカスタードクリーム。

 しっとりめで焼かれたたい焼きと相性が良く、曇っていた脳内をサクランボの甘酸っぱさが晴らすかのようだった。

 つまり、美味しかったのである。

「う~ん、どうしたものか……」

「なに悩んでるの?」

「おわっ⁉ ゆ、柚子さん⁉」

 店内に空の声が響く。周囲にいたお客は何事かと、空と柚子のいる席に目を向けた。

「ちょ⁉ 空君、大きな声出さないでよ。こっちが恥ずいじゃん!」

「す、すいません。急に声をかけられたので、ビックリしちゃって……」

 赤面した顔を冷やすため、柚子はパタパタと手で仰ぐ。

 空の向かいの席に座ると、柚子は一息ついてから店員に注文した。

「んで、何で悩んでたの?」

「いや、そんな大したことじゃないですよ」

 一緒にデートをする相手の前で、金銭の話は好感度を下げてしまう可能性が高い。

 デートの経験が無い空だったが、それ位の事は察する事が出来た。

 勘ぐられる前に、別の話題を切り出して、そちらにシフトさせることにした。

「柚子さんの私服って、意外とオシャレなんですね」

「意外とは余計だよ。でも、嬉しい。ありがとね空君」

 柚子の服は、薄紫のカーディガンと淡いピンクのフレアスカートを組み合わせた、春らしいコーデ。

 少し肌寒い季節ではあるが、柚子の服装はその点もきちんと考慮されている。

 声優ライブに赴く服装とは思えない、場違いな衣服じゃないかと空は思ってしまう。

 丸眼鏡を掛けて、最初からオタクモードになってはいるが、柚子の可愛さは損なわれていない。

「てっきり柚子さんは、ガッツリオタク系の服を着て来るのかと……」

「まぁ、悩んだんだけどさ。今回はデートって事だし、ちゃんとした服装で行こうと思ったの」

 その事を話す柚子の顔は、少し赤くなっていた。それを聞いた空も同じく顔を赤くする。

「せ、声優さんのライブって、この近くでやるんですね」

「あ、そ、そうそう。あたしも抽選に応募したんだけど、見事に外れちゃってね」

 お互い赤くなっている事を誤魔化すために、少々強引に話題を別のものにシフトする。

「そう思うとなぞなぞ部って、すごいですね。本当になぞなぞを作ってるだけなんですかね?」

「さあ? でも……。デュフ、楽しみ」

 可愛い乙女になっていた柚子はどこへやら。

 キモオタな笑い声をあげ、先のライブに期待を寄せる。

 だが、楽しみにしている彼女の笑顔は輝いて見え、空は見惚れてしまう。

「空君って、何飲んでるの?」

「お、俺は抹茶ラテを飲んでます。ここの店の方が、抹茶の苦みがあっておいしいんです」

「空君って意外と渋いんだね」

「そうですか? 自分では分かりませんけど……。あ、変人なのは分かります」

「自分の事を変人、って言えるのはすごいと思う……」

 柚子に半ば呆れ顔をされる。

「お待たせしました。こちら、ほうじ茶ラテとカスタード大福になります」

「あ、来た来た。前から気になってたんだよね~」

「柚子さんそれ頼んだんですか? 俺もちょっと気になってたんですよ」

「そうなの? じゃあ、そのたい焼きと一個交換しよ?」

「え? いいんですか? これ、ちょっと冷めてますけど」

「いいのいいの。季節限定のたい焼きでしょ? それ美味しいよね~」

 お互いのお茶うけを交換するその様は、他人から見れば微笑ましいカップルのようだった。

 今この場に、玉鋼高校の生徒がここにいないのは、空にとって幸運だったと言える。

 この甘々な状況を見られたのなら、誤解され、多くの男子達を敵にしてしまうであろう。

「ん~、このたい焼き、おいしい~」

「この大福も美味しいですね。なんていうか、雪見大福みたいで。意外に抹茶ラテにも合うし」

「ねぇねぇ、空君の抹茶ラテ、少し飲んでみてもいい?」

「いいですよ。飲んだことないんですか?」

「実はそうなんだよね。抹茶って、すごく苦いイメージあるし」

「ラテなんで、苦みは軽減されてますよ。抹茶の香りがするくらいです」

「そうなんだ。じゃあ、あたしのほうじ茶ラテと、ちょっと交換しようか」

「いいんですか? 実はほうじ茶ラテ、初めてなんですよ」

「お互い初めてどうしだね」

 恥ずかしげもなく言う柚子に、少し照れながらも自身の飲んでいた抹茶ラテを渡す。

 顔に熱が集まる前に、柚子のほうじ茶ラテに口を付ける。

 ほうじ茶特有の香ばしさに加え、ミルクの優しい甘さが口の中に広がる。

 ひんやりと程よく冷えているほうじ茶ラテは、初めて飲んでみたが、なんとも美味であった。

「意外とおいしいですね。これなら、このたい焼きにも合いますね」

「そうでしょ? 空君の抹茶ラテも甘くておいしいね。なんで流行らないのかな?」

「それはやっぱり、抹茶だからだと思いますよ」

「あぁ~、なんか納得しちゃう……」

 そう言って、お互いの飲み物を再び交換する。

「はぁ~、コーヒーよりもお茶派なんだけどな~」

「それ、分かります。俺はコーヒーのあの後味が苦手なんで……」

「あたしは味全体かな。紅茶とかと違って、味覚に訴えかける感じがね~」

 コーヒーの味を思い出したのか、ほうじ茶ラテに口を付けて、柚子は味覚の記憶変換をする。

 美味しそうに舌なめずりをする柚子だったが……

(ん? 当たり前に空君の飲んじゃったけど……)

 ふとそんな事を思ってしまい、向かいの席に座っている空の方に目を向ける。

 視線を向けられている当の本人は、美味しそうに抹茶ラテを飲んでいた。

 気のせいか自分が口を付けた場所に、空の唇が重なっているように見えてしまう。

「ん? どうしたんですか? もう一口飲みますか?」

 視線に気が付いた空は、もう一度抹茶ラテを飲みたいのかなと勘違いをする。

「あ、う、うぅん! 何でもないの」

「そうですか……」

(はぁ~、あれは、間接キスな気がする……)

 柚子の中にある乙女心が反応してしまう。

 一度気になった事が頭から離れず、ついつい空の唇に視線を移してしまう。

(こういうのって、あたしのキャラに合わないんじゃ……)

「今更ですけど、これって間接キスですよね?」

「うえ⁉ あ、あぁ、うん、そうだね。あは、あはは。空君はこういうのって気にするの?」

「まぁ……はい。……気にします」

 頬を紅潮させ、照れながらも空ははっきりと言う。

「柚子さんはその~、可愛いですから……」

「ちょ⁉ ダイレクトにそういうこと言うなし~。こっちまで赤くなるじゃん」

「元から赤かったですよ」

「嘘つくな!」

 照れ隠しに、空の足をゲシゲシと蹴る。

 異性から『可愛い』と言われたのは、柚子にとって初めてのことだった。

 まるで、漫画や娯楽小説の中の主人公とヒロインのようだと。

 オタクで乙女な柚子にとって、このような状況に陥るのは憧れでもあったが、あまりの気恥ずかしさに少々後悔のようなものが生じていた。

「ていうか、簡単に女の子に可愛いとか言っちゃだめだよ」

「事実ですから仕方ありません」

「……空君、なんだか楽しんでない?」

「いや~、柚子さんの反応が面白くってつい……」

「もう~、先輩をからかうんじゃな~い!」

 空の額をポカポカと、何度も小突く。

「いてて、そ、そういえば俺、ライブって初めてなんですよ」

「……ふ~ん、そうなんだ。なら、あたしが色々教えてあげる。せ・ん・ぱ・い・と・し・て」

 少し調子に乗ってしまった事を反省し、空はやや強引にではあるが、話題をライブの方に切り変える。

 からかわれた事を根に持っているのか、柚子は年上である事を強調しながら、ポシェットから二つの棒のような物を取り出す。

 それはオタクの必需品、サイリウムであった。

「大きい会場だったら、もっと派手で色んなやつを持っていくけど、今回はこれでいいかも」

 柚子の手渡したサイリウムは、使い捨ての物ではなく電池で稼働する物。

 手元のスイッチの押し方次第でオンオフと、色を変えられる機能が付いている。

「赤と青と緑の色が出るから、アタシのを見ながら色を変えて。あとは……」

 柚子にあれやこれやと、オタク術を教わる空。

 そうこうしている内に、ライブ会場に入場できる時間帯となっていた。

「よし空君。いざ戦場へ!」

「それって、コミケとかに使いません?」

 二人は心意気をオタクモードにシフトし、喫茶店を後にした。

        □

 声優ライブは大盛況だった。

 ライブが終わっても、会場を後にするお客の殆どがその熱を持ったまま、友や同志と語らいながら帰宅していく。

 柚子と空も周りの同志達と同調し、声を張り上げ、サイリウムを振って、声優達に声援を送っていた。

「声優さん、すごく近かったですね」

「そうだね。カミヤン、マジで近かった」

「あやるん。可愛かったですね」

「マジ天使だったね」

 当然、熱狂した声優ライブが終わっても、柚子のオタク魂の火は消えることが無く、空達は近くのカラオケ店で語り合う事にした。

 しかし、カラオケ店には声優ライブから流れて来た客が多く、空と柚子が借りられたのは一人用の部屋だった。

「……意外と広いね」

「……そうですね」

 置かれていたソファーは小さく、空と柚子はくっ付くようにして座っていた。

 変な空気が二人の間に流れ、オタク談議をしようにも、気まずさが勝ってしまい、話しが進まないでいた。

「俺、飲み物持ってきます! 柚子さんは、何飲みますか?」

「うぇ? あ~、じゃあお茶で」

「分かりました、持ってきます。柚子さんは何歌うか選んでてください」

「う、うん」

 慌ただしく部屋を退出し、空はドリンクバーに向かった。

(何で俺は緊張してるんだ? あれよりも、ロッカーに隠れてた時の方が……)

 思い出そうとする脳を振って、記憶の再生を止める。

 考え込む間に、お店専用カップには波々と飲み物が注がれていた。

 零さないように持ち、柚子が待つ部屋へと向かう。

「お待たせしましたー。結構多く入っちゃったんで、取るときは気を付けてください」

「うん。ありがとう。空君も来たことだし……柚子、お先に歌います!」

 マイクを握った柚子は、カラオケ専用タブレットを起動させる。

 部屋のスピーカーから音楽が流れ出し、画面からは歌詞と一緒にそれに合った映像が流れる。

「これって……」

 声優ライブの時の曲が部屋に流れる。

 イントロで察した空は、飲み物をテーブルに置き、柚子のポシェットからこぼれ出ていたサイリウムを握った。

 そして、リズムよく振り出す。

 柚子の歌は上手く、採点マシーンは八十点台を表示する。

「ふぅ~、久々に歌ったわ~」

「柚子さん、上手いっす!」

「おだてても何も出ないよ。はい。次は空君の番ね」

 照れながら持っていたマイクを空に渡す。

 空の選曲した音楽がスピーカーから流れ出す。

「おぉ~、2000年代アニメの歌を出すとは……」

「ちょっと古いんですけど、好きなんですよ」

 歌い出しに余裕があり、柚子と少しだけ言葉を交わす。

 空が歌い始めると、柚子はもう一本のサイリウムを持って、曲に合わせて振り始める。

 空が歌い終わると、採点マシーンは七十点台を表示した。

「柚子さん、よく分かりましたね。俺の歌うやつって、あんまり知られてないと思ったのに」

「甘いね空君。2000年代のアニメっていうのは、あらゆるアニオタが通る道なんだよ。空君の歌ってたアニメにも、新人時代のあやるんがヒロインの友達役で出てるんだよ」

「あぁ、知ってますよ。確かあれがデビュー作ですよね?」

「ちっちっち。本当に読み込みが甘いよ空君は。あやるんの声優デビューは90年代だよ」

「そんな前からなんですか?」

「そうそう。ちなみに、カミヤンが2000年代のアニメでデビューしてるんだよ」

 歌った曲から、声優ライブに登場していた声優さんの話へと繋がっていく。

 幹から枝葉が広がっていくように、オタク談議をした後、再び柚子はマイクを握った。

 柚子は大きく息を吸い込み、ハイスピードで流れる歌詞を歌っていく。

 息継ぎの限界まで来た後、ようやく少休止が挿まれ、柚子は一息つくことが出来た。 

「柚子さん、消失まで歌えるんですね」

「ここまで来るのに、コツがいるんだよね」

 再び歌詞が入り、柚子は再び歌い出した。

 三度のハイスピード歌詞を乗り越え、ようやく柚子の選んだ曲が終わった。

「お疲れ様です」

「はぁ、はぁ……つ、疲れた~」

「あれを歌い切るのはすごいですよ。はい、お茶」

「あ、ありがとう。あ~、消失歌ったら、暑くなっちゃた。……んしょっと」

 涼しさを求めて、柚子は着ていたカーディガンを脱いだ。

 突然の事に空は対応できずに、脱ぐ瞬間を目の当たりにする。

 ほどよく汗ばみ、肌の露出が多いキャミソール姿の柚子から目が離せなくなってしまう。

「な~に見てるの~?」 

「あぁ~、いや、み、見ましたけど……」

 柚子に言われてようやく目を逸らす空。

 柚子は悪戯な笑みを浮かべ、空をからかい始めた。

「今の、いやらしい~視線だったよ~。もしかして、カラオケに誘ったのって~……」

「ち、違います! 断固として! あぁ、でも柚子さんに魅力が無いわけでは……」

「あっはは。空君ったら、焦ってる~」

「つ、次、俺歌いますね。えぇ~っと……」

 逃げるように、次に歌う曲を探しだす。

 選曲した曲の出だしが流れ出し、液晶に表示される歌詞に沿って歌い始める。

 歌声に乗せて、鬱憤(うっぷん)のような物を吐き出していく。

「空く~ん? これって、責めに責めたアニメのやつでしょ? 本音が隠しきれてないよう?」

(う、うるさい!)

 空の歌っている曲は、歌詞の端々に下ネタが織り込まれている。

 アニメと音楽が一体となっているこの曲は、空が気に入っている曲の一つだ。

 オープニング曲とエンディング曲、共に責めたものであり、歌詞も可笑(おか)しいので、カラオケで必ず歌うようにしている。

「空君らしさが出てて、良いと思うよ~」

 小悪魔的笑みを見せながら、柚子は手元のお茶に口を付ける。

 歌い疲れた空も、テーブルに置いてあった、自分の飲み物に口を付けた。

「もういいじゃないですか」

「ごめんごめん。空君の反応が面白いから、ついからかっちゃった」

 てへっ、とあざとく可愛さを演出する柚子に、悔しくも胸が高鳴ってしまう。

 しかし、それを悟られればまたからかわれてしまう。

「ここらで少し、お話しませんか? 体力の回復もしたいですし……」

「う~ん、そうだね……。いいよ、あたしはまだ大丈夫だけど、空君に合わせてあげる」

「ありがとうございます。それじゃ、柚子さんのオタクの起源について聞いてもいいですか?」

「あたしのオタクの起源?」

 小休止を入れるためという名目を立てて、空は柚子のオタクの起源を聞いた。

「そこまで至るのに、多くの修羅場を潜り抜けて来たと、お見受けしましたに存じます」

「ふふ、それ何のキャラ? でも、大したことじゃないよ」

 空の謎キャラに苦笑しつつ、柚子は当時の事を思い出しながら話し始める。

「小学校の頃のあたしって、家柄の事もあって、一人でいる事が多かったんだ」

「お家柄とは?」

「まぁ~、俗に言うとお金持ちなの。そのおかげで、好き放題出来てるんだけどね……」

 軽く笑う柚子の表情は、少し申し訳なさそうにしていた。

 お金持ちであることを自慢している訳ではないのだが、空に不愉快な思いをさせているのではと、柚子は思ってしまう。

 空本人が気にしていなくても、そう感じずにはいられなかった。

「そんできっかけは、小学校の時に見た幼児向けのアニメだったかな」

「日朝に入ってたやつですか?」

「そうそう。キャラも可愛かったし、魔法少女のドレスも綺麗だったしで、ドハマりしたんだ」

 幼い女の子が、魔法少女に憧れるのは至極普通なことである。

 男の子がヒーローに憧れるのと同じことである。

「アニメが面白いって感じてからは、深夜アニメにも手を出し始めて、小学校を卒業する頃には立派なアニオタに……」

「柚子さんのオタクは小学生からですか。ちなみに俺は中学生からです。話したと思うんですけど、ボッチになった期間中は、家にいる事が多かったですから」

「そういえばそんな事言ってたね」

「忘れてたんですか?」

「んーん、そういう訳じゃないよ。ただ、空君にとってあんまりほじくり返したくないでしょ? だから自分からその事を言わないために、記憶の奥にしまっておくんだよ」

「……気を使ってもらってどうもです。それで、柚子さんの中学ライフどうだったんですか?」

「話を戻すんだね……」

「当たり前です。俺の話なんて、今はどうでもいいんです」

「どうでも良くはないと思うけどな……」

 くすりと呆れながら笑う柚子は、空の話した過去を忘れてはいなかった。

 柚子に気を使わせたことを反省しつつ、空は自身の話題を打ち切り、話しの本筋を戻す。

「それで、柚子さんのオタクライフはどうだったんですか?」

「ん~……ガチすぎて失敗しちゃった」

「えぇ⁉ そうなんですか? なんか、意外ですね」

「まぁ~、何事も加減が必要だったってこと。あたしの周りにいたオタクって、内容じゃなくてキャラの話ばっかりだったの。そんなの、原作読めば分かるじゃんって思ったね」

「……なんか怒ってません?」

「……怒ってない。怒ってないけどさ……」

 うがーっと、柚子は唸りながら、今日のためにセットした髪をぐちゃぐちゃにかき乱した。

「髪、崩れちゃいましたよ」

「……うん。……はぁ~、やっちゃたな~」

 怒りにも似た感情の炎が、自分の中にあるオタク魂を煮えたぎらせてしまった。

 すぐそばには、自分の事を理解してくれる、可愛い後輩がいるというのに、みっともない所を見せてしまった。

 髪を手櫛で直しながら、柚子は冷静さを取り戻す。

「ごめんね空君。変なとこ見せちゃった」

「……いや、謝る事でもないですよ。人間、色んな感情を持ってますから」

「おぉ……大人な対応だね」

「それに、柚子さんが言わんとしてる事も、分かる気がするんでよ」

「……それって――」

「最近のエロ漫画って、絵柄の独自性って言うのが薄い気がするんですよ」

 的外れな答えが返ってきて、柚子は唖然としてしまう。

「確かに絵のクオリティはエロ漫画に必要です。ですが、話しのストーリー、キャラの表情、場の雰囲気、効果音、動き、その他にもエロ漫画には必要な物はたくさんあります」

「……………」

「結構売り場とか見てるんですけど、最近のやつって、そそられないんですよね~」

「…………………」

「紙好きの自分にとっては本当に嘆かわしいですけど、電子市場のほうが自由度高い上に、独自性が出てるやつも多いんですよ」

「…………………………ぷッ」

「ん? どうしたんです? 柚子さん」

「あっはははは。き、急に、下ネタを話すなんて……ぷっ、く、く……あっははは」

 突然笑い出す柚子に戸惑う空。そんな空の事を差し置き、柚子は大声をあげて笑った。

 自分の憤りの事を理解してくれているんじゃないか。

 そう思ったのも束の間、当の理解者は突然エロ本の話を始めたのだ。

 ばかだ。あほだ。

 もちろん悪い意味ではなく、むしろ逆の意味で出て来た二つの単語。

 自分に正直な空らしい。

 それに、悔しい事に自分の憤りと少し重なっている部分もあるにはある。

 質は違えど、空はきちんと柚子の話を理解したうえで、共感してくれていた。

 嬉しくもあるが、やはり可笑しい。

「し、下ネタじゃないです。これはれっきとした、エロに対する語りと愚痴で……」

「ふ、ふひッ、ご、ごめんごめん。そうだった。空君って、桜と同じでエロが好きだったね」

「……まぁ、そうですね」

 宝探しゲームの時、桜がエロ話好きだと言う事を、身をもって体験している空。

 黙っていれば美人なのだが、口を開けば下(しも)の話ばかりなので、少しだけ残念に思ってしまう。

「あ~あぁ~……空君のせいで、もやもやが飛んでちゃった」

「それって、悪い事ですか?」

「……さぁね。ふふ、空君の想像にお任せする」

 少し複雑な思いだが、空は前向きに捉える事にした。

「でも、オタクをやっていくうえで、このもやもやは一生引っ付いてくるのかも」

「それは仕方ない事だと思いますよ」

 人の感じ方は、人それぞれ。他人の感じたことを否定し、自分の意見を通そうとする。

 その押し付けるという行為は、他者を傷付けるだけでなく、相手や自分を孤立へと追いやってしまうことだってある。

「でも柚子さんはまだマシですよ。俺の場合は柚子さんよりも、もっともやもやしますよ」

「まぁ~、そうだね~」

「エロい話とかすっっっごいしたいんです。けど悲しい事に、俺の周りにはそういう人が少ないと言いますか、今の現状で言うと全然いないというか……」

 空の場合、時、場所、友人が乏しいため、エロを語れる相手がいない。

 語れたとしても、ドン引きされてしまう事が殆どである。

「今の所、エロを語れるのって、桜さんだけな気がするんですよね」

「……ふ~ん、そうなんだ。……それはなんでかな~?」

 少々冷たいトーンで、空に聞き返す柚子。

 エロの話は嫌いではない。

 むしろ、エロと言うのはオタクを豪語するうえで、切っても切り離せないものだ。

 桜ほどではないにしろ、エロについて語る事は、柚子にだって出来る。

 語り相手にならない、と突き放されたようで、柚子は少しムッとしてしまう。

「え? う~ん、それはですね、単純に柚子さんの事が分からないからですかね」

「どこがどう分からないのかな~。先輩後輩関係なく言ってみなよ」

「なんか圧が凄いんでけど……」

「さぁ、さぁ」

「わ、わかりました。なんていうか、エロについての耐性が強いのか、って言う話です」

「耐性?」

「簡単に言えばそうです」

 下ネタを話す相手は人をきちんと選ぶ必要がある。

 それこそ、自分と言う人間を理解している相手でなければ、下ネタやエロについて語る事が出来ない。

 性に関する話を苦手とする人が多い世の中。

 それらを知るには、相応の時間を用いて、他人の内情を知る必要がある。

 例外なのは、桜、柚子、姫乃の三人のように、明かしにくい性癖を短期間で暴露してしまう人達なのである。

「ふ~ん。あたしは純情なオタクであり、乙女みたいに思われてた、って訳だ」

「純情なのかはともかくとして、エロ耐性が低いのかなと……」

 桜は別として、多くの女子はオタクであろうと、エロ耐性が低い傾向にあると空は思っていた。

 柚子もその対象に入っており、勝手なイメージではあるが腐女子なのではとも思っている。

「色々と心外だな~。桜まではいかないけど、あたしは結構エロ耐性あるんだよ」

「腐女子としてのですか?」

「残念ながらあたしって、そっちの気がないんだよね。普通に男と女の恋愛とか好きだし」

「そう、だったんですか」

「そうだよ。それにね――」

 そう言いかけて、突然柚子はマイクを握り、タブレットを操作する。

 スピーカーから音楽が流れ、液晶には柚子の歌う曲のタイトルが表示される。

 それは、一昔前のボーカロイドの曲。

 逆からタイトルを読めば、性耐性にない人は赤面してしまう。

 歌詞の出だしは、粘度のある液体が激しく出ている効果音と、ちゅぱ音から始まる。

 その歌詞の殆どは、ソレをイメージしたら終わりな物ばかり。オタクの女子でも、フルで歌いきるには相当勇気がいる。

 そんな曲を柚子は恥ずかしげもなく歌い切り、スッキリとした表情を空に見せる。

 マイクを置いて一息ついてから、柚子は何事もなかったかのように話し始める。

「あたし、桜ほどじゃないけど、これくらいの曲なら歌えるし、空君の歌ってた下ネタ全開のやつの曲も全然好きだよ。それに同人誌だって普通にエッチなやつとか買ったりするし、好きな絵師さんがエロ本に載ってるなら、その巻だって買うし……」

 やや早口で、自分語りをする柚子。エロの基準がオタクチックなのが柚子らしかった。

 そんな柚子の言っていることが本当だとすれば、エロを語り聞かせる相手が増える。

 空にとって、これほど嬉しい事はない。

 好きな物を伝えられないのはもの悲しくもあり、不完全燃焼を起こしてしまうものだ。

「……柚子さんっぽいですね」

「そりゃあオタクですから。エロに対する動機なんてものは、そんなもんだよ」

 くすっと含み笑いをしながら答える柚子。

「これで、晴れて柚子さんと対等に語り合えますね」

「ま、後輩君の語りを聞くのも、悪くないからね」

「じゃあ先輩に甘えて、エロについて語らせていただきます」

 時刻は二十時をとうに過ぎているが、カラオケ部屋の制限時間まではまだ少しある。

 空と柚子は歌う事を忘れて、エロについて大いに語り合った。

        □

 未成年単体で出歩くには厳しい時間。

 カラオケ店を出た空と柚子は、警察におびえながら帰路についた。

 柚子を一人で帰すのはあまりに危険なため、空は柚子の家まで同伴した。

 もちろん、そこまでオタクとエロ談議をしながらである。

「送ってくれて、ありがとね」

「いえいえ、お気になさらずにお嬢様」

「もう~、そういうのはやめてよね」

「はい、かしこまりましたお嬢」

「空君、もしかしてわざとやってる?」

 ムッとした顔で、空に詰め寄る柚子。

 少々調子に乗った事を謝罪し、柚子の自宅の大きさを再度見て、空は感嘆の声を漏らす。

「いや~、本当に大きいですね。こんなの刑事ドラマかバラエティでしか見ないですよ」

「ちょっと恥ずいんだけどね。でもこの家のおかげで、あたしの財宝は守られてるんだよね~」

「確かに。これなら、柚子さんの家に忍び込むのは、無理ゲーですね」

 木造りの門前には監視カメラが置かれており、最新式のインターホンには顔認証のような液晶もついている。

 さらには、塀の上にも一定数の距離で警報装置のような物がついており、無理に上って侵入すれば、警察の厄介になる事間違いなしの万全さになっている。

 とはいえ、柚子の家に忍び込む予定など、空には微塵もないのだが。

「じゃあね空君。ちゃんと姫乃ちゃんをエスコートしてあげるんだよ」

「が、頑張ります」

「ふふ、じゃ、お休み」

「あ、あの……」

 門を通ろうとする柚子を引き留める。語りの同志を得た空は、柚子に伝えたいことがあった。

「今日はありがとうございました。それと改めてなんですけど、今度オタク談議しましょう」

「…………うん!」

 柚子は満面の笑みで返事をする。

 自分の言いたい事を告げられ、空も満足げにしながら帰路へとついた。

 柚子は手を振りながら、空が見えなくなるまで見送りをする。

「はぁ~。………楽しかったよ、空君」

 柚子はそう呟いて、家の中へと入って行った。

        □

 柚子とのデートが終わった次の日。天気は心地よい快晴で、少し暑いくらいに感じられた。 

 自前で買った遊園地の入場券を持って、空は姫乃の家にやって来ていた。

「ここ、だよな」

 地図アプリに示された姫乃の家の場所と、『小野乃(おのの)』と書かれた表札を何度も見直す。

 ここが姫乃の家だと確信し、深呼吸してからインターホンを押す。

 しばらく待っていると、ガチャリと音を立てて、ドアが開かれる。

「はいは~い……どちら様でしょうか?」

 出てきたのは、白いワイシャツを身に纏った少年だった。

 顔は童顔で、背丈も175センチある空よりもやや低く、声音も声変りをしていない子供のようであった。

「あ、あの~、ここは姫乃さんの家でありますか」

 緊張していた空は、見た目小学生な相手に、敬語のような話し方をしてしまう。

「そうですけど。……もしかして君は、霜野(しもの)空(そら)君でいいんだったかな?」

「あ、はい。そうですけど……」

 自分の名前を知っている事に空は少し驚いてしまう。

 どこかでこの少年と出会ったことがあっただろうかと、少し思考する。

「初めまして。こう見えて、僕は姫乃の父親、小野乃(おのの)小鷹(こだか)といいます」

「お、お父さん! だったんですか⁉」

「あっはは、よく言われるよ。さ、中に入って。姫乃を起こしてくるから」

「姫乃……さんはまだ寝てるんですか?」

「あぁ、何回も起こしてるんだけどね。姫乃は朝が弱くてね。まったく誰に似たんだか……」

 苦笑いをする姫乃父。

 空をリビングに案内すると、そのまま姫乃がいる二階へと足を運んで行った。

 しばらくすると、寝間着姿の姫乃が寝ぼけ眼をこすりながら降りて来る。

 そして、そのまま洗面場の方へと向かって行った。

 それに続いて、姫乃父が少し慌ただしくしながら、キッチンへと向かう。

 今から朝食を作るようで、卵を焼く音と匂いが漂い始める。

「空君も朝ご飯食べてってよ」

「あぁ、お構いなく。姫乃と一緒に食べてくださいよ」

「気遣いが出来る空君はいい子だね。これなら姫乃の事を任せられるよ」

「あれ、小野乃さんはついて来ないんですか? ていうか遊園地のこと知ってるんですね」

「あっはは、姫乃パパかお父さんで良いよ。こんな見た目だから、少しでも大人に見られたくてね。遊園地の事は姫乃から聞いてるよ。  本当は一緒に行きたいけど、仕事があってね」

 皿を取り出して、盛り付けをする姫乃父。

 姫乃を起こす所から朝食までの一連の動作には、長年やっているかのような手際の良さがあった。

「つかぬことをお聞きするんですが、家事は姫乃パパがやってるんですか?」

 家事の手際の良さを見て、ちょっとした違和感を空は指摘した。

「……うん、そうだよ。洗濯からご飯づくりまで全部やってるよ」

 曇り顔を見せた姫乃父だが、リビングにいる空からは、その表情を見る事が出来なかった。

 しかし、父親が家事全般をこなしているのが珍しいと思った空は、そのことを口にしかける。

「あの、姫乃のおかあ――」

「空、おはよう。おとう、おはよう」

「おはよう姫乃。さ、朝ごはん作ったから、食べちゃって」

「ん。空は?」

「……俺の事は気にしないでいいよ。お父さんと一緒に食べな」

「ん。ありがと」

 トテトテと小走りでキッチンのテーブルに腰かける姫乃。

「俺に構わずにゆっくり食べてください」

「空君は本当に優しいね。さ、姫乃、食べて食べて。たくさん食べないと、大きくなれないぞ」

「あ~い。いただきます」

 ちょっとした疑問が残る空であったが、親子のまったりした時間に水を差したくない一心で、空気に徹することにした。

        □

 小野乃家の朝食が終わり、姫乃父の車に揺られること四十分。

 目的の遊園地に到着した空と姫乃は車を降りて、固まった体を伸ばした。

「それじゃあ、五時頃に迎えに来るからね。二人とも、楽しんできてね」

「ん、今日は思いっきり楽しむ」

「はい、ありがとうございます。姫乃の事は任せてください」

「お、頼もしいね~。何かあれば連絡してね。姫乃のバックに連絡手帳が入ってるから、そこに書いてある番号に電話して」

 姫乃の背中には、猫をイメージして作られた、可愛らしいバックが背負われている。

 そこになにが入っているのか分からないが、姫乃父への連絡手段がある事が分かった。

「空君、ビデオ録画頼んだよ!」

「は、はい……」

 願いの籠ったメッセージを空に託し、姫乃父は車を発進させた。

 それを見送った空と姫乃は、遊園地の入場口まで歩いていく。

「入場チケットを拝見いたします」

「……はい」

「……ん」

 入場チケットを取り出し、受付の人に見せる。

 受付の人は拝見した証として、チケットに遊園地特有のスタンプを押した。

「はい。結構ですよ。ご退場の際は、当テーマパークの特典をお渡ししますので、なくさないようにお願いいたします。それでは、お楽しみくださいませ」

「……だってさ。なくさないように、姫乃のバックに入れとくか」

「ん。分かった」

 柚子のデートの時とは違い、自分のバックを持ってこなかった空。

 姫乃からチケットを受け取り、バックの小物入れに綺麗に折りたたんで入れた。

「さて、どれから乗ろうか」

「……わたし、メリーゴーランドから乗りたい」

 どのアトラクションから乗ろうか、目移りする空に対して、姫乃はすぐ近くにあったメリーゴーランドを指さした。

 メリーゴーランドは童話の世界をイメージされて造られている。

 白馬やカボチャの馬車など、様々な乗り物を模したカートが、目の回らない優しいスピードで回っていた。

 車内で姫乃が乗りたいと言っていたこともあり、最初の乗り物はメリーゴーランドに決めた。

「あれに乗りたい」

「馬のやつか?」

「ん」

 白馬を指さした姫乃。要望に応えるため、姫乃を白馬に乗せ、空は別のものに乗ろうとする。

「そっちじゃない。こっち」

 姫乃に袖を引っ張られ、連れられたのは二人乗り用の白馬のカート。

「これか? ちょっと恥ずかしいんだけど……」

「写真、お願い」

「はい。かしこまりました」

「俺の意見は聞かないのね……」

 空に構わず、姫乃は猫バックからカメラを取り出して、それをキャストに手渡した。

 姫乃父に娘の記録を頼まれていた事を思い出し、空も自分のスマホを取り出してキャストに手渡した。

「録画の方をお願いします。ここのボタンを押すだけでいいので……」

「はい、かしこまりました。ところでお客様。そちらのお子様が落ちないように、しっかりと腰に手を回してくださいね」

「お子、さま?」

 お子様と言われて、姫乃は眉をピクリと反応させる。

「どうしても、腰に手をやらなきゃいけないですか?」

「? はいそうです。安全の為ですから」

 キャストの頭の上に『?』が浮かんだのが見えた。

 見た目と年齢で言えば、確かに姫乃は幼子である。 

 キャストの目からは、空と姫乃は仲の良い兄妹に見えていた。

 しかし空から見れば、姫乃は同級生であり、異性である。

 女性と言うよりは、親戚の女の子という風に見ているが、それでも気軽にボディタッチをして良いのか、空は考えてしまう。

「……空、早く」

 そんな空の心中を知らずして、姫乃は空の手を取り、自身の腰に回した。

「これで、いい」

 姫乃は空の方を向かず、真っすぐ前を向いたままだった。

「お、おう。ありがとう」

「……別に」

 変な緊張感のせいで、回した手に汗が滲んでいく。

 心音が伝わってしまうのではと思うほど、鼓動は高くなる。

(変に考えてはダメだ。でも姫乃って良い匂いするし……いやいやそれは犯罪になるから……)

 空の心の中で、犯罪の悪魔と理性の天使がせめぎ合う。

(あぁ~、こうしてみると、姫乃って本当に小さいんだな。それに温かいし……)

 犯罪の悪魔が天使を押さえつけ、空は自身の体に収まる姫乃を堪能した。

 空の体に自身の体重を預け、安心しきっている無防備さ。

 滑らかな髪からは、ふわりと甘いフルーツの香りが漂い、小さな体は力を少し入れただけでも、傷ついてしまいそうな程に華奢。

「む~、まだ動かない……」

「俺達が早かったからな。でも、もう少しで動くんじゃないか?」

「早く、早く~」

 姫乃は待ちきれない様子で、体を右に左に揺れ出す。

(あぁ~、落ち着きのない姫乃、可愛いな~)

 少しだけ、柚子や他の女子達の気持ちが分かった気がした。

 この可愛さはずっと抱きついていたくなる。

『お待たせいたしました。これより、メリーゴーランドを運行いたします。お手前の手綱に、しっかりとお掴まり下さい。それでは、夢の一時をお楽しみください』

 キャストの掛け声のおかげで、紳士の空に戻る。

 言われた通り、白馬のカートに付いている手綱を握りしめる。

 それと同時に、姫乃の腰に回している手にも力が入る。

アナウンスから数秒後、メリーゴーランドが起動し、空と姫乃が乗っている白馬が動き出す。

「おぉ、おぉ、結構早く感じるな」

「お、お、おぉ~」

 一定のスピードに達すると、白馬は上下に動き出した。

 子供が乗るアトラクションだと空は思っていたのだが、上下に動き出したことで、なんだか楽しくなってきてしまう。

「ふおー!」

「あ、こら姫乃! 手を離すなよ!」

 姫乃も楽しくなってきたのか、手綱から両手を離してしまう。

 姫乃が落下しないよう、腰に回した手にさらに力を込める。

「ほらほら。姫乃、キャストさんの方を見て」

「んー!」

 カメラを渡したキャストに向かって、姫乃は手を振る。

 同時にもう一人のキャストも、空のスマホを使ってきちんと録画をしてくれていた。

  姫乃父への良いお土産が一つ出来た事に、ホッと空は安堵する。

「あらららーい!」

「この白馬って、そういうのじゃないよね?」

 苦笑しつつも、学校では見られない姫乃を見る事が出来た。

 クラスの誰よりも賢く、女子の胸を合法的に揉みしだく姿とは違い、今の姫乃は年相応の可愛いらしい表情を見せている……はずだ。

 はしゃいでいるのは分かるが、空の方を向くことが無いので、表情がどうなっているのか、空からは分からない。

『夢から覚めるお時間になりました。これにて、一時の運行を終わります。本日は誠に、ありがとうございました』

 アナウンスが流れると上下の動きがなくなり、徐々に白馬の回るスピードが遅くなっていく。

「お疲れ様でした。こちら、お預かりしたカメラになります」

 白馬が完全に止まり、姫乃が下りたタイミングで、キャストの一人がカメラを返しに来る。

「お写真の方を何枚か撮りましたので、確認をお願いします」

「ん。………………おーけー」

 キャストが取った写真を確認して、OKサインを出す。

 よほど良いものが撮れていたらしく、表情の乏しい姫乃の口角がわずかに上がっていた。

「お連の方も、動画確認をお願いいたします」

 もう一人のキャストが、預けていたスマホを空に返す。

 動画は最初から最後までよく撮れており、姫乃が両手を離してしまった所まで、しっかりと録画されていた。

「ありがとうございます。すごく良く撮れてますよ」

「喜んでいただけて幸いです。またのご利用をお待ちしております」

 にこやかに対応してくれるキャストに手を振る姫乃。空も頭を下げて、無言のお礼をする。

「次はジェットコースター!」

「お、いきなりメインに行くか?」

「うん! 早くスリルを味わいたい」

 興奮している姫乃の要望通り、二人はジェットコースタ―の場所へと移動する。

 メリーゴーランドのある場所から少し歩くと、上空の方から微かに絶叫の声が聞こえてくる。

 急勾配のレールを勢いよく走るコースターは、轟音を立てて、上下左右へと高速で移動する。

「空、早く」

「慌てんなって。ジェットコースターは逃げないぞ」

 ジェットコースターからの絶叫に充てられたのか、姫乃は空を急かすように袖を引っ張る。

 駆け足でジェットコースターの受付までやって来た空と姫乃。

「空、早く乗りたい」

「まぁまぁ。焦るなって」

 運が良いのか、そこまで順番待ちをすることはなく、たった今出発したコースターが戻ってくれば、二人一緒に乗れて、周りの人と一緒に絶叫出来る……はずだったのだが――

「誠に申し訳ございません。身長制限がありますので、こちらのお子さんはお乗り出来ません」

「がーん」

リアルで『がーん』と言う子を始めてみた空。

二人は(特に姫乃)は泣く泣く、ジェット―コースターを諦めた。

        □

 その後も空と姫乃は二つのアトラクションに挑んだ。

 しかし、行く先々で姫乃の身長が引っかかり、乗る事が叶わなかった。

 時間を浪費しただけとなった空と姫乃は、アトラクションに乗る事を一時諦め、ランチタイムに入っていた。

「昼飯、買って来たぞ」

「……ん。ありがと」

 パーク内で作られている食べ物は、普段の外食では得られない特別感があった。

 昼食として買ってきたホットドックやハンバーガー、レッグチキンやフライドポテトなど、パッケージはもちろんだが、ジャンクフード店やスーパーで見る物とは違うものばかりである。

「とりあえず、これ食って機嫌直しな」

「機嫌、悪くない……むぐむぐ」

 姫乃は否定するが、顔と目は正直でいつもより少しだけ怒りマークのような物が付いていた。

 それを食にぶつけるかのように、姫乃は黙々と食べ物を詰め込む。

 その様子が愛らしく、空はのほほんと姫乃を見守った。

「空、食べないの?」

「あぁ~、うん。いただきます」

 姫乃に指摘されて、ホットドックにかじりつく。

 パリッとしたロングソーセージ、シャキシャキの野菜、ほどよく焼かれたパン。

 クオリティの高いホットドックはとても美味で、空はあっという間に平らげてしまう。

「ん、おいしい」

「だな。正直ちょっとなめてたけど、これならまた食べたくなるよ」

「これも、おいしい」

 そういって、姫乃は食べかけのハンバーガーを差し出してくる。

「それも美味しそうだよな。サイドの方にも手を出したから、一個しか買わなかったんだよ」

「……だから、一口あげる」

「お、いいのか?」

 コクリと小さくうなずく姫乃。

 ハンバーガーに目がいき、少し頬を赤くしている姫乃に気付かない空。差し出されたハンバーガーにかじりつき、味わうようにして咀嚼(そしゃく)する。

 姫乃も後を追うようにして、少なくなったハンバーガーを一気に食べてしまった。

「うん。このハンバーガーもおいしいな。ちょっと高級感のあるやつだ」

「……美味しかった」

 主食を食べ終え、腹八分目に到達した空と姫乃。

 残ったサイド料理をそのままに、姫乃はバックから双眼鏡とノートを取り出した。

「……何してんの?」

「食休み」

 と言いつつも、双眼鏡を片手にフライドポテトをちょっとずつ消費していく。

 何を見ているのか気になるが、とりあえず様子見をすることにする。

 満腹で口出しするのが億劫だから、という言い訳を空は心の中で呟く。

「ん~……観覧車は無し。ジェットコースターとメリーゴーランドも無しっと……」

 独り言をつぶやきつつ、何かをノートに書き記していく姫乃。

 何のことかさっぱり分からない空は、その後もしばらく姫乃の様子を見ている。

「ん~………………むむッ! フリーフォール……」

 何かを発見したのか、フリーフォールの方角に双眼鏡を向け続ける姫乃。

「観察のしやすさ、集客数、揺れの具合の大きさ……よし」

 手元を見ず、そのままノートに書きつつ、双眼鏡を覗き続ける姫乃。

 腹も落ち着いた所で、空は何をしているのか聞いてみる事にした。

「赤い服の女の人……揺れ具合から算出して……D!」

「……姫乃。もしかしてだけど、乳観察してるのか?」

「ふッ」

 姫乃は語らず、グッドサインを出す。

「青服は……B。フリフリスカート……C。ツインテイル……AA (ダブルエー)」

 当然ながら姫乃が見ているであろう、女性たちの双房を空からは確認することが出来ない。

 淡々と女性たちの特徴とバストサイズを口にしながら、姫乃はノートに結果を記していく。

「え~っと……赤い人のは大きいけれど、揺れの具合からブラで補強している可能性あり。ツインテイルの子は遺伝子的に大きくなる見込みゼロ。青服の人は……」

 本当に十歳児なのかと、疑ってしまう空。

頭脳的なものではなく、頭の中におっさんがいるのではという意味で。

「はぁ~。何をしているのかと思えば……」

「黒の人妻……おぉ~、Eカップ!」

「姫乃さん! 俺にも双眼鏡を! お慈悲を!」

「だめ! 空がやると犯罪になる!」

「いや、姫乃も同罪だからな!」

「十歳の幼女に盗撮されたって、誰が信じるの?」

「それは、だな……」

 ぐうの音も出ない空。確かに現実味がなさ過ぎて、大半の人は信じなさそうだった。

「それに、もし捕まっても少年法で刑が軽くなる」

「それを言ってる時点で、反省の色が見えないんですが……」

「探求者の殆どは、人の作った法を犯してる」

話しが別の方へと行きそうなので、空は諦めて姫乃の観察を眺める事にした。

 そして、観察に夢中になっている姫乃を眺めて数十分。

 テーブルにあったサイド料理はなくなり、代わりに飲み物が入っていたカップだけが積み上がっていく。

 姫乃は相も変わらずに、フリーフォールから落ちて絶叫している女性の胸を観察していた。

「……こんなこと聞くのもなんだけど、姫乃ってさ、何でおっぱい観察をしようとしたわけ?」

「ん? ん~……。なんで、か……」

「自分でも分からないのか?」

「そうじゃなくて、どう言えばいいか、わからない」

 書く手を止めずに、しばしの沈黙が流れる。そして、思いついたかのように姫乃は口を開く。

「わたし、記憶能力がすごいの。だから、飛び級出来た」

「いかにも天才って感じだな」

 突然の天才発言だったが、憎たらしく感じないのは、姫乃の可愛さあってのものだった。

「その記憶の中に、一番のやつがある。感覚だけだけど……」

「それが姫乃の原点……みたいなやつか?」

「そ。たぶん、赤ちゃんの時の感覚」

「それを覚えてるって、すげーな」

「でも、うろ覚え」

「いやいや、それでもすごいって」 

 赤ん坊の頃の記憶を覚えている人は数少ない。

 記憶と言うものは劣化するもので、遠ければ遠いほど頭の中に残らなくなっていく。

「その感覚って言うのは、どういう感じのやつなんだ?」

「すごく安心する匂いがした。それに温かくて、ふわふわで、もちっとしているような、むにむにしてるような……」

「後半、擬音しかないだろ……」

「でもそんな感覚。これがおっぱいの感覚って気づいたの、桜のおっぱいを、揉んだおかげ」

「姫乃と桜にそんな接点が……」

「それから色々勉強した。そんな感じの玩具も買った」

「それって……」

 空の頭に浮かんだのは、自身の部屋に置いてある大人の玩具。

 重さと柔らかさを再現した、子供には金銭的にも法的にも手が出せない逸品。

「空の思ってる物で合ってる」

「やっぱしか……」

 空の予想通り、姫乃は大人の玩具を購入していた。

 日本の法律の緩さを考えるべきなのか、そのままでいいのか、複雑な心境の空。

「でも一番良いのは、人の方だった。玩具はなんか臭いし、重かった」

(それが良いじゃんって、十歳の幼女には分からないだろうな……)

 ちょくちょく使わせてもらっている空は、ただただ苦笑いをするしかなかった。

「観察と記録を始めたのは八才のとき。まだ、記憶の中の、あの感覚に出会えてない」

「そうなんだ。やめようって思ったことはないのか?」

「ない。勉学は覚えて、応用する、その繰り返しでつまらない。けど、この探求は正解が見つからないから。すごく面白い」

 むふっと、どや顔を決める姫乃。可愛らしい一方で、空は姫乃の事を本物の天才だと認めた。

 どんな壁が立ちはだかろうと、姫乃は前に進み続ける意思を持っていると知ったからだ。

「姫乃の探してる物、見つかるといいな」

「ん。ありがと」

 優しく姫乃の頭を撫でると、姫乃は目をつむり、気持ちよさそうにしていた。

 そして、一つ大きく伸びをすると、ノートと双眼鏡を猫バックにしまう。

「息抜き出来た。空、遊ぼ?」

「……あぁ。一緒にな」 

 テーブルの上のゴミを片付けてから、空と姫乃は遊園地のアトラクションに出向いた。

        □

 遊園地を遊びつくした空と姫乃。

 迎えに来た姫乃父の車に揺られ、二人はいつの間にか一緒に寝てしまっていた。

「……空く~ん。着いたよ~」

「んぁ……はっ⁉ すいません、寝てました」

「いいよいいよ。気持ちよさそうにしてたし。それに……」

 姫乃父は、優しい笑みを浮かべて――

「子供らしい姫乃は、本当に久しぶりだから……」

 姫乃父は未だに眠っている姫乃を抱きかかえ、車から降りる。

「あの、俺このまま帰りますから。姫乃によろしく言ってもらえますか?」

「あぁ、ちょっと待って。空君に話したいことがあるから、家に上がって行ってくれないかな? 無理にとは言わないけど……」

 暗い表情を浮かべる姫乃父。

 それは外が暗いせいからなのか分からなかった。

 だから……

「分かりました。親に連絡しますので、姫乃を先に……」

「ありがとう空君」

 車から降りて、姫乃父を先に家に入れる。

 その後に続いて、家に入った空はそのままスマホを起動させ、母親に帰りが遅くなることをメールで伝えた。

 それから待つこと数分。

「お待たせ~」

 姫乃父が二階から降りて来ると、リビングの電気を点けた。

「ささ、座って座って」

 姫乃父に促され、リビングのテーブル前に座る。

「はい。これお茶」

「あ、どうもっす」

「さて、今日はありがとうね。本当なら、僕も付いて行かなきゃいけないんだけどね」

 空と対面側に座った姫乃父は、保護者の代わりを務めてくれた空にお礼を言う。

 デートという単語を使わないように、空は気を付けながら言葉を選んでいく。

「いえいえ、俺はお礼を言われるようなことはしてませんよ」

「それでも姫乃はまだ十才だからね。まぁ、普通の小四とは言えないんだけど……」

「でも遊園地で遊んでる時の姫乃はすごく楽しそうで、年相応って感じでしたよ」

「いいな~。僕の前じゃ、あまり顔色を変えないのに……」

 普段から顔色を変えない姫乃なのだが、今回はわずかながらに、年相応の表情を見せていた。

「姫乃は空君の事を、本当に気に入ってるらしいね」

「……そう、なんですかね」

「そうだよ。昨日だってね、空君と遊園地の話しばっかりしてたんだから」

「もしかして、寝坊したのって……」

「まぁ、三割くらいはそのせいかな」

 姫乃父はその時の事を思い出して控えめに笑った。

 娘の事を想う優しい父親の笑みだった。

「空君には姫乃の事を任せよかな~って、思ってるんだ。もちろん、友達って言う意味ね。

 恋愛とかそういうのは、もう少し大人になってからね」

「あ、当たり前ですよ! 犯罪になりますから!」

「あっはは、顔が赤くなってるよ。本当はそういう目で見てたんじゃないの?」

 姫乃父は空をからかい、悪戯をしてやった少年のように笑った。

 顔が童顔なだけに、子供におちょくられている感覚になってしまう。

「ふぅ~。さて、本題に入ろうかな。空君は僕達の家庭事情で気付いた事があるんじゃない?」

 急に話題と雰囲気を変える姫乃父。少々口角は上げているが、目の奥は笑っていない。

 むしろ、これから話す事に対し、少しだけ悲しみのようなものが含まれていた。

「い、言ってもいいんですかね?」

「うん。いいよ。姫乃の一番の友人には、知っておいて欲しい事だから」

「姫乃のお母さんって、どこにいるんですか?」

「う~ん、どこにいると思う?」

 空の質問を意地悪な問いにして返す姫乃父。

 その答えをすでに空は知っている。

 と言うよりも、姫乃の家に上がった時と、父親が家事全般をしていると聞いた時から、空の頭の中には、もしかしたらという考えが浮かんでいた。

「ごめんごめん。今のは意地悪だったね。空君が思っている通り僕の妻、姫乃のお母さんは亡くなっているんだ」

 小野乃家に上がった際に、線香の香りがしていた。

 仏間のある部屋は閉じられていたが、その独特の匂いはリビングに向かう途中の廊下にまで、わずかに届いていた。

「元々体が弱くてね。姫乃を産んでから一年くらいした時に、急に発作が起きてそのまま……」

「辛い事を言わせてしまって、すみません」

「空君が謝る必要はないよ。でも、その気持ちは大事にね。ちなみに、これが妻の写真」

 姫乃父は戸棚を開けて、一枚の写真を取り出して空に渡した。

 そこに写っていたのは、産んだ我が子を大事そうに抱いている女性。

 優しい微笑を浮かべている女性からは、幸福という二文字が滲み出ていた。

「姫乃にすごく似てますね」

「うん。顔が特にね。身体的なところは僕に似たのかも」

 そして、その写真からもう一つ、空には気なっていることがあった。

「…………」

「どう? 僕の妻? 胸が大きいでしょ?」

「は、はいぃぃ⁉ いや、まぁ、お、大きいですけど。今ここで言う事じゃないですよね⁉」

「あっはは。また赤くなってる。良いリアクションだ」

 自分の妻の写真を見せ、その上胸の感想を聞いてくる夫とは、と空は内心呆れてしまう。

 しかし、姫乃父の言った通り、姫乃母の胸は大きかった。

 ゆったりとしている患者服を大きく押し上げ、ちらりと胸元を覗かせていた。

「妻はよく、こんな胸なんていらない、って言っていたんだ」

 小さな胸を気にするよう人がいるように、巨乳の人にもそれなりの悩みがある。

 胸が大きければ大きいほど、周囲からの視線を集めやすくなり、オシャレの幅も狭まってしまう。

 また、痴漢などの性的犯罪に、巻き込まれる可能性も少なからずある。

「けど姫乃が産まれてから、自分の母乳で子供を育てられるんだ、って笑っていたよ」

 当時を懐かしむように、姫乃父は手元にあった麦茶を仰ぐ。

 それに続いて、空も麦茶を口にしたところで、ある事に気がつく。

「姫乃パパは姫乃がおっぱいの探求をしているのは、知っているんですか?」

「もちろん。いや~、娘の数少ないおねだりが、大人用おっぱいとはね~。内心複雑だったよ」

「遊園地で休んでるときに、姫乃から聞いたんです。記憶の中に残っているあの感覚を探してるって。俺の推測ですけど、それって……」

「おそらくね。姫乃からそれを聞いた時には、隠れて大泣きしたもんだよ」

 空の脳内で大泣きしている姫乃父の姿が浮かぶ。

 大分子供っぽく脚色されてはいるが。

「姫乃が探求しているは、母親に飢えているのか。それとも、謎のままにしておくのが気持ち悪いのか。それは姫乃にしか分からない」

 姫乃が探求しているものが母親の胸と知った空。

 探求を終えた先の姫乃を想像してみる。

 母親がいない事に悲しむのか。

 それとも案外あっさりとしているのか。

 どちらにせよ、今の時点では姫乃がゴールにたどり着くのは、まだ先のようだ。

「話したかった事はこれでおしまいだ。時間も遅いし、送ってあげよう」

「あ、ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

 姫乃父の好意に甘えて、空は車で帰る事にした。

 徒歩で帰りながら、頭の中を整理したかったが、遊園地を楽しみ過ぎたらしく、体が重く感じていた。

(頑張れよ姫乃。俺はいつでも姫乃の味方だ)

 もしも探求の途中、もしくはその果てに、姫乃が落ち込んでいたら親友として傍にいよう。

 そんな空の想いが通じたのか、姫乃は寝言で「あーい」と小さく返事をした。

        □

「最後は桜さんとか。なんか無駄に緊張してきた~」

 柚子と姫乃の時とは違い、空は桜とのデートに緊張していた。

 連続デートの疲れが少し残っているものの、気を抜かないように頬を軽くたたく。

「おにぃ、またデート?」

「うお⁉ 急に入って来るなよ」

「何度もノックしたよ。それより、またデート?」

 扉から少しだけ顔をだし、海はさっきと同じ質問を繰り返す。

「疑ってたんじゃないのかよ」

「声優ライブの時はそうだったよ。おにぃ、アニメ好きだし」

「俺のこと見過ぎだろ。エッチな妹め!」

「いや、普通にリビングでアニメ見てるじゃん! ていうか、デートなの、どうなの⁉」

 ややキレ気味に問い詰めて来る海。もう完全に、空の部屋に入ってしまっていた。

「はぁ~。前から言ってんじゃん。デートだって」

「相手は誰なの? ていうか、昨日、おとといのデートの相手、教えなさいよ」

「なんで言わなきゃいけないんだよ?」

「い・い・か・ら!」

 海の圧に押され、仕方なく空は柚子と姫乃の事を話した。

「声優ライブの時はギャルオタの先輩で、遊園地の時は飛び級してる天才幼女の親友と――」

「やっぱり、嘘くさいわぁ……」

「事実を言ってるのに……」

 事実を言ってはいるが、柚子と姫乃の特徴を言っただけなので、信憑性が損なわれる。

 第一、『飛び級の天才幼女』の時点で、話しが嘘くさくなってしまった。

「信じるか、信じないかはあなた次第!」

「じゃあ、信じない」

「そこは信じろよ……っていうか、もう行かなきゃ。じゃな、お土産は期待すんなよ。あと、今日も帰りが遅くなるから、お母さんに言っておいてな」

「おにぃが言えばいいじゃん」

「そんな時間ない。じゃ、頼んだじぇ!」

 空は急ぎ足で部屋を飛び出し、そのまま家を出た。

 残された海は空の部屋を出てリビングに向かった。

 そしてソファーに座り、今日の日程を思い返す。

「あら? 今日は生徒会の仕事じゃなかった?」

 自分より先に、母親が今日の予定を聞いてくる。

 苛立ちから、それを煩わしく感じてしまう。

「これって、反抗期なのかな……」

 リア充になりつつある空の苛立ちを、海は反抗期と勘違いしてしまった。

        □

 柚子の時のように、待ち合わせ時間よりも少し早めに水族館に着いた空。

 待ち合わせ場所は水族館の入場門前付近。

 そこはデートの待ち合わせスポットとして有名な、クジラの噴水場がある場所。

 時間になるとクジラの背中から水が噴き出し、天気の良い日には虹がかかって、良い感じの映えスポットにもなっている。

 しかし、今日の天気は重い曇り空。

 外に出る時間は少ないと考えられるが、幸先が思いやられる天気となっている。

「ん、あー……ここで待ってばいいか」

 大きく伸びをして、噴水近くのベンチに腰掛ける。

 連休中の電車は混雑しており、見知らぬおっさん達にもみくちゃにされながら駅に着いた。

 最悪の気分を少しでもリフレッシャさせるため、少しの待ち時間をのんびりと過ごす。

「水族館の後の昼飯はあそこに行くとして、その後は……」

 水族館後のデートプランを再び練り始める。

 しかし、二回のデートをしたとは言え、素人の付け焼き刃である。

 当然良い案が思い浮かばず、暗い曇天を見つめてしまう。

「桜さん、まだかな~」

 つぶやいてみるが、そんなに時間が経っておらず、気だけが早ってしまう。

 辺りを見渡せば、空以外にも待ち合わせをしている人はいるのだが、今日に至っては人が少ない。

 その中で、一人の女性に目が留まった。

 凛とした立ち姿勢は綺麗な白百合を連想させ、本を読む姿は純文学の表紙のように様になっている。

 誰かと待ち合わせをしているのか、時々腕時計を見て時間を確認していた。

 というより……

「桜さんじゃん!」

 空は慌ててベンチから立ち上がり、駆け足で桜の元へ向かう。

「す、すいません。お待たせしました」

「おぉ、少年。時間丁度だな。褒めてやろう」

「さっきまでそこのベンチに座ってたんですよ。桜さんはいつからここにいるんですか?」

「私は二十分位前にはここにいたぞ。こういうのは計画的に、だろ?」

 水族館後のデートプランがない事に、空は焦ってしまう。

 疲れていたとはいえ、デートプランを少しでも練らなかった自分をぶん殴りたくなった。

「それよりもだ。少年、私の恰好は変か?」

「はい?」

「いやな、さっきから周りの視線が鬱陶しくてな。私の恰好が変なのではと思っているんだ」

 桜の衣服には特に変な所はなく、むしろオフィスレディの休日のような大人のファッションをしていた。

 別段変な所はないが、大人コーデが似合い過ぎて、正直高校生には見えなかった。

「いや、すごく似合ってますよ。高校生に見えないくらいです」

「少年、年増発言は感心しないぞ。はっ⁉ 少年は私を熟女だと思っているな?」

「なにが『はっ⁉』ですか。熟女の使い方おかしいですよ!」

「まぁ、私はまだ熟れていないしな。それに処女だから、リードできるか不安だ」

「なんちゅうカミングアウトをしてるんですか! まぁ処女の方が株上りがいいですけどね!」

 そうであった。桜は自分と同じくらい下ネタが好きだった。

 そう思った瞬間、謎の緊張感が、一気に解けてしまった。

「どうだ? 少しは緊張が解けたのではないか?」

「おかげさまで。実は水族館の後の予定を考えていなくて……」

「そうか。なら私用に付き合ってくれ。少年はMだから、多少振り回しても構わんだろ?」

「誰がMですか!」

「じゃあ、Sなのか」

「いいえ、Mの気はあります」

「ふふ、正直者な少年にはご褒美をあげなきゃな」

「鞭とか痛いのは結構です」

「全く少年は……ご飯を奢ってやるんだよ」

 阿保(あほ)な弟がいたらこんな感じだろうか、と桜は頭を抱えた。 

 しかし、それが愛らしくもあり、可笑(おか)しくもあった。

「言っとくが先輩の顔を立てるのも、社会勉強の一つだぞ」

「そういう事でしたら、お言葉に甘えます」

「うむ、よろしい。それじゃ行こうか少年。濡れに濡れた場所に!」

「桜さんが言うと、下ネタにしか聞こえません」

 水族館の受付の人にチケットを渡して、館内に入場する。

『海』をテーマに造られているこの水族館は、館内の奥に行くほど展示している水生生物が変わっていく。

 入り口付近は浅瀬や干潟(ひがた)、陸上で活動する水生生物。中間は最も広く、数多くの魚たちが泳ぐ巨大水槽。最奥には、展示が難しいとされている深海魚。

 その他にもイルカやアザラシなどをメインとした別館もあるため、県外から来る人も多い。

「ここ、初めて来るんですけど、人ってこんなに少ないんですかね?」

「こっちじゃなくて、遊園地の方に流れてるんじゃないか?」

 姫乃とのデートの時、アトラクションに並ぶ人が多かったことを思い出す。

「私は静かでいいと思うがな」

「桜さんって、あまり騒ぐイメージないですよ」

「私だって騒ぐときぐらいあるぞ。主にベッドの上でだがな(キリッ)」

「あ、ふれあいコーナーがありますよ。行きましょう」

「ふ、スルーするとは。少年は私を楽しませる天才だな」

 下ネタを言えば人の視線がこっちに向いてしまう。

 桜の会話にいちいちツッコんでいては、精神的にも体力的にも疲れてしまう。

 下ネタを話すのはいいが、頻度を考えて欲しいと、空は内心ため息を吐かざるを得なかった。

「おぉ~、意外と刺々しくないな。見た目だけだな」

「ウニって棘を動かして移動するんですね」

「少しくすぐったいな。これは焦らしプレイをしている感覚に似ているぞ……」

 ふれあいコーナーにて、桜は手に乗せたウニを水槽に戻し、近くにいたナマコを拾い上げた。

「柔らかそうに見えて、結構固いんだな」

「桜さん、ナマコ触れるんですね。大抵の人は気味悪がって、触らないですよ」

「私が触れられないのは、得体の知れないものだけだ。それにしても、ちょっと癖になる硬さだな。さながらナニを握って……」

「言わせないっすよ!」

 水に触れてない手で、桜の口をふさぐ。

 いきなりの事で桜は驚いてしまい、ナマコの手に力を込めてしまう。

 すると危機感を感じたナマコは白い管の様なものを吐き出した。

 幸いなことに、それは手にかからずに水槽の中へと着水した。

「少年が変な事するから、その……白いの、出ちゃったじゃないか」

「うお~い、なに誤解発言しちゃってんの⁉」

 桜の爆弾的発言に、周囲の人達はざわつき始める。

 そんな事を気にせずに、桜はいつまでもナマコを揉み続ける。

 ナマコは身を守るために、限界まで白いモノを吐き出す。

「うお、まだ出るのか。よっぽど溜まってたんだな少年」

「こっち見ながら言うの止めてくれません⁉ 周りの視線が痛いんですよ!」

「握った感じ、ハードタイプのホールだな」

「聞いてます? ていうか桜さん、それ持ってるんですか?」

「もちろんだ。ディルさんは乙女の必需品だぞ。まさか、少年も持ってるのか」

「持ってねーし、驚いてるんじゃないよ!」

 人のざわめきが大きくなり、精神疲弊が増して来た空。

「お客様、どうかしました?」

 救いの手が差し伸べられたのか、職員の人が空と桜の元に駆けつけてくる。

「すみません、この子を強く握ってしまって、キュビエ管を吐き出させてしまったんですよ」

「そうでしたか。清掃の方はこちらでしておきますので、水に戻しても大丈夫ですよ」

 職員の人に謝罪し、桜はナマコを水槽に戻す。

 職員の人はバケツと網を使って慣れた手つきで水槽の清掃に取り掛かっていた。

 空と桜は邪魔にならないように、少し距離を取った。

「た、助かった~。職員の人が来なかったら、どうしてたんですか? ていうより、ナマコのあれ、キュビエ菅、でしたっけ。知ってたんですね」

「落ち着きなよ少年。キュビエ管の事は知ってたし、職員を呼んだのは私だ。近くに呼びだしボタンがあったんで、すぐに押させてもらったよ」

「じゃあ俺らの会話って、時間稼ぎってことですか?」

「もちろんだ。キュビエ管は粘着質でな、あのまま放っておけば、他の生き物に影響が出るんだ。そもそも、少年が私の口に触れなければ、こんな事にはならなかったんだぞ」

「それは……まぁ、すみません」

「確かに、私も下ネタを言い過ぎたな。だが私は謝らない! これが私だからさ」

 大げさに両手を広げて、自己主張をする桜。

 変わらないのは良い事だが、自分の事をもっと気遣って欲しいと空は思ってしまう。

「ナマコの多くはキュビエ管という器官があってな、外敵に襲われたときにそれを肛門から放出して、自分の身を守るんだ」

「お客様、お詳しいですね。この子を強く握らないよう注意書きをしているんですけど、お客様のように誤って強く握ってしまう人がいるんですよ」

「それでここに呼び出しボタンが……」

「というより、キュビエ管を知らない人の方が、おかしいと思うがな」

「……桜さん、一般人に怒られますよ」

        □

 水族館の中間。

 空と桜は、巨大な水槽の前で優雅に泳ぐ魚たちを見ていた。

 時間帯が良かったのか、職員の人がダイバー姿になって、水槽を掃除している様子も見る事が出来た。

「サメって案外人を襲わないんですね」

「サメは臆病だからな。弱っている動物にしか襲わないんだ」

「でもハワイのニュースで、よくサメの事故とか聞きますよ」

「サメは目が悪い代わりに嗅覚が鋭いんだ。事故に合っている殆どの人は、体のどこかに怪我をしていたか、体臭がキツイ人だったんだろう」

「桜さん、博識ですね。これで下ネタを言わなければ、完璧だったのに」

「私を褒めてるのか? それとも貶して(けな)るのか?」

「もちろん褒めてますよ」

「それに下ネタを言わない私とか、退屈じゃないか?」

 それもそうだ、と納得する空。

 桜のような外見と中身が不一致な女性と言うのは、世界中探しても数万人しかいないだろう。

 自分に正直な所も含めて、桜という人間の傍に居れば、退屈な日常がなくなるのではと空は思ってしまう。

「今度はあっちに行ってみないか?」

「いいですね」

 桜に促されて、他の所を回る事にした。

 海水魚とは別に、淡水魚のコーナーもあるのだが、桜はそこに行く前に横長の大きな水槽に食いついた。そこはチンアナゴのコーナー。

 多種多様な模様をしたチンアナゴたちが、砂の中から顔を見せたり、引っ込めたりしていた。

 その様子が可愛らしく、写真を撮る人も多くいる。

「おぉ、これが“チン”アナゴか」

「『チン』を強調しないでください。でも、くねくねしてて可愛いですね。このチンアナゴ」

「最近買った電動ディルドみたいな動きをしているな」

「なんちゅう喩え(たと)してるんですか!」

「お、あそこのやつ、砂の中に出たり入ったりしてるぞ」

「本当だ。臆病なんですかね」

「焦らしプレイの練習かもしれんな」

「桜さん、本当に止まらないですね」

 桜の下ネタに、空は頭を抱える。

 二人の会話を聞いていた周囲の大人たちは、赤面しながらチンアナゴのコーナーから距離を取り始める。

「お、おぉ。こいつの下(しも)使い、テクニシャンだな。あっという間に中に入っていったぞ」

「単語のチョイスがなっていませんよ……って桜さん! あそこのチンアナゴ見てくださいよ」

「なんだなんだ……おぉ、これは写真に撮らねばな」

「あ、そうですね」

 慌ててスマホを起動し、写真を撮った桜と空。お互いのスマホを見せ合い、撮影したチンアナゴを見せ合う。

 そこには、キスをしている二匹のチンアナゴが写っており、さらにその形は限りなくハートのような形になっていた。

「少年には乙女チックな所があるんだな」

「違いますよ。この状態のチンアナゴがすごく珍しいって、テレビでやってたんですよ。これを撮るのに一日かけたって、タレントさんが言ってたし」

「テレビの人も暇なんだな……」

「色んな人にケンカ売っていきますね……」

        □

 最奥の深海魚コーナーを回り、別館の水生動物を見て回った桜と空。

 様々な水生動物達を見ては桜が下ネタを言い、空がツッコむという異質な形で、別館も回り切った二人。

 イルカのショーを見終え、桜と空は水族館を丸ごと堪能した。

「お腹空いたな……」

「まぁ、お昼過ぎですからね」

 水族館に設置されている時計は、十四時十一分と表示していた。

「この水族館から少ししたところに、ピザの店があるんだが、そこに行ってみないか?」

「いいですね。そこにしましょう」

 桜の案内のもと、二人はピザの店を目指して水族館を後にした。

「ラブホの探索をしてた時に、偶然ピザの店を見つけてな……」

「いや、花の女子高生が何をしてるんですか」

「ラブホ探しは重要だぞ。どこのホテルが良いか、援交女子達に情報提供をしているんだよ」

「いや、手を貸しちゃだめでしょ!」

 などと下ネタ談議を醸しながら歩いていると、ぽつりと空の鼻を冷たい液体がこする。

 それを皮切りにして、頭上から大量の雫が降って来る。

「うわ⁉ 降ってきましたよ」

「そういえば、午後から降る予定だったな」

「呑気に言ってる場合ですか!」

 天気予報を見ずに家を出たため、空は傘を持ってきていない。

 桜も折り畳み傘があるかカバンを漁るが、入っていない事を知るとため息を吐いた。

 そうこうしている内に雨は強くなっていき、空と桜の衣服を濡らしていく。

「強くなってきましたよ。とにかく、雨宿りできる場所を探しましょう」

「そうだな。近くにコンビニは……」

 駆け足で雨宿りが出来る場所を探すが、二人の近くにはコンビニや休息所のような場所が見つからなかった。

 走っていく内に服は完全に濡れ、雨水は下着にまで浸水し始める。

「仕方ない。少年、付いて来い」

「は、はい」

 返事をして空は桜に付いて行く。走り始めて数分後、二人がたどり着いたのは、紫がかったピンクの電飾で『クレセリア』と表記されているホテル。

 入り口付近の壁には『一時間四千円』と、高校生でも払えるような優しい値段となって……

「ここラブホじゃないですか⁉」

「そうだ。ここには乾燥機もあるからな」

「でも、俺らって高校生ですよ?」

「そんなのいくらでも誤魔化せるだろ」

「ラブホとか初めてだし、第一結構するんじゃ……」

「私が出すから、安心しろ」

「わぁお、イケメンですね、桜さん」

「あぁ~、もう~。ほら、風も吹いて寒いんだ。四の五の言ってないで行くぞ!」

「ちょ、俺、心の準備が、ら、らめ~」

 桜に腕を引かれて、半ば強引に空はラブホに連れていかれてしまった。

        □

「ふは~。温まるな~少年」

「……はい」

「どうした少年。顔が赤いぞ」

「……そりゃあ、一緒にお風呂入ってますから。緊張はします」

 水着姿とは言え、場所と雰囲気のおかげで、空は緊張せずにはいられなかった。

 今、二人がいるのは限界までお湯が張られた浴槽の中だった。

 お互いに足を延ばせるほど、浴槽の中は広いのだが、空は遠慮気味に体育座りをしていた。

「一緒に入った方が効率が良いからな。お互い風邪を引かなくて済むし、乾燥機も一度起動させればいいだけだしな。そして私の願望も叶う。まさに一石三鳥と言うやつさ」

「桜さんの願望、ですか……」

「あぁ。男の背中を流してみたいんだ」

 ただでさえ、緊張によって鼓動が早くなっていると言うのに、桜の言動のおかげでさらに心音が高くなる。

 ドクンドクンという音が、大音量で耳にまで響いていた。

「という訳で……」

 桜は湯船から上がると、風呂椅子を叩いてここに座るよう空に促した。

 仕方なく桜に促されるがまま、空は風呂椅子に座った。

 そして、ボディスポンジに洗液を付けて、桜はわざと音を鳴らしながら泡立てていく。

「お客さん、初めて?」

「お客さんって……」

「こういう場所だし、一度言ってみたかったんだ。お客さん、初めて?」

「まぁ、初めてです」

「そうですか。素人童貞でございますね?」

「やかましいです!」

「あっはは、冗談ですよお客様」

 冗談を言いながら、桜はスポンジで空の体を擦っていく。

「痒いところはございませんか?」

「それは違うお店でしょ。でも、気持ち良いですね」

 桜の力加減とスポンジの柔らかさが心地良く、強張った体も解(ほど)けていく。

「お客さん、前の方は別料金をいただきますが、どうしますか?」

「自分でやりますよ! ありがとうございました!」

 桜からスポンジを奪い取り、浴槽の方に追いやろうとする。

「こらこら、まだ髪を洗ってないじゃないか」

「いいですよ。それも自分でやりますから」

「遠慮するな。それに他人の髪も一度洗ってみたかったんだ」

 体を洗っている空とは別に、桜はシャンプーを取り出して、またも音を立てながら泡立てる。

「お客さん、こちらの方も初めてでしょうか?」

「初めてじゃないですよ」

「えっ、あ、あぁ~、妹さんにしてもらってるんですね? あの~、私、口硬い方なので……」

「説明が足りなくてすみません。床屋の話です。それに、妹の話ってしましたっけ?」

「いや、適当に言っただけだ。深い意味はない。ところでお客様、快楽は感じていますか?」

「言い方ってもんがあるでしょ。でも、まぁ、普通に気持ち良いです」

 桜は頭皮を傷付けないよう爪を立てず、指の腹でマッサージをするように洗っていた。

 まんべんなく、それでいて丁寧に髪を洗い上げる。

 床屋以外で、誰かに髪を洗ってもらったのはいつ以来だろうか。

 自分一人で洗い始めたのはいつ頃だろうか。

 そんなことを思い返させるほど、桜の洗髪はとても心地良かった。

「流しますので、目を瞑ってください」

「まだ続けるんですね……」

 桜の指示に従い、空は目を瞑る。

 髪に付いていた泡を始め、体中の泡も一緒に流していく。

「はい、お客さん。綺麗になりましたよ」

「……ありがとう、ございます」

「意外と楽しかったな。さて、次は私が体を洗うから少年は、浴槽に浸かって――」

「お客さん初めて?」

 いつの間にか立場が逆転し、空の手には洗液が付いたスポンジが握られていた。

「いや、自分で洗えるから。少年はゆっくり温まって――」

「まぁまぁお客様。俺に任せてくださいよ」

 下卑た笑みを浮かべながら、空は桜を椅子に座らせ、スポンジを揉み込んで泡立てる。

「ほ、本当に、いいから……」

「俺に任せてください。ほら腕を出して……」

 そう言いながら、空は半ば無理やり桜の腕を取り、スポンジで優しく擦り上げる。

「~~~~!」

 気持ち良いのか、スポンジが腕を滑る度、桜はビクビクと体を震わせた。

「お客さん、気持ち良いですか?」

 桜は言葉にせず、小さく頷いた。その表情は羞恥にあふれており、上目遣いで空を見ていた。

(そんな、表情されたら……)

 嗜虐(しぎゃく)心(しん)をくすぐられ、スポンジを腕から背中へと滑らせる。

 堂々としていたはずの背中は、羞恥から丸くなっており、その肩を震わせていた。

 首筋を優しく撫でると、びくりと体を震わせ、桜の口から熱い吐息を漏れさせていた。

(……これは、新手のエロスだ)

 ごくりと唾を飲み込み、今度は桜の正面にしゃがみ込む。

「今度はおみ足を洗わせていただきます」

「え、ちょ、しょ――」

 さすがに声を上げる桜。しかし、制止の声が来る前に、空は桜の足を洗い始めた。

 大胆にも腿(もも)から入り、そこから下っていくようにして洗っていく。

「う……ん……くぅ……」

 桜は口元を抑え、堪えるようにしていた。

 スポンジで擦られる度に、気持ち良さと羞恥が交ざったものが声として溢れ出てくる。

 足の指、裏、さらには膝裏に当たるまで、汗ばむ所も空は丹念に綺麗にしていく。

「お客さん、他の方はタダでもいいので、やらせていただいても大丈夫ですか?」

「ちょ、調子に乗るな、ばか者―!」

 そう怒鳴ると、桜はスポンジを奪い取り、思い切り空を浴槽に突き飛ばした。 

 空が浴槽に浮かんでいる間に、桜は体の隅々までを綺麗にし、そのまま浴室を後にした。

        □

「こんなものになってしまって、すまなかったな」

「いやいや、これはこれで面白くていいと思いますよ」

 バスローブに身を包んだ空と桜は、カップ麺をずるずると啜った。

「それにしても、ラブホにカップ麺の自販機があるとは……」

「良いホテルだろここは。設備も良いし、道具も一通り揃ってる。それに、コスプレプレイも出来る。世のおじさんも大満足だな」

「桜さんは、なんの代表なんですか?」

 苦笑しながら、空はカップ麺を平らげる。

 ごみを処理し、空はふかふかのベッドに腰かける。

 あまりの気持ち良さに、そのまま横になる。

「このベッド、すごく気持ち良いですよ~」

「そりゃあ、ラブホのベッドだからな。普通のホテルよりも、高いのを使っているはずだ」

「俺、このまま寝ちゃいそうですよ」

「ふむ。時間的にはまだあるな。少し仮眠でもするか?」

「それが良いかもですね~」

 ベッドの気持ち良さに、てきとうに返事をしてしまった空。

「では、もっと詰めてくれ」

 桜に言われて気づくが時すでに遅く、彼女はベッドに腰かけていた。

「私に悪戯してもいいんだぞ?」

「し、しませんよ!」

 結局桜と一緒に寝る事になってしまった空。

 ベッドが広い分、桜と布団に入っても狭くはなかった。

 それどころか桜から離れても、寝返りを打つのに十分な距離を保つ事が出来ている。

「おやすみ、少年」

「はい。おやすみ、です」

 とは言うものの、寝転がっていた時の眠気が飛んでしまっているのに加え、鼓動が騒がしく、寝るに寝られない状況だった。

 布団の中も暑く、空は無駄な寝返りを打ってしまう。

「少年、眠れないのか?」

「まぁ、はい。そうです」

「ふふ、そうか。私もちょっと、な……」

「……なんですか、それ……」

 桜と空は、お互いに苦笑した。

「寝付けるか分からないが、昔話をしようか?」

「子供じゃないんですから」

「私の昔話だ。下ネタ好きどうし、腹を割るのがいいだろ?」

「……じゃぁ、それで」

「よし。むか~し、むかし――」

「そういうのはいいんで、普通にお願いします」

「少年はイケずだな」

 一つため息をついて、桜は仕切り直した。

「私は幼少の頃から周りにちやほやされて育ったんだ。つまりはめっちゃモテて育ったんだ」

「桜さん、話すなら真面目に――」

「私は大いに真面目だ。とにかく、めっちゃモテてた。すごくモテてた」

 ため息を吐きながらも、空は黙って聞く事にした。

 今の所面白い事しか言っていないが……

「でもな、そのおかげで孤立した。その時の事を今でも思い出せるよ」

 空気が一気に張り詰めるような感覚。

 自分にとって話したくない過去、いわゆる黒歴史を話す時の空気であった。

「女の友情って言うのは、恋愛感情の前では霧と化すのさ」

「怖い話ですね」

「あぁ、怖いね。ものすごく。イジメも受けたよ」

 女のイジメは陰湿で長期的に続くものが多く、周りの人達を無理やり輪に入れ、多数で個を陥れるという最悪なものまである。

 教師が生徒に求める『一致団結』がここに完成してしまう。

「その時の私はまだ青くてね。自分の存在意義、価値、明日が来るという恐怖に押し潰されそうだった。そんな状態の時に、全校集会があったんだ。あれが 今の私の始まりになるな」

 どんな事が起きたのだろう。

 空はそう思いながら、固唾を飲んだ。

「私の書いた小説が賞を取ってな、全校生徒の前で表彰されることになったんだ。その時に、私がスピーチをすることになっていて、その途中で野次が飛び始めた」

「上位カーストの人ですかね……」

「そうだと思うな。それで教師が介入するまでになったその時に、プッツンときたんだ」

 その時の事を思い出したのか、真顔だった桜は口角を上げた。

「『うっせーぞこのびちグソ共! 発情期の猫みたいに喚き散らしやがって、分娩室かなんかか? ここは。この学校の生徒、教師、その親、授業に至るまで全部、使い古されたヤリマンみたいに汚ねーな! 人の話も聞けないなんて、もう一度ママのあそこから生まれ直した方がいいぞ! おつむの弱いおめーらとレベルが同じだなんて、全く反吐が出るどころか、蠅さえ食わねぇ糞が出る。まぁ、スカトロ好きなてめーらには、おいちい餌みたいなものか。それじゃあトイレの水はさぞ清潔過ぎて、飲みにくいだろうな。お互いの聖水でも飲み合って、心身共に仲良く浄化し合ってくれ。私は嫌だがな。貴様らと付き合うのはこれきりだからな、精々元気に乳繰り合ってでもいろよな』ていう事を、大音量にして聞かせてやったよ」

「えげつない事を言ってますね」

「正直、あの時はメンタル的に一杯一杯だったんだ。思いついた事をそのままぶつけていた。もう少しパンチの効いたことも言えた気さえもする」

「あれ以上あるんですか? で、その後はどうなったんですか?」

「当然転校した。親には話していたし、学校側にも被害請求した。でも一番は――」

 桜は声を押し殺し、笑いながら話を続けた。

「みんなの前で下ネタを言うあの感覚が、めちゃくちゃ気持ち良かったんだ。色んな感情を外に吐き出したから、そう感じたかもしれないけどな」

「……俺、分かりますよ。下ネタを言った時の、相手の反応が面白かったんだと思いますよ」

「そう、だな。それもあるな。鳩が豆鉄砲を食らう。あれを絵にした感じだった。それがまた可笑しくてな、あっはは」

 とうとう桜は、声を出して笑い出した。

 その声質には悲しみのような負の感情ではなく、面白いものを見た時の陽気なものだった。

「転校先の学校は、どうだったんですか?」

「変人を好む人は少ないさ。下ネタのマシンガントークをかましたら、誰も寄ってこなくなったよ。ま、学業的には常にトップだったから、普通に卒業は出来たがな」

 ここまで話した後、桜は話疲れたのか、口に手を当てて欠伸をする。

「ふわぁ……昔話をしたら、眠くなってしまった。すまないが、先に寝させてもらう」

「あ、はい。おやすみなさい」

 話疲れたのか、それとも黒歴史を話したことによる、精神的疲労のせいなのか、桜は数分もしないうちに寝息を立て始める。

 空にも睡魔がやって来たようで、大きく欠伸をしてしまう。

「おやすみなさい」

 その一言を桜に告げて、空は瞼を閉じて眠りについた。

        □

 ラブホテルを出る頃には雨は上がっており、辺りは薄暗くなっていた。

「ちょっと生乾き臭いですね」

「仕方ないさ。洗った訳じゃないからな」

 ラブホからの帰り道、桜は一度も下ネタを話さず、ごく普通の会話をしていた。

 それに加え、桜の話す声音は堂々としたものではなく、お淑やかなものになっていた。

「あぁ~……明後日の部活って、何をするんですか?」

「そうだな……すまない。まだ何をするか決めてないんだ」

「そうですか。た、楽しみだな~」

「……そうか。楽しみにしていてくれ」

 ………………気まずい。ものすごく気まずい。

 デートの時に緊張していた頃の方がまだマシだった。

 下ネタを話さない桜といるのは、こんなにも息苦しいものだったのか。

 空の内心は穏やかではなかった。こうなったのも、桜の昔話を聞いてからである。

 こんなことになるなら、気絶してでも眠るんだったと、空は後悔する。

「それじゃ、私はこっちだから……」

 悶々としている間に、駅にたどり着いたようだった。空と桜の住む場所は、電車で反対方向にある。そのため、駅の構内で解散という流れとなっていた。

「あ、はい。今日は楽しかった、です」

「私もだ。楽しかったよ少年。また明後日……」

 そう言って、桜は改札口に向かう。呆然と桜の背を見つめながら、その場に立ち尽くす空。

 これじゃいけない。

 こんな終わり方は、面白くないし、後味が悪い。

 デートの最後は、笑って、バカを言って、もうちょっと一緒に語りたかったと、後悔するくらいが良いはずだ。

 空の心がそう強く警告する。

 けど、何を話せば良いか分からず、頭の中はグルグルと回転しながら、言葉の引き出しを開けていく。

 桜が改札を通る寸前、空の頭に出てきたのは――

「桜さん! 最近のエロ漫画で中出しが多く目立つんですけど、どう思いますか?」

 構内に人がいなかった事が奇跡だった。必死に考えた末、最近のエロ本事情を口にした空。

 突然の下(しも)話しに、桜は呆気に取られているようで、無言で空の方を見つめていた。

「くっ、ふ、ふふ……」

 そして、時限爆弾が発動したかのように、口元を抑える。

「あっはははは! バカだ。バカがいる。くっふふふ、TPOを弁えろって、あっははは……」

 ツボにハマったらしく、桜は腹を抱えて笑い出す。今度は罵声を受けた空が唖然とした。

「はぁ、はぁ……。少年、私は下ネタが好きだ。それと同じくらいに、おバカな奴も好きだ」

 遠回しにバカにされているのが気になるが、いつもの桜に戻ったようで空は一安心する。

「その質問の答えはだな、その方がヌけるから仕方ない、だ。ではな少年。また明後日」

「はい。でもちょっと不服なので、語ってもいいですか?」

「いいだろ。明後日までオナ禁しておけ。いいな?」

「嫌ですよ。下の方は関係ないですよね?」

「いや、少年の事だから、上も下もベラベラと語り出すのかと」

「怖ぇーよ! 俺の愚息は喋りませんから」

「ふふ、しゃべるのは私の上下の口か、こりゃ一本取られた」

「桜さんこそ、TPOを弁えてください」

 元に戻るのは良いが、やはり桜の相手をしていると疲れてしまう。

 だが、こんなバカな話をしているのが、たまらなく楽しいし、とても心地よい。

「そろそろ、本当に行かないとな。行くと言っても、絶頂と言う訳では……」

「分かっていますよ。今日はありがとうございました」

「いや、こちらこそだ。ではな少年。話を聞いてくれて、ありがとう」

 桜は空の方を振り返る事なく、改札を通ってホームへの階段を上った。 

 さっきまでの騒がしさがなくなり、残された空は桜とは別の改札を通る。

「……良き、一日だった」

 そう呟く空の前に、家路に着くための電車が停車する。

 空いている椅子に座り、今日のデートを思い出している内に、空はうたた寝をしてしまうのだった。

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