ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
そのいち
その日のソラの運勢は、まさしく大凶以外の何物でもなかった。
まずは、朝食時。
ミルクをなみなみと注いでおいたお気に入りのマグカップを、不注意で落として割ってしまった。
思い返してみれば、その瞬間からすでに、今日の自分のツキの無さがどれほどのものなのか察知しておくべきだったのだ。
しかし、そのときのソラはとびきり不幸な朝だと落ち込みはしたけれど、まさか命の危機に直面してしまうほど運が悪いとは夢にも思っていなかった。
だから気にしていても仕方がないと二、三回頬を叩き、外出するまでに余った時間を床掃除という形で有効活用して、洗面台に据え付けられている鏡の前で軽い身支度をしてから、いつものようにバイト先であるエンジェル24に向かってしまったのだった。仮病でもなんでも使って休んでおけば、退屈ではあるもののまだ平穏な一日を過ごせたものを。
次は、午前頃。
近くの道路で起きた爆発の衝撃で、棚に並べられた数々の商品が雪崩のように崩れ落ちた。
もっとも、爆発が起きたこと自体はべつに気にしていない。この学園都市──キヴォトスでは、銃声や爆音を伴ったトラブルなど、風が吹けば旗が揺れるのと同じぐらいの日常茶飯事だからだ。
それに、不幸中の幸いとでも言えばいいのか。ジャム瓶やアルコールといったガラス類は前日にあらかじめ対策をしておいたおかげで、落ちて無惨にも割れることはなかった。
そう考えると、それほど不幸ではなかったのかもしれない。けれど、のちのちに起きる出来事を考えて、怯えつつも無駄に責任感を発揮して居残った自分を思えば、やっぱりソラの今日の運勢は大凶で、どうしようもなく最悪だったのだと思う。
そして、今。
お昼時だった。
「──だからさあ、簡単なことだろ? この袋に、そのレジん中に入ってる金を、そっくりそのまま入れればいいだけなんだって」
「そ、そんなこと言われましてもぉ……」
「ああ!? てめえ、店員のくせにお客様の言うことが聞けねえってのかよ!」
ソラは強盗に、銃を突きつけられていた。
両手をあげて高らかに降参の意思を示しながらも、ソラの脳味噌は現実逃避気味に一時間前の出来事を思い出していた。
午前におきた爆発のせいで散らかった店内の整理を終えて、ようやくひと息つけるとレジに立てたのが、確か十一時半ぐらい。
店の外の景色が、空の鮮やかな青に照らされ、休憩がてら買い物に出ているらしい学生のヘイローがいくつも行き交っていたことを覚えている。
そして、そんな平和な風景を押し潰すかのごとく滑り込んできた、真っ黒なバンも。
勢いよく開いた扉からぞろぞろと飛び出てきたのは、ヘルメットで顔をすっぽりと隠した学生服姿の少女達だった。指紋を残さないためか、黒い手袋につつまれた手のなかに握られているのは、お揃いのアクセサリーと化した無骨な銃。
「──」
強盗が車から降りてきた所を自動ドア越しに見た瞬間が、その日のソラにとって正真正銘の、不幸から逃れるための最後のチャンスだった。
しかし、ソラの頭はあまりの情報量の多さにパンクして固まってしまっていた。もしかして、自分は今もベッドのなかで呑気に眠りこけている最中で、この状況に至るまでに起きた不幸は、全部ただの夢なのではないかという妄想さえ抱いた。
そんなソラの目を覚ましたのは、おでこの中心を執拗に小突いてくる冷たい鉄の──構えられた銃口の感触だった。
「そうやって黙ってりゃ何とかなると思ってたら大間違いだぜお嬢ちゃん。世の中そんなに甘くできてねーのさ」
「あ、あなたも客観的に見ればお嬢さんなのでは……」
「そういうこと聞きてえんじゃねえんだよっ!」
「ヒィッ! スミマセンスミマセンスミマセン……!」
いきなり激昂したヘルメットが先程とは比べ物にならないぐらいの強さでおでこを押してきたせいで、ソラはついつい涙を出しそうになった。
どうして自分がこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。悪いことなんか何にもしてないのに。
涙腺が緩んで目が潤む気配を不意に覚えて、どうにか堪えようと唇を噛み締める。それを見かねた訳でもあるまいが、銃を突きつけてくる黒ヘルメットの後ろにいたピンクヘルメットがこう言った。
「なあ、そろそろボスが指定した撤収の時間だ。早いとこずらからなきゃヴァルキューレの連中が来ちまうよ」
「ふん、あいつらの到着時間なんてどうせ遅れるに決まってる。だったら少しでも金目のモンぶん獲っていかなきゃ損だろ」
「……あのな、ボスに怒られてもあたしは知らないぞ」
「バーカ。こちとらはなっからあんなヤツをボスとは認めてねーっての。なにが『七囚人』だ、なにが『災厄の狐』だっ! 肩書きだけ大層にしたところでなあ、結局最後に物を言うのは」
「何をしている」
最後の声は、これまでその場に立っていた誰のものでもなかった。
まず最初に反応したのは、一番冷静なピンクヘルメットだった。出入り口は武装した仲間とバンが封鎖する手筈になっている。だからこのコンビニに新たな客が足を踏み入れる可能性は限りなくゼロであった。あった筈だというのに、折りたたみ式の箱を脇に挟んだ見知らぬ男は、まるでそこにいることが当たり前のように、徐々に閉まっていく自動ドアの前に立っていた。
次に反応したのは、血の気の多い黒ヘルメットだった。どんな手品を使ったのかは知らないが、招かれざる客であることに変わりはない。さっさとご退場願おうと、涙目で震えていたでこっぱちから配送員姿の男に銃口を向けかけて──突如として立ち塞がった圧力に、動きを止められた。目の前にある巨大な山の頂上を見上げようとしたときのように、ただただ息を飲み込むことしかできなかった。
そして、最後に反応したのはソラだった。
ソラが考えていたのは、そういえば昼過ぎに配達員の人が荷物を受け取りに来るんだったっけ──程度のことだった。
だからこそ、目の前の男が何者なのか、一番最初に把握することができた。
「も、桃」
咄嗟に名前を呼ぼうとしたソラを、我に返った黒ヘルメットが銃を構えることで遮った。
セーフティは外れている。引き金に指はかかっている。まさしく一触即発──だというのに、男は瞬きのひとつもせずに、じっと黒ヘルメットを見据えていた。
「ぐ、ぐ……っ」
気圧されるように、黒ヘルメットが一歩退く。それが彼女の怒りの導火線となった。
「──おまえっ!! 一体どこの所属の何の誰だ! ヴァルキューレの回し者か!? それとも風紀委員会の下っ端か!」
「見て分からないか? おれは荷物を受け取りに来ただけの、ただの配達員だ」
「嘘つけっ! 外には仲間がいた筈だっ。そいつらはどうした!」
「銃を向けてきたから気絶してもらった」
「ただの配達員にそんなコトができてたまるかあっ!」
それもそうだな、とソラは不覚にも納得してしまった。
だが、ヘルメットどもは納得しなかった。今度はピンクも銃口を男に向けて、完全な臨戦態勢に入る。何故かはわからないが、ほとんど丸腰で、しかもヘイローもない相手に対して、全力で抗わなければ勝てないという直感があった。
たまらず窒息してしまいそうな沈黙が満ちる。自分に向けられた二つの銃口を交互に見て男が吐き出したのは、恐怖と絶望に塗れた嘆息ではなく、ひたすら淡々としたため息であった。
「おれは人を殴らない」
「はあ?」
だからいつもこうしている。
そう言って、男はそれまで握り締めていた手をぱっと開いた。
筋張った掌のなかにあったのは、二粒の──
「……ピーナッツ?」
そこで、ヘルメット達の記憶は途切れている。
〇
三十秒、目を離しただけなのだ。
なんのための三十秒かと言えば、インスタントコーヒーを用意するための三十秒だった。
勿論、できることならキチンとした機械と豆を使って美味しいコーヒーを飲んでもらいたかったのだが、文字通り山のように積み重ねられた、今日中に片付けなければならない重要な書類の存在がそれを許さなかった。
しかし、好きな人にはなるべく自分をよく見せておきたいというのが、早瀬ユウカの思考回路に備え付けられてある一ミリの狂いもない冷徹な乙女心が導き出した完璧な解答である。それは、たかがコーヒーの一杯といえども例外ではない。
ということで、ユウカはスプーンひと掬い分の水をあらかじめ粉にまぶしておき、ダマが無くなるまでかき混ぜてからお湯を注ぐというちょっとしたひと工夫を加えてから、湯気をたっぷりと蓄えた二つのマグカップをお盆に乗せて給湯室を出た。
「先生、休憩にコーヒーでもいかがで──」
そこで、ようやく気付いた。
先生が、何処にもいないことに。
「な」
ついお盆を取り落としかけて、慌ててユウカは自分を取り戻した。
ひとまず机の上に避難させてから、落ち着くために深呼吸を何度か繰り返す。新しい酸素を供給された脳みそが、徐々に回転数をあげはじめ、次々と思考の泡を浮かべていく。
まず、もっとも最悪のパターンである拉致の線は切り捨ててもいいだろう。
確かにシャーレのセキュリティはあってないようなものである。いつの間にか不審者──もとい先生に対して不埒な感情をむけている生徒──が潜り込んでいる時もあるし、セキュリティには一家言あるヴェリタスの各務チヒロは「ザルどころかワクだね」なんて酷評していたらしいし。
けれど、明確な害意を持った存在を易々と通すような場所ではない。というか、させないだろうとユウカは確信している。色んな存在が、色んな意味で、色んな手段を使って。
なのでこの線はあり得ないと、ユウカはその考えを丸めて頭のなかのゴミ箱に捨てた。そして次の思考に取りかかる。
シャーレのオフィスは意外と広い。そして先生は立派な大人だけれど、実は意外と子供っぽい一面を持ってたりするのは、先生と少しでも深く関わった生徒なら誰でも知っている話だ。
だから、もしかしたら、息抜きとしてイタズラするために隠れているのかもしれない。
その瞬間、いつもの包み込むような朗らかな笑顔ではなく、子供のようにイタズラっぽく唇を曲げている先生の姿をついつい想像してしまって、ユウカはくすくすと肩を震わせた。
まったくもう、先生は私がついてないと本当にダメダメなんだから──
「……じゃ、なくてっ。とりあえず探さなきゃ」
脱線しかけたところをどうにか持ち直し、ユウカは大人一人が隠れられそうな場所を探し始めた。
仮眠室、給湯室はもちろんのこと、机の下、ドアの裏、棚の隙間──以前シャーレに遊びにきたアリスが言っていた、さながらゲームの探索ミッションのごとく見て回ったが、先生本人はもちらんその痕跡すら見つけ出せなかった。
ならば、他の部屋に移ったのだろうか。そう考えて、ユウカは何度か連絡を入れてみたが、どの部屋からも返事は揃いも揃って『先生とは会っていない』ときた。
全員がグルになって自分を騙している可能性が一瞬頭をよぎったが、いまシャーレ内にいるのは几帳面かつ真面目な生徒ばかりである。先生が積み重なった書類の山から逃げ出したり、あるいは隠れるような真似を許すとは到底思えなかった。
外出記録を調べようかと思ったが、僅か三十秒でオフィスから外へ抜け出せる筈もない。
ということは、残る可能性はシャーレオフィスビルの上層しかないのだが──
「けど、そうするには連邦生徒会の許可と生徒一人以上の同伴が必要……ああもう、先生ってば本当に何処に行っちゃったんだか」
先生を探し始めてから、既に五分と十八秒が経過しようとしている。こうも頑なに姿を現さないとなれば、モモトークを送っても読まれないだろう。
考察の行き詰まりにたどり着いてしまい、ユウカはみっともなくガシガシと頭を掻いた。とにもかくにも、これですべてが振り出しに戻ってしまった。
いっそ一人で全部片付けてしまおうか──なんてことを考えたが、先生自身が直接目を通さなければならない書類がいくつか山の中に紛れていたことを思い出し、あえなく断念した。
ここにいない人物を頼っても仕方がない。こうなれば、やれる分だけやっておくしかないだろう。これから乗り越えなければならない壁の高さと分厚さを実感し、ゆっくりと肩を落としたユウカの耳に、
「お届け物です。サインかハンコを」
という声が滑り込んできた。
その時、ユウカの頭に電流走る──先生、今日はやけに機嫌が良いですね。どうしたんですか? ふふ、なんといっても今日はずっと欲しかった荷物がようやく届く日だからね。そりゃ浮き足のひとつやふたつは立っちゃうさ。へえ……ちなみに何を頼んだんですか? え、聞きたいのかい? いや、別にそこまで興味は……わかりました、わかりましたよっ! 聞きます聞きますからっ! 是非ともお願いしますから良い大人がそんな顔しないでくださいっ! えぇ〜しょうがないなあユウカは。そこまで聞きたいなら特別だよ? なんと! あのマニア垂涎ものだった変形合体ロボ──DXダン・ウォニダイジンがDXダン・ウォニダイジン・絶に進化して発売したんだよ! 全高約46cmという大ボリュームに、フル可動な各関節部、高級感漂う塗装に、そして──劇中ボイス完全収録の上に新規ボイスも追加! いやあ、これはファンなら揃えるべき、いや、揃えるしかない一品! え? 値段? ………………まあ。それは、ほら、おいおい。
つまり、余計な出費である。
「…………はああ」
本音を言えば受け取りたくない。シャーレの財政事情はまさしく火の車だというのに、受け取ってしまえば一巻の終わりだ。ダンだかドンだか知らないが、まさに火に油を注ぐようなものである。
けれど、先生が悲しむ顔を見たくないというのもまた、ユウカの偽らざる正直な気持ちだった。
確かにほんのちょっぴり恨みはあるけれど、あれだけ楽しみにしている様子を見せられては、無視するのはどうにも気が引ける。
普段はどれだけ厳しくしていても、土壇場でこう考えてしまう時点で、自分という女はとことん先生に甘いのかもしれない──ユウカはそんな自分に呆れ果てながら、先生の机から印鑑を持ち出し、立ち尽くす配達員の輪郭がうっすらと映って見えるドアを開いた。
そこに、
立っていたのは。
「も……!」
いたのは──
「……どうしてアンタがここにいる? まあいい。だが、やはり──アンタとは縁があるな!」
「──桃井、タロウ……!」
婦女子にあるまじき表情をさらけ出すユウカの前に立つ男──桃井タロウは目深に被っていた帽子を指で押し上げると、豪快な笑みを浮かべてみせた。