ドンブルーアーカイブ   作:鰻の蒲焼

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そのし

 

 

 

 

 

 世界を上下に揺さぶられたかのようだった。

 

「な、なにが、一体、どうなって……っ!」

「──どうやら、野暮な輩がお出ましになったようで」

 

 斜めを向いた車体を貫いてきた、莫大な光と衝撃の波に目を回す愛清フウカに、黒舘ハルナはきわめて冷静に答えてみせた。

 目をつぶりながら足を組み、膝の上で両手を重ねているその姿は、ティータイムを優雅に楽しんでいる令嬢そのものだったが、これほど今の状況に似合わないものはないと、フウカはじとついた視線を送る。

 ハルナはまるで構わなかった。静かに瞼をひらくと、やや傾いたフロントガラスの先に立ち込める黒煙を睥睨した。

 

「今の砲弾の形状、見覚えがあります。そして、それを扱う方についても」

「……もの凄く聞きたくないけど、ケジメとして一応聞いておく。誰?」

「それは──」

 

 フウカの問いに答えたのはハルナではなく、煙をライトで切り裂きながら現れた重迫牽引車──そのルーフの部分に、勇ましく仁王立ちした少女であった。

 

「──そのままそこを動くなよ! 美食研究会ども! お前らは完全に包囲されているッ!!」

 

 黒のリボンでツインテ―ルに纏められた鮮やかな銀髪、健康的に焼けた褐色の肌、後ろでふらふらと威嚇するように揺れている尻尾、そして、『風紀』の二文字がやけに目立つ左腕につけられた真っ赤な腕章。

 キヴォトスにおいて、そうした清廉潔白な言葉とは最も縁が遠い学園であるゲヘナで、そんな二文字を掲げて憚らない組織など──フウカにはたった一つしか心当たりが無かった。

 

 ──ふ、風紀委員会……っ!

 

 窓におでこを貼り付けて驚愕に浸るフウカの視線の先で、予告も無しに迫撃砲をブチ込んできた少女──銀鏡イオリはなにかを確認するように、手に持ったタブレットと車とを見比べた。

 

「赤の軽自動車で、ナンバーは580、た87-17……よし、間違いないな。これでアコちゃんにドヤされずに済む」

「もしかして、確認せずに撃ったんですか……?」

「当たり前だろ。そもそも、わざとパトロールの事前予告を出しておいたんだぞ? なのにこうやって暢気に通ってきた時点で、怪しすぎるにも程がある。直接当てなかっただけでも優しくしてやった方だ」

 

 おそるおそる話しかけてきた風紀委員の一人に、間違ってはいないが倫理的にはどうかしている言葉を返しつつ、イオリは先程のハッタリを真実へと塗り替えるために、後ろに控えた総勢四十人ほどの小隊に手早く指示を出していく。

 なにせ相手は、あの悪名高き美食研究会である。その脅威と悪辣さは嫌というほど知っている。油断など、欠片もできるわけもなかった。

 煙に紛れて包囲が完了した後、イオリが未だに動きを見せない軽に向けて、再度通告を行おうとした時だった。

 窓から、なにかが飛び出した。

 

「待て、撃つなッ」

 

 突然の動きに過敏な反応を見せた一部の風紀委員を制止しながら、イオリは目を細めてその物体を注視する。

 それは、地味な改造が施されてあるサブマシンガンだった。

 しかし、よく見れば安全装置はかかったままだし、銃身に頭巾らしき白い布が括りつけられてある。

 要するに、白旗であった。

 

(珍しいな。もう少し、抵抗するかと思ったんだが)

 

 事態が予想外の展開に転びはじめる気配を感じ、イオリは考え込む。

 が、穏便に済ませられるのなら、それはそれで良かった。右手をあげ続けて射撃を抑えながら、待つこと数秒。

 攻撃が来ないことを察知したらしく、白旗を上げた人物が、助手席側のドアからゆっくりと降りてきた。

 その相手が、予想したものと違っていたものだから、イオリも今度は怪訝さを隠さなかった。

 

「…………なんで、給食部のお前がそこにいるんだ?」

「聞かないで……いや、聞いて欲しいんだけど聞かないで……」

「うーん……」

 

 首筋を掻きながら、どう対処すべきか考える。両手を上げて強い降参の意を示しながら、こちらに涙目で訴えかけてきているフウカを問答無用でひっ捕らえることは、流石のイオリにも憚られた。

 そもそも標的はあくまでも美食研究会であって、目の前で銃の先にくくりつけられた白旗をぱたぱたと振っている少女ではない。

 記憶にも新しい、冷凍車襲撃事件──それに関わっているのなら話は別だが、監視カメラに映っていたのは毎度お馴染みの連中のみである。

 内部の様子だけ聞き出して解放するか──そんなことを考えていると、続けざまに運転席側の扉が開くのが見えた。

 

「──お前」

 

 そこから出てきた人物に、イオリはフウカを見た時に覚えたものとは比較にならない不審と、それを圧倒する規模の敵意を覚えた。

 軋むような声をつくり、イオリは男の名を呼んだ。

 

「────桃井、タロウ……ッ!!」

「相変わらず、やり方が雑過ぎる。アンタの悪い癖だ」

 

 教科書に載りそうなほど見事な降参の姿勢を取っているフウカとは対照的に、のっそりと出てきたタロウはポケットに手を突っ込みながら、イオリを矢のような鋭い視線で見据えた。

 瞬間、イオリの脳髄に過ったのは、両手の指だけでは数え切れない程ある屈辱の記憶だ。自然と、ライフルを握る手に力が籠る。ぎちぎちぎちと、鈍い悲鳴を上げる銃体から伝わってくるのは──純然たる怒りであった。

 

「そうか……とうとう、美食研究会に入ったのか。ちょうどいい。これでお前を、ゲヘナに害をもたらす規則違反者としてブチのめす、正当な理由ができた」

「なにやら勘違いしているようだな。おれは美食研究会でも、給食部でもない。ただの宅配人だ」

「嘘をつけっ! ゲヘナの救急医学部に、トリニティの正義実現委員会のメンバーを押し付けてッ、挙句の果てに校舎を半壊させただろっ!」

「そ──っ」

 

 それは規則違反者として扱うに充分過ぎるなと、フウカは思った。

 給食部という政治とは縁も所縁もない部活に所属している故に、ゲヘナとトリニティの間にどのような政治的対立の壁が横たわっているのか、深くは知らない。

 だがそれでも、ゲヘナとトリニティは、犬猿の仲という言葉さえも裸足で逃げ出すほど険悪な関係であることぐらいは、一般常識として知っていた。

 

「た、タロウ……それは流石に私でも擁護できないっていうか、どうしてそんな真似を……?」

「───正義実現委員会と、風紀委員会。間違えるのも、無理はないだろう」

「無理ありありなんだけど!?」

「その通りだ」

 

 思わず吠えたフウカに同調するかのごとく、イオリはうんうんと頷いている。

 そして、ことさらに鋭くした目つきと細長い指をタロウに突き付けて、高らかな調子で言い放った。

 

「ゲヘナに内部崩壊を引き起こすために、トリニティの連中から密かに送り込まれたスパイ──お前がそうなんだろ! 桃井タロウッ!!」

「笑わせる。いや、笑えんな」

 

 風紀委員会の切り込み隊長として腕を鳴らしているイオリの怒号にも怯むことなく、桃井タロウは毅然とした態度をもって断言してみせた。

 

「そんな面倒な手段を使わずとも──正面突破で充分だ」

「ば……!」

 

 バカタロウ──!

 フウカがそれを挑発ではなく、ただ思ったことを口にしているだけだと気付けたのは、日常を過ごす桃井タロウを少なからず知っていたからだ。

 では、銀鏡イオリはどう捉えただろうか。

 その答えは、少女の顔色に如実に現れていた。

 滑らかな褐色の肌に、苛酷の青と激怒の赤が複雑怪奇に混ざり、目にするだけで背筋が震えてしまうような色が浮き出ていた。片目を隠す髪の隙間から、骨の髄まで凍えそうな冷たい光が、ちかちかと瞬いている。

 

「それは、風紀委員会に対する挑戦状と受け取って良いんだな?」

「好きにしろ。そんなことより、おれ達は依頼の途中だ。用が無いならそこを退け」

「ああ、退いてやる」

 

 素直な返事とは裏腹に、イオリの身体に激しい戦意が充満していき、

 

「お前をぶちのめして、ふん縛った後なら、幾らでもな───ッ!」

 

 高まった怒りに呼応するかのごとく、イオリの右腕が勢いよく振り下ろされた。

 挑発に浮かされたことで下したようにしか見えない斉射の号令に、風紀委員達ははじめは戸惑っていたが、それでも従うこと自体に異論は感じなかったらしい。じゃき、と銃が構えられる硬質な金属音が、雨が降り注いだように辺り一面を覆い尽くす。

 鉛の嵐が到来することを予感させる音を聞き、フウカは咄嗟にタロウを庇うような姿勢に入り、タロウはどこからともなく取り出したドンブラスターを構える。

 そうして自然な形で臨戦態勢に入った両陣営の、殺気立った視線を惹きつけるかのように。

 

「──多勢に無勢とは。まったくもって、優雅ではありませんわね」

 

 黒舘ハルナが、後部座席から姿を現した。

 かつんかつん、とヒールで音を立てながら、歩調に一分の乱れも生じさせずに歩み寄るその姿には、鉄火場にはそぐわない、匂い立つような気品が備わっていた。

 本来の標的が登場したことで、白熱していたイオリの思考は加速度的に冷えていく。タロウ達に向きかけていた銃口を、そのままハルナへとスライドさせた。

 照星を通して、二人の少女の真っ赤な瞳が、不可視の火花を撒き散らす。

 先に口を開いたのは、目を薄く引き絞ったイオリだった。

 

「黒舘ハルナ──お前にかけられた罪状は、口にするまでもなくわかっているな?」

「罪状と言われましても、なんのことやら。ですが、美食の道を極める行いであれば、ええ、数え切れないほど心当たりがありますわ」

「ほざけ冒涜者ッ! 目玉焼きにミントソースをぶっかけることの、なにが美食道だっ」

 

 放たれた剛速球の罵倒に、ハルナはやれやれと気取った仕草で首を振る。

 

「美食とは、即ち未知の味。いわば未踏の険峻のようなもの……一筋縄ではいかないのが当たり前です。それを知らぬ貴女には、ただの冒涜にしか見えないのですね。所詮は──ふふ、イオリさんでしかありませんか」

「むっ、むっ、むむ、ムカつくコイツ……っ!!」

 

 四方八方から銃口を突きつけられているくせに、憎たらしいほど落ち着き払ったハルナの態度は、確かに癪に障るものだとフウカはそばで見ていて思った。自らの犯罪歴をこれほど誇れるものなど、キヴォトスで他にはいないに違いない。

 しかし、強引にペースをこちら側に引き戻したお陰で、周囲に緩みのようなものが生まれつつあった。これを狙ってやったのなら大したものだが、おそらく偶然の産物だろう。

 

「──ふん。まぁ、いい。これを見て、まだそんな余裕を保ってられるかどうか試してやる」

 

 場の空気を持っていかれることを察知したのか。イオリは気を取り直すように鼻息を漏らすと、ぱちん、と指を鳴らした。同時に、背後から鈍重そうな装甲車が、冬眠していたところを叩き起こされた熊のごとき風情を漂わせながら現れる。

 イオリは装甲車を親指で指し示すと、揺れ動く尻尾の形に相応しい、悪どい笑みを浮かべてみせた。

 

「このなかには、既にお前以外の美食研究会全員が捕らえられている──お前が逃げ回れば逃げ回るほど、こいつらの拘束期間は延びていくぞ」

「構いませんわ」

「なに?」

 

 誰もが、その言葉が聞こえたことを疑った。

 口を揃えたように沈黙が伝染するなかで、場の中心に立ったハルナは手で髪を靡かせると、イオリに対抗するように獰猛に笑ってみせた。

  

「それはいわゆる、コラテラル・ダメージに過ぎません。目的のための、致し方ない犠牲──そのような杜撰な手段で、私達を足止めできると思いまして? 随分と舐められたものですわね」

「───ああ、確かに。お前ら相手に、下手な手段を取った私が馬鹿だったな。さっさと実力行使すべきだったッ!」

 

 腹の底から叫び、イオリは自身の得物であるスコープの無いスナイパーライフル──クラックショットを構えた。

 この位置、この射程、例え目をつぶっていたとしても頭部に命中させられる──強い自負とともに、開戦の狼煙と首魁を仕留めることを兼ね備えた一発を解き放たんとした刹那。

 ハルナのすぐそばで、白い竜巻が巻き起こった。

 

「なッ!」

 

 それが発煙弾の一種だと気付いたのは、コンマ数秒後のことだ。イオリは当たらないと半ば予想しつつも、煙のなかに向けて数発撃ち込みながら、すぐさま後方のドローン部隊に指示を出す。

 だが、返ってきたのは悲痛な声だった。

 

「む、無理ですっ! 通信が妨害されて、ドローンが動きません──!」

「クソ……! チャフ入りの発煙弾なんて、どこから手に入れたんだアイツはっ!!」

 

 最早躊躇う理由は無い。包囲させていた風紀委員達に射撃命令を下し、解放の時をいまかいまかと待ち望んでいた銃弾の群れが一気呵成に放たれる。しかし、当然のように手ごたえは無い。取り払われた煙のなかから──車諸共、標的達は忽然と姿を消していた。

 

「────」

「た、隊長……?」

 

 ゆっくりと下ろされたイオリの銃が小刻みに震えているのを見て、傍らに控えていた風紀委員の一人が、おそるおそる様子を窺う。そして、横顔を視界に入れた瞬間、小さな悲鳴を上げた。

 鬼の形相とは、このことか。

 ただでさえ鋭い眼光をさらに研ぎ澄ませたイオリは、地獄の獄卒も裸足で逃げ出さんばかりの威圧を撒き散らしながら、ひと言ひと言を区切るような調子で告げた。

 

「……逃げても無駄だ。覚悟しろ。絶対に、牢屋にぶち込んでやる……!! 黒舘ハルナ、愛清フウカ──桃井、タロウ……!!」

 

 美食研究会の会長たる黒舘ハルナや、ちょくちょく風紀委員会と揉め事を起こしている桃井タロウはともかく、多分おそらく絶対に巻き込まれただけの給食部部長な愛清フウカは完全なとばっちりだよなぁ……と、風紀委員の一人は思ったが、口には出さなかった。誰だって、自分の命は大切にしたい。

 

 

 〇

 

 

「では、次の店に参りましょうか」

 

 正気かコイツ。

 と、フウカは叫びたかったが、叫べなかった。なぜなら全身を縛られた末に、助手席から後部座席へと移動させられていたからだ。

 口も猿轡で塞がれてしまっているから、意志を伝えるためには身動ぎするしかない。もごもごと呻きながら、隣のジュリに拘束を解くように、視線で催促する。

 ジュリは運転席側をちらちら見ていたが、反対意見が特に無いことを知ると、素早い手つきで猿轡を外してくれた。しつこく纏わりついてきていた息苦しさから解放された瞬間に放つ第一声は、とっくの昔に決まっていた。

 

「正気かあんた!?」

「正気ですわ」

 

 絶対に嘘だと思う。

 だが、本当の狂人とは自分のことを狂人だと理解していないのだ。フウカは辟易しながら、バックミラーに映っている、なぜか赤いサングラスをかけているタロウを見つめた。

 ある意味で誰よりも弾けているが、普段は一般常識を兼ね備えた大人として振る舞っている男ならば、このバカげた状況を打破してくれるだろうという期待を抱いたからだ。

 

「タロウ……!」

「……」

 

 しかし、その期待もすぐに儚く散ることになる。タロウはバックミラーから気の無さげに視線を外し、ハルナに話しかけた。

 

「──道案内をしろ。おれは次にアンタが行きたい場所を知らない」

「次を右折して、それから三つ目の信号を左折してください」

「分かった」

「た、タロウ~っ……!!」

 

 フウカの唇から、情けない声が転び出た。四人のなかで唯一黒舘ハルナを物理的に制圧できる人物が、敵に回ってしまったのだから、仕方がないといえば仕方がないだろう。

 ぐすぐす、とみっともなく鼻を鳴らす先輩の姿に、流石に思うところがあったのか、ジュリは決意を固めるように唇を噛み締めると、意を決して問いかけた。

 

「あの、どうしてまだ次の店に行こうとするんですか? 風紀委員会に目を付けられてるのに……」

「だからこそ、ですわ。ジュリさん」

 

 ハルナは首だけを振り向けると、流暢に語り始めた。

 

「私は『美食』という文字に、些か囚われ過ぎていました。そのせいで、私達が住む世界がキヴォトスであることを、すっかり忘れてしまっていたのです」

「それは、えっと、つまりどういうことで……?」

「つまり──こういうことですわ」

 

 そう言って、ハルナは前を向いたままおもむろに、開け放たれた車窓から自身の左腕を飛び出させた。

 その手に握られているのは、美食を求めて奔走し続ける彼女の愛銃である、銃体にゲヘナの校章を印したスナイパーライフル──アイディール。

 引き金に指がかかる。

 

「突き抜ける、優雅さで」

 

 そして銃口が、激しい閃光と共に火を噴いた。

 音さえ貫いて奔る弾は、その勢いを緩めることなく、標的たる風紀委員会のドローンの胴体を、深々と抉り抜いた。

 動力源を正確に撃ち抜かれたドローンは、酔っ払ったかのように不安定な動きで舞ってから爆散した。爆風が大挙して押し寄せるより早く、タロウが駆る車は先へ進む。

 瞬く間に過ぎ去ったその光景を、ハルナは最後まで、一ミリたりとも見ようとはしなかった。

 奇妙な沈黙が車内に降りる。ハルナは気にせず、にこやかに笑った。

 

「わかりましたか?」

「わかるわけ、無いでしょーーーーーーーがっ!!!!!!」

 

 縛られたままのフウカが虎のように吠えた。ジュリも意図を読み切れず、生真面目にうんうんと考え込んでいる。読み取れたのは、タロウだけだった。

 

「つまり、今のように物騒な状況に置かれていても、おれ達が揃って美味いと評価した食事こそが、アンタが胸を張って紹介できる『美食』というわけだな」

「その通りですわ、タロウさん。キヴォトスにおいて、日常茶飯事でもある修羅場。そのような状況下でも、損なわれることのない味。それこそが、私がクロノススクールの皆様に伝えるべき『美食』なのです!」

 

 美食なのです! ではない。

 しかし、いま自分が抗議を口にしても、きっと圧殺されてしまうだろう。タロウやハルナは元からとして、ジュリまでもが感心して目をきらきらと輝かせていたからだ。

 勉強熱心なのは良いことだが、まずは隣で先輩がどういう目に遭っているのかをきちんと見て欲しいと、フウカは心のなかでそっと泣いた。

 が、泣いてる場合ではなくなった。破壊を検知した他のドローンが、隊列を成して車を追跡し始めたからだ。今度は白旗も通じないだろう。機械だからとかではなく、運転席にいる連れ合いが、明確な敵対の意志を風紀委員会に向けて叩きつけたからだ。

 

「あ、あはは……終わった……来期の部費が、予算案がパーに……あは、あははははーっ」

「はわ! し、しっかりしてくださいっ! フウカ先輩っ。気をしっかりっ」

 

 口の端から泡どころか魂さえ吐き出しかねないほどの消沈に全身を浸らせて、ずりずりと座席の下まで落ちようとするフウカを、ジュリは慌てて引き留めた。

 

「止めないでジュリっ! 私はもう、イソギンチャクかなにかになりたい……っ」

「イソギンチャクには味噌が合うと、以前配達先の相手から聞いたことがある」

「イソギンチャクは、流石に食べたことが無いですわね。今度試してみましょうか。あ、次の交差点を右に──」

 

 ドローンの死体を増やしながら、一行を乗せた車は、目的地に向かってひた走っていく。

 最早誰も、愛清フウカに救いの手を差し伸べることはできなくなった。できなくなったからこそ、今はただ、彼女の精神が健康であらんことを祈りたい。

 

 

 〇

 

 

 空崎ヒナに休憩時間は無い。

 

 正しく言うのであれば、有るがあえて見えないふりをしていた。理由はひどく単純で、そうでもしなければ終わらないほどの仕事量が、毎日ヒナの元に押し付けられるからである。

 

「はあ……」

 

 何百枚目かの書類を処理し終えてから、ヒナは重いため息を吐いた。眉の隙間は重苦しく、下瞼は時折痙攣をしている。座りっぱなしで、しかもずっと文字列を眺めていたからだろう。目だけでなく顔面全体が疲労しきっていた。

 カップのなかに残された、すっかり冷えたコーヒーを飲み干してから、ヒナは椅子から立ち上がった。微かな眩暈を感じながらも、ふらつきのない足取りで向かった先は、ゲヘナ学園を一望できる大きな窓だ。

 ほんの少しだけ開いていたカーテンを全開にする。途端に溢れかえった光の洪水に、ヒナは頭痛を覚えた。薄暗い部屋で作業をし続けていたせいで、目がすっかり明かりを忘れてしまったのだと思う。

 

「……まぶしい」

 

 目の奥を圧迫されているような痛みを感じながら、それでもヒナは外を眺め続けた。透き通るような青空を見ていると──どうしてか、先生のことを鮮明に思い出せるからだ。

 ちょっと抜けてて、底抜けに優しくて、意外とずぼらで、地味に……変態で、それでもやっぱり、キヴォトスの中の誰よりも『大人』なあの人。

 ただ、そばにいてくれるだけで──空崎ヒナが心の底から安心できる、唯一の人。

 

「……ふふ」

 

 ──先生も今頃、仕事に追われてるのかな。

 

 きっとそうに違いない、と思う。シャーレの──というより先生の活動方針を考えれば、それは当然の帰結であった。

 キヴォトスに在籍するすべての生徒の味方であることを公言して憚らない彼は、それゆえに日々あちこちの学園を飛び回っては、生徒間や学園間で勃発する問題を解決している。

 その仕事量が一体どれほどの規模に上るのか、ヒナにとって、想像するのは容易であった。

 きっと、風紀委員会に持ち込まれるもの程では無いにせよ、気が遠くなる量であることに変わりはないだろう。実際、何度かシャーレの当番を務めたときに、まだ処理の済んでいないメールが、未開封ボックスに詰め込まれているのを見たことがある。

 先生は、キヴォトスの外から来た人間だ。だから自分達とは、そもそもの成り立ちが違っている。銃弾一発が致命傷になるほど脆いし、二、三日眠らなかっただけで体調が急激に悪くなるし、そして──バカみたいな仕事を無茶して一人で片付けようとして、過労で倒れるし。

 そこまで追い詰められてしまうのなら、いっそ誰かに全部押し付けてしまえばいいのに、とヒナは密かに思う。

 確かにシャーレの仕事は大事だが、先生の身体の方が、もっとずっと大事だ。

 それに、そうしたって誰も文句なんか言わない筈だ。

 けれど、彼は泣き言ひとつ言わずに、朗らかに笑いながら、きっとこう言ってみせるのだろう。

 

 ──少しでも、皆が皆らしくいられるように、必要なことだからね。これぐらいなんてことないさ。

 

 だからこそ、ヒナは頑張れるのだ。

 どうしようもないぐらいお人よしなあの大人が、自分達の為に──子供の為に、一生懸命に走ってくれているのであれば。

 その信頼に全力で応えることこそが、あの人に対する最高の恩返しになると思うから。

 

「……よし」

 

 ぺちぺち、と両頬を強く叩いて、眠気を吹き飛ばす。先はまだまだ長いが、気合は充分入った。

 午後も頑張ろうと、凝り固まった背筋をほぐすために大きく伸びをした瞬間、執務室の扉が大きな音を立てて開かれた。

 

「いっ、委員長ッ!!」

「…………部屋に入るなら、まずはノックの一つでもしたらどう?」

「し、失礼しましたッ! ――事態が、急を要するので、その、焦ってしまって」

 

 飛び込んできたのは、頬に大量の汗を浮かべた風紀委員だった。

 目は前髪で隠れてしまって伺えないが、尋常ではないほど焦っていることは、全身から漂う気配から分かる。

 ヒナはテーブルに座り直し、中断していた書類仕事を再開しながら、話の続きを促した。

 

「まあ、いいわ。続けて」

「は、はいっ! げ、現在時刻より十五分程前、84-65区域で小規模な戦闘が勃発。その後、敵は逃走を続けており、イオリ隊長が追跡しています。

 敵対勢力の構成メンバーは、美食研究会会長である黒舘ハルナと、給食部部長の愛清フウカ、部員の牛牧ジュリ」

「……また?」

 

 定例会お馴染みの面子の名前が出てきて、ヒナはつい眉を顰めた。美食研究会と言えば、ゲヘナ内に留まらずあちこちの学園の自治区に出没しては気に入らない料理店を爆破するという、筋金入りの危険集団である。

 イオリの腕は、決して悪くはない。でなければ、切り込み隊長など任せたりしない。その筈が、美食研究会が全員揃っているならともかく、黒舘ハルナ一人に苦戦するとは──よほど油断しているのか、それとも状況が悪化の一途を辿りつつあるのか。

 

「……」

 

 手を止めることなく、自分が出張るべきか考えた瞬間、一枚の書類が目に入った。忌々しい万魔殿の連中に押し付けられたそれは、本日中に仕上げなければならない代物だ。

 暫く考えた末に、ヒナは結論を出した。

 

「──アコに連絡を入れて。美食研究会の連中に、いい加減お灸を据える。もう二つ小隊を駆り出して、イオリと合流させる。中隊の指揮はアコに取らせて、後から私が──」

「委員長っ。もう一人、その、協力者がいるんです」

「誰?」

 

 風紀委員は躊躇ったのちに、その名前を口にした。

 言ってはならない、名前であった。

 

 

 

 

「──────桃井、タロウですッ!!」

 

 

 

 

 それまで決して止まらなかったヒナの手が、はじめて止まった。

 

「────」

 

 それから、深く、深く、長いため息を吐いた。この世すべての疲れを一気に飲み込み、肺のなかでグチャグチャにかき混ぜた後のような、聞いているだけで疲れてくる重くて苦しいため息だった。

 そしてヒナは立ち上がると、ガンラックにかけてあったマシンガン──終幕:デストロイヤーを手に取る。

 何も言わず、何も聞かず、テキパキと準備を進めるヒナに向けて、無意識にこぼれた怒りの波動に固まっていた風紀委員が、ようやく声をかけた。

 

「あの、委員長──どうされる、おつもりで?」

「桃井タロウがいるんでしょう? なら、話は単純──」

 

 ヒナの答えは、簡潔を極めた。

 

 

 

 

 

 

 

「──────────私が、出撃()る」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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